「やあ、ラッキーぜんじろう!」と平成のボンクラ大学生たちは言った その2

2024年10月19日 | 若気の至り

 前回の続き。

 


 「おまえらが、センス見せようとしてるところが腹立つ」


 

 友人イチオカ君のメッセージは、ヤングのころ、お笑い芸人のぜんじろうさんを街で見かけたとき、

 


 「おい、ラッキーぜんじろう!」

 「ABCお笑いグランプリ最優秀新人賞、おめでとう!」

 「相方の太平かなめは、どないしてん! 捨てたか?」


 

 と呼びかけたことを示していた。

 まず友人センヨウ君が、あえて「昔の芸名」で、しかも本人が「黒歴史」認定している名で呼ぶとは、そこには当然、

 


 「そんなマニアックなことを知っている、俺様のお笑い教養の高さ」


 

 を誇っているわけだ。

 ハッキリ言ってイタいが、まだまだ話は終わらず、私も追随して、「ABCお笑いグランプリ」を持ち出す。

 これもまた、センヨウ君から受け取ったバトンで、当時の感覚ではぜんじろうさんといえば、人気番組だった「テレビのツボ」にふれるべきである。

 カラんでいくなら、当然そこで

 


 「おまえがやってるテレツボ、全然おもんないわー」


 

 などと行けばいいのだろうが、そんな中学生レベルのものが、ゆるされるわけない(?)のは自明の理。

 あえて、もう5年以上前(当時)の栄冠であるABCのタイトルを持ち出すあたり、そこはかとない「はずしてねらう」感がかもしだされている。

 今でいえば、オズワルド空気階段のふたりに話しかけるとき、М-1キング オブ コントのことはいっさい無視して、

 

 ラフターナイト優勝」

 

 にしか、ふれないようなものであろう。

 やはり、自分は

 

 玄人のお笑いファン」

 「メジャーになる前からチェック済みの情報強者

 

 なことを見せつけたい願望が、アリアリである。

 しまいには、エサカ君の「太平かなめ」発言。

 太平かなめとは、ぜんじろうさんのコンビ時代の相方さんで、それこそABCの優勝は「かなめぜんじろう」で獲得したものなのである。

 言うまでもなく、私の「ABC」に対する受け言葉

 昔、岡田斗司夫さんが声優岩男潤子さんと仕事をしたとき、アニメのことそっちのけで、岩男さんが過去に所属していたアイドルグループで、おそらくは黒歴史であろう、セイントフォー時代のことしか質問しなかったようなもの。

 当然ながら、すごい嫌がられたそうだけど、そりゃそうであろう。

 キーワードは「あえて」であり、

 

 「あえて、ラッキーぜんじろう呼ばわり」

 「あえて、今の輝きでなく、昔のローカルな栄光を呼び覚ます」

 「あえて、セイントフォー

 

 有名人にからんでいくときというのは、少なからず

 

 イラッとさせたい」

 

 という熱い想いがあると思うが、このときのわれわれは、完全に「大喜利のノリ」で、それをやっていた。

 

 「こんなお笑いファンはイヤだ。どんなお笑いファン?」

 

 それを、芸人かぶれの酔った学生が、

 

 「見てくれ、オレたちの教養ワードセンス

 「おまえなんかよ、俺らの方が全然オモロイ」

 

 みたいな顔しながらカマしてくるんだから、まったく地獄以外のなにものでもない。

 なんかまあ、淡々と書いているようで、今の私は恥ずかしさで転げまわりそうです。踊りでも踊ったろかしらん。

 もちろんのこと、こんな「かぶれ」の若者など、本人は「オモロイ」つもりだが、受ける方からすれば、しょせんは使い古された「あるある」にすぎない。

 実際、吉本新喜劇でも活躍された小藪一豊さんも、

 


 「【小藪さん、ビリジアンの時代から応援してます】とか、やってたコンビ名出して、濃いファンですアピールしてくるヤツ、マジでうっとうしいわ」


 

 なんて怒っており、

 

 「もうそれ、ボクですわ、すんませーん!」

 

 なんて裸足で逃げ出したくなるのである。ビリジアンのテニスのネタ、好きでしたよ!(←そういうとこだよ)

 いや、これねえ、おチャラけて書いてるようですけど、こっちはホンマに痛いツライ

 有名人にカラんだのもさることながら、さっきから再三言っているよう、そのワードセンスとかが、またアレだ。

 

 「俺たちお笑いのプロ

 「芸人なんかより、全然センスある

 

 とか思われたいのが、全体からにじみ出ており、そこを的確に刺してきたイチオカ君の性格の悪……感度の高さは、さすがである。

 昨今、ネットを通じた芸能人へのウザがらみや、誹謗中傷が問題になっているが、私はできるだけそういうものを減らしたいと考えている。

 それはもちろん芸能人の人権を守り、日本人の持つ倫理観民度の高さを復活させたいから、とかではなく、のちのちシャワーあびてるときや、布団の中とかで、

 

 「ギャ! また思い出してもうた!」

 「若かったんやー、阿呆やったんやー、もうゆるしてー」

 

 と悶絶する「負の遺産」を心の中に残さないようにするためである。

 いや、マジでハズいッス。

 なので、やめましょう、こういうことは。人生の先輩の、ありがたいお言葉。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「やあ、ラッキーぜんじろう」と平成のボンクラ大学生たちは言った

2024年10月18日 | 若気の至り

 「おまえらの、センス見せようとしてるところが、腹立つわー」


 

 先日、ケータイにそんなメッセージが届いてきた。

 差出人は友人イチオカ君で、

 


 有名人に、あんなからみ方したら、アカンでマジで」


 

 なんでも、こないだ私が若いころ、お笑い芸人ぜんじろうさんにヤカラを入れたことに憤っているようのだ。

 怒っている友には申し訳ないが、それは誤読というものである。

 たしかに私は友人と酔って、ぜんじろうさんにからみはしたが、すでに反省しているし、相手方にも

 

 「アナタが寛容な心をもって、どうしてもわれわれのことを許したいと切望するなら、それを受け入れるにやぶさかではないが、いかがかな?」

 

 心の広いところを見せているのだ。

 それを理解せずキレるなど、サムネやネットニュースの見出しだけ見てアンチコメントを書く、そそっかしい連中と同じではないか。

 そう友を諭すと、

 


 「いや、ぜんじろうなんか、どうでもええねん」


 

 われわれと変わらぬ、豪快に失礼な返事が返ってきたうえで、

 

 


 「それより、おまえらが、ヤカラの中にセンスを見せようとしてるところが、もうムカついてムカついて!」


 

 さすがは友人。イチオカ君は実にいいところを見ている。

 こないだの記事について、私は自分のをさらしたつもりだが、実はそこにかくし味として、もうひとつの「恥ずかし反省ポイント」が忍ばせてあるのだ。

 整理すると、大学生のころだから、今からウン十年前の1990年代後半くらい。

 大阪の繁華街である難波で、朝まで呑んでいた私と友人一同は、そこで当時『テレビのツボ』という深夜番組で大ブレイクしていた、ぜんじろうさんを見かける。

 そこですかさず、われわれ泥酔ボンクラ学生は、

 


 「おい、ラッキーぜんじろう!」

 「ABCお笑いグランプリ最優秀新人賞、おめでとう!」

 「相方太平かなめは、どないしてん! 捨てたか?」


 

 典型的な「有名人にヤカラを入れる愚かな若者」であり、今なら炎上

 まだ荒っぽさの残る当時なら、

 

 「なんやコラ」

 「なめとったら、承知せんぞ!」

 

 ケンカになっても、おかしくないかもしれない。

 まあ、ぜんじろうさんも、こんな阿呆集団にいちいち、かまってられないだろうが、今思い返しても、われわれは実に愚昧である。

 さらには、ただでさえ痛いヤングなところに、もうひとつ同世代くらいの方々は上のセリフに、さらなる「自意識過剰」を発見し苦笑するのである。

 たとえば、

 


 「おい、ラッキーぜんじろう!」


 

 という友人センヨウ君の発言。 

 ラッキーぜんじろうとは、ぜんじろうさんがデビューしたころの芸名

 ふつうに、「おい、ぜんじろう」でいいところを、わざわざの芸名で呼ぶ。 

 こまかい情報であるが、センヨウ君からすれば、

 

 「自分はそんなマニアックなことを知っている」

 

 という「お笑い偏差値」の高さをアピールしているわけだ。

 さらにはのちに「ラッキー」を取ったと言いうことは、この芸名を気に入っていなかったわけだから、わざわざ、そこをつくという手のこんだ嫌がらせで、

 

 「オレは芸人に、【アホ】【おまえなんか、全然おもんないんじゃ】みたいな、ベタなヤカラを入れるような、低俗なお笑いファンではない」

 
 という「意識高い系」であることへの、こだわりでもあるのだ。なんという教養

 今でいえば、オードリーを見かけたときに「お、ナイスミドル若林や」。

 ライセンスのお二人に「おい、ちゃらんぽらん」と呼びかけるようなものであろうか。

 そこにあるのは、そんなことも知っているという、まさに選ばれし「情報エリート」という自負であるのだ。

 ちなみにセンヨウ君は南海キャンディーズMー1グランプリでブレイクし、山里さんが売れっ子になったころ、

 

 「ほう、イタリア人って今、結構がんばっとるんやな」

 

 とかコメントしており、相変わらずの激イタ

 どうも我々の辞書には「成長」「大人への階段」という文字は無いようなのであった。

 

 (続く

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「おい、芸能人おるやんけ!」と、平成のボンクラ大学生たちは言った

2024年10月12日 | 若気の至り

 芸能人だからって、失礼な態度をとらないでください!」

 

 というのは、テレビネットなどでよく、タレントさんが訴えかけることである。

 たしかに、人気商売というのは大変だと聞く。

 われわれ一般人よりも華やかな生活をしているイメージはあるが、名前を知られているその分、めんどくさいことも多いだろう。

 

 「許可なく写真を取られた」

 「箸袋やレシートにサインを書かされた」

 「ナメた接し方をしてきたことを注意したら、逆ギレされた」

 

 などなどトーク番組などで、よく出てくる話。

 現代ではネットによって、さらにの感情が可視化されるおそろしさもあったりして、それでも愛想よく「神対応」を求められるのが、有名人のツライとこだ。

 私だったら絶対ブチ切れている。ましてやそれを、

 

 有名税だろ!」

 

 なんて開き直るヤカラには、本当にガマンがならないところがあり、ちょっと信じられない反応だ。

 そんなことをする連中を軽蔑するし、自分ももちろん、そんなことは決して一度もしたことがないかといえば、これが普通にやったことはあるので、今回はそういうお話。

 


 大学生だったころのこと。

 友人数人と、大阪の繁華街である難波の居酒屋で飲み明かしたわれわれは、始発まで街をぶらついて時間をつぶしていた。

 とそこに、エサカ君という男が、突然すっとんきょうな声で、

 


 「おい、あそこに芸能人おるぞ!」


 

 指さした先には2人連れの男性がいて、そのひとりが、お笑い芸人ぜんじろうさんだったのだ(もう一人の方はおそらくマネージャー)。

 ぜんじろうさんといえば、今ではアメリカで活動し、爆笑問題太田さんと論争になったなどで知っている方も多いと思うが、当時は関西若手人気タレント

 特にМCを務める深夜番組『テレビのツボ』は大人気で、今でいえば霜降り明星かまいたちのような、勢いに乗りまくっていた存在だったのだ。

 そんなもんが目の前に現れたら、が抜けていて、しかも泥酔している学生からすればヨダレが出るような状況。

 すかさずロックオンした友人センヨウ君が、

 


 「おい、ラッキーぜんじろう! なにしてんねん!」


 

 続いても、

 


 ABCお笑いグランプリ最優秀新人賞、おめでとうな!」


 

 エサカ君もかぶせて、

 


 「太平かなめは、どないしてん! 売れたら相方は捨てるんやな」


 

 

 なんて、若さ酔いにまかせてチャチャを入れたわけである。

 今思い出しても赤面モノというか、

 

 「有名人に迷惑をかける愚かな若者」

 

 とか動画を上げられ、炎上してもおかしくない流れである。

 弁解するわけではないが、私自身は有名人を見ても、あまりテンションが上がらないタイプである。

 街で見かけても声をかけたり、ましてや、ヤカラを入れたりすることはまず無い、と言っていい。

 実際にこれも昔、難波の隣にある日本橋(関西のオタク街)で将棋某棋士を見かけたときも、将棋ファンにもかかわらず、変にからんだりはしなかった。

 もっともそれは、その某棋士がメチャクチャに挙動不審で、ちょっと怖かったからだけど。

 いやマジで、サインとか握手より、声をかけるなら、

 

 「こら、今あわてて隠した、女性の下着をポケットから出しなさい」

 

 て感じになってしまうくらい、な感じだったのだ。

 それはともかく、私は「酔っていたから」という言い訳は嫌いなので、もうストレートに反省するしかない。

 そんなわけで、私もこのように謝っているのだから、ぜんじろうさんも寛大な心を見せてしっかりと、前途ある若者のことはゆるすようにしては、いかがですかな(←本当に反省してるのだろうか)。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誤爆メッセージで学ぶ「核武装による抑止力」理論 その2

2024年08月21日 | 若気の至り

 前回の続き。

 友人トヨツ君が、彼女に送るはずのラブラブメールをよりにもよって誤送信

 その痛い内容に爆笑を誘われ、友人同士の飲み会で、ぜひ披露したいと勇躍出かけて行ったのであった。

 

 


 「愛してるよ。最近忙しくてゴメン。明日時間があるとき電話するね。大好きちゅきちゅき、100万回キスをチュッチュチュ~ I love you 」


 

 

 先日のフワちゃんの炎上劇も、

 

 「アカウントを乗っ取られたのでは」

 「裏アカに出すはずのを誤爆したのでは」

 

 なんて意見があったけど、どっちにしても活字として発言が残るのはコワイものだが、こんなものがウケないはずがない。

 よくパーティーグッズで「本日主役」と書かれたタスキみたいなのが売ってるけど、ホント気分はあんな感じ。

 最初の注文をするのも、もどかしく、

 

 


 「なあなあ、今日はめっちゃおもろい話があるねん」




 ふだんの会話なら、自分から「めっちゃおもろい」などと申告してトークのハードルをあげるのは自殺行為、人類最大の愚行である。

 しかし、今回だけは例外だ。なんたって愛の誤爆メッセージ。

 一介の男子が、これまですべて築き上げてきた名誉栄光を一撃のもとに葬り去るだけの破壊力を持った爆弾である。

 これにはいくらバーの高さを上げても、鳥人のごとく楽々と乗り越えることになるだろう。

 大空へはばたけ、オレたちの夢!

 皆が、いぶかしそうに「なんやねん」と視線を集めたところ、私はおっとり刀でケータイを取り出し、

 「それはな……」。

 言いかけたところで、突然そこから着信音が鳴りだした。

 おいおい、これから盛り上がるところやのに。なんやと取り出してみると、メールを受信している。

 だれやねん、タイミング悪いなあと差出人を見ると、なんとトヨツ君であった。

 なるほど、彼は自らのを暴かれることを良しとせず、今ここで悪あがき的にケータイを鳴らしたのだ。

 だが、そんなもん一時しのぎではないか。なんと往生際が悪い。

 どうせ「やめてくれ、なんなら土下座でもしましょうか?」とか書いてあるのだろう。

 まったく情けない。男ならこういうときは、潔く斬られんかい。

 やや、あきれながらメールを開いてみると、そこには、




 「こないだは長文メールいただいて、ビックリしました。詩人なんですね」




 なんじゃこりゃ。

 はて、こないだトヨツ君にメールなんて送ったっけ? しかも、詩人ってなんやいな……。

 熟考すること数秒、全身から血の気がさーっと引いていく音が、聞こえた気がした。

 将棋のプロ棋士はよく、



 「悪手を指すと、全身からが吹き出て、びっしょりになる」



 と言っていたが、私の場合はわきの下だった。

 冷たい汗がつーと滴り落ちるのがわかった。
 
 当時の私は頻繁にメールをする女の子がいたのである。

 なんとかふしだらな仲になれないかと、あれこれ模索していた段階だったので、彼女に対していろいろと軽薄なメールを送っていたらしいのだ。

 らしいというのは、たいてい酔っていて記憶にないから。

 あわててケータイをチェックすると、やはりそうであった。

 1週間ほど前の彼女へのメールが、誤爆ってトヨツ君のもとへと送信されていた。

 し、しまったあ

 私としたことが、とんだ失態である。まさか、このタイミングで自分も同じことをしてしまうとは!

 しかも、そのころ中島らもさんの影響で、なんの興味もないボードレールなど読んでおり、それを丸パクリでもしたを送っていたらしいのだ。

 ぎやあああああ!! えらいこっちゃあ!

 おそるおそる読んでみると、これがまあ、トヨツ君のことを言えないというか、それに輪をかけて、こっぱずかしい内容であった。

 さすがに、ここでさらすのは無理だが(←友達のはさらしたクセに!)、件名が「悪の華」で、書き出しが

 

 「嗚呼、巴里の憂鬱

 「あなたを見ると、マロニエの並木道を歩く切なさを感じます。like the wind

 

 ……って、おまえこんときパリ行ったことねーじゃん! てか、マロニエってなに

 「Like the wind」って、たぶんレースゲーム『パワードリフト』のBGMから取ってるよなあ。
 
  たしかにいい曲だけど、恋文にセガゲームのこと書くなよ! たぶん、英語の意味もよくわかってないし。

 顔を上げると、彼がケータイをかかげてニヤニヤしている。そこにはこう書いてあった。




 「そっちがその気なら、わかるよな?」




 われわれは凄腕ガンマンか、武道達人のごとく、ケータイを手に、おたがいに見合ったまま一歩も動けなかった。

 に動いたら、こっちも破滅である。

 まさに冷戦時代、米ソのにらみ合いと同じだ。

 キューバ危機もかくやで、こうなると、残された道はひとつしかあるまい。

 私は静かにケータイを閉じると、




 「まあ、これからはおたがい、仲良くしようじゃないか」




 ゆっくりとを差し出した。彼はそれを見て緊張を解くと、




 「ああ。人と人が争うのって、本当に苦しく、つらいよな」




 その手を強く握り返してきたのである。




 「憎しみの連鎖をここで断ち切ろう」




 決意を新たにする、われわれであった。

 それを見ていた周囲の連中は、



 「で、おもろい話って、なんやねん」



 うながしてくるのだが、すでに憎しみを乗り越え、世界平和を実現していた、われわれの耳には届かなかった。

 こうして私とトヨツ君は、歴史的和解に至ったのである。人を傷つけてまで笑いを取ろうという者は、もうここには存在しない。

 それもこれも、たがいの手にある「チュッチュチュ~」と「巴里の憂鬱」「マロニエの並木道」という、必殺の誤爆メールのおかげであった。

 これを駆使すれば、私はトヨツ君に大きなダメージをあたえることができるが、次の瞬間報復の一撃で、すべてが終了

 まさに核兵器級の威力があるからこその停戦であり、皮肉といえば皮肉であるが、強大なる破壊力の前には、人は沈黙せざるを得ないのだ。

 私も基本的には、核廃絶の方向で世界には動いてほしいが、ただ経験的に見て


 「大量破壊兵器抑止力



 というのは、哀しいかな存在はするかもなあ、と実感。

 そら、なにいわれても大国が手放さんわけやと、世界情勢をしみじみ学んだの大阪府下某駅前の鳥貴族であった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誤爆メッセージで学ぶ「核武装による抑止力」理論

2024年08月20日 | 若気の至り

 SNSの失敗は、おそろしいものがある。

 先日、タレントのフワちゃんが、不適切なメッセージをで発信してしまい炎上

 ラジオやCM、果ては教科書に載る予定だったのが取り消しになったり(教科書ってすごいね)、大変な事態になってしまった。

 令和に猛威を振るう「キャンセルカルチャー」のすさまじさであり、これには、

 

 「あの程度のことで、ここまで大きなものを失うのはおかしい」

 「いや、あんなヒドイ内容をネットで発信することの方が異常

 

 などなど賛否両論あろうが、「正しいこと」というのは良くも悪くもというか、残念なことに「論理」や「正義」ではなく「時代」が勝手に決めるものではある。

 その是非はともかく(そもそも「正しいこと」なんて存在しないしな)、それに乗って人気者になったフワちゃんが、同じものに足を取られたのは皮肉としか言いようがない。

 これは有名人だけでなく、われわれのような素人も他人事ではなく、今回はそういうお話。

 
 

 ヤングのころ家でテレビを見ていると、携帯にメール(まだガラケーの時代)が届いた。

 送り主は友人トヨツ君。

 こんな遅くに、なんぞ用かいなと読んでみると、その内容というのが、

 


 「愛してるよ。最近いそしくてゴメンね。明日時間があるとき電話する。大好きちゅきちゅき、100万回キスをチュッチュチュ~ I love you 」




 ………………。

 いきなりを語られてしまった。

 トヨツ君とはつきあいも長いが、まさか彼がそのような感情を持っているとは思いもしなかった。

 別に、同性同士が愛を語ることにおいては偏見はない。愛の形は千差万別である。

 だが、いかんせん私自身は完全無欠にノンケである。

 やはり、つきあうには男ではなくて、できれば元欅坂46長濱ねるさんでなくては困るのだ。

 友を傷つけるのは本意ではないが、この想いは受け入れられないか……。

 などと煩悶するまでもなかろう、これはどうみても誤爆である。

 トヨツ君といえば天下無敵の女好き、バリバリのプレイボーイ

 彼女だか、それともナンパで絶賛口説き中だか知らないが、女子に送るものを私のところに間違って送信してしまったのだ。阿呆だねえ。

 恋愛関係のやり取りというのは、たいてい正視できないような痛いものと相場が決まっているが、これもまたなかなかのものである。



 大好きちゅきちゅき、100万回キスをチュッチュチュ~ I love you 

 

 とか、ようやりまっせ、ホンマ。

 ようわからんけど、魯迅の『狂人日記』とか、こんな内容ちやうの?

 部外者のとっては燃えないゴミも同然だが、まあ送られてきたものは真摯に受けとめる所存である。

 へー、コイツ女にはこんな文体でメッセージ送ってるんや。

 ウッシッシ、こらええわ。今度みんなに見せて笑いもんにしたろ。

 悪いヤツがいたもんであるが、これぞ正真正銘の自業自得。なははは、トヨツ君敗れたり!

 友に対して思わぬ切り札を手に入れた私は、さっそく、




 「愛のこもったメールありがとう。僕も早く会いたいよ」




 そう返事してやると、にわかには意味がわからなかったのか、すぐに、




 「はあ? なにいうてるねん、頭おかしなったか?」




 間もなく、ようやっと状況が飲みこめたのであろう。おそらくは真っ青な顔をしながら返信してきた。



 


 「すまん。さっきのは、なかったことにして!」




 
 こちらは静かにうなずくと、あたかも不治の病で、余命幾ばくもない恋人の手を取って言うかのように、




 「いや、きっとキミのことは忘れない」




 おそらく友は、声にならぬ雄叫びをあげながら、ケータイをにたたきつけていたであろう。おお、ゆかいゆかい

 それからしばらく、私はすこぶる機嫌のよい日々を過ごした。

 どんなイヤなことがあっても、「チュッチュチュ~」でゲラゲラ笑えば心は日本晴れであるである。「人の不幸はの味」とはよく言ったものだ。

 と、ここで終われば、この話はハッピーエンド(?)であるが、そうはならないのが人生の妙味である。

 それから一月ほどして、ある飲み会が開かれた。

 当然、私はトヨツ君のメッセージを持参し、「平成の爆笑王」として君臨するはずだったが、なかなかどうして。

 これが、そうはうまくいかないのは、まあだいたいが、皆様のご想像通りである。

 

 (続く

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「かわいそう」という言葉でマウントを取りにくる人の思い出

2023年06月28日 | 若気の至り
 「なんか議論の途中で【かわいそうだね】とか言うてくるの、頭きますわー」
 
 
 先日、ランチにふわふわオムライスをいただきながら、そんなボヤキを発したのは後輩ヒラノ君であった。
 
 ことの発端は、ヒラノ君がユリコちゃんという恋人と、デートで映画に行ったこと。
 
 これが、いわゆる
 
 
 「感涙必至」
 
 「ハンカチのご用意を忘れずに」
 
 
 といった宣伝内容の感動系作品だったそうだが、観てみると内容的にはイマイチで、ヒラノ君はドッチラケ
 
 どっこい、チラッと横の様子をうかがうと、愛しの彼女が
 
 
 「なんてステキな話……」
 
 
 目をウルウルさせているのだ。
 
 これには二重にシラケたヒラノ君が、
 
 
 「よう、こんなんで泣けるなあ」
 
 
 言わんでもいいことをついもらすと、先ほどまで映画に没入していたユリコちゃんも、「はあ? どういうこと?」と返してきて、そこから口論になった。
 
 しばらく言いあいが続いたのだが、そのうちに、いつの間にか可憐な涙もどこへやらの彼女が言い放ったのが、
 
 
 「なんか……かわいそう」
 
 
 突然、あわれむような口調で告げられ、今度はヒラノ君が「はあ? どういうこと?」と返すと彼女は続けて、
 
 
 「考えてみたら、あなたってかわいそうだなって思って。世の中を、そういうひねくれた見方しかできないんだ」
 
 
 彼女はため息をつくと、
 
 
 「逆に同情しちゃうな。心がない人なんだって。だからそうやって、だれかの揚げ足を取ることしか、できないんだね。かわいそうだね」
 
 
 これにはヒラノ君もブチ切れて、
 
 
 「なに急に、上から目線になってるねん! お前がピーピー泣いてるのは、心があるんやなく、自己愛が強くて、涙腺のパッキンがゆるんでるだけや! 単に映画リテラシーが低いから、お涙頂戴に乗せられただけのくせして、そこをごまかして議論を有利に運ぼうとすな!」  
 
 
 なんて、ずいぶんと激しいことに、なってしまったのだそうな。
 
 よくある痴話げんかといえばそうであり、独身貴族の私としてはしごくゆかい……もとい心配になってしまった。
 
 まあ、この件に関しては、かなりの部分ヒラノ君に改善の余地ありとは思うけど(いらんこと言うな、すなおに謝れ)、後輩がついムキになってしまった気持ちは、わからなくもない。
 
 それが「かわいそう」というワード。
 
 とはいっても、器の小さい男が、あわれまれてプライドを傷つけられたわけでもなければ、図星をつかれて逆ギレしたわけでもない
 
 いや、器が小さいこと自体は認めるにやぶさかではないけど(そう言えばこの「器が小さい」もケンカでは便利なワードだな)、例えていえば、
 
 
 「格闘ゲームで《ハメ技》を使って勝ちにくる人」
 
 
 を見たときに感じる義憤とでもいうのか。
 
 世の中には、そこに根拠も、話者自体の努力能力も必要としないのに、相手を傷つけたり、優位に立てそうになるワードというのが存在する。
 
 セクハラや、パワハラをとがめたときの「冗談だよ」「そういうときはユーモアで返せよ」とか。
 
 こちらが非を訴えているのに、こう言うことによってまるで、
 
 
 「こちらが心に余裕のないヤカラ」
 
 「ユーモアを解さないつまらない人間」
 
 
 であるかのような、空気感を醸し出してくる人がいるのだ。
 
 意識的な人もいれば、無意識の人もいるけど(これはこれでタチが悪い)、これってちょっと問題ある対応ではないか。
 
 同じようなものに、
 
 
 「の話はするなよ」
 
 「感情的になるな」
 
 
 あと日本人的最強ワードは「空気を読め」だけど、そういう論理のすり替えの一種で、
 
 
 「不利な状況を、あたかも《自分のほうが冷静に物事を見る余裕がある》ふりをすることによって、逆転しようとする試み」
 
 
 これに「いかがなものか」と言いたいわけだ。
 
 ましてや、なんとなく話者が
 
 
 「オレ今、大人として良いことい言った」
 
 
 てな雰囲気を出してきた日には、何をかいわんやである。要するに「詭弁」「欺瞞」が嫌いなのだ。
 
 今回の件で、ユリコちゃんが言った「かわいそう」も、決して本当に憐れんでいるわけではない
 
 ただ、ガチギレしてるのを見られるのが恥ずかしいのと、議論で優位に立つために、
 
 
 「わたしは怒ってない。あなたの言動に心を乱されているわけでもない。ほら、その証拠にあなたを冷静に分析するだけの余裕があるし、あなたをかわいそうと、思ってあげられるだけの愛情すらあるではないか」
 
 
 そうアピールしているだけなわけだ。
 
 今の言葉でいえば、「マウントを取りに来ている」というところで、そりゃ言われた方は本意ではないわなあ。
 
 などと長々語っていると、
 
 
 「それくらいいいじゃん。受け流しとけば?」
 
 
 と言われそうで、まあそれが一応は正解でもあるんだけど、この手の話は、昔のある思い出と密接にリンクしていて、なんだかムキになってしまうのである。
 
 
 (続く
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火災警報器のボタンを押さないで運動のボタンを押さないでください

2021年10月18日 | 若気の至り

 「やってはいけない」

 と言われることほどやってみたくなるのが、人間のサガである。

 芸能人の不倫騒動とか、他人への悪口からの炎上とか、人はタブーと言われる行為ほど魅力を感じてしまうもので、われわれは常にモラルと禁断の果実の間で、板ばさみにされているのだ。

 代表的なのは、学校やビルにある火災警報機のボタン。

 あれを

 

 「ウルトラ作戦第一号、攻撃開始!」

 「7時の方向に目標、撃て!」 

 「本艦は現時刻をもって自沈する。乗員諸君、今までありがとう」

 

 なんて、裂帛の気合もろとも、押してみたいと願うのは人類共通の夢である。

 よくエレベーターに

 

 「非常時には、ここを押してください」

 

 と書かれたボタンがあるが、以前住んでいたマンションではそれが、親のカタキかというくらいテープでガチガチに固められていた。

 「これ、非常時になっても押せねーじゃん!

 乗るたびに、つっこんだものであるが、おそらく、ロマンに殉じた男子住民(たぶん子供)のせいであろう。

 迷惑だが、まあ気持ちはわからなくもない。

 警報機以外だと「ベランダを仕切ってる壁」も、ぶち破ってみたい。

 マンションに住んでおられる方なら、おわかりいただけるだろうが、ベランダの両サイドに、隣との境になっている薄い壁がある。

 そこにはたいてい、こんな文言が記してある。

 

 「非常時、ここから破って隣へ抜けられます」

 

 破ってみたい。

 となると気になるのが、その強度。あれは、どれくらいの耐久力を持っているのか。 

 「ここから破って」などと簡単に書いているが、そんな楽勝な雰囲気でいいのか。ふつうに、正拳突き蹴りなどで破れるものなのか。

 あまり頑丈だと「貧弱な坊や」である自分はケガが怖いが、すぐに破壊できるようだと、それはそれで防犯的に不安でもある。

 こうなってくると、破れ方も問題である。

 パンチなりキックなりタックルなりした際、どのように壊れるのだろう。

 怪獣がビルを壊すよう、壮快に楽しく、くずれてほしいものだ。

 体当たりしたら、やはり古いアニメや、コントの定番ギャグのように、壁にきれいな人型の穴が開くのだろうか。

 なんといっても、ここは見事貫通したときのスッキリ感も大事である。

 割りばしが、うまく割れたときのような「おお! 見事な割れ具合だ」といった爽快感があるとベターだ。

 これは、なにげに問題ではないか。もし火事で避難する際、ここで今ひとつ破壊の爽快感がなく、

 「ちょっと待って、今のはノーカンね」

 ベストのスマッシュ感を求めて、再チャレンジしている間に煙に巻かれて死去、なんてこともあるかもしれず、その「割り心地」は極めて重要である。

 そこで以前、友人アサカ君の住むマンションに遊びに行ったとき、

 「よし、一体どうなるのか、実際試してみよう」

 ベランダに出て拳を振り上げたところ、後ろからはがいじめにされ、止められたことがあった。

 なにをするんだ、これはキミの安全を考慮した、双方痛みをともなう実験なのだと説得したが、同意してくれるどころか

 「なにするねん、このぼけなす!」

 頭をはたかれ、メチャクチャに怒られた

 私の友を想う心が理解できないとは、哀れなアサカ君である。

 かくのごとく、私の野望はあのベランダの壁を、ぶち破ることである。

 実際に、地震や火事などの大災害が起るのは嫌だから、アサカ君のマンションに遊びに行くたびに、火災警報機が誤作動しないかと期待している。

 そうすれば、合法的にあの壁を破れるからだが、今のところ幸か不幸か、そのチャンスはめぐってきてない。

 あ、そうか、じゃあ自分で押せばいいんだ(←絶対ダメだよ!)。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「天才感」(ハッタリ)で、気まずい会やパーティーを切り抜ける!

2021年04月15日 | 若気の至り

 「【天才感】を出して切り抜けろ!」

 

 というのが、ヤング諸君に伝えたいアドバイスである。

 まだ20代のころだったか、友人キシベ君から相談を受けたことがあった。

 友が言うには、自分はそもそも、そんなに愛想のいいタイプではない。

 まあ、友達や彼女は、それをわかってくれてるから、それはいいんだけど、困るのはパブリックな場。

 仕事や学校で、食事会や飲み会、パーティーみたいなものにも出ないといけないこともある。

 そういうところで身の置きようもなく、だれとしゃべっていいかわからないし、かといってボーっとしてると、

 

 「愛想がない」

 

 ムッとされたり、

 

 「退屈してるのでは」

 

 気を使われたりして、それが困りものだと。

 コミュ障というほどではないが、そういう場でのソツない会話や対応がむずかしく、手持無沙汰な空気を出しているのではと、気になって仕方がない、と。

 うーん、これは不肖この私も、同じようなところがあって、共感できる。

 基本おしゃべりのくせに、人や場所の距離感が微妙なところだと、どうふるまっていいのか、サッパリわからなくなるのだ。

 冠婚葬祭とか、町内会の会合とか、あまり知らない親戚の集まりとか諸々。

 これに関しては、

 

 「がんばって、明るいキャラを演出してみる」

 「ビジネスライクな、大人の対応を心掛ける」

 

 などなど、試行錯誤した上に出した結論のひとつが、冒頭のそれだ。

 

 「天才感を出す」

 

 結局のところ、人には得意不得意というものがあり、無理してキャラ変しても不自然になるし、ストレスもかかる。

 なら、

 

 「黙っていても、周囲がそれを認めてくれるキャラ」

 

 これで行けば、いいのではないか。逆転の発想である。

 そのひとつが「天才キャラ」であり、こういう一筋縄ではいかない男が、沈黙にふけっていても、だれもとがめないどころか、

 

 「やはり、雰囲気があるな」

 「きっと、なにかすごいことを考えているに違いない」

 

 勝手に想像してもらえるわけだ。

 実際のところ、そういうときに考えていることは、

 

 「はー、早く家に帰って、『じゃりン子チエ』の再放送見たいなあ」

 

 とかなんだけど(最近、朝の楽しみなのです)、そこは全身でハッタリを駆使し、

 

 「あいつは、ちょっと人と違うぞ」

 

 というイメージを、それをなるたけネガティブではないそれを、周囲にそれとなくアピールするのだ。

 成功例のひとつは、昔アルバイト先で、社員さんたちが海外のカジノに遊びに行く話をしていたとき。

 そこで、「どうせやるなら、勝ちたいなあ」とおっしゃるので、

 

 「なら、確率的には、ブラックジャックがいいらしいですよ」

 

 たまたま読んだ谷岡一郎先生など、「ギャンブルと確率」みたいな親書を参考に、

 

 「以外と悪くないのはパチンコ」

 「本当に勝ちたければ、長期戦より一発勝負」

 

 など、あれこれ(テキトーに)語ってみると、「へー」と感心され、それ以降、

 

 「あいつは頭がキレる男だ」

 

 というあつかいになり、これには大いに助かったもの。

 なんか変なこととか言っても、


 
 「オレたちとは、ちょっと違う角度からの意見なんだろうな」

 

 なんて、フォローしてもらえたわけなのだ。

 また、これもよく使ったのが、人がいるのに気づかないふりをして、難解な本に読みふける演技をする。

 デカルトカントの哲学書や、「フェルマーの定理」「オイラーの等式」のような数学の本もオススメ。

 もちろん、意味など一滴も理解できないが、

 

 「そんなん読んで、わかんの? よかったら、内容教えてよ」

 

 なんて質問には、


 
 「正直よくわかりません。でも、随所に刺激はもらえて、よりもっと、学びたいという熱が高まっていくんです」

 

 みたいな、これまた口から出まかせを言っておけば、

 

 「若いのに、たいした男じゃないか」

 

 これはやりすぎると、あざとくなるが、うまく決まれば一目置かれたりもするし、現にこれで仕事を取ったこともあるから、結構バカにできない。

 あと、旅行好きをアピールしたら、

 

 「若いころから世界に目を向けるなど、キミには期待できそうだ」

 

 なんて、ただの楽しい観光旅行なのに、妙に熱く語られたり、この

 

 「ちょっと違うかも感」

 

 これこそが、生命線になり、その後は楽しく《無愛想でも、それなりにゆるされる》ロードを、エンジョイしたのだった。

 というと、なんだそれは、ただのホラではないかと、あきれる向きもあるかもしれないが、ハマればハマるのは、経験則から言っても多少は保証できる。

 マジメな人ほど、いい方に取ってくれる傾向が、あるのはたしかなので、そこを「ねらい撃ち」するのが、いいかもしれない。

 実際、似たようなことを考える人というのはいるもので、ダウンタウンの松本人志さんは、ラジオの「ヤングタウン木曜日」で、

 

 「今度、入学することになった高校が不良ばかりで、いじめられないか心配です。どうやって身を守ればいいですか?」

 

 というハガキに、

 

 「【ヤバい奴】という空気感を出せ。どこを見ているかわからないうえに、会話が成立しないとか、狂気を演出しろ」

 

 また、南海キャンディーズの山里亮太さんは、モテるためのメソッドとして、

 

 「カバンの中に、さりげなく英字新聞を忍ばせておく」

 

 言っていることは、私と同じなわけで、コミュニケーションや自己プロデュースのプロフェッショナルたる芸能人が実践しているのだから、これは伊達や酔狂ではないのである。

 なんてことを伝えてみると、キシベ君は、

 

 「なるほどねえ。いろいろ考えるもんやなあ」

 

 「いろいろ」の後に続くのであろう「阿呆なことを」という言葉を、飲みこんで笑ってくれたが、

 

 「でもそれは、うまくいけばええやろうけど、失敗したら目も当てられんな」

 

 さすが友は、本質を一言で、つらぬいてくる。

 これはまったくその通りで、この「アマデウス作戦」は、成功すれば実りも大きいが、スベッた場合に待っているのは、

 

 「中2病」

 

 というワードの花吹雪である。

 そりゃもう、冷静に考えれば、どこからどう見ても「イタい」のは間違いないわけで、相当にリスキーであるのだ。

 なのでこれは、相当に演技力の自信のある人や、私のような口から先に生まれてきたようなホラ吹き以外には、すすめられないかもしれない。

 諸君の健闘を祈る。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

FМラジオとAМラジオと女子高生の嘲笑

2021年01月27日 | 若気の至り

 「女子高生深夜ラジオを聴かない」

 というのは人類普遍の真理であるため、ボンクラ男子たちは気をつけるように。

 子供のころから、テレビよりも、ラジオが好きな男の子であった。

 今でもradikoやYouT……ゴホンゴホンなどで

 

 「空気階段の踊り場」

 「真空ジェシカのギガラジオ」

 「蛙亭のオールナイトニッポンi」

 

 といった番組を楽しんでいるが、どうも、こういうものに親しむのは女子よりも圧倒的に男子が多いらしい。

 20代のころ、たまたま女子高生数人とランチをする機会があった。

 といっても別に、

 

 「JKと援助交際」

 「《靴のにおいを嗅がせて》とお願いするもキモがられ、土下座して懇願するところを動画に取られ、拡散され大恥だけど、それがやってみると至福の体験でまたお願いします」

 

 といった、ふしだらなものではなく(当たり前だ)、当時少し演劇をやっていたため、たまたま高校演劇部の女の子と話す機会があっただけだが、そこである子が、こんなことを言ったのだ。

 

 「わたし、音楽が好きで、ラジオとかよく聞くんですよ」

 

 ラジオ好きの私としては、いいとっかかりであり、

 

 「へーそうなんやー。オレもラジオ好きやねん。どんな番組聴いてるの? 深夜の番組は眠くても生で聴く派? それとも録音とかしてる?」

 

 これに彼女が答えるには、

 

 「いや、特に番組名とかは……FMだから、家で宿題してるときとか、お風呂入ってるときとかに、たまたま流れてるのを聴くだけですけど……」

 

 どうもこのとき、

 「ラジオの話や!」

 テンションが上がったのが、いけなかったのだろう。

 「話噛み合ってないぞ」

 直感的に悟ったらしい彼女は、

 

 「録音とか……シャロンさんは、どういうの聴いてるんですか?」

 

 ここで、すれ違いに気づけないのが、私のイカンところ。

 「女子高生と趣味が合う!」ということで、舞い上がっていたのだろうか、

 

 「えーとね。まずは『誠のサイキック青年団』。竹内アニキの下ネタのワードセンスは神がかってるよね。

 『ヤングタウン』はさんまにダウンタウンに西川のりおに鶴瓶師匠。『サタディ・バチョン』は北村安湖世代ね。

 ラジ関でやってた『林原めぐみのハートフルステーション』に、あとは通学路に停まってる軽トラから流れる『ありがとう浜村淳です』で、浜村さんの極右トークを聴くっていうのは関西の【中高生あるある】やよねえ」

 

 一気にまくし立てたわけだが、やけに反応が薄い

 それどころか、彼女らは一様にポカーンとしており、なるほどこれが「ハトマメ」というやつかと勉強になったが、ともかくも話がまったく通じていないことは瞬時に察知した。
 
 彼女らは、わけがわからんとでもいいたげに、

 

 「それ、いっこも知らないんですけど、どこで流れてるんですか?」

 

 そこで堂々と「AMである」と答えると、彼女らは一瞬目を見合わせると、はじけるように爆笑したのだった。

 女学生たち曰く、

 

 「AMって、聴いてる人おるんやー」

 「うーわ、マジでウケるわ!」

 「そんな文化、全然知らんかったです」

 「そもそも、AМってなに?」

 「そんなん聴いて、もしかしてシャロンさんって、ヤバイ人ですかぁ?」

 

 なんかもう、メチャクチャにバカにしてきたのだ。

 男子のノリも、こういうときガサツなものだが、いったん

 「コイツは行っていい」

 と認定してきた女子高生の残虐さもなかなかである。

 そこからはすっかりランチの肴にされ、キャッキャとイジられ、盛り上がられたのだった。

 まあ、みんないい子たちだったから、別に悪気はないんだけど(若者のノリだしね)、それにしても女子高生と深夜ラジオの親和性のなさにはビックリだった。

 オレがなにをしたんや! ラジオを愛したのが罪だったのか!

 てゆうか、今おまえらが食ってるボンゴレとかペペロンチーノは、オレが一部、金を出して食わしたってるんやぞ!

 パン工場でマシンみたいにアンパンを箱詰めにして稼いだ、血のウン千円や! 感謝して学校指定の制服姿で、ベリーダンスくらい踊れや!

 ……とは、もちろん言いませんが、それくらい泡食ったものである。

 そこは私も世界がせまいというか、基本的にAMの特に深夜ラジオというのは

 「イケてない男子

 という文化圏であることを知らなかったわけだが、それにしてもなかなかなあつかいであった。

 それ以降、女子の前でラジオの話はNGにしたのだが、食事のあと「まいった、まいった」と苦笑していると、やはり演劇部のアマガサキ君という男子高生(きっといつも「木の役」しかもらってなさそうな)が、小さな声で、

 

 「シャロンさん、ラジオ好きなんですね。ボクは『ヤンタン』より、『ブンブンリクエスト』派ですケド」

 

 といっても、当時の関西ラジオファン以外はなんのこっちゃだが、要するに今で言う、

 「JUNK派か、オールナイト派か」

 みたいな話。

 そこで意気投合したわれわれは、

 「小娘どもに、深夜ラジオの良さはわからんのですよ」

 大いに盛り上がったのであるが、まあその姿は今思えば、女子高生に軽くあしらわれても、しょうがないよねえ、キミたち。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「朝日新聞の『天声人語』を書き写しなさい」と、先生は爆裂寝言を言った

2021年01月21日 | 若気の至り
 人生において新聞というのを、ほとんど読んだことがない。
 
 「政治や社会問題にくわしくなるためには、新聞を読みましょう」。
 
 子供のころ、よく学校の先生にすすめられたりしたものだが、まったくもってよけいなお世話であった。
 
 それも、保守といわれる「読売」や「産経」ではなく、「朝日」を手に取るべしと、銘柄まで指示されたものだが、これもまた、今ひとつピンとこなかった。
 
 文体は無味乾燥だし、社説はエラそうに説教してくるし、要するに、読み物としての魅力が、決定的にとぼしいのだ。
 
 だが、今は知らねど昭和のころ「政治」「社会問題」に熱心な先生は思想的に「左」というのがお約束であった。
 
 ゆえに、いくら「興味ないっス」といったところで、
 
 
 「朝日を読むと教養が身につく」

 「朝日を読むと成績が上がる」

  「朝日の記事は入試問題によく出る」
 
 
 などと、あの手この手で赤化しようとすすめてくるのだ。知らんがな。「入試に出る」とか、ちょっと受験生の足元を見てないか?
 
 この善意の名を借りたマイルドな「脅迫」が、私を新聞嫌いにさせた遠因のひとつなのは間違いないところだ。
 
 あと、新聞嫌いの本好きとして、素通りできない教えというのが、もうひとつあったもので、それが、
 
 「天声人語を読むと文章がうまくなる」
 
 朝日新聞の名物コラムである、天声人語を読みなさい、できれば書き写しなさいと。
 
 私は基本、ボーっとした人間である。あまり怒ったことがないし、ケンカをしても声を荒らげることなどめったにない昼行燈だ。
 
 だが、この教えに関しては少々言わせていただきたい。
 
 あんなもん、だれが読むか! と
 
 しかも、それを書写せって、オドレどういう了見や。池の中から手ぇのばして、尻子玉抜いてキャンいわしたろか、ぼけなす!
 
 ……なんて、思わず口調が下品になってしまったが、それくらいのことは言いたいくらい腹がたったのだ。
 
 だって、天声人語って、全然おもしろくなかったよ!
 
 そもそも新聞のコラムなんて、おもしろさを期待するもんじゃないかもしれないけど、それにしたってスカスカで空虚な文章だった。
 
 時事ネタに季節ネタを絡めて、なんとなく起承転結っぽくて、最後に
 
 「ふと見ると、桜が咲いていた」
 
 みたいな、強引なオチで閉めるみたいな、なんか定年退職したオジサンが町の「随筆講座」の課題で書いたようなシロモノなの。
 
 そんなもん、おもしろいわけねーじゃん! しかもそれを書き写せって!
 
 第一、あれ筆写するほど、うまい文章でもないって。「《てにをは》が間違ってない」レベルでいいなら、「達者」かもしれないけど。
 
 なんで、あんなカビの生えたようなコラムを読まなあかんねん。アンタの頭の中には脳みその代わりに、こんにゃくでも入っとるのか、このトーナスが!
 
 とどめに、なんとその先生が生徒にすすめてきたのが、
 
 「天声人語筆写用の原稿用紙」
 
 そんなものがあることにも腰が抜けそうになったけど、それを笑顔で嫌がる生徒に売りつけようとする先生も、なかなかいい根性をしている。
 
 私の人生の中で、「金もらってもいらんもん」ベスト3に間違いなく入るアイテムです。
 
 ギャグとしては最高でした。先生、ひと笑いを、ありがとうございます。
 
 作ったヤツ、マジでセンスあるわー。天才か。よっぽど『VOW』に送ったろか思いましたわ。
 
 こうして私はマスコミや学校教師の「新聞を読め」「ニュースを見ろ」というシュプレヒコールなど、すべてスルーし、そこからもゆかいなノー新聞ライフを満喫した。
 
 そこから月日は流れて幾星霜。今ではネットの普及で、朝日新聞はすっかり日本の嫌われ者に。
 
 まあ、私が朝日に懐疑的なのは、思想うんぬんよりも
 
 「天声人語を《いい文章》と思いこんでいる先生たちの、疑うことを知らない奴隷根性」
 
 に反発したわけで、朝日も、朝日というだけで叩く人も、どっちも苦手だけど、なんにしろ朝日にかぎらず、権威主義な学校教師と新聞全般に対して良いイメージはないのだった。
 
 「入試に出るぞ」とか、カツアゲされたせいでさ。今思い出しても、ムカッパラが立つよ。
 
 よく「食べ物の恨みは恐ろしい」なんていうけど、まこと我々のような読書野郎にとって、
 
 「つまんない読み物」
 
 これのウラミも恐ろしいのだ。
 
 あんな優等生がよろこぶものより、中島らもや、ナンシー関の方が1億倍おもしろくて、ためにもなったよ。
 
 良い子のみんなも、だれがなにを言っても「自分がおもしろいもの」を読もう。
 
 マンガだってラノベだって、なろう系だって大いに結構。大人がすすめる、つまんないコラムなんか読まなくていいからね!
 
 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダウンタウンの「ヤングタウン木曜日」とミニFMパーソナリティー

2020年03月26日 | 若気の至り

 「ラジオのことイジってくるんやったら、もうお前とは終わりやな」

 

 友人センボク君にそう詰められたのは、まだ高校生だったころの話である。

 今では自分のをだれかに届けるとなると、ネットでわりと気軽に出来るけど、YouTubeニコ生の環境などない、いにしえの時代には、それなりのハードルがあった。

 文章が書きたければワープロで起こしたものをせっせとコピーし、ミニコミの表紙はハサミノリで切り貼りして作り、動画編集がしたければビデオデッキ2台買ってテープに録画したものをダビングする。

 そんな古代人でラジオがやりたい人は「ミニFM」というものを手に入れ、それで電波を発信していた。

 といっても、届く距離は微々たるもので、せいぜいが「学校の放送室」レベル。

 それでもちゃんとした「オンエア」であることは間違いなく、将来ラジオの仕事がしたいという若者は、マイクを前にせっせと音楽を流しトークを披露していたわけなのだ。

 で、あるときその「ミニFM」が取り上げられたことがあって、それが若き日のダウンタウンがやっていたラジオ番組「ヤングタウン木曜日」。

 オープニングトークの次にある「ハッピートゥデイ」というコーナーにこんなハガキが来たのだ。

 

 「ボクは高校生男子ですがラジオが大好きで、ミニFMを使って自分の番組を持っています」

 

 ハガキでは続けて、

 

 「番組名は《キヨくんFМ》というもので、音楽だけでなくボクのギャグセンスあふれるおしゃべりもあり、とってもステキな内容に仕上がっています。よかったらダウンタウンのおふたりも、ボクの番組を聴いてみませんか」

 

 なにか「仕込み」ではないかと疑ってしまうような、さわやかに若気が至っている。

 案の定というか「ボクのギャグセンス」あたりで浜田さんが「チッ」と舌打ちし、松本さんも「あーもー」とイヤそうな声をあげる。

 そこからハガキを最後まで聞くこともなく、

 

 「全然おもんない」

 「そんな才能もないこと、やめてまえ」

 「コイツ、なにをいうとんねん」

 「ホンマにおもろい奴は、こんな前に出ようとせえへんからね」

 

 なんてダルそうにダメ出しをしまくりで、アシスタントのYOUさんが

 

 「いいじゃん。だって、まだ高校生だよ」

 

 とフォローに奔走させられる始末。

 私がキヨ君だったら、すぐさまトイレに走って胃の中のもの全部、泣きながら便器にぶちまけると思うけど(もちろん番組は即刻終了だ)、まあ他人事なら大笑いである。

 で、なにかの流れでセンボク君にこの話をしたのだが、そこで出たのが冒頭の言葉。

 それ嘲笑するんやったら、もうおまえとはしゃべらん、と。

 ずいぶんと剣呑な雰囲気で、「あ、なんかやらかしたかな」という空気感はすぐに伝わったが、このことを別の友人カワチ君に話すと、彼はそれこそ腹をかかえて笑いながら、

 

 「それはアカンわー。だって、センボクのやつ、自宅でミニFMの番組やってるもん」

 

 ゲ、しまった。そういうことか。

 そうなのである。センボク君はヤンタンや「鶴瓶新野のぬかるみの世界」「青春ラジメニア」などのリスナーで大のラジオ好きだったから(確認はしてないけど、たぶんハガキも送ってる)、その可能性に気づかなかったのは不覚であった。

 まあ、こういうのはイジるのもイジられるのも、YOUさんの言う通り

 「だって、まだ高校生だよ」

 ってことだけど、これは気まずかったッス。

 しかも彼は、のちに大阪芸術大学放送学科に進学するくらいだから、「自分の番組を持つ」のも、ガチ中のガチであったのだ。そりゃ怒りますわな。

 苦笑いするしかないというか、自分だって当時から舞台に立ったりミニコミを作ったりしていたんだから、どのツラ下げてミニFMをイジッてるねんという話だ。

 反省した私は「ゴメン、あやまるわ」と頭を下げたわけだが、センボク君はまだ不機嫌な顔こそしていたが、

 

 「ええよ。オレがメインで聴いてるのはヤンタンやなくて、『鶴光のつるつる90分』やから」

 

 ボソッとそれだけ言って、ゆるしてくれたのであった。

 

 

 ★おまけ ダウンタウンの「ヤングタウン木曜日」は→こちらから。私にとってダウンタウンは「ごっつ」でも「ガキ使」でもなく「ヤン木」なのです。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「初デートは水族館がベスト」ってホント? 大阪にあった「海遊館伝説」の真偽

2017年05月22日 | 若気の至り
 「デートといえば海遊館やろ」


 大阪の若者が、はじめて彼女と出かけると言えば、こうアドバイスされる時代というのがあった。

 今なら、同じことを聞けばUSJと返すろうが、私が学生のころは、


 「彼女との初デートは海遊館が無難」


 という言い伝えがあり、少なくとも私の周辺では、みな女子と知り合うと、とりあえず海遊館に足を運んだものだった。

 今にして思えば、当時のモテる関西女子はきっと、ちがう男とデートするたびにアホほど海遊館に連れて行かれて、辟易したにちがいない。

 とはいえ、初デートで「もう、何回きたから」ともいいにくいだろうし、下手すると、


 「ほんなら、前はだれときたんや!」


 なんて嫌な感じのカウンターパンチが飛んでくる可能性も大いにあり(なんたって若造だし)、ディズニーランドほどには「何度行っても楽しい」感も少ないだろうし、まったくもってご愁傷様としかいいようがないのである。

 では、わが青春時代の90年代に、なぜにてそんな海遊館が推されていたのかといえば、ある友人によると、


 「水族館は『順路』があって、その通りに歩いてたら、それなりに楽しめるやろ。だから、男からしたらなんや」


 なるほど、最初のデートで、それこそディズニーランドみたいな大きめの遊園地とかに行くとフラれやすいというのは、


 「選択肢がありすぎて、なにをしていいかわからない」


 ことが原因のひとつに数えられる。

 勝手がわからずウロウロして醜態さらしたり、まだおたがい、なれてないから、乗り物の待ち時間で会話が続かなくて気まずくなったり。で、


 「あかん、コイツはでけへん男や」


 との烙印を押される。

 一時期はやった成田離婚とかは、これのインターナショナルバージョンであろう。

 そういう意味では水族館は、会話なしでも気まずくならず、2時間くらいつぶせる映画館に行くのと、思想が似ているかもしれない。

 要は、「することが決まってる」というエクスキューズによって、初デートの緊張経験値の少なさと、まだ微妙なおたがいの距離感カバーできるということだ。

 さらにいえば映画ライブは「当たりはずれ」や好みの問題もあり、観たあと盛り上がれるかは賭けなところもある。

 その点でも「かわいい海の生物」という、それなりのアベレージを見こめるものがあるというもいいか。

 「かわいい」って言っておけば、なんとなく楽しいっぽいし。

 当たってるかどうかは別にして、ひとつの説ではある。

 ちなみに、友人サクラバシ君は、やはりこのセオリー通りに初デートは海遊館を選んだのだが、


 「ちっとも盛りあがらんかった」


 とボヤいていた。

 それはなぜなのかと問うならば、


 「オレ、魚嫌いやねん」


 とおっしゃる。

 それも、なんでやねんといえば、


 「だって、あのが怖いもん」(同じ理由でもダメらしい)


 ……って、それやったら水族館選ぶなよ!

 と、つっこみたくなったが、そんな重度の魚嫌いでも、行かねばならんと思わせるところが、さすが我々は最後の偏差値重視マニュアル世代である。

 とりあえず、セオリーには従う。

 それくらいに、「初デートは海遊館」という呪縛は強かった。

 ちなみに、魚嫌いのサクラバシ君だが、刺身


 「目がないから大丈夫」


 ということで好物らしく、同じ理由でフライドチキンOKだそうである。なんの話や。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゴッド・セイブ・ザ・クィーン 浪速の女王陛下万歳! その3

2016年12月10日 | 若気の至り
 前回(→こちら)の続き。

 美術の宿題に、

 「あんたが描いたにしてはうますぎる! だれかに描いてもらったんだろう!」

 なるヤカラを入れられた、中3時代の私。

 カマしてきたのはユウコちゃんという女子生徒だが、「女王様」の異名をとる彼女はオラオラだけど、ヤンキーではなく勉強も得意なタイプ。

 で、私も当時はそこそこ優等生で、彼女と同じくらいの偏差値だったのだ。

 しかも、受験する予定だった大阪府立U高校は、ユウコちゃんにとっても第一志望。

 そう、志望校のバッティングする彼女にとっては私は、追い落とすべきライバルだったのである。

 となると、私の苦手な美術というのは「直接対決」で差をつけるチャンスだった。

 それが、アメトークにも呼ばれようかという「絵心無い芸人」のくせに、まあまあな絵を提出している。

 私にとっては「アウェーの引き分けは勝ちと同じ」くらいの感覚だが、むこうからすればとんでもない話だ。

 これはおかしい、そんなことがあっていいのか。

 だからきっと、不正があったにちがいない。物言いをつけて、なりふりかまわず足をひっぱりに来たのだ。すごい執念である。

 このストレートパンチには、美術の先生もドン引きだったが、ユウコちゃんのは気にすることもなくこちらに、

 「ねえ、誰かに描いてもらったんでしょ。友だちでしょ? それともお父さん? そうなのね、そうなんでしょ?」

 まさに被告に詰め寄る敏腕検事のようである。

 思わず、「すいやせん、あっしがやりやした」とすべてを白状しそうになるほどだ。なるほど、警察による自白の強制というのは、こんな感じで起こるのであるなあ。

 とはいえ、正義はこちらにありである。ここは私もなめられてはいかんと、

 「ふざけたことをいうな! ちょっと皆に一目置かれているからって、図に乗るんじゃないぞ!」

 と、ここは本気でガツンと言ってやった。

 ……としたら、さぞかしスッキリするだろうなとは思ったが、間違いなく、どつきまわされるであろう。そんなこと、ようしません。

 「ウソだ、絶対にウソだ!」

 まっ赤になって、爆発寸前のユウコちゃん。

 「白状しなさいよ、卑怯よ!」

 卑怯だといわれても、こちらもまいっちんぐなのである。それにしても、先生とクラスメート全員の前で、そこまで言えちゃうのもすごい。

 ようやるなあと、ビビりまくりながらも、感心するやらあきれるやら。なんで私が、こんな目に合わんとあかんのや。

 そこでせめて助けを呼ぼうと、クラスの友人にSOSのアイコンタクトを送ったが、みなあわてて窓の外を見たり、ツメをいじくったり、わざとらしくも教科書に読みふけったりしていた。

 だれも目を合わせてくれない。

 そりゃないぜ。友がピンチだというのに、なんというあつかいか。

 もし逆に彼らがユウコちゃん相手に追いつめられていたら、私ならもちろん勇気を振りしぼって助けに入るかといえば絶対に他人の振りをするけれど、救助は無理にしても、怒りの矛先をそらすために非常ベルを鳴らすとか、教室を爆破するとか、それくらいの陽動作戦くらいは起こしたらどうなのか。

 どうとも言いようのないこちらに、頭から湯気吹く勢いのユウコちゃんは、とうとう

 「ここでもう一回、同じもの描いてみなさいよ! そしたら信用してあげる!」
 
 そう言い放つと、腕の立つフェンシング選手のごとく、ビシッと絵筆を突きつけてきたのである。

 もう一回描け。そこまでいうか。というか、あまりに勢いよく突きつけられたので、眉間をえぐられるかと観念したくらいだ。一瞬、死んだと思ったよ。

 ここまできたところで、ようやく先生が「いい加減にしなさい」と間に入ってくれて助かった。

 さすが先生に止められては、ユウコちゃんも引くしかない。釈然としない目で引き返しはしたが、依然こちらをにらみつけていた。ビームでも出そうな勢いである。

 私も一応笑顔で「ホントに自分で描いたんですよ」と念押ししたが、情けなくも

 「ホ、ホ、ホ、ホホホホントに、じぶ、じぶ、じぶぶぶ」

 と唇が、風に吹かれたこんにゃくゼリーのようにプルプル震えた。その憤怒の表情に、まともに発音などできません。もう、腰が抜けそう。

 授業がはじまる前にトイレをすましておいたのを、ひそかに神様に感謝したものだ。でなければ、尿ちびってました。コワイ、コワすぎる。パワーがちがう。

 この事件で発憤したのでもないだろうが、その後ユウコちゃんはテストでもバシバシ高得点をはじき出し、当初の志望校よりも2ランク上の名門Y高校を受験し、合格した。

 さすが女王ユウコちゃん、私のような下々の者とはモノがちがうことを、しっかりと見せつけた。さすが、その負けん気と根性は一級品である。

 こうして、全面的な衝突こそ避けられたが、受験戦争においては大いに水をあけられてしまうこととなった。

 だが私はこの敗北を、さほど気にしてはいない。

 というのも、ここは偏差値うんぬんよりも、私としてはユウコちゃんと違う高校になって内心ホッと息をついていたのであったからだ。

 もし同じ学校に進学して、もしそこでも対決することになったら。

 今度こそ、本当にちびりそうだものなあ。

 以上、季節外れの、ものすごく怖かった女の子の話でした。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゴッド・セイブ・ザ・クィーン 浪速の女王陛下万歳! その2

2016年12月09日 | 若気の至り
 前回(→こちら)の続き。

 勉強ができて、クラスの中心的存在である中学時代の同級生ユウコちゃんだが、基本オラオラ系で、口が悪く、表現がストレートなのが玉に瑕。

 出すテストが簡単な先生をつかまえて、

 「あたしとバカの差がつかないから、もっと難しくしろ」

 などと要求するのだから、その気の強さもわかろうというもの。

 おー、コワ!

 こんなキツイ子とぶつかったら、私のようなショボい男子など、どんな目にあわされるかわかったものではない。

 なので、なるたけ見つからないようそっとしていたのだが、ひょんなことから、戦いの舞台に引きずり出されることとなってしまったのだから、災難というのはどこに転がっているかわからない。

 それは、夏休み後すぐの美術の授業であった。

 この夏休み、先生はある宿題を出していた。中身は単純で、風景画でも自画像でもなんでもいいから、絵を描いてくるというものである。

 これを聞いたとき、私はまいったなあとボヤくはめになった。自慢ではないが、絵心というものがまったくないのである。

 が、そうはいっても仕方がない。いつもならバックレてしまうところだが、時は中学3年生。そんなことをしては内申点に響いてしまう。

 こうなればやるしかない。下手は下手なりにがんばろうと筆をとったのだが、これがその謙虚な姿勢がよかったのか、思ったよりもうまく描けてしまった。

 もちろん、描ける人とくらべたら落書きみたいなシロモノだが、アウェー科目なら5段階で「3」をもらえれば御の字。それには充分の出来だったのだ。

 提出すると予想通り、「まずまず描けてますね」と先生に及第点をいただいた。

 よしよしである。これで赤点だけはまぬがれそうだと、ホクホク顔で席に戻ろうとすると、そこに立ちふさがった人がいた。

 そう、天下の女王様、ユウコちゃんであった。

 ユウコちゃんは腰に手を当て、私の前で仁王立ちしながら、

 「先生、これはおかしいと思います!」

 ビシッと響きわたる声だった。

 突然の強烈な意見表明に、ややたじろいた先生が「なにがですか」と問うならば、

 「それ、彼が描いたにしてはうますぎます」。

 うますぎる。おお、うれしい。

 思わず、よろこんでしまった。私は人生において、絵をうまいと言ってもらったことが一度もなかったのである。

 だが、よろこんでばかりもいられない。どうやら私は彼女の逆鱗にふれるなにかをやってしまったようなのだ。

 ユウコちゃんは、こちらに対し、石に変えようとするメデューサのごとくにらみつけると、

 「これ、絶対にインチキです! だれかに描いてもらってるんですきっと!」

 おーい、おいおいおいおいおいおい! なんちゅうこと言い出すのかキミは。

 前回に続き、またもや直球ど真ん中である。顔面グーパンチだ。

 思いっきりイチャモンをつけられた私は、思わず長いため息をつきそうになった。

 うわー、めっちゃ怒ってますやん、と。

 ハッキリ言ってヤカラだが、なぜにて彼女がそのような主張をするのかは、いかなボンヤリの私にもうっすら理解はできないこともなかった。


 (続く→こちら



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゴッド・セイブ・ザ・クィーン 浪速の女王陛下万歳!

2016年12月08日 | 若気の至り
 季節外れの、怖い話をひとつ。

 昔は日本人が怖いものといえば「地震、雷、火事、親父」といったものだが、最初の3つはともかく、現代では親父よりも圧倒的に「女」のほうが怖いのではないか。

 そのことを感じさせてくれたのは、中学時代のクラスメートであったユウコちゃんだが、そのキャラクターは一言でいえば女王様。

 気が強くて、勉強もできて、見た目こそ地味だったが、その存在感は十分なもの。一言でいえばオラオラ系だ(ただしヤンキーではない)。

 なんといっても、男子といえばたいていが女子を呼び捨てなのに、彼女だけはかならず「テヅカさん」と「さん付け」だったのだから、その威圧感もわかろうというもの。

 事件が起こったのは、中学3年生1学期の期末テストのことだった。 

 中3といえば、大変なのは高校受験である。となると大事なのは定期テストの成績だが、ひとつ問題というか、気にかかる教科があった。

 当時、理科を担当していたスミヨシ先生というのが少し変わった人で、テストを作るときいつも副読本の問題集から7割くらい、そっくりそのまま出題してくるのだ。

 問題集には模範解答もついていたから、それを丸暗記すれば、どんな勉強ができない子でも6、70点は確実に取れることになる。

 今考えても、めちゃくちゃにゆるいテストであって、ほとんど合法カンニングというか、ともかくも理系科目が苦手だった私にとっては実にありがたいことであった。

 そんな素晴らしきスミヨシ先生のテストだったが、ここに立ち上がったのが、なにをかくそうユウコちゃんであった。

 期末テストが近づくある日、出題範囲を言おうとしたスミヨシ先生に、ユウコちゃんはすっくと立ち上がって、こうぶち上げたのである。

 「先生、問題集からそのままじゃなくて、ちゃんとオリジナルの問題作って出してください」

 楽に70点は保証されるサービス問題に、まさかのクレーム。

 虚をつかれ、なぜかと聞き返すスミヨシ先生に、彼女はその長い髪をさっとかき上げると、こう言い放ったのだ。

 「だって今のままじゃあ、あたしたちとバカとの差がつかないじゃないですか」

 その瞬間、クラスの空気が凍った。いや、凍ったどころではない、地球温暖化もはだしで逃げ出すブリザードが吹き荒れたのであった。

 ひえええ、なんちゅうこと言うんや、この女は!

 さすがは女王様。すごいこと言うなあ。「バカ」って言い切りましたよ。

 その「バカ」に「なんだと、テメエ!」と怒られるとか考えないんだろうか。

 考えないんだろうなあ。怖くもなんともないんだろう。相手は「バカ」だから。

 もちろん、だれもつっこめません。唖然呆然。

 スミヨシ先生からすると、内申点に不安のある生徒のため、なるたけ「努力点」をあげるべく(なんたって、理系なのに丸暗記でOKなのだ)そういうテストにしているのだ。

 ちょっと極端なやり方かもしれないけど、我々に損はないから、みんな黙認している。

 そこを「バカと差がつかないからやめてくれ」。女王様のアッパーカット、炸裂しまくりです。

 まあ、そんな温情がなくてもいい点を取れる彼女からしたら、ライバル、それこそ私のような、理科を苦手とする生徒の点数が楽して上がるのは損なわけだ。

 内申点というのは人と比較しての「相対評価」だから、そこはわからなくもないけど、それにしてもストレートである。

 スミヨシ先生は苦笑いし「考えておきましょう」と答えたが、その後もテストはまったく内容は変わらなかった。

 これに対して、その後も「バカがいい点とるのはゆるせない」と激おこだった彼女だが、それ以上は言っても聞かれることはなかった。ユウコちゃん無念である。

 まあ、先生からしたら「救済」でやっているのに、その助けるべき「バカ」を蹴落とせというのだから、そもそも通じるわけもないか。共産党に「完全歩合制」を要求するようなものだ。

 ただ、意見は通らなかったが、この事件によって我がクラスは、ますます「テヅカさんおそるべし」という空気で満たされることになり、その意味ではデモンストレーションの効果はあった。

 いやあ、あんなこと言える人には、だれも逆らえませんわ、と。

 このように、納得はできなかったものの、その存在感をまざまざと見せつけることとなったユウコちゃん。

 まあ、クラスの中では地味な存在であった私にはあまり接点はなかったので、彼女の「炎上」はほぼ他人事だと高をくくっていたのだが、あにはからんや。

 ひょんなことから今度は私が、教室内で彼女と直接対決に見舞われることになったのである。

 これがまさに、尿をちびるほどの恐怖体験であったのだ。

 

 (続く→こちら



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする