「嫁が美人」という人がいる。
スポーツ新聞の芸能欄などを見ていると、イケメン俳優が共演者と熱愛。
IT社長が、美人女優と結婚などといったニュースをよく見かける。
独身貴族の私としては、当然こういう報道は、はなはだおもしろくなく、即座に敵として認定されることとなる。
嫁が美人とは何事か、おのれこのブルジョアめ!
なるほど、共産主義が実は正義だと感じるのは、こういうときなのであるなあ。
思えば、宮崎あおい結婚の報を聞いたときには、金正日総書記死去時の平壌市民のごとく嘆き悲しみ、長澤まさみ熱愛のニュースのときには、三島のごとく割腹の末果てようと真剣に考えた。
これで新垣結衣ちゃんに「濃厚路上キス写真激写!」なんていう記事が出た日には、もうインドへ行って愛の戦士レインボーマンとして、死ね死ね団と戦うしかないと、現在思い詰めている次第である。
そんなわけで、有名人カップル報道には常に
「敵発見!」
熟練の潜水艦乗りのごとく、神経を張りめぐらせている私であるが、中には困ったことに、こちらとしては敵だと思いたくないのに、嫁が美人だという人もいる。
たとえば、元阪神タイガースの矢野選手がそれだ。
矢野選手の奥さんは、一度テレビで見たことがあるが、めっちゃ美人である。
引退後、雨上がり決死隊の番組で、
「妻とは、今でもすごく仲がいい」
とのろけておられたが、そらあんな美人だと、結婚して長くても、大事にしますわなあ、と思わされたもの。
そんな矢野選手は、普通ならば即座に敵認定である。
もし現役時代なら、チャンスで打席に入るたびに
「しょうもないゲッツーでも打て!」
水垢離の祈祷をするところであるが、いかんせんそういう気にはならないのが、つらいところ。
なんといっても、矢野選手といえば、阪神の暗黒時代から優勝2回の黄金時代までを、ずーっと支えてきた名捕手。
2003年優勝時のMVPは井川投手だったが、私は矢野選手だったのではないかと、今でも思っている。
おまけに、矢野選手は男前である。
それも、昨今流行りのチャラいものではなく、一本筋の通った男の顔をしている。思わず、惚れそうになる。
いわゆる「男にもモテる男」というやつだ。
インタビューなど読んでも、人間性もしっかりしている。
なにかこう、もし私がピッチャーだったら
「身も心も任せられる」
という気がするではないか。
私は特にディープな阪神ファンではないが、矢野選手はファンなのである。
しかし、かなしいかな、奥様は美人なのである。
敵だがファン。
嗚呼、なんてこったい。こうして私の心は千々に乱れるのである。
よく、ロボットアニメなんかで、敵味方にわかれながらも、腕を認め合ったパイロット同士が、
「もう降伏してくれ、僕はあなたを殺したくはない」
なんて言うシーンがあるが、私と矢野選手の関係は、まさにそんな感じか。
ファンながらも、不倶戴天のかたきだというのは、まことにつらいのである。
まあ、むこうからしたら、完全無欠に「知らんがな」であろうが。
阪神の監督になったら、応援しちゃうんだろうなあ。
そのときは私のどす黒い心が勝つか、それとも矢野監督の人徳がそれを凌駕するのか。
それによって、応援するチームが変わってしまう可能性もあるため、今から興味はつきないのである。
(次回、佐藤康光編に続く)
2012年のウィンブルドン決勝は、ロジャー・フェデラーと地元アンディー・マレーが相対することとなったが、試合の方は、二人の力が存分に出た打ち合いとなる。
第1セットはフェデラーが固くなったのかミスが目立ち、マレーが取ったが、第2セットは一瞬のスキをついて、フェデラーが取り返す。
雨の中断のあと、屋根を閉めて再開した第3セットからも激戦は続いたが、ここから少しずつ、少しずつではあるが、フェデラーがペースを握っていく。
それはおそらく、経験の差であろうか。全力で、これが最後とぶつかってくるマレーに対して、ウィンブルドン決勝の舞台が8回目という元王者は絶対的に、その戦い方を知っていた。
ミスが出たり、微妙なジャッジや圧倒的なアウェーの空気でプレーが乱されそうになっても、気持ちをコントロールし、勢いで勝るマレーを予測や組立のうまさでかわしていく。
力では互角だったが、強引ともいえる回りこんでのフォアハンドでプレッシャーをかけることをはじめとし、ネットダッシュからのドライブボレー、角度のあるドロップショットなど、「手駒の多さ」ではやはりまだフェデラーに一日の長があった。
マレーもベストを尽くしたが、結果としては4-6・7-5・6-3・6-4でフェデラーが勝利。ウィリアム・レンショー、ピート・サンプラスと並んで、これが7回目(!)の優勝。
また、世界ランキングも1位に返り咲き、ピート・サンプラスの持つ更新不可能と思われていた通算1位在位記録(286週)にも並んだ。
スコアは競っているが、それでも全体的に「フェデラー乗り」の戦いに見えたのは、やはり王者の貫禄か。あらためて、ロジャー・フェデラーの偉大さを再認識させられた試合であった。チャンピオンの復活だ。
一方、敗れたマレーは、試合後のインタビューで声を詰まらせた。
母国の期待を一身に背負おい、そして決勝戦もファーストセットを見た限りではチャンスはあっただけに、なんともくやしいであろう。
涙をこらえきれないマレーは、インタビュアーに「無理しなくてもいいですよ」と言われながらも、それを飲みこんでマイクを取った。しぼりだすように、後押ししてくれたファンや家族、コーチにガールフレンドに感謝の言葉を贈る。
「大変なことではあるけれど、またチャレンジします」
健気に語った彼に大きな拍手が。マレーの家族とガールフレンドが泣いていた。スタンドの人たちも、抱き合って泣いていた。
結果は残念だが、ウィンブルドン決勝で、ロジャー・フェデラー相手にこれだけのテニスを見せた男を、いったいだれが責められようか。
だが、インタビューなかばにぽろっともらした一言は、彼のそんなきれいごとでは押さえられない、痛切な胸の内を静かに明かしてしまうこととなる。
「またがんばります」と言った後、小さくこうもつぶやいたのだ、
「でもそれは、簡単なことじゃないんだ……」。
簡単なことじゃない。本来ならそんな士気をくじくようなことは言うべきではないのだろうが、それでも口にするのを止められなかった。なんだろう、かける言葉もない。
でもアンディー、君はたしかに負けたかもしれない。
それでも君はイギリス人のウィンブルドン決勝進出という、この74年間だれもができなかったことを成し遂げたんだ。これはすごいことじゃないか。だから胸を張っていい。
残念であったが、月並みではあるけど君の力を持ってすれば、まだまだチャンスはある。今年はオリンピックもあるし、次はUSオープンも残っている。挽回の舞台はそろっている。
そこで勝てば、今日の落胆などおぎなってお釣りがくるくらいだ。
簡単ではないが、そして根拠もないけど、あえて言いたい。
君なら、できるよ。
そしてあらためて、ロジャー・フェデラーは強かった。「時代は終わった」とか「もう引退か」と聞かれることにうんざりしていただろう彼は、2年の苦しい期間を経てここにあざやかによみがえった。
マッチポイントが決まった瞬間のすぐにも泣き出しそうな、子供のようなあの目は、すでに6回もカップを掲げたことのある男のそれには見えなかった。
この大会、あなたは「強すぎたころのロジャー・フェデラー」にほとんどに戻っていた。今回は敵役だったけど、そのテニスは優雅で華麗で、そして力強い。
もう一度言うが、やっぱり今でも偉大なチャンピオンだ。
長い2年間だった。
優勝おめでとう。
■おまけ 2012年ウィンブルドン決勝の映像は【→こちら】
引退したヘンマンに代わって、ウィンブルドン地元優勝の期待を背負ってあらわれたのが、アンディー・マレーであった。
彼はジュニア時代からなかなかの活躍を見せており、コアなテニス雀からはすでに目をつけられていた。この少年こそが、「ポスト・ヘンマン」の座をになうのだ。
2005年にデビューしたマレーは、ウィンブルドンでの爆発はまだだったが(それでも4回戦、ベスト16までは勝ち上がっている)、18歳でツアー初優勝を果たすなど、着実にランキングをあげてトップ選手に食いこんでいく。
そして2008年、マレーは大きな飛躍を遂げることになる。ウィンブルドンではベスト8。そして、USオープンでは初のグランドスラム大会決勝進出。
それぞれナダルとフェデラーの当時「2強」にはね返されたが、マレーがそれに次ぐ実力の持ち主であることは充分に証明された。ランキングも2位をマーク。
2010年では、オーストラリアン・オープンでも決勝に進出。ここでもフェデラーに一蹴されたものの、2011年も再びファイナルに上がってくる。
ここでもノバク・ジョコビッチに完敗したが、彼らに並んで「4強」と呼ばれる力を認められることとなった。
あと必要なのは、グランドスラムのタイトル。できればウィンブルドンだ。そして彼は、おそらくは地元の声援なしでも勝つことのできる、真の力を持った選手であった。
その想いは、彼自身や英国民、そして世界のテニスファンも同じであったろう。その期待に応えて、彼はウィンブルドンで準々決勝の壁を破る。2009年で、このときはロディックとの準決勝「アンディ対決」に接戦末敗れた。
そこから彼は4年連続でベスト4に進出するが、ラファエル・ナダルの壁が厚く、決勝への道は遠かった。
そう、ティム・ヘンマンにとって芝の王者ピート・サンプラスがいたように、アンディー・マレーにもまたロジャー・フェデラー、ラファエル・ナダル、ノバク・ジョコビッチという強力なライバルがいた。
ましてや、この場合のライバルがどれも「テニス史上最強」と呼ばれてもおかしくない、規格外のバケモノばかり(3人が別に時代に生まれていたら、「だれが最強か」議論は果てしなく盛り上がることだろう)。そう簡単に決勝へは行かせてくれないのだった。
だが、その忌まわしいくびきを解きはなったのは、さすがはマレーであった。
今年の大会は、第2シードで2度優勝もしているラファエル・ナダルが、2回戦でまったくの無名のルカシュ・ロソルにまさかの大アップセットを食らって姿を消したことも手伝って、準決勝では強敵ジョー・ウィルフリード・ツォンガを破り、ついに、ついに悲願の決勝へと駒を進めたのだ。
これには英国民だけでなく、世界中のテニスファンが拍手を送った。
76年の長きにわたって、地元選手の優勝がない。これはいわば、日本でいえば大相撲で何十年も日本人横綱が誕生しないようなもの。
オリンピックの柔道でメダルが取れないようなもの。そう想像してみると、気の遠くなるような長い時代をイギリス人は耐え忍んできたことになる。
運命の決勝戦。待ち受けていたのは、復活をかけるロジャー・フェデラーであった。
マレーが絶対に勝ちたいことは、ここまで書いてきたことから少しは伝わったと思うが、フェデラーもまた、この一番にかける想いは負けずに大きかった。
(続く)
テニス不毛の地イギリスに、彗星のごとくあらわれた名選手ティム・ヘンマン。
実際、ウィンブルドンでのヘンマンは強かった。毎年のように上位に勝ち上がり、イギリス人を驚喜させた。
それは、ヘンマンの力もさることながら、観客の後押しも大きかった。どのような苦境におちいろうとも、センターコートのヘンマンコールや「カモン! ティム!」という声に力を得て、数々の強敵を屠ってきた。
ヘンマンを強くしたのは、間違いなくウィンブルドンの観客だ。もちろん彼の才能や努力はすばらしいものがあるが、もしも彼がイギリス人でなかったら、その活躍はもう少しだけ、ささやかなものになっていたかもしれない。
英雄ヘンマンは、その期待に応えウィンブルドンで2度ベスト8、4度ベスト4に進出する。優勝するには、あと1、2回「なにか」が起こればいいところまで勝ち上がる。
試合は常に怒号のような歓声が沸き上がり、その熱狂的ファンは「ヘンマニア」と呼ばれ、またウィンブルドン会場内の大画面の前の小高い丘は、「ヘンマン・ヒル」と名づけられたほどだ。
優勝していないのに! である。それを見ても、ヘンマンの人気度と期待度が、一種異常なほど英国民をとらえていたことは容易に想像できるだろう。
だが、その国家レベルの後押しを受けてさえ、ヘンマンはベスト4の壁を突破することができなかった。その原因は、当時圧倒的な強さを、それも芝のコートでは無敵を誇っていたピート・サンプラス。
1998年と99年は、そのサンプラスに敗れた。同時代に強すぎる選手がいるというのは、アスリートのひとつの悲劇だが、ウィンブルドンに関していえば、ヘンマンはまさにそうであった。
サンプラスの力がおとろえた2001年は大きなチャンスだったが、今度は準優勝3度という実績を持つ、ゴーラン・イバニセビッチが立ちはだかる。
ヘンマンにとって不運だったのは、イバニセビッチもまたウィンブルドンのタイトルを嘱望され、ファンから圧倒的な「判官贔屓」の声援を送られる選手だったことだ。
地元選手対判官びいき。見ている方からすれば、盛り上がるような、どっちも応援したくて微妙な気持ちになるこの一番は、フルセットにもつれこんだ末に、ヘンマンがまたしても敗れた。
降雨により流れをつかめなかったこともあるが、今回に関しては「相手が悪かった」としかいいようがなかったかもしれない。
続く2002年も準決勝まで勝ち上がるが、ここでは日の出の勢いのレイトン・ヒューイットに敗れた。天敵ピート・サンプラスが力を落としてチャンスをむかえたとき、タイミング悪くヘンマンもまた、そのプレーは全盛期を過ぎてしまっていた。
そしてこれが、彼の最後のウィンブルドン上位進出であった。敗れた準決勝4回の大会、皮肉なことに彼に勝った選手が、その後すべて優勝を果たししている。
こうしてひとつの時代が終わった。ヘンマンがいなくなったことで、またもや英国人によるウィンブルドン優勝は遠くなったかに思えた。
彼ほどウィンブルドンに適したプレーをできる選手を、あれほどに後押ししまくって、4度も準決勝の舞台に引き上げたというのに達成できなかった悲願。それはそれは、大きな脱力感を感じたことであろう。
だがテニスの神様は、イギリスを見放さなかった。
このテニスの聖地に、ヘンマンのような、いやそれ以上の力を持った選手を送りたもうたのである。
それが、アンディー・マレーという男だ。
(続く)。
■おまけ ヘンマンにとって最大のチャンスだった2001年ウィンブルドン。準決勝の対イバニセビッチ戦の映像【→こちら】
アンディー・マレーとロジャー・フェデラーがぶつかることとなったこの決勝は、グランドスラムのファイナル、そして第3シードと第4シードの戦いという好カードという以上に全英国じゅうの、いやさおそらくは世界のテニスファンの大々的な熱い耳目を集める大一番となった。
いうまでもなかろう、この戦いには76年ぶりの「イギリス人によるウィンブルドン制覇」がかかっていたからだ。
ここで、テニスにくわしくない人に説明しておくと、ウィンブルドンを擁する大英帝国は、テニスの聖地と呼ばれてきた。
だが、実際のところイギリスは、その名に似合うほどの実績を近年あげていなかった。いや、それどころか、長らく「テニス不毛の地」とさえ言われていたのだ。
その証拠に、イギリス人がこの大会の頂点に立ったのは、1936年のフレッド・ペリーが最後であり(女子でも1977年のヴァージニア・ウェードまでさかのぼる)、それ以降は優勝どころか、1938年ヘンリー・オースチン以来決勝にすら進出できない始末。
そこから長い低迷期に入り、ついこのあいだまでは上位進出どころか、まともなトッププレーヤーも輩出できず、3回戦に勝ち上がれば快挙というくらいの体たらく。
スポーツのみならず経済などでも、地元がその利を生かせず衰退することに「ウィンブルドン現象」という名前がついたほどの苦戦ぶりなのだ。
その凋落ぶりの著しさは、テニスファンの間でもジョークのネタになっており、イギリスのブックメーカー(賭け屋)では、「イギリス人がウィンブルドンで優勝する確率」が、
「宇宙人の乗ったUFOがロンドン上空に出現する確率」
よりも賭け率がよかった。
つまりは、
「地元が勝つよりも、あるかどうかもわからん地球外生命体の存在を信じた方が、よっぽどマシや!」
というイギリス流の自虐ギャグであり、そうまでバカにされるほどイギリスのテニスは沈みこんでいたのだ。
そんな中、彗星のごとくあらわれた救世主が、ティム・ヘンマンだった。
祖父がウィンブルドンで3回戦にも進出したことがあるというテニス一家で育ち、1996年のウィンブルドンでは、フレンチ・オープンのチャンピオンであるエフゲニー・カフェルニコフを、地元の大声援をバックにフルセットで破ってベスト8に進出。
それまで、イギリスの単なる一若手選手だったヘンマンは、これで一躍スターの階段を駆けあがった。
オックスフォード出身、いかにも優等生で知的な言動やたたずまい、芝のコートに適したクラシックなスタイルのサービス&ボレーを駆使するなど、英国人が熱狂的に後押しするには充分すぎるくらいの資質は整っていた。
以後彼は現役時代の間、「悲願のウィンブルドン地元優勝」という国民的期待をにない続けることになる。
(続く)