「やってはいけない」
と言われることほどやってみたくなるのが、人間のサガである。
芸能人の不倫騒動とか、他人への悪口からの炎上とか、人はタブーと言われる行為ほど魅力を感じてしまうもので、われわれは常にモラルと禁断の果実の間で、板ばさみにされているのだ。
代表的なのは、学校やビルにある火災警報機のボタン。
あれを
「ウルトラ作戦第一号、攻撃開始!」
「7時の方向に目標、撃て!」
「本艦は現時刻をもって自沈する。乗員諸君、今までありがとう」
なんて、裂帛の気合もろとも、押してみたいと願うのは人類共通の夢である。
よくエレベーターに
「非常時には、ここを押してください」
と書かれたボタンがあるが、以前住んでいたマンションではそれが、親のカタキかというくらいテープでガチガチに固められていた。
「これ、非常時になっても押せねーじゃん!」
乗るたびに、つっこんだものであるが、おそらく、ロマンに殉じた男子住民(たぶん子供)のせいであろう。
迷惑だが、まあ気持ちはわからなくもない。
警報機以外だと「ベランダを仕切ってる壁」も、ぶち破ってみたい。
マンションに住んでおられる方なら、おわかりいただけるだろうが、ベランダの両サイドに、隣との境になっている薄い壁がある。
そこにはたいてい、こんな文言が記してある。
「非常時、ここから破って隣へ抜けられます」
破ってみたい。
となると気になるのが、その強度。あれは、どれくらいの耐久力を持っているのか。
「ここから破って」などと簡単に書いているが、そんな楽勝な雰囲気でいいのか。ふつうに、正拳突きや蹴りなどで破れるものなのか。
あまり頑丈だと「貧弱な坊や」である自分はケガが怖いが、すぐに破壊できるようだと、それはそれで防犯的に不安でもある。
こうなってくると、破れ方も問題である。
パンチなりキックなりタックルなりした際、どのように壊れるのだろう。
怪獣がビルを壊すよう、壮快に楽しく、くずれてほしいものだ。
体当たりしたら、やはり古いアニメや、コントの定番ギャグのように、壁にきれいな人型の穴が開くのだろうか。
なんといっても、ここは見事貫通したときのスッキリ感も大事である。
割りばしが、うまく割れたときのような「おお! 見事な割れ具合だ」といった爽快感があるとベターだ。
これは、なにげに問題ではないか。もし火事で避難する際、ここで今ひとつ破壊の爽快感がなく、
「ちょっと待って、今のはノーカンね」
ベストのスマッシュ感を求めて、再チャレンジしている間に煙に巻かれて死去、なんてこともあるかもしれず、その「割り心地」は極めて重要である。
そこで以前、友人アサカ君の住むマンションに遊びに行ったとき、
「よし、一体どうなるのか、実際試してみよう」
ベランダに出て拳を振り上げたところ、後ろからはがいじめにされ、止められたことがあった。
なにをするんだ、これはキミの安全を考慮した、双方痛みをともなう実験なのだと説得したが、同意してくれるどころか
「なにするねん、このぼけなす!」
頭をはたかれ、メチャクチャに怒られた。
私の友を想う心が理解できないとは、哀れなアサカ君である。
かくのごとく、私の野望はあのベランダの壁を、ぶち破ることである。
実際に、地震や火事などの大災害が起るのは嫌だから、アサカ君のマンションに遊びに行くたびに、火災警報機が誤作動しないかと期待している。
そうすれば、合法的にあの壁を破れるからだが、今のところ幸か不幸か、そのチャンスはめぐってきてない。
あ、そうか、じゃあ自分で押せばいいんだ(←絶対ダメだよ!)。
「【天才感】を出して切り抜けろ!」
というのが、ヤング諸君に伝えたいアドバイスである。
まだ20代のころだったか、友人キシベ君から相談を受けたことがあった。
友が言うには、自分はそもそも、そんなに愛想のいいタイプではない。
まあ、友達や彼女は、それをわかってくれてるから、それはいいんだけど、困るのはパブリックな場。
仕事や学校で、食事会や飲み会、パーティーみたいなものにも出ないといけないこともある。
そういうところで身の置きようもなく、だれとしゃべっていいかわからないし、かといってボーっとしてると、
「愛想がない」
ムッとされたり、
「退屈してるのでは」
気を使われたりして、それが困りものだと。
コミュ障というほどではないが、そういう場でのソツない会話や対応がむずかしく、手持無沙汰な空気を出しているのではと、気になって仕方がない、と。
うーん、これは不肖この私も、同じようなところがあって、共感できる。
基本おしゃべりのくせに、人や場所の距離感が微妙なところだと、どうふるまっていいのか、サッパリわからなくなるのだ。
冠婚葬祭とか、町内会の会合とか、あまり知らない親戚の集まりとか諸々。
これに関しては、
「がんばって、明るいキャラを演出してみる」
「ビジネスライクな、大人の対応を心掛ける」
などなど、試行錯誤した上に出した結論のひとつが、冒頭のそれだ。
「天才感を出す」
結局のところ、人には得意不得意というものがあり、無理してキャラ変しても不自然になるし、ストレスもかかる。
なら、
「黙っていても、周囲がそれを認めてくれるキャラ」
これで行けば、いいのではないか。逆転の発想である。
そのひとつが「天才キャラ」であり、こういう一筋縄ではいかない男が、沈黙にふけっていても、だれもとがめないどころか、
「やはり、雰囲気があるな」
「きっと、なにかすごいことを考えているに違いない」
勝手に想像してもらえるわけだ。
実際のところ、そういうときに考えていることは、
「はー、早く家に帰って、『じゃりン子チエ』の再放送見たいなあ」
とかなんだけど(最近、朝の楽しみなのです)、そこは全身でハッタリを駆使し、
「あいつは、ちょっと人と違うぞ」
というイメージを、それをなるたけネガティブではないそれを、周囲にそれとなくアピールするのだ。
成功例のひとつは、昔アルバイト先で、社員さんたちが海外のカジノに遊びに行く話をしていたとき。
そこで、「どうせやるなら、勝ちたいなあ」とおっしゃるので、
「なら、確率的には、ブラックジャックがいいらしいですよ」
たまたま読んだ谷岡一郎先生など、「ギャンブルと確率」みたいな親書を参考に、
「以外と悪くないのはパチンコ」
「本当に勝ちたければ、長期戦より一発勝負」
など、あれこれ(テキトーに)語ってみると、「へー」と感心され、それ以降、
「あいつは頭がキレる男だ」
というあつかいになり、これには大いに助かったもの。
なんか変なこととか言っても、
「オレたちとは、ちょっと違う角度からの意見なんだろうな」
なんて、フォローしてもらえたわけなのだ。
また、これもよく使ったのが、人がいるのに気づかないふりをして、難解な本に読みふける演技をする。
デカルトやカントの哲学書や、「フェルマーの定理」「オイラーの等式」のような数学の本もオススメ。
もちろん、意味など一滴も理解できないが、
「そんなん読んで、わかんの? よかったら、内容教えてよ」
なんて質問には、
「正直よくわかりません。でも、随所に刺激はもらえて、よりもっと、学びたいという熱が高まっていくんです」
みたいな、これまた口から出まかせを言っておけば、
「若いのに、たいした男じゃないか」
これはやりすぎると、あざとくなるが、うまく決まれば一目置かれたりもするし、現にこれで仕事を取ったこともあるから、結構バカにできない。
あと、旅行好きをアピールしたら、
「若いころから世界に目を向けるなど、キミには期待できそうだ」
なんて、ただの楽しい観光旅行なのに、妙に熱く語られたり、この
「ちょっと違うかも感」
これこそが、生命線になり、その後は楽しく《無愛想でも、それなりにゆるされる》ロードを、エンジョイしたのだった。
というと、なんだそれは、ただのホラではないかと、あきれる向きもあるかもしれないが、ハマればハマるのは、経験則から言っても多少は保証できる。
マジメな人ほど、いい方に取ってくれる傾向が、あるのはたしかなので、そこを「ねらい撃ち」するのが、いいかもしれない。
実際、似たようなことを考える人というのはいるもので、ダウンタウンの松本人志さんは、ラジオの「ヤングタウン木曜日」で、
「今度、入学することになった高校が不良ばかりで、いじめられないか心配です。どうやって身を守ればいいですか?」
というハガキに、
「【ヤバい奴】という空気感を出せ。どこを見ているかわからないうえに、会話が成立しないとか、狂気を演出しろ」
また、南海キャンディーズの山里亮太さんは、モテるためのメソッドとして、
「カバンの中に、さりげなく英字新聞を忍ばせておく」
言っていることは、私と同じなわけで、コミュニケーションや自己プロデュースのプロフェッショナルたる芸能人が実践しているのだから、これは伊達や酔狂ではないのである。
なんてことを伝えてみると、キシベ君は、
「なるほどねえ。いろいろ考えるもんやなあ」
「いろいろ」の後に続くのであろう「阿呆なことを」という言葉を、飲みこんで笑ってくれたが、
「でもそれは、うまくいけばええやろうけど、失敗したら目も当てられんな」
さすが友は、本質を一言で、つらぬいてくる。
これはまったくその通りで、この「アマデウス作戦」は、成功すれば実りも大きいが、スベッた場合に待っているのは、
「中2病」
というワードの花吹雪である。
そりゃもう、冷静に考えれば、どこからどう見ても「イタい」のは間違いないわけで、相当にリスキーであるのだ。
なのでこれは、相当に演技力の自信のある人や、私のような口から先に生まれてきたようなホラ吹き以外には、すすめられないかもしれない。
諸君の健闘を祈る。
「女子高生は深夜ラジオを聴かない」
というのは人類普遍の真理であるため、ボンクラ男子たちは気をつけるように。
子供のころから、テレビよりも、ラジオが好きな男の子であった。
今でもradikoやYouT……ゴホンゴホンなどで
「空気階段の踊り場」
「真空ジェシカのギガラジオ」
「蛙亭のオールナイトニッポンi」
といった番組を楽しんでいるが、どうも、こういうものに親しむのは女子よりも圧倒的に男子が多いらしい。
20代のころ、たまたま女子高生数人とランチをする機会があった。
といっても別に、
「JKと援助交際」
「《靴のにおいを嗅がせて》とお願いするもキモがられ、土下座して懇願するところを動画に取られ、拡散され大恥だけど、それがやってみると至福の体験でまたお願いします」
といった、ふしだらなものではなく(当たり前だ)、当時少し演劇をやっていたため、たまたま高校演劇部の女の子と話す機会があっただけだが、そこである子が、こんなことを言ったのだ。
「わたし、音楽が好きで、ラジオとかよく聞くんですよ」
ラジオ好きの私としては、いいとっかかりであり、
「へーそうなんやー。オレもラジオ好きやねん。どんな番組聴いてるの? 深夜の番組は眠くても生で聴く派? それとも録音とかしてる?」
これに彼女が答えるには、
「いや、特に番組名とかは……FMだから、家で宿題してるときとか、お風呂入ってるときとかに、たまたま流れてるのを聴くだけですけど……」
どうもこのとき、
「ラジオの話や!」
テンションが上がったのが、いけなかったのだろう。
「話噛み合ってないぞ」
直感的に悟ったらしい彼女は、
「録音とか……シャロンさんは、どういうの聴いてるんですか?」
ここで、すれ違いに気づけないのが、私のイカンところ。
「女子高生と趣味が合う!」ということで、舞い上がっていたのだろうか、
「えーとね。まずは『誠のサイキック青年団』。竹内アニキの下ネタのワードセンスは神がかってるよね。
『ヤングタウン』はさんまにダウンタウンに西川のりおに鶴瓶師匠。『サタディ・バチョン』は北村安湖世代ね。
ラジ関でやってた『林原めぐみのハートフルステーション』に、あとは通学路に停まってる軽トラから流れる『ありがとう浜村淳です』で、浜村さんの極右トークを聴くっていうのは関西の【中高生あるある】やよねえ」
一気にまくし立てたわけだが、やけに反応が薄い。
それどころか、彼女らは一様にポカーンとしており、なるほどこれが「ハトマメ」というやつかと勉強になったが、ともかくも話がまったく通じていないことは瞬時に察知した。
彼女らは、わけがわからんとでもいいたげに、
「それ、いっこも知らないんですけど、どこで流れてるんですか?」
そこで堂々と「AMである」と答えると、彼女らは一瞬目を見合わせると、はじけるように爆笑したのだった。
女学生たち曰く、
「AMって、聴いてる人おるんやー」
「うーわ、マジでウケるわ!」
「そんな文化、全然知らんかったです」
「そもそも、AМってなに?」
「そんなん聴いて、もしかしてシャロンさんって、ヤバイ人ですかぁ?」
なんかもう、メチャクチャにバカにしてきたのだ。
男子のノリも、こういうときガサツなものだが、いったん
「コイツは行っていい」
と認定してきた女子高生の残虐さもなかなかである。
そこからはすっかりランチの肴にされ、キャッキャとイジられ、盛り上がられたのだった。
まあ、みんないい子たちだったから、別に悪気はないんだけど(若者のノリだしね)、それにしても女子高生と深夜ラジオの親和性のなさにはビックリだった。
オレがなにをしたんや! ラジオを愛したのが罪だったのか!
てゆうか、今おまえらが食ってるボンゴレとかペペロンチーノは、オレが一部、金を出して食わしたってるんやぞ!
パン工場でマシンみたいにアンパンを箱詰めにして稼いだ、血のウン千円や! 感謝して学校指定の制服姿で、ベリーダンスくらい踊れや!
……とは、もちろん言いませんが、それくらい泡食ったものである。
そこは私も世界がせまいというか、基本的にAMの特に深夜ラジオというのは
「イケてない男子」
という文化圏であることを知らなかったわけだが、それにしてもなかなかなあつかいであった。
それ以降、女子の前でラジオの話はNGにしたのだが、食事のあと「まいった、まいった」と苦笑していると、やはり演劇部のアマガサキ君という男子高生(きっといつも「木の役」しかもらってなさそうな)が、小さな声で、
「シャロンさん、ラジオ好きなんですね。ボクは『ヤンタン』より、『ブンブンリクエスト』派ですケド」
といっても、当時の関西ラジオファン以外はなんのこっちゃだが、要するに今で言う、
「JUNK派か、オールナイト派か」
みたいな話。
そこで意気投合したわれわれは、
「小娘どもに、深夜ラジオの良さはわからんのですよ」
大いに盛り上がったのであるが、まあその姿は今思えば、女子高生に軽くあしらわれても、しょうがないよねえ、キミたち。
「朝日を読むと成績が上がる」
「朝日の記事は入試問題によく出る」
「ラジオのことイジってくるんやったら、もうお前とは終わりやな」
友人センボク君にそう詰められたのは、まだ高校生だったころの話である。
今では自分の声をだれかに届けるとなると、ネットでわりと気軽に出来るけど、YouTubeやニコ生の環境などない、いにしえの時代には、それなりのハードルがあった。
文章が書きたければワープロで起こしたものをせっせとコピーし、ミニコミの表紙はハサミとノリで切り貼りして作り、動画編集がしたければビデオデッキを2台買ってテープに録画したものをダビングする。
そんな古代人でラジオがやりたい人は「ミニFM」というものを手に入れ、それで電波を発信していた。
といっても、届く距離は微々たるもので、せいぜいが「学校の放送室」レベル。
それでもちゃんとした「オンエア」であることは間違いなく、将来ラジオの仕事がしたいという若者は、マイクを前にせっせと音楽を流しトークを披露していたわけなのだ。
で、あるときその「ミニFM」が取り上げられたことがあって、それが若き日のダウンタウンがやっていたラジオ番組「ヤングタウン木曜日」。
オープニングトークの次にある「ハッピートゥデイ」というコーナーにこんなハガキが来たのだ。
「ボクは高校生男子ですがラジオが大好きで、ミニFMを使って自分の番組を持っています」
ハガキでは続けて、
「番組名は《キヨくんFМ》というもので、音楽だけでなくボクのギャグセンスあふれるおしゃべりもあり、とってもステキな内容に仕上がっています。よかったらダウンタウンのおふたりも、ボクの番組を聴いてみませんか」
なにか「仕込み」ではないかと疑ってしまうような、さわやかに若気が至っている。
案の定というか「ボクのギャグセンス」あたりで浜田さんが「チッ」と舌打ちし、松本さんも「あーもー」とイヤそうな声をあげる。
そこからハガキを最後まで聞くこともなく、
「全然おもんない」
「そんな才能もないこと、やめてまえ」
「コイツ、なにをいうとんねん」
「ホンマにおもろい奴は、こんな前に出ようとせえへんからね」
なんてダルそうにダメ出しをしまくりで、アシスタントのYOUさんが
「いいじゃん。だって、まだ高校生だよ」
とフォローに奔走させられる始末。
私がキヨ君だったら、すぐさまトイレに走って胃の中のもの全部、泣きながら便器にぶちまけると思うけど(もちろん番組は即刻終了だ)、まあ他人事なら大笑いである。
で、なにかの流れでセンボク君にこの話をしたのだが、そこで出たのが冒頭の言葉。
それ嘲笑するんやったら、もうおまえとはしゃべらん、と。
ずいぶんと剣呑な雰囲気で、「あ、なんかやらかしたかな」という空気感はすぐに伝わったが、このことを別の友人カワチ君に話すと、彼はそれこそ腹をかかえて笑いながら、
「それはアカンわー。だって、センボクのやつ、自宅でミニFMの番組やってるもん」
ゲ、しまった。そういうことか。
そうなのである。センボク君はヤンタンや「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」「青春ラジメニア」などのリスナーで大のラジオ好きだったから(確認はしてないけど、たぶんハガキも送ってる)、その可能性に気づかなかったのは不覚であった。
まあ、こういうのはイジるのもイジられるのも、YOUさんの言う通り
「だって、まだ高校生だよ」
ってことだけど、これは気まずかったッス。
しかも彼は、のちに大阪芸術大学の放送学科に進学するくらいだから、「自分の番組を持つ」のも、ガチ中のガチであったのだ。そりゃ怒りますわな。
苦笑いするしかないというか、自分だって当時から舞台に立ったりミニコミを作ったりしていたんだから、どのツラ下げてミニFMをイジッてるねんという話だ。
反省した私は「ゴメン、あやまるわ」と頭を下げたわけだが、センボク君はまだ不機嫌な顔こそしていたが、
「ええよ。オレがメインで聴いてるのはヤンタンやなくて、『鶴光のつるつる90分』やから」
ボソッとそれだけ言って、ゆるしてくれたのであった。
★おまけ ダウンタウンの「ヤングタウン木曜日」は→こちらから。私にとってダウンタウンは「ごっつ」でも「ガキ使」でもなく「ヤン木」なのです。
大阪の若者が、はじめて彼女と出かけると言えば、こうアドバイスされる時代というのがあった。
今なら大阪で遊びに行くといえばUSJだろうが、私が学生のころは、
「彼女との初デートは海遊館が無難」
という言い伝えがあり、少なくとも私の周辺では、みな女子と知り合うと、とりあえず海遊館に足を運んだものだった。
今にして思えば、当時のモテる関西女子はきっと、ちがう男とデートするたびにアホほど海遊館に連れて行かれて、辟易したにちがいない。
とはいえ、初デートで「もう、何回もきたから」ともいいにくいだろうし、下手すると、
「ほんなら、前はだれときたんや!」
なんて嫌な感じのカウンターパンチが飛んでくる可能性も大いにあり(なんたって若造だし)、ディズニーランドほどには「何度行っても楽しい」感も少ないだろうし、まったくもってご愁傷様としかいいようがないのである。
では、わが青春時代の90年代に、なぜにてそんな海遊館が推されていたのかといえば、ある友人によると、
「水族館は『順路』があって、その通りに歩いてたら、それなりに楽しめるやろ。だから、男からしたら楽なんや」。
なるほど、最初のデートで、それこそディズニーランドみたいな大きめの遊園地とかに行くとフラれやすいというのは、
「選択肢がありすぎて、なにをしていいかわからない」
ことが原因のひとつに数えられる。
勝手がわからずウロウロして醜態さらしたり、まだお互いなれてないから、乗り物の待ち時間で会話が続かなくて気まずくなったり。で、
「あかん、コイツはでけへん男や」
との烙印を押される。一時期はやった成田離婚とかは、これのインターナショナルバージョンであろう。
そういう意味では水族館は、会話なしでも気まずくならず2時間くらいつぶせる映画館に行くのと、思想が似ているかもしれない。
要は、「することが決まってる」というエクスキューズによって、初デートの緊張と経験値の少なさと、まだ微妙なおたがいの距離感をカバーできるということだ。
さらにいえば映画やライブは「当たりはずれ」や好みの問題もあり、観たあと盛り上がれるかは賭けなところもあるし、その点でも「かわいい海の生物」というそれなりのアベレージを見こめるものがあるというもいいか。
「かわいい」って言っておけば、なんとなく楽しいっぽいし。当たってるかどうかは別にして、ひとつの説ではある。
ちなみに、友人サクラバシ君は、やはりこのセオリー通りに初デートは海遊館を選んだのだが、「ちっとも盛りあがらんかった」とぼやいていた。
それはなぜなのかと問うならば、
「オレ、魚嫌いやねん」
とおっしゃる。なんでやねんといえば、
「だって、あの目が怖いもん」(同じ理由で鳥もダメらしい)
……って、それやったら水族館選ぶなよ!
と、つっこみたくなったが、そんな重度の魚嫌いでも、行かねばならんと思わせるところが、さすが我々は最後の偏差値重視マニュアル世代である。
とりあえず、セオリーには従う。それくらいに、「初デートは海遊館」という呪縛は強かった。
ちなみに、魚嫌いのサクラバシ君だが、刺身は「目がないから大丈夫」ということで好物らしく、同じ理由でフライドチキンもOKだそうである。
美術の宿題に、
「あんたが描いたにしてはうますぎる! だれかに描いてもらったんだろう!」
なるヤカラを入れられた、中3時代の私。
カマしてきたのはユウコちゃんという女子生徒だが、「女王様」の異名をとる彼女はオラオラだけど、ヤンキーではなく勉強も得意なタイプ。
で、私も当時はそこそこ優等生で、彼女と同じくらいの偏差値だったのだ。
しかも、受験する予定だった大阪府立U高校は、ユウコちゃんにとっても第一志望。
そう、志望校のバッティングする彼女にとっては私は、追い落とすべきライバルだったのである。
となると、私の苦手な美術というのは「直接対決」で差をつけるチャンスだった。
それが、アメトークにも呼ばれようかという「絵心無い芸人」のくせに、まあまあな絵を提出している。
私にとっては「アウェーの引き分けは勝ちと同じ」くらいの感覚だが、むこうからすればとんでもない話だ。
これはおかしい、そんなことがあっていいのか。
だからきっと、不正があったにちがいない。物言いをつけて、なりふりかまわず足をひっぱりに来たのだ。すごい執念である。
このストレートパンチには、美術の先生もドン引きだったが、ユウコちゃんのは気にすることもなくこちらに、
「ねえ、誰かに描いてもらったんでしょ。友だちでしょ? それともお父さん? そうなのね、そうなんでしょ?」
まさに被告に詰め寄る敏腕検事のようである。
思わず、「すいやせん、あっしがやりやした」とすべてを白状しそうになるほどだ。なるほど、警察による自白の強制というのは、こんな感じで起こるのであるなあ。
とはいえ、正義はこちらにありである。ここは私もなめられてはいかんと、
「ふざけたことをいうな! ちょっと皆に一目置かれているからって、図に乗るんじゃないぞ!」
と、ここは本気でガツンと言ってやった。
……としたら、さぞかしスッキリするだろうなとは思ったが、間違いなく、どつきまわされるであろう。そんなこと、ようしません。
「ウソだ、絶対にウソだ!」
まっ赤になって、爆発寸前のユウコちゃん。
「白状しなさいよ、卑怯よ!」
卑怯だといわれても、こちらもまいっちんぐなのである。それにしても、先生とクラスメート全員の前で、そこまで言えちゃうのもすごい。
ようやるなあと、ビビりまくりながらも、感心するやらあきれるやら。なんで私が、こんな目に合わんとあかんのや。
そこでせめて助けを呼ぼうと、クラスの友人にSOSのアイコンタクトを送ったが、みなあわてて窓の外を見たり、ツメをいじくったり、わざとらしくも教科書に読みふけったりしていた。
だれも目を合わせてくれない。
そりゃないぜ。友がピンチだというのに、なんというあつかいか。
もし逆に彼らがユウコちゃん相手に追いつめられていたら、私ならもちろん勇気を振りしぼって助けに入るかといえば絶対に他人の振りをするけれど、救助は無理にしても、怒りの矛先をそらすために非常ベルを鳴らすとか、教室を爆破するとか、それくらいの陽動作戦くらいは起こしたらどうなのか。
どうとも言いようのないこちらに、頭から湯気吹く勢いのユウコちゃんは、とうとう
「ここでもう一回、同じもの描いてみなさいよ! そしたら信用してあげる!」
そう言い放つと、腕の立つフェンシング選手のごとく、ビシッと絵筆を突きつけてきたのである。
もう一回描け。そこまでいうか。というか、あまりに勢いよく突きつけられたので、眉間をえぐられるかと観念したくらいだ。一瞬、死んだと思ったよ。
ここまできたところで、ようやく先生が「いい加減にしなさい」と間に入ってくれて助かった。
さすが先生に止められては、ユウコちゃんも引くしかない。釈然としない目で引き返しはしたが、依然こちらをにらみつけていた。ビームでも出そうな勢いである。
私も一応笑顔で「ホントに自分で描いたんですよ」と念押ししたが、情けなくも
「ホ、ホ、ホ、ホホホホントに、じぶ、じぶ、じぶぶぶ」
と唇が、風に吹かれたこんにゃくゼリーのようにプルプル震えた。その憤怒の表情に、まともに発音などできません。もう、腰が抜けそう。
授業がはじまる前にトイレをすましておいたのを、ひそかに神様に感謝したものだ。でなければ、尿ちびってました。コワイ、コワすぎる。パワーがちがう。
この事件で発憤したのでもないだろうが、その後ユウコちゃんはテストでもバシバシ高得点をはじき出し、当初の志望校よりも2ランク上の名門Y高校を受験し、合格した。
さすが女王ユウコちゃん、私のような下々の者とはモノがちがうことを、しっかりと見せつけた。さすが、その負けん気と根性は一級品である。
こうして、全面的な衝突こそ避けられたが、受験戦争においては大いに水をあけられてしまうこととなった。
だが私はこの敗北を、さほど気にしてはいない。
というのも、ここは偏差値うんぬんよりも、私としてはユウコちゃんと違う高校になって内心ホッと息をついていたのであったからだ。
もし同じ学校に進学して、もしそこでも対決することになったら。
今度こそ、本当にちびりそうだものなあ。
以上、季節外れの、ものすごく怖かった女の子の話でした。
勉強ができて、クラスの中心的存在である中学時代の同級生ユウコちゃんだが、基本オラオラ系で、口が悪く、表現がストレートなのが玉に瑕。
出すテストが簡単な先生をつかまえて、
「あたしとバカの差がつかないから、もっと難しくしろ」
などと要求するのだから、その気の強さもわかろうというもの。
おー、コワ!
こんなキツイ子とぶつかったら、私のようなショボい男子など、どんな目にあわされるかわかったものではない。
なので、なるたけ見つからないようそっとしていたのだが、ひょんなことから、戦いの舞台に引きずり出されることとなってしまったのだから、災難というのはどこに転がっているかわからない。
それは、夏休み後すぐの美術の授業であった。
この夏休み、先生はある宿題を出していた。中身は単純で、風景画でも自画像でもなんでもいいから、絵を描いてくるというものである。
これを聞いたとき、私はまいったなあとボヤくはめになった。自慢ではないが、絵心というものがまったくないのである。
が、そうはいっても仕方がない。いつもならバックレてしまうところだが、時は中学3年生。そんなことをしては内申点に響いてしまう。
こうなればやるしかない。下手は下手なりにがんばろうと筆をとったのだが、これがその謙虚な姿勢がよかったのか、思ったよりもうまく描けてしまった。
もちろん、描ける人とくらべたら落書きみたいなシロモノだが、アウェー科目なら5段階で「3」をもらえれば御の字。それには充分の出来だったのだ。
提出すると予想通り、「まずまず描けてますね」と先生に及第点をいただいた。
よしよしである。これで赤点だけはまぬがれそうだと、ホクホク顔で席に戻ろうとすると、そこに立ちふさがった人がいた。
そう、天下の女王様、ユウコちゃんであった。
ユウコちゃんは腰に手を当て、私の前で仁王立ちしながら、
「先生、これはおかしいと思います!」
ビシッと響きわたる声だった。
突然の強烈な意見表明に、ややたじろいた先生が「なにがですか」と問うならば、
「それ、彼が描いたにしてはうますぎます」。
うますぎる。おお、うれしい。
思わず、よろこんでしまった。私は人生において、絵をうまいと言ってもらったことが一度もなかったのである。
だが、よろこんでばかりもいられない。どうやら私は彼女の逆鱗にふれるなにかをやってしまったようなのだ。
ユウコちゃんは、こちらに対し、石に変えようとするメデューサのごとくにらみつけると、
「これ、絶対にインチキです! だれかに描いてもらってるんですきっと!」
おーい、おいおいおいおいおいおい! なんちゅうこと言い出すのかキミは。
前回に続き、またもや直球ど真ん中である。顔面グーパンチだ。
思いっきりイチャモンをつけられた私は、思わず長いため息をつきそうになった。
うわー、めっちゃ怒ってますやん、と。
ハッキリ言ってヤカラだが、なぜにて彼女がそのような主張をするのかは、いかなボンヤリの私にもうっすら理解はできないこともなかった。
(続く→こちら)
昔は日本人が怖いものといえば「地震、雷、火事、親父」といったものだが、最初の3つはともかく、現代では親父よりも圧倒的に「女」のほうが怖いのではないか。
そのことを感じさせてくれたのは、中学時代のクラスメートであったユウコちゃんだが、そのキャラクターは一言でいえば女王様。
気が強くて、勉強もできて、見た目こそ地味だったが、その存在感は十分なもの。一言でいえばオラオラ系だ(ただしヤンキーではない)。
なんといっても、男子といえばたいていが女子を呼び捨てなのに、彼女だけはかならず「テヅカさん」と「さん付け」だったのだから、その威圧感もわかろうというもの。
事件が起こったのは、中学3年生1学期の期末テストのことだった。
中3といえば、大変なのは高校受験である。となると大事なのは定期テストの成績だが、ひとつ問題というか、気にかかる教科があった。
当時、理科を担当していたスミヨシ先生というのが少し変わった人で、テストを作るときいつも副読本の問題集から7割くらい、そっくりそのまま出題してくるのだ。
問題集には模範解答もついていたから、それを丸暗記すれば、どんな勉強ができない子でも6、70点は確実に取れることになる。
今考えても、めちゃくちゃにゆるいテストであって、ほとんど合法カンニングというか、ともかくも理系科目が苦手だった私にとっては実にありがたいことであった。
そんな素晴らしきスミヨシ先生のテストだったが、ここに立ち上がったのが、なにをかくそうユウコちゃんであった。
期末テストが近づくある日、出題範囲を言おうとしたスミヨシ先生に、ユウコちゃんはすっくと立ち上がって、こうぶち上げたのである。
「先生、問題集からそのままじゃなくて、ちゃんとオリジナルの問題作って出してください」
楽に70点は保証されるサービス問題に、まさかのクレーム。
虚をつかれ、なぜかと聞き返すスミヨシ先生に、彼女はその長い髪をさっとかき上げると、こう言い放ったのだ。
「だって今のままじゃあ、あたしたちとバカとの差がつかないじゃないですか」
その瞬間、クラスの空気が凍った。いや、凍ったどころではない、地球温暖化もはだしで逃げ出すブリザードが吹き荒れたのであった。
ひえええ、なんちゅうこと言うんや、この女は!
さすがは女王様。すごいこと言うなあ。「バカ」って言い切りましたよ。
その「バカ」に「なんだと、テメエ!」と怒られるとか考えないんだろうか。
考えないんだろうなあ。怖くもなんともないんだろう。相手は「バカ」だから。
もちろん、だれもつっこめません。唖然呆然。
スミヨシ先生からすると、内申点に不安のある生徒のため、なるたけ「努力点」をあげるべく(なんたって、理系なのに丸暗記でOKなのだ)そういうテストにしているのだ。
ちょっと極端なやり方かもしれないけど、我々に損はないから、みんな黙認している。
そこを「バカと差がつかないからやめてくれ」。女王様のアッパーカット、炸裂しまくりです。
まあ、そんな温情がなくてもいい点を取れる彼女からしたら、ライバル、それこそ私のような、理科を苦手とする生徒の点数が楽して上がるのは損なわけだ。
内申点というのは人と比較しての「相対評価」だから、そこはわからなくもないけど、それにしてもストレートである。
スミヨシ先生は苦笑いし「考えておきましょう」と答えたが、その後もテストはまったく内容は変わらなかった。
これに対して、その後も「バカがいい点とるのはゆるせない」と激おこだった彼女だが、それ以上は言っても聞かれることはなかった。ユウコちゃん無念である。
まあ、先生からしたら「救済」でやっているのに、その助けるべき「バカ」を蹴落とせというのだから、そもそも通じるわけもないか。共産党に「完全歩合制」を要求するようなものだ。
ただ、意見は通らなかったが、この事件によって我がクラスは、ますます「テヅカさんおそるべし」という空気で満たされることになり、その意味ではデモンストレーションの効果はあった。
いやあ、あんなこと言える人には、だれも逆らえませんわ、と。
このように、納得はできなかったものの、その存在感をまざまざと見せつけることとなったユウコちゃん。
まあ、クラスの中では地味な存在であった私にはあまり接点はなかったので、彼女の「炎上」はほぼ他人事だと高をくくっていたのだが、あにはからんや。
ひょんなことから今度は私が、教室内で彼女と直接対決に見舞われることになったのである。
これがまさに、尿をちびるほどの恐怖体験であったのだ。
(続く→こちら)
読書感想文が苦手で、書き直しの常習犯であった子供時代の私は太宰治の名作『走れメロス』でも、やらかしてしまった。
メロスといえば、ラストの
「きみはまっぱだかじゃないか」
が恥ずかしくて授業中朗読できなかったというのが、「あるある」ネタに頻出するが、それよりも気になったのが、王様に死刑を言い渡されるところ。
そもそもメロスは考え足らずというか直情型の人間で、ややはた迷惑なところがある。
たいして出来ることもないのに王様に「激怒」して、そのまま死刑を宣告される。
ノープランでなにをやっとるのかという話だが、そこでメロスは
「死ぬのはしゃあない、けど、どうしても妹の結婚式には出たいから、そこはなんとかしてチョ」
などと、なにげにドあつかましいことを王にお願いする。
勝手に城に乗りこんで、反逆者として捕まって、そこで泣いて「結婚式に出たい」。
それやったら家で余興の練習でもしとけよ! という話だが、これでは王様も
「よっしゃ。じゃあ、朕がカメラ回すからお祝いコメント撮ってYouTubeにアップしよーぜ!」
なんてのってくるわけもなく、
「わかっとるんやで。そんなんいうて逃げるつもりやろ。だれがだまされるかいな、おとといこいやベロベロバーカ」
しごくまっとうに拒否。
当然であろう。世の中なめまくりか、メロス。進退窮まった彼はおのれの誠実を示すために、代わってこう提案する。
「わかった、それなら人質を用意しよう。もし帰ってこなかったら、わたしのかわりに親友のセリヌンティウスを殺してOK!」。
感動の友情物語だ。これには心の冷たい王様も「おお、それなら許そう」とメロスのいうことを聞き、そこからは涙、また涙……。
……て、待て待て待て。納得できるか!
オレが帰らなかったら友だちを殺してくれ。メロス、なにを言っておるのか。意味不明である。
もし私がセリヌンティウスの立場だったら、
「オレの意見は?」
まずここを確認するし、「いいよな」と肩をたたかれたら、確実に「あかんやろ」と答える。
なんでおのれの失態で友を命の危険にさらすのか。しかも、それが「結婚式に出たい」というワガママである。
とどめには、メロスは式で浮かれ、飲み食いしすぎて寝坊。そのせいで遅刻しかけるのだ。こんなヤツ、信用でけるか!
なんのかのいって、セリヌンティウスは人がいいのか、一応人質を承諾するんだけど、絶対に心からは納得していないのではないか。
「なんか、こんなんホンマの友情とちゃう……」
私だったら、牢の中で絶対にそう思うだろう。エゴすぎるだろ。こんなバカに命あずけたくないよ!
この件に関して、なぜメロスがこのような提案をしたのか考えてみると可能性としては、
1「絶対に帰ってくるつもりであった」
2「一応、帰ってくるつもりであったが、友だちの気持ちについては、そんなに気にしなかった」
3「ノリと勢いの産物で、特に深く考えていたわけではない」
4「セリヌンティウスに、なにか含むところがあった」
5「王様もぐるになった壮大なドッキリ大成功」
あたりが考えられ、個人的には5あたりが正解だと思うけど、先生はどうお考えですかと問うてみたところ、返ってきた答えは「放課後書き直し」の命のみであった。
というのは子供のころからの大いなる疑問であった。
メロスに限らず古典的名作に親しむきっかけは、たいていが読書感想文である。
おおよそ通信簿に「かわいげがない」「ひねくれもの」「協調性がない」などと書かれるような生徒は、たいていがこの課題を苦手とするものだが、西の「残念な児童」代表ともいえる私もまた、御多分に漏れずそうであった。
「課題図書ではなく、好きな本を選んでいいですよ」
というリベラルな先生相手に、江戸川乱歩『影男』を選び、
「『殺しアリ』の地下格闘技を覆面姿で観戦するというのは、ブルジョアあるあるなんですね。感動しました」
などと書いて放課後書き直しを命じられたり、石川啄木については、
「じっと手を見る前に、近所のマクドかコンビニでバイトしたほうがいいと思います」
などと書いて放課後書き直しを命じられたり、森鴎外の『舞姫』では、
「これはエリート日本人の、『白人の姉ちゃんコマしたった』自慢です。オレも昔は無茶やっちゃってようとかスカしてる広告代理店のゲスいオヤジみたいで、うらやましいと思いました」
「この人は偏差値が高いのをいいことに、『ドイツ語をできないという人の気持ちがわからない。あんなものギリシャ語とラテン語ができれば簡単なのに』とか言う鼻持ちならない男です。だれかどついたったらいいのにと思いました」
「息子が思うよりも出来が悪かったせいで『死なないかな』とかマジいうヒドイ人です。結論としては、森とは絶対に友達になりたくありませんと思いました」
などと書いて、もうリライト無間ループにおちいる始末。町田町蔵さんではないが、「ほな、どないせえっちゅうねん!」と言いたくなるではないか。
そんなトンマを尻目に、ほめられているのは
「主人公の生き方に感動しました。僕もこのような立派な心を持つことが大事だと教わったと思います」
みたいな、大人に迎合するような文章を書きたれる子供であった。
読書感想文があれだけの不評にもかかわらず絶対になくならないのは、読解力をきたえるとか、本に親しむようにするとか、そういうことではなく、
「自分より力のあるやつに意見表明するのとき大事なのは、正直より、媚びることだよ!」
という、大人になって、とっても役に立つノウハウを教えてくれるからである。
微分積分なんかより、よほど実戦的学習であるといえよう。これは斎藤美奈子さんの『文章読本さん江』でも記されている真理です。
そんな「リアルな大人の世界」を学べる読書感想文だが、『走れメロス』でもやらかしてしまったことがあるから困ったものである。
(続く→こちら)
前回(→こちら)の続き。
「誕生日には、おたがいが嫌がるプレゼントを贈りあおう」
桜玉吉さんのマンガに影響されて、そんな気ちがいのような協定を結んだ私と友人サカマチ君。
そこで前回の3月9日、ここに発動された「メイガス作戦」により、私の誕生日にはおたがいに
「通天閣の置物」
「高校時代に体育の授業で使っていた柔道着」
を贈り合い、これでもかと嫌な気分になった我々であった。
時は7月11日。今度はサカマチ君の誕生日である。
友の記念日は、最高の日にしてあげたい。その努力を怠ったとき、私の中の大和魂は死ぬ。彼のために極上のプレゼントを用意して、家におじゃますることとなった。
しばらくはワインなどいただきながら優雅に「おめでとう」「ああ、どうもありがとう」などとやりあっていたが、いよいよやってきたのがプレゼントタイムである。そこで私が「よかったら」ときれいにラッピングされた箱を彼に手渡した。
「開けてもいいかい」「もちろんさ」といったやりとりのあと、箱の中にあったのはズバリ、
「ローマ法王のブロマイド」。
これはイタリアを旅行したときバチカン市国で見つけて、科特隊のイデ隊員のごとく、こんなこともあろうかと買っておいたのである。
私はサカマチ君のテレビの上に置いてあった写真立てを手に取ると、
「いかんなあ、こんな軟弱な物を飾っていては」
彼がガールフレンドと一緒に写っている写真を床に放り投げ、代わりにヨハネ・パウロ2世の写真をそこに差し入れた。
「どうだい、なんだか敬虔な気分になるじゃないか」。
さらには部屋中に、両面テープで法王をの写真を貼り付けていった。これで360度、どこを向いてもヨハネである。
サカマチ君は引きつった笑顔で、
「いいね、なんだかこういう部屋だと神の存在を実感できるね」
などといっていたが、その目は全力で
「こんなん、ただのジジイやんけ」
と訴えていた。ちなみにサカマチ君の家は浄土真宗である。
そんなサカマチ君の姿を見て私は勝利を確信した。
さあ、そっちはどんなカードを切ってくるんだい、と「余裕のゆうちゃん」といったいにしえのフレーズな風情ですわっていたら、彼は「僕からのプレゼントはこれさ」と、やおらアコースティックギターを取り出したのである。
そしていうことには、
「キミに捧げる曲を作ってきたんだよ」。曲名は「愛する友よ」。
そしてサカマチ君はギターを弾きながら歌いはじめた。なんやら妙ちきりんなバラードで、その歌詞も、
「ああ~キミに出会えてよかったあああああ」
「永遠の友情ををををを~」
「あああ、来世でも出会えたら素敵さああああああ」
みたいな中身ゼロの内容で、それを谷村新司の『昴』を歌うおっさんのように情感たっぷりに歌い上げてくれるのだ。
これはかなりの破壊力であった。しまった、完全に油断していた。奇襲攻撃を食らった私は思わず
「勘弁してくれ!」
悲鳴を上げそうになったが、そこは丹田にぐっと力を入れて耐えた。土俵際のねばり腰である。
ようやく曲が終わって、ゆがんだ笑顔で拍手をし、
「ありがとう、うれしいな、キミと出会えてホントに良かったよ」
と、かろうじて答えることはできたが、友に
「これ、実は2番もあるんや」
といわれて腰が抜けそうになった。
その後、やはりくだらなさ大爆発の2番も静聴させていただいたあと、この曲をサンプリングしたというテープまでいただいた。
いらん、こんなもん金もらってもいらんわ!
まったく、私の友というのは油断ならない連中が多い。テープを受け取るなり、
「ありがとう。家に帰ったらすぐさま上から子門真人「ゴジラとジャガーでパンチパンチパンチ」をダビングしてすべて消させてもらうよ」
そう宣言すると、彼は
「こちらこそ、全然いらんけど微妙に捨てにくい物をくれて、感謝の言葉もないさ」と答えた。
友の良き日に、こんなひきつった笑顔を見られて私も満足だ。
おたがいがおたがいを、こんなにも微妙な気分にさせる、両者すばらしいファイトであった。
今日もまた、どちらもゆずらず決着はつかなかったが、それもまたよしか。
しめくくりに笑顔で
「あんたやるな」と手を差し出すと、友もまた笑顔で「フ、お前もな」とその手のひらを強く握りしめてきて、我々はあらためてその固い友情を確認しあったのであった。
前回(→こちら)の続き。
「誕生日には、おたがいが嫌がるプレゼントを贈りあおう」
桜玉吉さんのマンガに影響されて、そんな気ちがいのような協定を結んだ私と友人サカマチ君。
時はきた。3月9日、堂々たる私の誕生日である。ここに発動された「メイガス作戦」により、わが家にお祝いのためやってきてくれたサカマチ君と「誕生日おめでとう」「いやありがとう」などと、たわいないあいさつをかわしていた。
やがて彼は、「そうだ、キミのためにプレゼントを買ってきたんだ」と、きれいにラッピングした箱を渡してくれた。
フ、友よ、少しは私を感心させるものを見つけてきたのかいセニョール。と内心余裕をかましながら、
「開けてもいいかい」
「もちろんだとも」
開けてみると、中身はワインの小壜くらいの大きさの通天閣の置物であった。
いらん! こんなもんいらん!
私は部屋のインテリアはシンプルさを旨としている。ゴチャゴチャと飾り立てたりしない。フラット感を大事にしているのである。ゆえにアイドルのポスターを貼ったり、食玩のフィギュアを置いたりもしない。
そこに通天閣。澄んだ水に墨汁を一滴落とすと、それだけで水が真っ黒になってしまうが、それと同じである。
この通天閣ひとつで、簡素にして簡潔を基調にした私の部屋は台無しになるのだ。だいいち東京タワーの置物を部屋に置いてる東京人がいないように、通天閣飾ってる大阪人なんかおるか!
と叫びたくなったが、もちろんそんなことはプライドにかけて口が裂けても言えない。なぜなら、そういう「ルール」だからだ。
おたがいに嫌がるものを贈り合う、つまりはそれを「いらんわ!」とマジでつっこんだ方が負けなのだ。これは男の戦いなのである。
私はひきつった笑顔で、
「ありがとう、やっぱり通天閣は大阪のシンボルだからね。来年の甲子園は通天閣高校と南波高校、どっちが出てくるのかな」
置物を受け取った。
こんな素敵なプレゼントをもらった日には、お返しをしなければならないだろうと私が用意したのは
「高校時代に体育の授業で着ていた柔道着」。
私の学校では体育の時間に柔道の授業があったのである。その時のもの。文字通り、私の血と汗がしみこんだ、お好きな人にはたまらない一品である。
「ほら、サカマチ君は今度スポーツでも始めようかななんていってたじゃないか。よかったら使ってくれよ」。
異臭がする柔道着を前に、一瞬しかめっ面をしたサカマチ君だが、すぐさま笑顔に戻り、
「いいね、ちょうど花見で賀間さんのコスプレをしたいと思ってたんだ」
そう返してきた。
それにしても、通天閣の置物という絶妙にいらないプレゼントに、使い古しの柔道着というゴミにも動じないサカマチ君のセンスと精神力はさすがである。今回のところは痛み分けといってもいいかもしれない。
そこでこちらから、
「あんたやるな、燃えないゴミの日が楽しみだよ」
と手を差し出すと、
「今年の大掃除は、ぞうきんに困りそうもないね」
と力強く握りかえしてきて、我々は改めてその固い友情を確認しあったのであった。
(さらに続く→こちら)
「誕生日には、おたがいが極上に嫌がるプレゼントを贈りあおうじゃないか」。
そんな気の狂ったような提案をかましてきたのは、友人サカマチ君であった。
3月9日は私の誕生日である。誕生日といえばO・ヘンリーのおっちょこちょいの夫婦者がおたがいに間の抜けたプレゼントを贈り合うスットコ……もとい、愛情あふれたすれちがいのすばらしさを描いた『賢者の贈り物』が有名だが、我々にもその手の心温まるエピソードにはこと欠かないものなのである。
学生時代友人サカマチと私は、おたがいの誕生日にはプレゼントを交換しあうという決まりがあった。
と書くと、なんだかゲイの恋人同士のようだがそうではなくて、我々のプレゼント交換にはひとつの不文律があった。
それは「相手のめっちゃ嫌がる物をプレゼントする」というものである。
これは桜玉吉さんのマンガ『しあわせのかたち』に影響を受けたもので、悪友サイバー佐藤さんが「誕生日になんかくれ」というのに対し、玉吉さんは「阿呆か!」と答えながらも、そこで名案とばかりに、
「ようし、じゃあおたがいに相手が嫌がるものを贈り合おうじゃないか」
そう提案するというエピソードがあるのだ。
「おたがい。絶対にいらない物をプレゼントしあおう」
「ふ、負けないぜ」
などと、いい大人が中学生みたいなノリで張り合って、それぞれ
玉吉→佐藤「趣味の悪いキラキラ光りながら回転する蝶の置物」
佐藤→玉吉「バンドもやっていないのに、ドラムのシンバル」
を贈りあっていた。
その後ふたりはひとしきり、ひきつった笑顔で
「マジ? これほしかったんだ」
「うおー、この贈り物サイコー」
はしゃぎあってから、そこでいわゆる「ゲッペルドンガー先生」(絶望先生より)に襲われて、
「こういうことは、二度としないでおこうな」「うん……」
と、うなだれるというオチがつくのだ。
もう、何度読んでも腹をかかえて爆笑で、私も大好きなネタだが、これに感動したサカマチ君は「ぜひ、オレたちもあれにならおう」と、玉吉リスペクトで、言い出したわけだ。
なにを阿呆なことを言っておるのか。なんでわざわざ、めでたき日にそんなくだらないことをしなければならないのか、かような幼稚なイベントにはぜひ参加したいということで、嫌がるプレゼント選びに血道を上げることになった。
ここに「メイガス作戦」と命名されたそれによって、我々は運命の3月9日をむかえるのだが、それが冥府魔道への第一歩であることを我々は知らなかったのであった。
(続く→こちら)