高野秀行『放っておいても明日は来る 就職しないで生きる9つの方法』 ミャンマー空手編 その2

2017年02月25日 | 

 前回(→こちら)に続いて、高野秀行放っておいても明日は来る 就職しないで生きる9つの方法』の話。

 ミャンマーで、ふらりと入った空手道場で大立ち回りを演じたK社長は、ボコった道場生たちを並べると、



 「お前たちは根性がある」



 そう激励し、やにわにこう告げたのだった。


 
 「よし、お前らをオレの会社の社員にしてやる



 まさかの勝手に採用宣言。

 なぜ百人組手から、いきなりヘッドハンティング

 この振り幅のグレイトさが、理屈抜きの男の世界である。

 また、この3人の空手使いも、普通なら



 「ユーはなにを言ってるんですか?」



 となるはずのところを、なぜか気合十分に、グッとを握りしめ、



 「押忍! よろしくお願いします!」



 即座に入社決定。意味不明だ。

 このあたり、まさにルール無用の体育会系の世界であり、文化系の私からするとスピルバーグも裸足で逃げ出す未知との遭遇である。

 というか、1回目は20人以上、2回目ですら3人がかり1人をボコろうとするあたり、とても「根性がある」男たちとは思えないのだが、そこをつっこむのは野暮というものであろう。

 こうして戦う男のノリで部下を手に入れたK氏だが、暴走はこれで止まらない。

 K氏はその後、会社に空手道場を作ることにするのだ。

 まあ、昨今は会社の中にジムプールがあるなんてのもめずらしくないが、空手道場というのはアツい。

 おまけに、社員は全員そこに強制入会

 旅行会社なのに、入ってみたら選択の余地なしで極真生に。

 おそろしい会社である。きっと片眉を剃られたり、カマキリ拳法と戦わされたり、殺しありのアメリカの地下プロレスに売られたりするのだ。

 きわめつけが、この会社の給料査定方

 それは勤務態度でも、売り上げの高さでもなく、すべてが、



 「道場での練習に、いかに打ちこんでいるか」



 つまり、どんだけ仕事のできないボンクラ社員でも、空手さえ一所懸命やれば、どんどん給料が上がり出世していくのである。どんな会社や。

 学歴業績も関係なく、空手オンリーで末は幹部候補。アメリカンならぬ、まさに体育会系ドリームといえよう。

 バカでも、が割れればキミも明日から専務。結局のところ、



 「ケンカが強いヤツが一番えらい」



 実にグラップラー的というか、男の原点の思想であるといえなくもない。

 こんな素敵すぎる人たちが、自らの破天荒な生き方を大いに語るこの本は、読めば読むほど悶絶爆笑の一冊。

 まあ、世の中にはいろんな人がいるもんだ。

 また、この本の感心するところは、高野さんによるあとがき

 こういう本にありがちな

 

 「自由に生きることはすばらしい」

 

 みたいな安易な結論に行き着いていないところが、よくわかっておられるなあと。

 それは、同じように「自由」に生きている高野さんが、自由の良さと同時に、その息苦しさも知っているからだろう。

 サルトルの言うことは一理ある。



 「人間は自由という刑に処せられている」



 これを読んだ若い人からは



 「なんだか、元気が出ました」



 という意見が多いらしい。なんでも、



 「就職できなくても、いろんな生き方があると思えるようになったから」

 

 けど、彼ら彼女らはきっと、何があってもその「いろんな生き方」は決して選ばないことだろう。

 高野さんのあとがきは、

 

 「日本社会以外の可能性」

 「とらわれない生き方のすばらしさ」

 

 なやてものよりも、どちらかといえば自分と同じく



 「自由にしか生きられない人」



 に対する、ため息まじりのシンパシーようなものが強く感じられる気がするのであった。




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高野秀行『放っておいても明日は来る 就職しないで生きる9つの方法』 ミャンマー空手編

2017年02月24日 | 

 高野秀行『放っておいても明日は来る 就職しないで生きる9つの方法』を読む。
 
 「辺境ライター」と称する高野秀行氏が、会社員ではない、いわゆる「自由業」、その中でもかなり一般ルートからそれたフリーダムな人々に話を聞くというもの。

 この対談相手というのが、なかなか一筋縄ではいかない人々で、



 「タイで無国籍バンドを結成」
 
 「アジア旅行中、なぜかムエタイ選手になったOL」

 「島に移住して、廃材集めて自力で家を建てる人」

 「死者上等、デンジャラス辺境ツアーのコーディネーター」



 などなど箇条書きにするだけでも、自由というか、自由すぎる人ばかり。

 わけても剛毅なのが、Kさんという人。

 Kさんは、ミャンマー旅行代理店を立ち上げたものの、事務所もなく、従業員もいないという体たらく。

 さらにはコネもないという、社長とは名ばかりの開店休業状態

 アジアの片隅で、ひねもす時を過ごすだけというのでは、ただミャンマーに沈没してるだけのボンクラバックパッカーと、ほとんど変わらない。

 そうやって仕事もなくフラフラしていたところ、たまたま見つけたのが極真会館のミャンマー支部。

 ヒマだったKさんは、なにげなく入ってみることにした。

 実はKさん、極真の使い手で、黒帯の実力者だったのである。

 ヒマつぶし以上のふくむところはなかったKさんだったが、中からなぜか、20人以上の道場生がお出迎え。

 ずいぶんと仰々しいが、彼らは真剣な顔で、



 「お前は何者だ、名を名乗れ」



 そこから、なし崩し的に「お手合わせ願おう」と、1対20数人変則デスマッチに突入することに。

 冷やかしのはずが、とんだ大バトル

 なぜそうなるのかは意味不明だが、男と男は言葉よりもで語り合うということかもしれない。

 どうも、Kさんはその圧倒的「ただ者でない感」から、道場破りかなにかと間違えられたようなのだ。

 とんでもない誤解だが、あにはからんや、なんとこの突発的激突で、Kさんは圧倒的な数的不利をものともせず、ミャンマー支部の道場生全員吹っ飛ばしてしまうのだ!

 たったひとりで、20人以上の空手使いを撃破

 すごいぞKさん、強すぎる。マス大山みたいだ。リアル空手バカ一代

 そんなと戦わせたくなるようなストロングKさんだが、なぜか次の日も道場へ。

 空手対決によりなにかが覚醒したのか、それとも単にヒマだったからかはわからないが、そこには前日ボコボコにされた道場生たちのうち、まだ動けた3人が待ちかまえていた。



 「昨日は不覚を取った、もう一度勝負だ!」



 なんだか少年マンガみたいな展開だが、Kさんはここでも焦ることもなく、



 「受けて立とう!」



 自慢の空手技を駆使して、鎧袖一触

 リベンジを誓う3人を、またたくまにノックアウトしてしまうのだった。

 強い、強すぎるぞKさん。

 そらまあ、20人がかりで勝てないのを、3人では勝負にならへんですわな。

 流れ的に、話は「Kさんすげー」という、ちょっとした武勇伝で終わるのかと思いきや、ここからがまた豪快なのが、KさんはKOされて、畳の上にうずくまる3人の男たちに、



 「昨日あれだけやられたのに、また向かってくるとは、お前たちは根性がある」



 と言い放つや、とんでもない宣言をここに行うのである。

 
 (続く→こちら



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「いい人だと思われたら終わり」と鈴木大介八段は言った 羽生善治vs森下卓 1989年 第48期C級1組順位戦  その2

2017年02月22日 | 将棋・名局
 前回(→こちら)の続き。
 
 1990年、第48期C級1組順位戦の最終戦で戦うことになった、羽生善治竜王森下卓六段
 
 この一番は、単なる順位戦の一局という枠におさまらない因縁があり、羽生と森下は次代の将棋界をになうライバルだが、同時に友人同士でもある。
 
 森下は勝てば昇級だが、羽生は全勝昇級をすでに決めており消化試合
 
 森下には悲壮だが、羽生には気楽な勝負。
 
 そして、もう一度いうが、ふたりは仲のいい間柄である。
 
 さすれば、その結果は……。
 
 この一番をむかえるにあたって、私もふくめ多くのファンが、最終戦の結果だけ空いたリーグ戦の表を見ながら、想像してみたのではないだろうか。
 
 もし、自分羽生の立場だったら、どうするか。
 
 友人の幸せがかかった勝負。自分は消化試合
 
 勝っても負けても、通算勝数プラス1以外、まったくといっていいほど意味はない。
 
 結論からいえば、私だったら勝たない
 
 将棋の世界には
 
 
 「自分にはどうでもよく、相手にとって重要な一番、こういうときこそ全力で負かしに行かなければならない」
 
 
 という、「米長哲学」というものがあるが、そこまでこだわるべきかどうか、わからないところもある。
 
 そもそもこの哲学自体、「勝ってしまった」罪悪感から生まれたアンビバレントな後づけの理論だと思うし(ただそれを、いい方面に解釈して全力で戦う棋士の姿はすばらしいと思う)、現実問題やろうと思っても、消化試合に、いつもと同じ力を出せるかも、あやしいではないか。
 
 いや、別にわざと負けるとか八百長をするとか、そういうことではないけど、全力でつぶしに行くかといえば、「石にかじりついてでも」という闘志は望むべくもないだろうしなあ……。
 
 私のような素人考えのみならず、まあ、そこそこ多くの人が、同じように感じるのではあるまいか。
 
 ましてや森下は、棋界一といわれるような好青年である。そんないい男に意地悪をする気など、起こりもしないではないか……。
 
 という凡人の考えを、羽生は鼻で笑って一蹴する。
 
 この一番に、羽生は冷酷ともいえる指しまわしを見せることとなるのだ。
 
 先手番の羽生は飛車を中央に振ると、のびのびとした陣形を築き、勢いよく攻めまくった。
 
 受け一方になった森下は、必死でしのいでチャンスを待つが、それはいっかなおとずれる気配を見せない。
 
 くわしくは『羽生善治全局集』を参照してほしいが、序盤中盤終盤と羽生が一方的に局面をリードしてはなさない。
 
 気がつけば形勢は圧倒的。コーナーポストでうずくまる相手を、ガードの上からガンガンぶったたく、ヘビー級ボクサーのような戦い方だった。
 
 そして、運命の場面をむかえた。
 
 
 
 
 図はすでに先手が勝勢
 
 美濃囲いに相当せまられているが、攻めの形がシンプルなので、速度計算がしやすい局面ともいえる。
 
 実際、ここでは寄せに行っても勝てそうだが、羽生が指したのは万にひとつの逆転負けを防ぐ、冷たい指し方だった。
 
 
 
 
 
 
 ▲58金打が、血も涙もない決め手。
 
 これこそまさに、
 
 
 「激辛流」
 
 「友だちを無くす手」
 
 
 野球でいえば、5点リードの9回裏に、満を持して絶好調に仕上げてきた、ダルビッシュ有田中将大をマウンドに送るようなものである。
 
 この大山康晴十五世名人のような金打ちの瞬間、検討していた記者室で、ものすごい怒号のような声が上がったという。
 
 

 「鬼だ」

  「人間じゃない」

 
 
 その後すぐに、森下は投げた。
 
 これにより、室岡克彦を破った(これも室岡には降級点がかかった大きな一番だった)土佐浩司が逆転昇級を決めた。
 
 このときの様子を、先崎学九段が書いている(改行引用者)。
 
 

僕と羽生が記者室に無言でいると、廊下のほうから、己の運命を確認したであろう森下の「そうか、そうか」という声と、それにつづいて意味不明の声にならぬ声が聞こえた。
 
 そして、その声がまだ耳に残るうちに、大きな足音と、それにつづいてエレベーターのドアが閉まる音がした。

 羽生は、その間、放心状態で、記者室で茫然としていた。

  彼にとってもつらい勝利だったのだろう。羽生の耳には、森下のあの声はとどいていたのだろうか―――

 
 
 大きな勝負で、このような戦い方を見せることによって、羽生はのちの常勝時代を築き上げることとなる。
 
 

 「勝負の世界は、いい人だと思われたら終わり」

 
 
 そう言い放ったのは、鈴木大介八段であった。
 
 羽生は「いい人」のまま「」のような「人間じゃない」手を指して王者になった。
 
 そう言えば羽生は、このひとつ前の9回戦でも8勝2敗3位につけていた泉正樹五段を相手に、やはり消化試合だったにもかかわらず、千日手2度という激戦の末に勝利している。
 
 そういったところが、羽生善治という男の底知れぬところなのだろうか。
 
 
 
 

 ■おまけ 羽生の見せた「米長哲学」の詳細は→こちら
 
 □「準優勝男」森下卓の全棋士参加棋戦優勝の将棋は→こちら
 
 ■森下と羽生のB級2組時代の決戦は→こちら
 
 
 
 
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「いい人だと思われたら終わり」と鈴木大介八段は言った 羽生善治vs森下卓 1989年 第48期C級1組順位戦

2017年02月21日 | 将棋・名局

「勝負の世界は、いい人だと思われたら終わり」

 
 
 そう言い放ったのは、将棋の鈴木大介八段であった。
 
 ふだんなら、ほめ言葉であるはずの「いいひと」がときにネガティブな意味となりえるのが、ひとつは「恋愛」であり、もうひとつがスポーツなど勝負の世界。
 
 鈴木八段の所属する将棋界でも、かつては大山康晴という巨人が、盤上だけでなく盤外でも相手にをかけるという戦術で、劣等感を植えつけ、「負け下」に追いこむことによって常勝時代を築いた。
 
 では、勝つためには「いいひと」であることを捨てなければいけないのかといえば、この問題に、またの解答ともいえるものを出したのが、羽生善治である。
 
 羽生は「いい人」である。
 
 といっても、もちろん私が羽生さんの人間性など知るよしもないけど、勝利や地位への執着や、それにまつわる威圧感ハッタリなど、勝負師に独特の「アク」のようなものが、一見感じられない。
 
 いかにも常識人というか。本当に、学校の先生や一流企業のサラリーマンなどをやっていてもおかしくない、ごくごく普通の男性に見えるのである。
 
 だが、羽生は「いい人」でありながら、単なる「いい人」ではない。
 
 そのことは、タイトル戦など大勝負に、ときおり見せる常人離れした執念や、ことさら相手にダメージをあたえるような負かし方など、様々なところにあらわれている。
 
 そして、それがもっともハッキリした形で出たのが、1990年の第48期C級1組順位戦最終局、対森下卓六段戦ではあるまいか。
 
 このふたりはもともと因縁が深く、少年時代から将来を嘱望され名人候補とうたわれたが、直接対決においては森下は羽生に、痛い目に合わされ続けていた。
 
 森下がその実力にもかかわらず、いまだタイトル獲得がないのは「棋界の七不思議」と言われていたが、その原因のひとつに羽生という大きながあったのだ。
 
 そして、この順位戦でもふたりは、またもや作ったような大一番を戦うこととなる。
 
 順位戦の最終局というのは、それだけ見ても大きな勝負だが、この対戦はさらにややこしくも注目を集める要素が加わっていて、まず羽生はすでに9戦全勝で、B2昇級を決めていた。
 
 前年度、ベテラン勢の「技」にかかってまさかの次点を食らったが、ここは格のちがいを見せたのはさすがである。
 
 一方、森下も8勝1敗2位につけていた。
 
 C級1組は総勢30人ほどで行われ、上位2名が昇級するが、競争相手の土佐浩司六段が7勝2敗で追っており、まだ決定ではない。
 
 整理すると。1位羽生で、これは決まり。
 
 残るは2位争いだが、最終局に森下が勝てば文句なく昇級
 
 負けると土佐にチャンスが回ってきて、勝てば逆転昇級。もし土佐が負ければ、仮に森下が負けても森下昇級。
 
 レース展開は、森下が有利。いわゆる「4分の3」というやつだ。
 
 だがひとつ問題なのは、最終戦羽生だということ。
 
 勝てば決まり。ただし、相手は最強の男。
 
 そして、もうひとつ因縁なのは羽生と森下は、ふだんプライベートでは仲がよい友人同士だということだ。
 
 昇級がかかった順位戦最終局。友人でライバル同士の激突。
 
 かたや人生のかかった一番、かたや勝利はすでに手にして消化試合
 
 二重にも三重にも因縁がからみあう、この血涙の一番は予想通り、いやそれをはるかに超えた、壮絶な結末をむかえることになるのである。
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
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エリートは娘義太夫がお好き 元祖アイドルファン「どうする連」vsロシア・バルチック艦隊 その2

2017年02月16日 | オタク・サブカル
 アイドルファンは日本の伝統文化である。
 
 という出だしから前回(→こちら)は、明治時代にいたアイドルの追っかけである「どうする連」という若者たちを紹介した。
 
 彼らが応援するアイドルは娘義太夫女義太夫といって、舞台で浄瑠璃を語る若い女の子。
 
 これが当時、ものすごい人気だったのである。
 
 今でこそAKB48なんかが「国民的アイドル」などといわれているが、古き日本では娘義太夫が、その座に君臨していたわけだ。
 
 AKBといえば、その売りのひとつに「会いに行けるアイドル」というものがある。
 
 彼女たちは秋葉原の専用劇場で、ほぼ毎日のように公演をやり、また握手会などイベントも多数行われる。
 
 その彼我の距離の近さをして、「会いに行ける」ということなのであろう。なかなか手厚いファンサービスぶりといえよう。
 
 これには識者からも
 
 
 「さすが秋元康の発想は新しい」
 
 
 などと賞賛の声が上がっていたようだが、なんのことはない。
 
 このコンセプトも、すでに江戸明治の昔から、日本には存在していたのである。
 
 元祖アイドルの娘義太夫というのは、本職はもちろん浄瑠璃を語ることだが、それ以外にもアルバイトとして、「浄瑠璃教室」を開くというケースがあった。
 
 浄瑠璃というのは、その人気あまねきために、素人のファンも
 
 
 「自分もやってみたい!」
 
 
 その熱意から三味線を習って、など開いていた。
 
 いわば、ファンクラブのメンバーによる、オフ会や、カラオケパーティーのようなもんである。
 
 そうなると、もっとうまくなりたい、プロにレッスンしてもらいたい、と願うのが人情というもの。
 
 そこで登場するのが浄瑠璃教室であるが、これが娘義太夫が先生となると、なかなかどうして、お稽古だけが目当てではありませんわな。
 
 そらそうだ、本物のアイドルが、に歌とダンスを教えてくれるんだから、流行らないわけがない。
 
 人気の女師匠のところには、「どうする連」のような若者をはじめ、中にはそれなりに、いいお歳のおじさま方も集まってくる。
 
 もちろん、お目当てはいとしのアイドルなのであるが、そこは「浄瑠璃の稽古」という絶好のエクスキューズがある。
 
 通うのも、そんなに恥ずかしくはないし、奥さんにもそれなりに、言い訳が立つというもの大きい。
 
 いや、オレは純粋に、歌を習いたいだけやねんと。
 
 そこで男子たちは、かわいい女師匠と、歌や三味線の稽古をしたり、一緒にごはんを食べたり、コタツに入って談笑したりする。
 
 いわば、今でいうトークショーや、握手会みたいなもの。
 
 むこうも客商売なので、笑顔を絶やさず、ときには思わせぶりな仕草で
 
 
 「お、もしかしてこれは、なんぞ脈があるんちゃうんかいな」
 
 
 という気にさせるよう(「神対応」というやつか)、こちらをあおってきたりと、まさに元祖「会いに行けるアイドル」だったのである。
 
 実際のところ、
 
 
 「あわよくば、なんぞ色っぽいことでもあるんちゃうかいな」
 
 
 なんて、よからぬことを期待して、稽古に通う男も多かったらしく、こういった不埒な連中は「あわよか連」と呼ばれていたそうだ。
 
 こういう人がいるのは、江戸明治も、現在も変わりませんねえ。
 
 桂米朝師匠の演ずる落語『猫の忠信』には、娘義太夫に入れあげただけでなく、女師匠の「あおり」を真に受け、
 
 
 「オレ、なんか今日は、師匠とイケる気がする!」
 
 
 高ぶったあげく、彼女に色男(今でいうイケメンですね)の彼氏がいることを知ってブチギレする男が出てくるが、これまた江戸明治も現在も変わりません。
 
 年配の方はよく「昔の人は偉かった」といいますが、今も昔も人は同じ
 
 推しのアイドルのスキャンダルに一喜一憂するところなんか、
 
 「オレと変わんねえなあ(苦笑)」
 
 とか、むしろ過去の先輩たちに、親しみを覚えるくらいではないですか。
 
 この娘義太夫による浄瑠璃指南所は、そのあまりの客の入りに、お上も困惑して、一時期「浄瑠璃指南所禁止令」も出たそうな。
 
 一応、「売春しとるんちゃうか」という大義名分はあったらしいのだが、たぶんそこが問題ではないのだろう。
 
 お偉いさんからすると、いい若い者がアイドルにやに下がって「どうするどうする」というてる姿が、理解できなかったのは間違いない。
 
 今でも、アイドルやアニメ美少女などが、公共施設ポスターになったりするのを嫌がる大人がいるけど、まあそれみたいなもの。
 
 
 「ようわからんけど(から)、イヤ」
 
 
 ということなのだろう。
 
 いつの時代も、サブカルチャーというのは、大人からすると異次元なのだろうし、「禁止令」なるものはたいてい、たいして根拠もないのだ。
 
 ついでにいえば、女師匠に入れあげる男子たちを、女性陣が冷ややかな目で見ていたところも今と同じらしい。負けるな男の子。
 
 
 
 
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エリートは娘義太夫がお好き 元祖アイドルファン「どうする連」vsロシア・バルチック艦隊

2017年02月15日 | オタク・サブカル
 アイドルファンは日本の伝統文化である。
 
 というと、保守的な論陣からは、あんな連中のどこが日本男児なのか。
 
 日本の伝統文化とは、柔術剣道を言うのであり、若い娘にむらがる軟弱な連中など、徴兵制を復活させるか、戸塚ヨットスクールにでも放りこんで、鍛えなおさせろ!
 
 などと憤慨されるかもしれないが、これが紀田順一郎先生とか、大衆文化について書かれた本など読むと、実際に書いてあったりするのだからしょうがない。
 
 そのキーワードは「どうする連」という若者たち。
 
 「どうする連
 
 といわれても、知らない人にはそれこそどうするねんという話だが、この「どうする連」というのは、明治大正のころ活躍した、アイドルファン元祖とでもいう存在。
 
 とか説明しても、やはりピンとこないかもしれないが、まあ百歩譲って「どうする連」という人々がいたとしよう。
 
 で、彼らは熱心に、アイドル応援するのだと。
 
 では、肝心のアイドルが、明治大正時代にいたのか。
 
 まだ20世紀にもならないころの日本に、モーニング娘。AKB48も、おニャン子クラブも、レモンエンジェルも、セイントフォーも、ムーもいなかったではないか。
 
 まあ、それはそうなんですけど、これが当時の日本にも、今の芸能界に負けないくらいの、大人気アイドルというのが、存在したらしいのだ。
 
 それは、浄瑠璃義太夫。
 
 この浄瑠璃、「仮名手本忠臣蔵」とか、「義経千本桜」といった演目など、われわれ現代人にはなじみはないが、江戸から明治にかけては庶民に大人気の娯楽。
 
 舞台観賞はもちろん、それだけでは飽きたらず、自分たちでも三味線を習い、の稽古。
 
 好き者同士で集まって「素人浄瑠璃の会」を開くといったくらい、メジャーな楽しみだった。
 
 今でいえば、歌と振り付けを覚えて、ライブが終わったあと、カラオケに行って歌うようなもの。
 
 私は落語好きだけど、『寝床』『軒づけ』など、素人が浄瑠璃にハマる噺は、ここでもおなじみである。
 
 そう、アイドル以前のみならず、これまた日本固有の文化であるカラオケも、すでにこの時代から、近いものが存在したのだ。
 
 中でも大人気だったのが、女の語り手。
 
 娘義太夫という、女性パフォーマー。
 
 これがもう、今でいうアイドルのような、熱烈なファンがあちこちにつくという存在だったらしい。
 
 追っかけがつく、ファンレターが山ほど届く。
 
 公演では最前列に陣を取るや、大声援を送り、出待ちをし、人によっては感極まって踊り出す。
 
 いそがしい売れっ子娘義太夫など「どうする連」有志による専属運転手(当時なので人力車)がいて、彼が車を引いて街を走るのを、他のメンバーが
 
 
 「どうするどうする!」
 
 
 快哉を上げながら、走って追いかける。
 
 まさに、今のアイドルファンのやっていることと、その熱気は変わるところがない。
 
 彼らがなぜ「どうする」と連呼するかといえば、浄瑠璃には、花火が上がると
 
 
 「たーまやー」
 
 
 というように、語りのいいところで、演者がグッとためをつくったところ、
 
 
 「さーあ、どうする、どうする!」
 
 
 一斉に声をかけるという、お約束があったのだ。
 
 なので「どうする連」。
 
 アイドルファンは、ライブなどでダンスを覚えて披露するのはもちろん、ファンの間での符丁というか、歌の合間に
 
 
 「○○ちゃーん!」
 
 
 とか声をかけたりする場所が、決まっていたりするもの。
 
 アイドルが「ウリホー」といえば、ファンは「ドスドス」みたいな。
 
 ……て、まあ私はアイドルにくわしくないで、例が古くてもうしわけないが、とにかくPPPHMIXとか、そういった合の手は、この
 
 
 「どうするどうする!」
 
 
 が、まさにその原型だったのだ。
 
 ここまで読んだところで、保守的論陣の方々は、
 
 なるほど、まあそういうのが、昔もいたのはいいとしよう。
 
 ただ、そういうヤカラはきっと、まともに人とコミュニケーションもとれない、情けない連中にちがいないのだろうな。
 
 なんて決めつけるかもしれないが、この「どうする連」、主なメンバーはどういう層の若者だったのかというと、書生さんが多かったという。
 
 書生というのは、将来有望な若者が、金持ちに援助してもらって大学に通ったりして勉学にはげむという、今でいうエリート特待生のようなもの。
 
 そんな日本未来をになう若者たちが、学問の合間に「どうするどうする!」と叫びながら、娘義太夫を追いかけ回ししていたのだ。
 
 公演では、舞台にのぼらんばかりの勢いで前に出て、目線をもらったといえば一喜一憂
 
 彼女のアイテムは、髪の毛一本でも欲しいと熱望するのは、ドラマ『坂の上の雲』でも描かれていた。
 
 あのドラマで娘義太夫に夢中になって、彼女のつけていた、ぼんぼり欲しさに必死に手を伸ばすモックン
 
 その姿は今、秋葉原でヲタ芸を披露して、グッズを集める若者と、メンタリティーにおいて、なんら変わるところはない
 
 そんな彼らが、近代日本を作り、富国強兵、大国ロシアにも勝ったというのだから、日本という国もなかなか業が深い。
 
 近代日本を作ったエリートたちが、かつてはアイドルファンであった。
 
 そういえば、今もアイドルファンと言えば、意外と「高収入高学歴」が多いというのは、よく聞く話。
 
 「追っかけ」はお金のかかる趣味だし、エリートはストレスもハンパないから、いやしを求める人も多いというし、必然的にそうなるのだろう。
 
 それにしても、ロシア海軍のジノヴィーロジェストヴェンスキー少将の無念さはいかばかりか。
 
 事情を知らぬとはいえ、アイドルを追いかけまわす「どうする連」のメンバーたちに、日本海海戦バルチック艦隊を沈められたとは、まさに砂を噛む思いであったろう。
 
 敵ながら、まことに同情を禁じ得ないところである。
 
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
 
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ひとりカラオケで、心ゆくまでアニメソング特撮ソングを歌いたい! その2

2017年02月12日 | 音楽
 前回(→こちら)の続き。

 「先輩、今度オレとひとりカラオケにつきあってくだいよ」。

 などという、論理学の試験なら一発不合格を食らうであろう、不可思議なお誘いをしてきたのは後輩ナミマツ君であった。

 それには深いわけがあり、歌いたいのが古いアニソン特ソンの彼にとって「ひとり」なのはいろいろと都合がいいものの、ギャラリーがいないのもそれはそれでさみしい。

 そこで、「飲み食いさすから、だまってオレの歌を聞いておいてくれ」とのお願いなのであった。

 なるほど、たしかに「ひとりカラオケ」だが、これだと「誘う」必要もあろう。それに、そんなもん会社の忘年会や女子との飲み会でやった日には、どっちらけになることが目に見えてます。

 みながモテようとスキマスイッチの「奏」を歌い上げる(東京03情報)中、ひとり『行け!行け!メガロマン』とか『宇宙鉄人キョーダイン』を熱唱してたら、そらいけません。まわりにも迷惑です。

 あー、そういわれると、その「ひとりディナーショー」につきあえるのは、オレだけかもなあ。

 不肖この私も、今はそうでもないが、子供のころはテレビっ子で、アニメや特撮は大好きだった。

 ヒーローものは『バイオマン』、アニメは『牧場の少女カトリ』で止まってるけど、それ以前なら全然大丈夫。

 古いのなら、生まれる前に放映してた『ファイヤーマン』とか、『科学忍者隊ガッチャマン』でもいける。昔はアニメの再放送とかよくやってたし、それよりなにより「教養」として知ってるものだ。

 これは、若者や女子には無理だろう。まあ、そこまで「オレでなきゃ」という条件がそろってたら、これはもう先輩としては行ってあげるしかあるまい。私も妙なところで人がいい。

 善は急げと、駅前のカラオケボックスに行きライブ開始。部屋に入るなり、ドリンクの注文もそこそこに、もう1秒でも惜しいとナミマツ君歌う歌う。その生き生きとしていること。

 そうだよなあ。女の子がいる場で『ハカイダーのテーマ』とか歌えないよなあ。『戦闘メカ ザブングル』とか。カッコイイんだけどね。

 それにしても、フライドポテト食いながら、後輩のヒーローソングを聴いてる私ってなに? 先輩の威厳は?

 って気がしないでもないが、そこはもう「酔狂エンジン」全開で声援を送る。少なくとも、聞いたこともないJポップよりは、こっちも反応しやすい。
 
 それにしても、あらためて古いアニメソングや特撮ソングを聴いていると、「わかりやすいなあ」と思う。

 歌詞は五七調。メロディーはド軍歌でド演歌。「飛ばせ鉄拳、ロケットパンチ!」「友よ見てくれ、うなる鞭」とか、プロパガンダと浪花節。

 なるほど、歌って楽しいというのはよくわかるの。


 「見たか電磁の必殺技を、怒りをこめて嵐を呼ぶぜ」

 「涙で渡る血の大河、夢見て走る死の荒野」

 「すっくと立った星雲仮面 心に星を持つ男」

 「逆巻くたてがみ怒りに燃えて、きっと地球を守るのだメガロンファイヤー!」



 なんて熱い。暑苦しい。こんな歌、今の日本の曲には存在しないよなあ。少なくとも、スキマスイッチは歌わないだろう(聴いたことないけど、たぶん)。「今日もどこかでデビルマン」ってのは、見事な日本語だよなあ。

 もちろん、合の手を入れることも大事な仕事だ。なんたって、払ってもらってるものね。

 『バトルフィーバーJ』では、「バトル・フランス」「ウイ!」。『鋼鉄ジーグ』では「おーれがやめたら」に「バンババン!」。『忍者キャプター』ではデュエットも披露。完全に「いい客」かバックバンド。

 若さってなにか? 振り向かないことらしい。愛ってなんだ? ためらわないことなんだってさ。君の青春は輝いているか? よけいなお世話や。ダガディダディ・ダガディダディ・ダダダー・ヤ・ダダ・ ギャバン! 間違いなく、天才の仕事です。ありがとうございました。

 なんて感心してる中、ナミマツ君は3時間フルで歌いまくり、ここまで歌が好きなら、いっそ「流しのヒーロソング歌手」を目指すのはどうかと真剣にアドバイスしそうになった。

 駅前で弾き語りするなら、サクラのお客ぐらいにはなってあげてもいいぞ、ナミマツ君。



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ひとりカラオケで、心ゆくまでアニメソング特撮ソングを歌いたい!

2017年02月11日 | 音楽
 「先輩、今度ボクとひとりカラオケにつきあってくだいよ」。

 などという面妖なお誘いをしてきたのは、後輩ナミマツ君であった。

 昨今「おひとりさま」という言葉がメジャーになる世の中。「ひとりカラオケ」が、かつてほどの抵抗がなくなったというのは聞く話である。

 たしかに、これなら時間いっぱい歌えるし、興味もない他人の歌を聴かなくてもいいし、「みんなが知ってる曲」とか「全員で踊れる流行りのもの」みたいな選曲に気をつかわなくてもいい。

 自意識と店員の冷笑するような目(ではないかという妄想)が気にならなければ、純粋なカラオケ好きには、むしろこちらのほうが楽しいかもしれないと思うほどだ。

 なので、「ひとり」自体は別にどうということはないが、問題はそのあとのセリフである。

 「ひとりカラオケにつきあってくれ」

 とは、どういうことか。私のようなフワフワ頭でもひっかかる、見事な論理矛盾である。ひとりカラオケやねんから、一人で行けよ。

 そもそも、私はカラオケ苦手だしなと、二重三重にツッコミを入れてみるなら、ナミマツ君は。

 「いやいや、それはわかってますねん。だから、先輩は別に歌わんでよろしんです」。

 そしてなぜか得意げに、こう宣言したのだ。

 「ただついてきて、オレの歌ってるところをこころゆくまで見といてほしんです」。

 ナミマツ君によると、自分はカラオケが好きだ。だが、だれかと一緒に行って気をつかいながら歌うのは本意ではない。

 なので、ひとりカラオケに行くわけだが、ここで問題なのは一人だと気楽だが、聞いてくれる相手がいないというのは、それはそれでさみしい。

 そこで私の出番である。カラオケが特に好みでない私なら、独り舞台でも「おい、そろそろこっちにマイクを渡せ!」という展開にならず、誰はばかることなくマイクを独占し、同時に拍手や合いの手ももらえると。

 なんじゃそりゃ、わしゃカラオケスナックのホステスかと笑いそうになったが、

 「そら、タダとはいいません。なにが楽しくて、素人の歌をだまって聞いとらないかんねんと思ってはるんでしょ。だから、ボクがおごりますよ。食べ物もドリンク代も全部出します。食い放題飲み放題の逆ディナーショーですわ!」。

 おごり。この言葉にはグラっとくるものはあった。なんと言っても私は吝嗇でならす男。「全部向こうもち」は岩をも動かす魔法の言葉なのだ。

 うーん、ロハかあ。先輩として、後輩におごってもらうのはいかがなものか、というプライドに関してはまったくそんなものはないので問題ないが(←ちょっとは問題にしろよ)、カラオケねえ。

 まだ煮え切らないところであったが、そこにかぶせてナミマツ君は、

 「それに、オレが歌いたい歌を理解して、ちゃんとした合いの手打てるの、ボクのまわりでは先輩しかおれへんし……。なんとか、来ていただけんでしょうか」。

 あー、そっちの問題もあったかあ。それはたしかにそうかもなあ。

 というと、そのそっちの問題ってどっちの問題やねんとつっこまれそうなのでここに説明すると、ナミマツ君が「ひとり」にこだわるのは、気がねなく歌いたいことともうひとつ理由があって、それが選曲。

 そう、彼はアニメや特撮が大好きないわゆる「オタク」であって、カラオケで歌いたいのはサザンでも長渕でもなく、水木一郎や子門真人といった「昭和のアニソン特ソン」なのであった。


 (続く→こちら




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失恋に効く薬……かどうかはわからないけど、とりあえず走ってみましょう

2017年02月08日 | モテ活

 「フラれてツラいっす。どうしたらいいッスか?」。

 焼き鳥屋で酔っ払い、そうさめざめと泣くのは後輩タマデ君であった。

 タマデ君には愛する女性がいた。その愛はとてもとても深いものだったが、彼女にとっては単に不快だったらしく、

 「ゴメンね。他をあたってみて」

 一言でもろくも崩壊したのだった。

 異性にフラれるのはつらい。

 私も経験あるが、これはこたえる。もう地球とか終われよ、くらいのことは軽く思う。 

 そんな悲しみのどん底にいるかわいい後輩に、それを癒すため、なにかアドバイスをあげられるのかと問うならば、解答はひとつしかない。

 とりあえず、走れ。

 「うおー!」でも「えりゃー!」でも「カラワジ・イキツ・キマト・ワヒオサ・ハノクキョウ・ミツオ・レシモオイ!」でもなんでもいいから、大声を上げて、夜の街を疾走しなさい。

 というと、そんなバカなことで失恋の傷がなぐさめられるのかといえば、これは一応、過去それなりに効果を出したことのあるメソッドなのだ。

 あれはまだ私が18歳のころ、友人ツカニシ君が恋をした。

 相手はバイト先の女の人。2歳年上で、小池栄子さんに似た美人であった。

 想いを抑えがたくなった友は彼女に告白を決意。

 とはいえ、なんせ男子高出身で、当時は女性への免疫などなかった彼のこと。そこは不安にさいなまれ、

 「シャロン君、悪いけど立会人になってくれへんか」。

 立会人。まるで剣豪の決斗か将棋の名人戦だが、ともかくも一人にしないでほしいと。

 で、ふたりで栄子さん(仮名)の最寄り駅で待ち伏せすることとなった。

 改札の見える喫茶店に陣取り、刑事の張りこみ並みの集中力で彼女の姿を探す。

 夜の9時ごろだったか、バイト終わりの栄子さんがあらわれた。

 「来た!」緊張と意気ごみから、真っ青な顔で立ち上がるツカニシ君。

 さすがに告白現場を見られるのは恥ずかしいから、先に帰ってくれというので、私はここでお役御免。

 家に帰り、こっちもホッとして晩飯など食っていると電話がかかってきた。

 結果報告である。

 戦前の予想では、

 「ちょっときびしいかもしれん」

 というのが本人の予想だったが、果たしてそれは当たってしまい、ツカニシ君は

 「ゴメン、他に好きな人がいるの」

 見事フラれてしまった。

 で、「あかんかったわ……」と義理堅く伝え、でもその悲しみのため、どうにも気持ちがおさまらない友は、

 「シャロン君、失恋ってツラいなあ。オレ、フラれるのがこんなに悲しいことやとは思わんかったわ……」。

 受話器越しに、すすり泣きをひびかせてくる。

 ふだんはバカ話ばかりしている友のそんな声を聴かされると、なにか言わざるを得ない。

 そこで出た言葉というのが、

 「とりあえず、走ってみたら?」。

 これには意表をつかれたのか、受話器の向こうから「え?」という声がしたが、しばしの沈黙後、

 「それ……効くかなあ」。

 効くかと言われれば、それはよくわからんけど。

 とりあえず、思いつくのはそれくらいしかないし、やるだけやってみたら?

 無責任なようだが、友にしたら、一応はまっとうなことを言おうとしているという熱意が伝わったのか、

 「わかった。やってみる!」

 そう宣言して、いったん電話を切ったのであった。

 30分後、再び電話がかかってきて、

 「シャロン君。とにかく駅から家まで全力疾走してみた。いや、これは思ったよりスッキリするわ。ええアドバイス、サンキューな」。

 息を切らしながら、さわやかに言うのであった。

 そっかー、思いつきで言ってみたわけだけど、案外と有効だったか。パンチは打ってみるものだ。

 それ以降、私はフラれたと落ちこむ人には、

 「とりあえず走れ!」

 と助言することにしている。

 で、これが思ったよりも効果的らしく、

 「いい意味で、頭真っ白になりました」

 「一瞬とはいえ、たしかに忘れられる」

 「とりあえず、走ってる間はつらくないッス」

 むろんそれだけで解決するわけではないが、応急処置としては、おおむね好評なようだ。

 ちなみに、ツカニシ君はその後研鑽にはげみ、見事周囲から「色魔」「詐欺師」「イタリア人」とのふたつ名を頂戴するプレイボーイとして名をはせることになる。

 あのフラれて、泣いて走った男がねえ。人生とは何がどう転ぶかわからないのであった。

 ともかく、愛が成就しないときはダッシュせよ。

 全力で走れ、孤独な狼たちよ。

 案外救われるらしいぞ。おまわりさんの職務質問には気をつけてね。




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こんなにおかしな、シャーロック・ホームズの世界 その5 『三破風館』『這う男』『ライオンのたてがみ』編

2017年02月05日 | 
 シャーロック・ホームズの物語はである。
 
 前回(→こちら)は、『まだらの紐』の超弩級に底抜けなトリックや、その犯罪ギリギリの(というか犯罪ど真ん中の)破天荒な行動について語ったが、まだまだホームズには「ここが変だよ!」とつっこみたくなる話は多い。
 
 『シャーロック・ホームズの事件簿』は、最後の短編集ということで、ネタ切れなのか、それともそもそもホームズに思い入れがなかったドイル先生も倦怠になっていたのか、全体に腰砕けな作品が多い(以下ネタバレありまくりです)。
 
 
 
 
 『三破風館』は秘密の書類をめぐる冒険だが、そのブツの正体は
 
 
 「年上のお姉さまにもてあそばれた青年が、復讐のためそれを題材に書いたスキャンダル小説」
 
 
 仮にもドイツ軍相手に、機密書類をめぐって知恵を絞ったホームズが、まさかの
 
 
 「森本レオから、石原真理子の暴露本発売中止を求められる」
 
 
 みたいなネタのため、走り回ることになろうとは。仕事選べよ、ホームズ。
 
 『這う男』では、紳士の見本のような老教授が、若い妻をもらうとなったとたんに、地面をはい回るなど奇行を見せるようになる。
 
 「若い妻」というキーワードで若干イヤな予感はしたが、やはりそうであった。
 
 なんと、この老教授は、
 
 
 「このままでは、若い嫁を満足させてやれん」
 
 
 と悩んで、あやしい密売人から回春剤、つまり男子の股間にある「ゴールデンボーイ」を元気にするクスリを、こっそり購入していたのであった。
 
 それがまた、熱帯の猿のエキスかなんかで(またか!)、その影響で猿化した教授先生は「ウッキー!」とかいいながら、よつんばいではい回っていたのだ。
 
 なにやってのよ、おじいちゃん! だからホームズも仕事選べってば!
 
 きわめつけが、『ライオンのたてがみ』。
 
 タイトルだけ見たら、なんともスマートな本格ものを連想させる。
 
 海岸を歩いていた男が、全身をで残虐に打たれた痕を残して死亡する、というミステリアスな事件。
 
 サディスティックで、狂気的ともいえるこの殺人の犯人は、いったい誰なのかと問うならば、これがなんとクラゲ。
 
 外海からやってきた未知クラゲがいて、そいつに刺されると全身が鞭で殴打されたような傷が無数に残るのだ……。
 
 ……って、だからそれは推理小説でもなんでもない、ただの事故なのでは。
 
 仕事選ぶとか以前に、もはやホームズいらない事件だ。
 
 かように、ホームズといえばシャープな推理がメインのお話のように見えて、実はバカミスっぽい作品も多いのです。
 
 というと、まじめな人の中には
 
 
 「ホームズをバカにしてるの?」
 
 
 なんていう方がいるかもしれないが、もちろんそんなことはない。
 
 この程度のことは、重度のホームズマニアである、世にいう「シャーロキアン」の方々には常識の楽しみ方。
 
 なんたって、『最後の事件』で宿敵モリアーティ教授の手から逃れ、ヨーロッパを転々とするホームズを、
 
 
 「あれは、コカイン中毒者の見た幻覚症状では」
 
 
 とか邪推するのが当たり前の世界。
 
 少々のひねくれた見方では、鼻にもひっかけてもらえません。
 
 最初に紹介したように、ホームズとワトソンはデキてるとか、実は本当の名探偵はワトソンとか、パスティーシュでもドラキュラ火星人と戦ったり。
 
 とにかく深く考察しすぎて、逆になんでもアリになってしまっているのがホームズの楽しさ。
 
 ガイ・リッチー版ホームズやドラマ『SHERLOCK』の大ヒットなどで、日本でもホームズのプチブームみたいなものが起きたが、「名前だけは知ってる」という方も、こんな人類財産の全貌を知らないままというのはもったいない。
 
 ぜひとも手にとって、名探偵のあざやかな活躍と、その裏にあるマヌケ邪推の楽しみを味わってほしいものである。
 
 
 
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こんなにおかしな、シャーロック・ホームズの世界 その4 実はバカミスかも編

2017年02月04日 | 
 シャーロック・ホームズの物語はである。
 
 前回(→こちら)は、オープニングで主人公がコカインでラリラリという、破天荒すぎる『四つの署名』を取り上げたが、ホームズものは彼の特異なキャラクターだけでなく、物語のほうも
 
 
 「んなアホな!」
 
 
 といいたくなるようなものが多い。
 
 以下、ホームズのみならずエドガーアランポーの『モルグ街の殺人』まで、ネタバレ御免で語っていくが、まずもっともつっこまれるのが、『まだらの紐』であろう。
 
 ホームズといえば短編に傑作が多いが、中でも名作と誉れ高いのがこの作品。
 
 ところがどっこい、これがなんともな小説なのである。
 
 黒幕であるロイロット博士が、ミルクで飼い慣らしたうえで、笛の音であやつって殺人を犯す。
 
 という、ホームズというより江戸川乱歩みたいなオチなのだが、初めて読んだ子供心にも「なんやそれ」と、つっこみそうになったものである。
 
 実行犯がかよ! 竜牙会の殺し屋にいた蛇皇院か。
 
 ミステリといえば、人の知性と知性がぶつかり合う、高度な論理遊戯の一種と認識していた私は、ここでスココーンとコケそうになったものだ。
 
 そういえば、「人類最初のミステリ」と呼ばれるポーの『モルグ街の殺人』も、おかしな話だ。
 
 アパート4階の密室で起こった猟奇殺人の犯人を追う、名探偵デュパン
 
 彼が暴いた真相というのが、
 
 
 「犯人は、オランウータンでしてん」
 
 
 これまた子供心に、心底シビれたものだ。
 
 犯人が動物! もう、カタルシスも、へったくれもない結末であった。
 
 アニマルがトリックに絡むと、どうもミステリはおかしなことになることが、多いのかもしれない。
 
 そういや、ホームズ長編の最高傑作は『バスカヴィル家の犬』だけど、これもまたな話だしなあ。
 
 略称は『バカ犬』だし……って、そう略すの小山正さんだけだってば!
 
 他にも、『唇のねじれた男』では乞食にまじって阿片を吸ってゴキゲンだし、『青い紅玉』では、
 
 
 「この人は、頭のサイズがでかいから頭がいい」
 
 
 なるファンタスティックな推理を披露するし。
 
 『恐喝王ミルヴァートン』では、ゆすりの証拠の隠し場所を聞き出すために、メイドを口説いて、その気もないのに結婚の約束までしている。
 
 いやいや、それって結婚詐欺なのでは……。
 
 しかも、犯罪の片棒をかつがそうとしているし、めっちゃタチ悪いやん。
 
 そもそも、ホームズは事件解決のためとはいえ、結構住居不法侵入してます。どっちが犯罪者だか、わかったもんではない。
 
 ホームズといえば世間的には
 
 
 「鋭利で論理的な推理機械」
 
 
 といったイメージかもしれないが、その実のところは意外と、
 
 
 「破天荒な行動力」
 
 
 が武器だったりする。ボクシングと日本の武道が得意とか、けっこう武闘派ですしね。
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
 
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こんなにおかしな、シャーロック・ホームズの世界 その3 『四つの署名』でラリラリ編

2017年02月03日 | 
 続いてシャーロック・ホームズの物語はだということについて。
 
 前回(→こちら)はホームズのデビュー作である『緋色の研究』を取り上げたが、続く長編第2作目『四人の署名』が、またミステリファンの間では語りぐさになっているインパクトを残す作品である。
 
 それはもう、オープニングにつきるわけで、1ページ目を開くと、まずホームズがベーカー街221Bの自宅で、自分の腕に注射を打っているところからはじまるのだ。
 
 きゅっと一本打って「は~こらええ塩梅」とウットリしているホームズは、風邪でもひいて栄養剤でも打っているのかといえばそうではなく、なんとその中身はコカインである。
 
 コカイン
 
 世界一有名な名探偵が、代表的長編小説の開口一番で、ドラッグをキメキメ
 
 長いミステリの歴史において、いきなり主人公がラリっているなど、空前にして絶後の開幕であろう。
 
 同居しているワトソンに、
 
 
 「ホームズ、キミなにやってるねん!」
 
 
 とつっこまれると、
 
 
 「事件がなくて、退屈でたまらんのや」
 
 
 失業してすることがなく、昼からワンカップ大関を片手に、ほろ酔い加減のオジサンのようなことをおっしゃるというか、まあ同じようなもんか。
 
 いわば、江戸川コナン君が「テレビをみるときはへやをあかるくしてみてね」の字幕とともに現れて、いきなり覚醒剤をキメながら、
 
 
 「蘭ねえちゃん、知ってる? 疲労がポンと飛ぶからヒロポンっていうんだよ」
 
 
 とか目を輝かせながら、いっているようなもんであろう。
 
 一応ここにフォローしておくと、当時の大英帝国法律では一定量以下にうすめておけば、コカインは医薬品あつかいということだそう。
 
 今でいえば、睡眠薬か市販の咳止めシロップでボーッとするようなもんであるが、それにしてもナイスなオープニングすぎて、何度読んでも笑ってしまう。
 
 ホームズは、なかなかロックなやつなのだ。
 
 コカインのみならず、ホームズといえば奇行が目立つというか、その卓越した推理能力がなければ、ただの気ちがいである。
 
 真夜中に、突然大音量でヴァイオリンを弾きだすわ、怪しげな化学実験に夢中になり悪臭をまき散らすわ。
 
 果てはいきなり拳銃に撃ちまくって、弾痕で「V・R」(ヴィクトリア女王のイニシャル)と書くわとか、もうメチャクチャ。
 
 最後のに関しては、ホームズの愛国的精神あらわれと解説されていることも多いが、日本でいえばアパートの壁を日本刀で斬りつけて、「佳子様萌え」とか描くようなもんであろうか。
 
 国を愛するのはいいが、日本人としては、もう敷金の返りとかが気になって仕方がないところだ。
 
 そこはドイル先生も、
 
 
 「ホームズは金払いもよく、通常の3倍くらいの家賃をゆうに払っている」
 
 
 みたいな説明はしてたけど、とりあえず私が家主なら、あんまりに住んでもらいたくないかもなあ。
 
 というか、こんなホームズを「君とはやっとられんわ」と見捨てないワトソンハドソン夫人は、このシリーズのかくれたMVPであることは間違いなかろう。できた人ですわ。
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
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こんなにおかしな、シャーロック・ホームズの世界 その2 『緋色の研究』編

2017年02月02日 | 
 シャーロック・ホームズの物語はである。
 
 いきなりそんな断言すると、全国のミステリファンから日本の古武術バリツでもってライヘンバッハの滝壺に、ぶん投げられるかもしれない。
 
 ところが、これが俗に「シャーロキアン」と呼ばれるマニアックなホームズファンなら、ニヤニヤしながら「そうだよなあ」と首肯してくれるであろう、普遍の真理なのである。
 
 それは前回(→こちら)の、
 
 「ホームズ、色んなパスティーシュやパロディーで変なキャラ競演しすぎ問題」
 
 を顧みていただいても、わかることだが、ホームズ物語は、とにかくちょっと変なのである。
 
 ミステリというのは、は大きく分けて二種類ある。
 
 ひとつは「トリック」には目を見張るものがあるが、そのぶん登場人物やストーリーにしわ寄せがきて、話が不自然になったりするもの。
 
 いわゆる、識者にしたり顔で「人間が描けてない」って批判されがちなアレ。
 
 もうひとつはキャラや文章のテンポはいいが、代わりにトリックが
 
 
 「こんなんじゃ物足りないぜ!」
 
 
 といいたくなるような仕上がりとなっている。このどちらか。
 
 いわば「推理小説」の「推理」に重きを置くか「小説」に置くかのちがい。
 
 前者がエラリー・クイーンなど「本格」と呼ばれる作品に多く、後者は私の好きなウールリッチクレイグ・ライスとか、謎解きのところにちょっと甘さがあるようなもの。
 
 論理より雰囲気が大事。クリスティーは半々くらいか。
 
 ホームズものは一見前者の様に見せかけて、読んでみるとわかるが、実は思いっきり後者の「小説」タイプのミステリなのである。
 
 なもんで、現代の子供がコナン君金田一少年とか「本格っぽい」ものからミステリに興味を持ってホームズに入っていくと、まずたいていが
 
 
 「え? なにこれ?」
 
 
 となるのだ。
 
 たとえば、ホームズのデビュー作である『緋色の研究』。
 
 この小説で、名探偵シャーロック・ホームズは華々しく世界にその名をとどかすことになるのだが、これがいきなりである。
 
 本来はミステリを語るのにネタバレは絶対にやってはいけないのだが、今回は流れ上、もう全部語ってしまいます。
 
 ホームズものをまだ読んでない方は、以下は飛ばしてください
 
 
 
 
 
 
 
 
 『緋色』のなにが変といって、ホームズの活躍するところが最初の半分くらいで終わってしまう
 
 本来なら、物語の最後の最後で明かされるはずの犯人が、途中で結構あっさりわかってしまうのだ。
 
 で、残りは? と問うならば、これが犯人による昔語り
 
 2時間ドラマなんかで、犯人がラスト断崖絶壁に立って、
 
 
 「そうよ、あたしが殺してやったわ」
 
 
 なんて、延々と恨みつらみを独白するシーンがお約束になっているが、まさにそれ。
 
 しかもこれが長い。文庫本で100ページくらいある。
 
 内容的にも骨太であり、借金とか不倫で愛憎のもつれとか、そんなもんではない。
 
 なんとアメリカ西部開拓時代にさかのぼり、そこでモルモン教徒との確執がからんできたりするから、ややこしい。
 
 で、一夫多妻文化の中、無理矢理結婚させられようとした娘一家を助け出そうとするに燃えた青年と、その追っ手たちとの逃亡劇とか、めっちゃ読みごたえはあるんだけど、ホームズ関係ねーじゃん
 
 もう、ページをめくりながら、つっこみたくなること必定。
 
 まあ、そこもおもしろいんだからいいけど、これを初めて読んだ小学生のころは、なんとも釈然としなかったものである。
 
 ミステリファンにも、たいていこの部分は評判が悪い
 
 驚天動地のトリックとか、出てこないもんね。
 
 作者のコナンドイルにとって、本当に書きたかったのは歴史小説であり、ホームズは手なぐさみというか、バイト感覚で書いていたということは、よく知られた話。
 
 それが、なまじウケちゃったものだから、ドイル先生はものすごくそれで悩んで、
 
 
 「ホームズにわたしのキャリアを台無しにされる!」
 
 
 もう、ボヤきまくっていたそうな。
 
 お笑いで言えば、スーツ姿で正当派漫才をやり「M−1戦士」として優勝を目指していた芸人が、たまさか「一発芸」とか「おもしろキャラ」としてブレイクして、それしか仕事が来なくなってしまったようなものか。
 
 ついには「もうホームズは書きたくないねん!」とばかりに、『最後の事件』ではホームズをスイスまでつれていって、殺してしまったりもしたものだ。
 
 そこまでだったか、ドイル先生。
 
 つまりは、『緋色の研究』における後半の
 
 
 「ホームズ出てけえへんやん!」
 
 
 は、なんとも失礼な話で、そもそもにして後半の新大陸を舞台にした活劇こそが、先生の本当に書きたかった物語なのだ。
 
 ホームズはそのおまけ
 
 こうして、
 
 
 「オレは探偵小説みたいな、大衆ものしか書けへん下品な作家ちゃう!」
 
 
 堂々と宣言したドイル先生だが、このホームズ殺しにはファンが怒り心頭
 
 「ふざけんな!」と抗議が殺到し、また再開を望む読者、編集側からの声も無視できなくなって、『空家事件』で見事ホームズは復活
 
 
 「ホームズ、生きていたのか」
 
 
 というワトソンの言葉には、
 
 
 「ジャンプの漫画かよ!」
 
 
 子供心にもつっこみを入れたものであるが、かように
 
 
 「バッファローマン、どうやって助かったんだ」
 
 「富樫、オマエ生きとったんか!」
 
 
 といった、
 
 
 「人気キャラは、ご都合主義で生き返ってもいい」
 
 
 という、人気連載普遍の法則は、なんとホームズこそが元祖だったんですね。
 
 やっぱだよ、シャーロック!
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
 
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こんなにおかしな、シャーロック・ホームズの世界 狂った共演者 編

2017年02月01日 | 
 まずはトリビア的クイズをひとつ。
 
 
 「吸血鬼ドラキュラ」
 「ターザン」
 「銭形平次」
 「オズの魔法使い」
 「火星人」
 「クトゥルフ」
 「切り裂きジャック」
 「夏目漱石」
 「アルセーヌ・ルパン」
 
 
 これらに関係ある、ある世界的にも有名な人物とは誰でしょう。
 
 ヒントはイギリス人
 
 最後の3つで、ピンときた人はいるかもしれない。
 
 答えは、
 
 
 「名探偵シャーロック・ホームズと競演したキャラクター」
 
 
 並べてみると、「お仲間」といえるルパン銭形はともかくとして、その他は文豪から邪神まで、笑ってしまうくらいに一貫性がない面々である。 
 
 主戦場がミステリのはずのホームズが、なぜにてこのようなボーダレスな、バラエティーあふれまくりのメンバーと、からむことになっているのかと問うならば、ここに「シャーロキアン」という言葉がかかわってくる。
 
 「シャーロキアン
 
 ミステリファンには常識のワードだが、知らないという人に一応説明しておくと、彼ら彼女らはシャーロック・ホームズの世界に、ドップリとはまった人々。
 
 タテヨコナナメ、あらゆる角度から研究している、マニアたちのことなのだ。
 
 ちなみに英国では「ホームジアン」になる。
 
 シャーロキアンたちはで、ネット上で、いつものキャフェのテーブルで、様々にホームズ論を語っている。
 
 そこでは、
 
 
 「ホームズ物語を時系列に並べる」
 
 「ホームズの食事リスト」
 
 「名前だけ出てきた事件の内容を想像してみる」
 
 
 といった楽しそうなものから、
 
 
 「ホームズとアイリーン・アドラーには隠し子がいる」
 
 「本当はホームズではなくワトソンが事件を解決している」
 
 「ホームズとワトソンは実は男同士でつきあってまーす」
 
 
 なんていう妄想まで、百花繚乱である。
 
 もちろん、こういった説はガチな研究というよりは、どちらかといえば粋人の「遊び」であるが、そうした熱狂的ともいえるホームズフリークの方々が、その愛のために「俺ホームズ」の物語を書くと、これがカオスになる。
 
 同人誌みたいなノリだけど、山田風太郎みたいな名のある作家でも
 
 
 「ホームズもの書きたい!」
 
 
 名乗りを上げているケースもあるから、あなどってはいけない。
 
 そのたびにホームズは、切り裂きジャックと戦ったり火星に行ったりするわけである。人気者は大変だ。
 
 ホームズにかぎらず、「名探偵」という存在は「パロディ」「パスティーシュ」と仲が良い。
 
 北村薫先生はエラリィ・クイーン・リスペクトの驚愕バカミス『ニッポン硬貨の謎』(泣きました。北村先生、超カッコイイよ!)を発表し、芦辺拓さんは『明智小五郎対金田一耕助』を書いている。
 
 そう、みんなやりたいんである。
 
 私だって、友人と文芸同人誌作ってたとき、クラーク・キャメロンとかアンドリュー・ソープとかJ・J・レインの小説書こうかって考えたものなあ。
 
 かように、ホームズをはじめ名探偵といえば、とにかくやたらと、そのパスティーシュ作品があるもの。
 
 きっと他にも、私の知らない「ホームズ対〇〇」みたいなものが、探せば山のようにあるに違いない。
 
 和製探偵との競演とかは基本か。
 
 
 「シャーロック・ホームズ対はぐれ刑事純情派」
 
 「シャーロック・ホームズ対片平なぎさ」
 
 「シャーロック・ホームズ対女王陛下のプティアンジェ」
 
 
 ベネディクトカンバーバッチには、ぜひ来日して活躍してもらいたい。
 
 あ、「シャーロック・ホームズ 対 アニメ版犬ホームズ」もあるかもなあ。
 
 広川太一郎さんと露口茂さんの「ええ声」対決で大いに盛り上がりそうである。
 
 一番見たいといえば、これか。
 
 
 「シャーロック・ホームズ 対 世界のシャーロキアン」
 
 
 なんか、すごいことになりそうである。番外編としては、
 
 
 「コナン・ドイル 対 世界のシャーロキアン」
 
 
 ドイル先生、いやがるだろうなあ(笑)。
 
 どこか、腕のあるシャーロキアン霊媒師がいたら、ぜひ実現させてほしいものだ。
 
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
 
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