「これって、屈辱感の回避による自己欺瞞やろうか」
そんなことを考えたのは、『バーナード嬢曰く』7巻の感想を書いていたときのことだった。
この中で夏目漱石『坊ちゃん』が取り上げられているんだけど、この物語には強烈な
「松山ディス」
こいつが盛りこまれていることで有名。
いろんな文芸評論や漱石本でも取り上げられる一方で、愛媛県には
「松山坊ちゃん列車」
「松山坊ちゃんスタジアム」
といった、「坊ちゃん推し」施設があったりもする(「松山坊ちゃん空港」もあった気がしたが、正式名称ではないらしい)。
ふつうは、いくら文豪とは言え自分の地元をボロクソに描いた作家の作品など、使いたくもないと思うものだが、なぜか坊ちゃん大人気。
そこで前回は、
「松山市は文豪に媚びるより、仮面ライダーや友近が夏目漱石をボコボコににする地方映画を撮れ!」
そう主張したが、もちろんこの『坊ちゃん』へのスタンスには別の理由も考えられる。
たとえば「屈辱の回避による自己欺瞞」。
人は自分が受け入れがたい苦しみを味わうと、その苦痛をごまかすために、なにか別の欺瞞を生み出し、その説にすがろうとすると。
これは心理学者の岸田秀さんが繰り返し著書で書いていることだが、たとえば大東亜戦争に敗れた日本人の言い分。
みじめな敗北に終わった日米戦争を振り返って、戦後の世論は大きく2つにわかれた。
ひとつは保守派の
「あれは日本がアジアを解放した聖戦だった。侵略なんてとんでもない。実際、あれでインドネシアやビルマは欧米列強から独立できたではないか」
もうひとつは左翼系の
「それはウソだ。あれはまごうことなき侵略で日本は間違っていた。あの時代を大いに反省し、その代償に得た平和憲法を遵守し、2度と戦争という過ちを犯さないようにしなければならないのだ」
一見、正反対の主張のようだが、岸田先生に言わせると、実はこれ中身は同じものだそうな。
どちらも、
「300万人もの尊い命を犠牲にし、持てるものをすべて投入して必死に戦ったにもかかわらず大敗した戦争」
という正視したくない、みじめな現実から目をそらすために、
「あれはアジア解放戦争だった」
「いや、負けて結果的に日本は平和憲法と民主主義を手に入れた」
という「あの戦争は無駄ではなかった」と思いたいだけの自己欺瞞にすぎないと。
これわかるのは、体育会系の部活に居て「しごき」を受けて、明らかにその過去がつらかったのに、
「あれは苦しかったけど、あれがあるから自分は強くなれた」
とか言ってた友達を思い出すからだ。
その顔見て、「あー、ウソついてるなあ、この子」と思ったものだ。
全然、楽しそうじゃないんだもん。
でも、「そうでも思わないと、あの時代のことは振り返れない」という心の傷も伝わってきたので、
「それ、自己欺瞞やろ? 岸田秀が言うてたで」
なんて雑にはイジれないわけで、その記憶からも「はあ」とため息が出るような分析だ。
「特攻隊」を美化する人もいるのも、その狂気的な作戦を批判するのに、
「英霊のことを無駄死にと呼ぶのか!」
とかカツアゲしてくるヤツはただの卑怯者だと思うけど、結構本気で
「批判してはいけない」
って思ってる人もいるもの。
たいていは「心のやさしい人」で、これもきっと、
「若くして無意味に命を散らした兵隊たちが、あまりにもかわいそうすぎる」
という、あまりにもつらい現実に耐えかねて、「無駄死に」という言葉を否定するのではあるまいか。
という方程式からこの「『坊ちゃん』問題」を考えると、こうも思えるわけだ。
つまり、松山の人は夏目漱石が地元をボロクソにディスっているのをとっくに知っているか、あるいはだれかに気付かされるかしてショックを受けた。
でも、それを認めるのは屈辱的であるから、気づかないふりをしている。
あるいは逆に金之助を持ち上げることによって、それを「なかったこと」にしているか、
「たしかに悪くは書かれているが、それでも漱石先生に取り上げられて名誉である」
と感動、あるいは寛容な地元民のフリをしているのか。
なんかこう、イジメられっ子が自分からバカにされるような行動をし、
「いじめられてるのではない、イジられキャラなんだ」
とアピールしたり、TV版の『新世紀エヴァンゲリオン』のトホホなラストを
「あれが正解で、真のエンディングなんだよ。お前ら、エヴァをわかってないな」
とか強がったりするようなものではないか。
『エヴァ』の最終回に関しては、岡田斗司夫さんが意地悪な分析をしていて、あの最終回への反応は結婚詐欺師にダマされた女の人と同じだ、と。
否定派は
「だまされた! 絶対にゆるせない!」
とストレートに怒りまくって、肯定派は逆に、
「あの人はもともと、あーゆう人だったでしょ。こっちはわかったうえで遊んでたのよ。それがわからないなんて、まだまだね」
ぶん殴ってやりたいのをグッとこらえて、余裕っちなフリをする。
嗚呼、大東亜戦争の日本人と同じだ。これは今起こっている様々なスキャンダルへの反応にも、応用できそうである。
で、松山の『坊ちゃん』に対するスタンスも、似たようなものではないのかなあ。
どれだけイヤな気分なのか、あるいは気がついてないだけなのかはわからないけど、どこかに「屈辱の回避」はからんでいそうな。
うーん、邪推かなあ。
でも、やっぱり変だよ、あれを地元民がありがたがるの。
私は断然、地方をバカにする夏目よりも、松山市を応援します。