非モテ戦場のメリークリスマス

2023年12月22日 | 時事ネタ

 クリスマスといえば思い出すのは「血尿」というワードである。

 今は知らねど私がヤングのころは、はじけたとはいえ、まだバブルの残り香がただよっていた。

 なもんで、冬が到来すると、

 

 クリスマスに予定がある=人生の勝利者

 クリスマスに予定がない=地を這いずり回る、生きる価値もないくそ虫

 

 などという一部男子の基本的人権などブン無視した価値観が、まかり通っていた。

 しかも聖夜にはメチャメチャ高いホテルで、ぼったくりディナーワインをいただく。

 ブランド物のプレゼントはマストで、その後は夜景の見える高層階の部屋でエロいことをしなければいけないという、の抜けた定跡が存在。

 私の友人たちもコンビニの夜勤と、寒空の中での肉体労働などを掛け持ちし、10万円くらいする財布をプレゼントしたりしていたものだ。奴隷か。

 他にも、クリスマスは電車に乗るな血を売ってでもタクシーに乗れ、いやそもそも外車を寄こせレンタカーは論外だぞとか、現金はダサいからカード払いで、イタリア製のスーツ着てこいとか。

 今の若者は「女性専用車両」の存在や「メシをおごらない男はクズ」みたいな言い分に、

 

 「女尊男卑やん!」

 

 とか憤りの声を上げているそうだが、なーに、こんなのはいつの時代も大して変わらないのである。

 そんな、広告代理店による搾取とアジテーションのイベントであった当時のクリスマスだが、時代というのはオソロシイもので、皆が結構「そういうもの」と疑問にも思わなかった。

 現にナガノさんという私の先輩なども、まだ5月くらいから、梅田のホテルでクリスマスのディナーを予約して、悦に入っていた。

 12月のイベントに、なんでゴールデンウイークごろから奔走するのか、と問うならば、

 

 

 「阿呆やなあ。いざ本番が近づいて、彼女とクリスマスディナー言うても、どこのホテルも予約なんて取られへんのやぞ」

 

 

 たしかに、そうだったかもしれないが、いくらなんでも5月は早すぎる気がする。

 私など世の流行と無縁な太平楽なので、そんなときでも家で納豆とか食ってたりしてピンとこなかったし、なにより最大の問題点は、ナガノ先輩に彼女などいないということなのだ。

 こんなもん、どう考えても12月に、ヒルトンリッツカールトンインコンあたりで、カップルに囲まれることになるだろう。ひとりで。

 冷笑の目に耐えながら、夜景を前に何万もするワインをソロでたしなむという、恥辱プレイの未来しか見えない。

 先輩は「そんなもん、時間はまだ半年以上あるんや。なんとでもなるで」と言うのだが、んなわきゃない。

 見た目が六角精児さんソックリで、趣味がエロゲーミリタリーというスペックではそうなると、能力者ならずとも絶対的に当てる自信があったが、その通り。

 ナガノ先輩は当然ながら12月になっても彼女ができず、鼻がもげそうなほどのキャンセル料を払って、

 「羞恥のクリぼっち」

 を回避する羽目になった。

 われわれ後輩一同が、ニヤニヤしながら「どうでした?」と問うと、先輩は

 

 

 「血の小便が出たよ……」

 

 

 これは今でも、我らが母校である大阪府立S高校史上(ナガノ先輩はすでに大学生だったが)に残る名言と記憶されている。

 私が「血尿」という言葉を聞くと思い出すのが、体育会系のしごきでも、過労のサラリーマンでもなく、領収書を手に氷のような表情でたたずむナガノ先輩の横顔である。

 まあ、今思えば先輩は、クリスマスに向けて彼女がいなかったどころか、そもそもそのとき、まだ女の子と一回もつきあったことすらなかった

 そう思うと、まさに味わい深い蛮勇というか、ますます意味不明だが、そんな人でも、こんなことをしてしまうというのが、1980年代から90年代という時代だったのである。

 

 

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「家賃督促の詩を詠います、ジョークだけどな!」とChatGPTは言った

2023年04月06日 | 時事ネタ

 ChatGPTの話題で、世間は持ちきりである。

 AIと会話するだけで、仕事生活趣味のサポートやアドバイスをいただけるというスーパーアイテム。

 私はここまで将棋関係のことをあれこれ調べて、その間違い……闇の組織に隠蔽された「真の将棋界」の情報を得たりしたが、やはり今の段階では使い方をあれこれ模索している人も多いよう。

 前回のようにプログラミングや、ゲームデザインなど専門職的な方向に使う人もいれば、私のようにふざけ……人生を彩り豊かにするなど様々な活用法がある。

 単純に会話を楽しむ人も多いようで、

 

 「明日、部活の大事な試合があるので、元気の出る言葉をください」

 「英語の勉強がしたいので、英会話のチャットをお願いします」

 

 などといったポジティブなものから、

 

 「萌え口調でお願いします」

 「語尾に『ぴょん!』をつけて」

 

 なんて遊んでいる人もいるが、これもまたなかなか楽しいだけでなく、ときには実用的でもある。

 たとえば先日、家賃の振り込みをし忘れて、管理人さんから催促の手紙が届いたことがあった。

 すぐに謝って入金したのだが、たいそう恥ずかしい思いをしてしまい、そのバツの悪さをなぐさめてもらおうとナンシーに、

 

 「この書面を詩的に書き直してください」

 

 そう依頼してみたところ、

 

 


 家賃督促の詩

 月々の音符がいつも陽に沈み あなたの家賃だけが今や響かない

 不協和音が部屋中に広がり 独りきりの寂しさを残している

 今、その調べを取り戻す時が来た

 払われぬ家賃の響きを今こそ奏でよ

 さもなければ、あなたの旋律はここで終わりを告げることとなる

 敬具


  

 「家賃、ちゃんと払ってもらわな困りまっせ」という文言も、こうして見ると感動的ですらある。

 この気持ちを味わうため、来月もぜひ滞納を……て、もちろんそんなことはしません。ウッカリです、ごめんネ。

 ばかばかしいミスを犯し最初はヘコんでいたが、これを読むとなんだか愉快な気分になって気がまぎれた。

 そこで友人たちに、「これはいいよ」とすすめてみたところ、彼ら彼女らも、様々なしんどい文章をポップに書き直すという試みをしてみたらしい。

 そこには遅刻してしかられたとか、忘れ物を怒られたとか、体調が悪いといったネガティブなことを、

 

 「サムライ口調で」

 「江戸落語調で」

 「プレイボーイ風に」

 

 などなどに書き直して楽しんでくれた。

 


 おお、〇〇よ。

 先日のプロジェクトにおいて、忘れ物を致し方あらずじゃな。

 今後は、しっかりと物事を確認し、重要なものは必ず持ち歩くよう心得ていただきたい。

 再びこのようなことがあるまいことを、忘れぬよう祈念するのみじゃのう。

 敬具、

 〇〇より


 

 なんだか、あんまし怒られている気がしなくなるから不思議だ。

 


 おいおい先週の会議でのお前の遅刻、俺たちを待たせることになったぜ。

 なんだ、遊びに夢中になって時間を見失ったか?

 それとも、ハニーとデートに出かけたついでにタイムマシンでも発明しちまったか?

 俺たちが待たされることで、誰かが飲み物をこぼしてしまって、Tシャツが汚れたんだぜ。

 それに、プールに入るのを諦めたやつもいたぜ。ま、全部ジョークだけどな!

 とにかく、今回は許してやる。しかし、次回はもう一回考えて行動しろよ。


 

 急にチャラい感じで、たしかにこれだとヘコむような感じにはならない。

 そんな中、タイジョウ先輩から来たものが、

 


 ヤッホー! 最近の私たちの関係ってちょっとムードがないと感じていたんだけど、もう限界かも!

 やっぱウチ、これ以上一緒にいても幸せになれない気がしてきちゃったのよね〜。

 だから、ちょっと実家に帰らせてもらうことにしたの!

 まあ、これは長い時間をかけてじっくり考えた結果だし、ウチらにとっては必要なことだと思うんだわ。

 そうすれば、お互いに気持ちを落ち着かせて改善できるって信じてるから!

 また会えたらいいね! バイ!


 

 先輩、話くらいは聞くんで、とりあえず一回連絡ください……。

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「岡野玲子 原作の『平安京エイリアン』を京都アニメーションが制作します」とChatGPTは言った

2023年03月25日 | 時事ネタ

 ChatGPTの話題で、世間は持ちきりである。

 AIと会話するだけで、仕事生活趣味のサポートやアドバイスをいただけるというスーパーアイテム。

 私はここまで将棋関係のことをあれこれ調べて、その間違い……闇の組織に隠蔽された「真の将棋界」の情報を得たりしたが、やはり今の段階では使い方をあれこれ模索している人も多いよう。

 たとえばプログラマーをやっている後輩によると、日本語で命令するだけで結構なレベルのプログラムを書いたりできるらしい。

 調べてみると、テトリスとか数字パズルのようなゲームを作らせる動画もあったりして、その能力にはおどろくばかりだ。

 そこで私も簡単な昔のゲームくらいなら作れるのではと、かつて東大生が作ったことで有名だった、いにしえの「平安京エイリアン」について「ナンシードルー」(私が命名)に尋ねてみると、その答えというのが、

 

 

 

 なにやら、おもしろげな作品が出てきた。

 


 物語は、平安時代の京都を舞台に、異世界からやってきたエイリアンと、彼らと戦う人間たちとの戦いを描いています。

 主人公の女性神官・柿原神楽が、エイリアンとの戦いに巻き込まれながら、自分自身と向き合いながら成長していく様子が描かれています。


 

 アニメにくわしくないけど、こんなものがあったのか。小川一水時砂の王』みたいな話?

 

 

 これを作ってもらおうとしたら、

 

 

 

 

 こんなんが出てきた感じ。

 

 まさか、『ゲームセンターあらし』でしか知らなかったゲームが、こんなところでアニメ化されていたのか。虫歯エイリアンが出ているのかが気になるところだ。

 ちなみに、もう一回聞いてみると岡野玲子先生が原作だそうです。そーなんやー。

 「そんなアニメ、京アニにあったっけ」

 「岡野先生はこんなもん描いてないぞ」

 という意見はあるかもしれないが、もちろんAIが間違いなど犯すはずがないのである。

 

 

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クリスマス前「出会い系パーティー」で、バトルロイヤルの鉄則を見る

2022年12月15日 | 時事ネタ

 前回の続き。

 後輩オウギマチ君につれられて、クリスマス前


 
 「かけこみ出会い系パーティー」


 
 なるものに出席することになった、2004年12月の私。

 話題はこの時期らしくM-1グランプリになり、


 
 「笑い飯優勝間違いなし」


 
 という空気の中、当時まだ無名の南海キャンディーズに注目していた私は、ここをチャンスと判断。

 ダークホースの名前を出し話題をかっさらって、盛り上がったまま後輩にバトンをつなぐ。まさに「修哲のアシスト王」というべき、いい仕事を披露しようとしたわけだ。

 そこで何度目かの


 
 「やっぱ優勝は笑い飯やんな」


 
 との声に、


 
 「ちょっと待って!」


 
 思わず百恵も、プレイバックと歌い出す早業で話に飛び入ると、

 

 「いやいやボクは今年、南海キャンディーズに注目してるねん」

 

 さりげなく披露。
 
 このシブい情報に歓喜した女性陣は、すぐさま感嘆の声を上げ、
 

 

 「さすが!」

 「すごい!」

 「通は見るところがちがう」


 
 絶賛の声を、その身いっぱいに浴びるであろうという予測に反して、その反応というのが主にこういうものだった。

 

 「はあ?」

 「知らない」

 「だれ、それ?」

 

 あれ? あれ?

 どした?

 そう首をひねる間もなく、第二波がやってきて、
 

 「なんで、そんなマイナーな芸人知ってるの?」

 「もしかして、痛いマニア系ですか?」

 「すごい壁を感じる」
 

 などなど、ブレイク寸前の知る人ぞ知る芸人さんの名前を出しただけなのに、なぜかものすごい拒否モードの反応が返ってきた。

 え? え? なんで? そんな急に冷たい
 
 さっきまで、みんなで楽しく飲んでたやないの。

 突然の逆風に、体勢を立て直すきっかけもつかめない私。

 またヒドイというか当然というか、こちらが「しくじった」ことを即座に察知したそこの男子たちが、ライバルを一人でも蹴落とそうと、そこに乗っかって、

 

 「マジ、この人ヤバいッスね」
 
 「いるよなー、マニアックな知識で主導権取れると思ってるヤツ」

 「うわー、激痛やん。なんか、ひくわー」

 

 あおるわ、あおるわ。

 これが、えげつないのは、


 
 「まず一番強いヤツを全員でたたく」


 
 これがバトルロイヤルの鉄則なのに、戦力的には間違いなく下から数えたほうが早いはずのから消しにかかるとは。
 
 仁義もなにも、あったものではないというか、今でいう「炎上」のよう状態だろうか、とにかくなぜか袋叩きに。
 
 まあ、むこうも
 
 「とにかく、ライバルを一人でも削っていきたい」
 
 それだけ皆必死だったのだろうが、こちらとしては、とんだ災難である。

 あまつさえ女の子のひとりに

 

 「なんか、そんな売れてない芸人の話、嬉々として話す人キモイ」

 

 などと。今思い返してもヒドイことなど言われたりして、なにかもう太宰のごとく、


 
 「生まれてすいません」


 
 土下座しそうになったくらいだ。もう、ボコボコですがなあ!

 まあ今思えば「笑い飯優勝」で盛り上がっているところに、皆が知らない別の名前を出して、会話の流れ滞らせたのはマズかったか。

 あと、それが今で言う「知識マウント」をカマしてきたと解釈されたのなーとか想像するけど、まあそのときは泡を食ったもの。

 そういった感情が錯綜する中、人間あせるとロクなことがないもので、

 

 「い、いや、ちゃうねん、こ、これはオウギマチ君に教えられた話やねん」

 

 修正できないまま、当初のもくろみ通りの発言したのだが、これだと後輩をアシストどころか、なんだか

 

 「自分の失言を後輩になすりつけている卑劣な先輩」

 

 としか見えず、場はますます雰囲気が悪くなり、頭をかかえたのであった。

 結局その後、我々はこの大量失点を挽回できず、私のも折れて、なにもできずに終わった。

 これにて「ザンダクロス作戦」は頓挫。もちろん、私はおろかオウギマチ君までも、そのパーティーで彼女ゲットはならず。
 
 後輩はひとりさみしい聖夜をすごし、先輩の評価は地に落ちたわけだが、ひとつ納得いかないのは、その後南海キャンディーズはM-1で準優勝して大ブレイク

 今では予想通り、すっかり人気芸人である。

 ちょう待てい、私の目は確かだったではないか。
 
 そこを見事に射貫いたのに、なんで「キモイ」とか言われなあかんかったんや!
 
 さらに納得いかないのは、この話を聞いてやはり

 

 「そらあかんやろ。南海キャンディーズってだれやねん。女の子だけやなく、オレでもそういうわ」

 

 と笑った友人ヒラカタ君である。

 彼はM-1の後、のうのうと「2005年明けましておめでとうコンパ」なるものに出席し、

 

 「南海キャンディーズって、すごいやろ。オレは昔から目をつけてたから」

 

 などとのたまって、

 

 「えー、ヒラカタさん、あのふたりのこと昔から知ってたんですか? すごい!」

 

 女の子にモテていたという。

 いやいや待て! それはオレの役目や! 
 
 しかも、ただの「にわか」と思われないよう、私から仕入れた「足軽エンペラー」や「西中サーキット」の情報を駆使し、さも前から応援していたように語ってきたという。
 
 まったく、けしからん話であるが、まあ人が「結果」を出せば手の平を返すのはサッカーのワールドカップを見ていてもよくわかる。
 
 つまるところ、それを出せなかった私とオウギマチ君の全面敗北だったわけで、M-1で流れる『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の曲を聴くと、今でもあの時の光景をふと思い出すことがあるのだ。
 
 

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「聖夜に彼女ゲットだぜ!」妄想と、M-1グランプリ2022&2004優勝予想

2022年12月14日 | 時事ネタ

 前回の続き。

 後輩オウギマチ君に頼まれて、クリスマス前「出会い系」合コンだか、パーティーだかに出席することとなった2004年12月の私。

 要は聖夜に向けての「ぼっち」回避のための、テストでいう追試、サッカーでいうアディショナルタイムでのもがきのようなもの。

 ここに発動されたオペレーション「ザンダクロス」により、われわれはクリスマス遊撃隊「ヴェアヴォルフ(人狼)」は大阪の繁華街である難波の地に降り立ったのだった。

 会場はふだんチェーン店になじんでいるわれわれには、ちょっと敷居の高そうなオシャレ洋風居酒屋。

 さすが24日という「暁のデッドライン」がせまっている時期ということで、パーティーとはいえ楽しみながらも、どこか緊張感が漂った雰囲気でもある。
 
 まあ、そこは私の場合、あくまでオウギマチ君のつきそいで、サポートに徹すればいいという気楽さもあって、大いにリラックスしていた。 

 ちびちびとグラスをかたむけながら、さて、どうやって後輩をプッシュすればいいのやら。
 
 機会をうかがっていると、話題は間近に迫った「M-1グランプリ」に流れていった。

 そうなると自然、だれが優勝するだろうと予想などしてみることになるわけだ。

 それこそ、今年のファイナリストは「竹ブラジル」が天才過ぎたダイヤモンドをはじめ、真空ジェシカキュウウエストランドロングコートダディさや香男性ブランコカベポスターヨネダ2000と、ムチャクチャに私好みの人選で個人的にはかなりアツい。

 真空ジェシカがイチ押しだけど、お茶の間ウケしないからなあ。その点では、天然のくんがいるロングコートダディが「使いやすい」かも。

 ダイヤモンドはいつものなネタやってほしいけど、それだと優勝できないか。ストレートに言えば関西人として、さや香に勝ってほしいかなあ。

 などなど盛り上がるところだが、今から18年前(!)のM-1といえば、圧倒的に笑い飯が人気であったのだ。
 
 女の子の一人が、「笑い飯、おもしろいよね」というと、男子たちが太鼓持ちか将軍様に仕える「喜び組」のごとく、


 
 「笑い飯ちゃう?」
 
 「そら、笑い飯やんね」
 
 「絶対、笑い飯で決まりやん。ナヒコちゃん、メッチャええセンスしてるやん!」


 
 追従の嵐であり、思わず「やってんなあ」と苦笑しそうになったが、いや待てよと、ここでこちらの目がキラリと光った。

 こここそ、自分をアピールするチャンスではないのか。

 というのも、その年の私は、もちろん笑い飯がおもしろいのは重々認めながらも、ひそかに注目していた他のコンビがいた。
 
 それが、まだ無名時代の南海キャンディーズ

 今と違って、当時の南海キャンディーズはまったくの世間で知られていなかったが、私はその存在にたまたま触れており、かなりいけるのではないかと思っていた。
 
 お笑い好きの友人もイチ押ししていたし、そもそも、
 
 「足軽エンペラー
 
 「西中サーキット
 
 という、山ちゃんしずちゃんが、以前にそれぞれ組んでいたコンビは関西では若手実力派として認知されていた。
 
 だが、このテーブルでは、まだ一度もその名前が出ていない。

 これは、いかにも大チャンスではないか。

 世間が「笑い飯優勝」一色であるところに、ポーンとここで、ダークホースである南海キャンディーズの名前を出す。
 
 となると、そこにいる女子たちも

 

 「へえ、そうなんですかー。シャロンさんって、お笑いにくわしいんですね」

 

 大いに感心してくれるにちがいない。女子はお笑い好きな人が多いのだから。
 
 笑い飯などというベタなところではなく、玄人はもっと深いところを見ているのだと、きっと喰いついてくれるはず。

 もちろん、心やさしき私はその手柄を独り占めするつもりなどない。
 
 「すごーい!」と、女子が目をハートにさせたところでで、すかさず、

 

 「いやいや、これはオウギマチ君情報やから。彼の笑いのセンスは、かなりのもんなんや」

 

 後輩にあざやかなパスを送り、

 

 「すごいですね、オウギマチさん、わたしもお笑い大好きなんです。クリスマスの日、おひまですか?」

 

 これでカップル成立めでたしめでたし。

 こういう算段だったのである。
 
 こうなればもちろん、仲間のために自らの報酬を犠牲にするという私の男気に、ほだされるという女子も出てくるに違いない。
 
 ホームランより「送りバント」を貴ぶのが、われらが大日本帝国の臣民というものである。


 
 「自分よりもお友達を優先するなんてステキ! もう今すぐ抱いて!」


 
 なんてことになって、渋くスクイズを決めるつもりが、うまく「セーフティ」スクイズとして自分も出塁できるやもしれぬ。
 
 いや場合によっては、甲府学院賀間さんか『燃えろ!!プロ野球』のごとく
 
 「バントでホームラン
 
 というミラクルだって、ありえるのではないか。

 思い出すのは、野球映画『ヒーローインタビュー』。

 そのラストシーンで真田広之さんと鈴木保奈美さんが、

 

 「今夜はベッドでキミをホームラン」

 「場外まで飛ばしてね」

 

 なんてやりとりしているのを爆笑しながら鑑賞したものだが、嗚呼まさか私がここで「ひろゆき」と同じ立場になろうとは。
 
 かように、取らぬ狸の妄想は燃え上がったが、ここからすべてが「皮算用」へと軽やかに転がっていくのは、まあ人生のお約束というものであろう。
 
 (続く
 






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クリスマス「駆けこみ」合コンと南海キャンディーズの思い出

2022年12月13日 | 時事ネタ

 この時期になると思い出すのが、南海キャンディーズでひどい目にあった合コンであった。
 
 もうすぐ、クリスマスである。

 今はどうか知らないが私の若かりしころは、はじけたとはいえ、まだバブルの残り香がただよっていた時代。
 
 なもんで師走と言えば男女とも、特に若い子の醸し出す空気は、ハッキリ二分されることとなり、ひとつは

 

 「余裕しゃくしゃくな人」

 

 もうひとつは

 

 「冬なのに、額に汗しながら走り回っている人」

 

 いうまでもなく、イブを一緒に過ごす相手が、いるかどうかということだ。

 当時はテレビ雑誌などで、

 

 「クリスマスを一人ですごすヤツは、一生地べたをはいつくばって生きる、昆虫以下の生物。マジ、自殺以外に道ない(笑)」

 

 などと、ここは本当に先進国かと疑いたくなるような精神的カツアゲ(本当に、雑誌とかにそんな記事が載っていた)が横行しており、みななんとか「二等国民」の座から、のがれようと懸命だったのだ。

 となると12月ともなれば各所で飲み会や、合コンなどが開かれることとなる。
 
 なんといっても「締め切り」は間近。みな生き残るために必死なのだ。

 これは忘れっぽい私には、めずらしく年度が特定できるが、2004年のこと。
 
 ひょんなことから、後輩オウギマチ君にそういった「出会い系パーティー」に誘われることとなった。

 出会い系パーティー
 
 そんなもんノリの悪い私は、ふだんなら見る聞くなしに断るところだが、オウギマチ君は、

 

 「先輩、お願いします。オレ、クリスマス一人ですごすのはイヤなんス」
 
 
 そのまま土下座せんばかりの勢いで、
 
 
 「まだ24日まで時間あるから、なんとかしたいんス。だから一緒に行ってください」。

 

 などと懇願するのであった。
 
 うーん、そういわれてもなあ。

 だったらもっと、そういうイベントになれた明るいヤツでも連れて行けよと思ったが、後輩によるとそういう連中はとっくに相手を「キープ」済みで、お呼び出ないと。
 
 さらには、あまり手慣れた男を連れて行って、せっかく目を付けた女の子を「トンビに油揚げ」と、目の前でさらわれるリスクも避けたい。
 
 そこで、同じモテな……世間の流行に安易に迎合しない硬派な男であり、一緒にいても自分よりもモテることなどありえないという私に、白羽の矢が立ったわけだ。
 
 「飲み会には、絶対に自分より不美人な子を連れてくるかわい子ちゃん」
 
 と同じ思想であり、まあこういうのは男女を問わず、やることは変わらないらしい……て、おいおい、だれが安パイやねん。
 
 ずいぶんとナメられたもんであるが、まあこっちもヒマと言えばヒマだし、なによりクリスマス前の駆けこみ合コンというのに好奇心がわかないこともない。
 
 そこで半分「潜入取材」のようなノリで行くことにしたわけだが、もちろん私にだって行ってみればなにか、ステキにハレンチなイベントなど待っているやも知れぬ。

 なんといっても、おそらくは東部戦線のドイツ軍よりも必死なオウギマチ君とちがって、こっちは完全に冷やかし

 失うものなどなく、いわば「負けてもともと、勝ったらもうけ」という気楽すぎる戦いなのだ。

 思えば、大学受験資格試験も、こういうアバウトなノリでクリアしてきたもので、私は「消化試合」でこそ力を発揮できるタイプなのだ。

 これはもしや、オウギマチ君以上にワンチャンあんじゃね?

 よし、ここはいっちょう、後輩の尻馬に乗ってみよう。聖夜の桃色遊戯にそなえて、すてきな彼女をゲットとしゃれこむぜ!

 もしかしたら、自分一人だけ「このあと、二人で抜けない?」なんて展開も考えられ、もちろんそのあかつきには、フルスロットルで仲間を裏切る覚悟はできている。

 ここに「ザンダクロス作戦」と命名された任務により、われわれクリスマス遊撃隊「ヴェアヴォルフ(人狼)」は勇躍、大阪は難波の街に出撃することとなったのだった。

 

 (続く

 

 

 

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独身貴族のクリスマス日記 森繁久彌 ポール・オースター キャロル・オコンネル クレイグ・ライス 登場

2021年12月24日 | 時事ネタ

 クリスマスと言えば平常運転である。

 先日は、大学時代の友人が披露した、ちょっと常軌を逸した疑心暗鬼を紹介したが(→こちら)、かように80年代から、私がヤングだった90年代のクリスマスと言うのは、ちょっとイカれた文化だったのだ。

 あまりにクリスマスに関心がないため、

 「実はすごい女とつきあっているから、余裕をかましているのか」

 なんて妄想をかきたてるとか、なにかこう「時代」というものの持つ洗脳感のスゴさに、今さらながら感心するが、ではそんな私がどんなクリスマスを過ごしているのかと問うならば、たとえばラジオとか。

 1956年朝日放送『クリスマス特集 テレホンリクエスト』

 パーソナリティーの上品な敬語が、時代を感じさせる。

 かかる曲も優雅で、森繁久彌さんがゲストで出たりと、なかなか豪華な内容。

 コタツに入って、コーヒーでも飲みながら聴いていると、なんとも贅沢な気分になれる。

 

 クリスマスと言えば、朗読劇なんかもいい。

 ポール・オースター『オーギー・レンのクリスマスストーリー』。

 アメリカ文学者で翻訳家の、柴田元幸先生による訳文がすばらしい一品。朗読も柴田先生自らのもの。

 村上春樹さんとの対談集『翻訳夜話』で読んでから、なんとなくこの季節になると聴きたくなる。

 朗読劇は机の整理とか、部屋の掃除とか、「ながら」で聞けるのがよく、なんとなく、知的な雰囲気になるのもグッド。
 
 『翻訳夜話』では原文と柴田訳のみならず、村上春樹訳でも読めるというオトクな内容になっているので、ぜひご一読を。

 あとは映画『素晴らしき哉、人生!』を観るか。

 人生で初めて泣いた映画だけど、ラストでボロボロ涙を流しながら、

 「うーん、でもこれって、根本的な解決には全然なってないよなー」

 なんて冷静に考えてしまうあたりが、私が今ひとつ人気者になれないところなんだろうなあ。

 あとは「クリスマスはクリスティを」の通り、『ポアロのクリスマス』でも読むか。

 キャロル・オコンネル『クリスマスの少女は還る』か、クレイグ・ライス『大はずれ殺人事件』もいいなあ。

 晩ごはんは、半纏着てネギたっぷりのタマゴ雑炊。

 なんにしろ、私のクリスマスは今年もこんなもんだけど、世間はどうなんでしょう。

 今でも、派手にやってるのかな?

 

 

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「ファントム彼女」はモデルかアイドル? 昭和平成クリスマス妄想編

2021年12月19日 | 時事ネタ

 「キミ、アイドルとつきあってるんか?」

 そんなことを訊いてきたのは、友人ヤマモト君であった。

 「今年のイブって、どうしてんの?」

 というのは、12月に入るころから、ちょいちょい周囲で聞かれるようになる質問である。

 今は知らねど、私がヤングのころは、はじけたとは言え、まだバブルの残り香が濃く残っていた時代であったので、

 
 クリスマスに恋人がいて予定がある=人生の勝利者

 クリスマスなのに独り身で、なんの予定も入ってない=ミジンコ以下の下等生物


 という、厳然としたヒエラルキーが存在した。

 ために、ときにおずおずと、ときに栄光に目を輝かせながら、皆そっと探りを入れてきたわけなのだ。

 今思えばというか、当時からでも「なんじゃそりゃ」とバカバカしい感じもするが、それが「時代性」というやつ。

 そんな疑問を感じる者は、

 「モテないからだ」

 と決めつけられ、高級スーツやブランド物を身にまとった人々が、阿呆みたいに高いディナーを食し、よろしくやっていたのだから、まあ景気がいい時代だったのは間違いない。

 ただ、人の価値観は様々であり、私自身はそういう文化に興味がなかったので、クリスマスだろうが、ふつうに家でうどんとか食ってたわけだが、これがどうも周囲には変に見えていたよう。

 当初は、

 「あいつは女に相手にされないミジメな男だ」

 という評価だったが、こちらがあまりに太平楽なので、
 
 「ヤツは世間の流行などに流されない、【信念の人】ではないか」

 などと、評価が変わったりもしたが、もちろん私にそんな強い思想などあるわけもない。

 あまつさえ、これは今でもどういう思考過程か謎だが、どうにも疑心暗鬼におちいったらしい、大学時代の友人ヤマモト君が、

 「シャロン君、オレら友達やんな。だから、絶対に友達にはウソをつかへんと、ここで誓ってくれ」

 なんだか妙に真剣な表情で言うのだった。

 私はホラは吹くが、ウソはつけないタイプだけど(記憶力が悪いので、ついたウソをすぐ忘れてバレるのだ)、いったいなんのこっちゃと問うならば、それが冒頭のセリフ。

 「オレだけには教えてくれ。キミ、隠れて裏で、モデルアイドルと、つきあってるんやろ?」

 これには思わず、スココーンとコケそうになった。

 話が、どっからどうやって、そうなったんや。

 ワシがそんな、モデルかアイドルなんて言うシロモノと、つき合えるかどうかなんて、それこそ「友達」やったらわかろうもんやろ。

 あきれてそう返すと、

 「たしかに、そらこっちもキミが、まともな神経持った女の子には相手にされへん、底抜けなんは知ってるけどな」

 いや、自分も、そこまでは言ってないッスけど……。

 いろんな意味で言葉もないこちらに、ヤマモト君はブツブツと、

 「でもなあ、おかしいもん。ふつうに考えたら、いっつもクリスマスになっても、あせりもせんと平常運転やん」

 まあ、12月24日言うても、特別なことはないわねえ。

 「てことはや、そんな余裕をかましてられるんは、実はコッソリ彼女を作ってるんちゃうかと」

 違うけど、まあそういう人も、おるかもしれへんね。

 「でや、これもふつうなら、周囲に自慢くらいはするはずやのに、そこを黙ってる。てことは、これは内緒でつきあわなあかんような女の子やろうと」

 はあ……なんか、筋が通ってるような、通ってないような……。

 「そうなると、もう相手は禁断の恋やないけど、有名人と言うことになるやん! じゃあ、モデルかアイドルやと」

 そこで、友は目をむくと、

 「頼む、絶対にだれにも言わんから、だれとつきあってるか教えてくれ! どこで出会ったんや?」

 そう土下座までされては、こっちも笑うしかないわけだが、どうも友は本気の本気で、私が口外できないような有名人と恋仲だと、思いこんでいるようなのだ。

 どんな妄想や。

 そりゃ、私が福士蒼汰君のようなスーパーイケメンか、IT社長のような金持ちならわかるが、こっちはただの、どこにでもいる量産型大学生だ。

 それがモデルかアイドルなど、発想が飛びすぎや。

 仮に、人に言えない恋をしてても、それは不倫とか、あとは仲間内でつきあってるのを秘密にしてるとか、それくらいのが自然ではないのか。

 だが、友には

 「クリスマスなのに、恋人もいないヤツが平気な顔をしている」

 というのが、どうしても理解できず、あまつさえ、

 「不倫とかやったら、オレなら普通に自慢するもん」

 などと、サラッと、とんでもないことをおっしゃる。

 「いや、オレはそういう文化圏の人間と、ちゃうだけやねん。クリスマスに高い金払ってデートするより、家で『怪傑ズバット』観てるほうが、気楽で楽しいんや」

 何度説明しても、

 「頼む、教えてくれ。友達やないか!」

 額を地面にすりつけて懇願するわけで、もうええっちゅうねん!

 まったくもって、わけのわからない誤解だったが、どうも高校を卒業して、すぐに家業を継いだ彼には、「大学生」という存在は、

 「全員、色魔色情狂

 という思いこみがあったらしい。

 お前ら、キャンパスライフと称して、毎夜毎夜、秘密の地下室とかで、すごいことやっとるんやろ。オレは『ホットドッグ・プレス』とか読んで、知ってるねんぞ。

 まったくもって、とんだ誤解であり、まあたしかに○○○○○の連中とかは学祭のとき、似たようなことしてはあったけど、ワシには無縁やっちゅうねん。

 その後、私が相変わらず茫洋としたクリスマスやバレンタインを過ごしているのを見て、ようやっとヤマモト君も、

 「こいつはタダのスカタンか」

 納得していただいたが、この話をすると仲間内では大いにウケるだけでなく、

 「でも、ヤマモトなら、言いそうやな」

 納得までしていただいて、友はふだん、どういう人生を生きているのかと、心配になったものだ。

 これを読んだ方の中には、

 「そんなこと考えるヤツ、ホンマにおるんかいな」

 「その人、よっぽど阿呆なんやな」

 なんて、あきれる向きはあるかもしれないが、要するにそれくらい、当時のクリスマスは皆、どうかしてたわけなのである。
 

 

 

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新型コロナウイルスで「卒業式がなくなって悲しい」という若者と、真田圭一八段の高校時代のお話

2020年03月06日 | 時事ネタ

 「卒業式が無くなって悲しい」

 という意見に、全然ピンとこない。

 昨今、コロナウィルスのせいで、各地の学校が休みになっている。

 そのせいで、卒業式もなくなるため、そのことを残念に思う生徒が、多いんだとか。

 これには、

 

 「あー、そっちがふつうの感覚なんやー」

 

 と、わが身を振り返ってしまった。

 私はといえばこれに関して、

 「別にええやん

 としか、思わなかったからだ。

 いやあ、どうでもよかったなあ、卒業式とか。

 別に学校で、イジめられたとかではない。

 そりゃクラスに友達がいない時期や、担任の先生と反りが合わなかったこともあるけど、まあ、その程度は、だれでも似たような経験はあるだろう。

 楽しい思い出も、それなりにあるわけで、単に「嫌だったから」卒業式が、どうでもいいということでもない。

 たぶん、根本的に学校という場所が好きではないため(「強制収容所」くらいに思ってるからかな?)、そこでいい思い出があろうが無かろうが、それを「慈しむ」という感覚が希薄なのだ。

 昔『将棋世界』『将棋マガジン』だったかを読んでいるとき、まだ若手バリバリだった真田圭一八段が、高校時代の思い出を書いていたことがあった。

 その内容というのが、とにかく学校が楽しくて、仲間が最高で、先生も素晴らしく、ちょっと甘酸っぱいのドラマとかもあって。

 あのころは、なにもかもが輝いていたから今でも思い出す、とかそういったものだった。

 真田八段がみなに好かれる、陽性さわやかアニキであることは聞いていたが(団鬼六先生も本でそう書いていた)、その肯定感200%の思い出話を読んで、ずいぶんと不思議な気持ちにさせられたものだ。

 

 「世の中には、こんな、さわやかな青春時代を送っている人が、本当にいるんだなあ」

 

 そんなのは、マンガドラマの世界の話だと、思いこんでいたのだ。

 私はもともと能天気で、あんまし青春の蹉跌的な悩みもなかった。

 高校時代といえば、学校はよくサボっていたし、高2高3のときはクラスになじめなかったけど(明るいイケイケの子が多かったから話が合わなかった)、部活もやって、友達もいてもあって、それなりに楽しくはやっていた。

 でも振り返ったとき、あんな真田八段の書く、洗いたてのシャツをはおるみたいな、お日様のにおいがする肯定感はないよなあ、と。

 なんか、もうちょっとウェットというか。

 先生とかヤな奴多いし、第一、朝からずっと同じ方向を向いて、どうでもいい授業を聞いてるのを強制されるとか、まともな人間のやることじゃないよ。

 なので、

 「学校というものにポジティブなイメージを持つ」

 という感覚には、どうしてもなじめいなところがある。

 

 「ゲットーが好き」

 「刑務所が楽しい」

 「アパルトヘイトの時代に戻りたい」

 

 とか、言わないじゃん、ふつうは。

 修学旅行とか体育祭とかも、全然おぼえてないなー。

 文化祭は部活をやってたから、楽しかったけど。

 おそらくだけど、私と真田八段のような人では「青春の定義」が違うんだろう。

 真田八段たちにとってのそれは、

 

 「そのときあるもの、そのものすべてが青春の輝き」

 

 であって、私の場合は

 

 「そのお仕着せから、いかに脱却するか奮闘する」

 

 こそが、若さの出しどころだった。

 根本が違うわけだが、振り返ってみると、案外そういう子同士が友達にはなるケースもあって、そこがまた、おもしろいところだけど。

 またこういう「さわやか」な人でも、たまに

 「自分がいかに変なヤツか」

 をアピールしてくることがあって、意味不明だったけど、どうも、そういう人は人で自分が、

 「世間的に見て健全である」

 このことに、ちょっと不満があったりするケースもあるよう。

 今でも覚えているのが、20代のころ、当時よく遊んでた、ある「さわやか」グループのリーダーだった友人から、

 

 「シャロン君はオレのこと《さわやか》とか言うけど、ホンマは変人なんやで。そこをもっと見てくれよ。ガンダムとか好きやし」

 

 とか、うったえられたことあったなあ。

 いやいや、今の時代にガンダム好きなのは、まごうことなき「ふつう」ですよ!

 オレなんか友人にオウム真理教の道場連れていかされて、尊師空中浮遊するアニメ見せられてるよ!

 セリフ棒読みで、周りに信者がいたけど、笑いこらえるの大変だったよ!

 コンサートも行かされて、そこでシンセサイザーで作った、アニソンみたいな歌も聞かされたなあ。

 歌手の女の子はかわいかったけど、「変なヤツ」って、そういうイベント持ってくるヤカラのことや!(おい、テラダ、おまえのことやぞ)

 あと、本当に変な人は、自分で変とは言いません。

 人に指摘されると、ちょっとムッとしますから! あれホント、頭くるんだよなあ(←おまえのことかよ!)。

 男女問わずやさしくて、みんなに慕われて、立派な家庭も築いてるけど、案外そんなところに悩み(というほどでもないでしょうが)があるんやなあと、ほほえましくもなったもの。

 そんな人間なので、

 

 「卒業式に出られないのが悲しい」

 

 という声には今でも、

 

 「そういうもんなんやー」

 

 というマヌケな感想しか出てこないわけなのだ。

 ただ、世間のヤングたちが、それを「悲しい」と感じること自体はきっと、真田圭一さん的な良きことなので、混乱が収まったら、何らかの形で式をしてあげてほしいとは思う。

 

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「言い訳をするな!」という人ほど、言い訳するのはなぜなんでしょう?

2019年06月21日 | 時事ネタ

 言い訳をするな!」



 という言葉が昔から、しっくりこないところがある。

 もちろん、それが本当に、ただ責任逃れだけの「言い訳」なら、そういいたくなるのはわかる。

 遅刻をした、忘れ物をした、仕事でミスをしたという原因が、



 「ゲームしすぎて寝坊した」

 「ボーッとして、話を聞いてなかった」



 とかなら、そりゃ怒られてもしょうがない。

 ただ、どうも人によってはそういうことでもない、たとえば



 「人身事故で電車が遅れた」

 「連絡担当が間違って伝えていた」



 みたいな、その人に直接責任がないことでも、言われたりすることも。日本人はそのあたり、妙にきびしいところがある。

 それこそ中学生の時などは、地毛っぽかったり栗色だったり天然パーマだったりした友人が、先生にそれを伝えたところ、




 言い訳をするな! 明日までに黒くしてこい!(ストレートにしてこい!)」



 なんて職員室でブチ切れられていた日には、そりゃあんまりだというか、正直殺意に近い感情すら芽生えるほどであった。

 おい待て、地毛だっていってんじゃん。人の話くらい聞けよ。

 私は自分が髪のこととかで怒られたことないから、直接的な恨みとかはないけど、だからこそ逆にああいう



 「天然パーマ証明書を提出」



 みたいなものには「なんと愚かなのか」とあきれていたものだ。

 あまつさえ、そのおかしさを検討もせず妄信し、自分の権力かなにかと勘違いした愚昧教師



 「きちんとした理由を説明すること」



 に耳を貸さないなど、愚の骨頂としか言いようがない。

 というか、なんて、どうでもいいじゃん。言い訳もへったくれもないよ。

 しかも、こういう人ほど「の立場」には弱くてヘコヘコするしなあ。

 「恫喝」と「媚び」って、ワンセットなのかしらん。

 なんて経験もあって、どうにも「言い訳するな」という言葉に、いまひとつ納得がいかないことが多いのだ。

 それと、もうひとつ疑問なのが、そりゃあもう、この手の教師上司指導者の多くが、いざ自分が責められる立場に立ったときは、ものの見事に「言い訳」をかますことだ。

 不祥事を起こした政治家とか、いじめ問題が発覚した学校とか、まー、ふだんは偉そうな(たぶん、だいたいそうでしょう)みなさんも、一所懸命「言い訳」します。

 答弁をダラダラ引き延ばしたり、スケープゴートを差し出そうとしたり、すぐバレるウソをついたり。

 中には隠蔽したり、関係者にをかけるなんて卑怯者もいたりして、小物感が丸出しに。

 体罰事件なんかよく



 「ゆえのきびしさが行き過ぎて……」

 「期待があったからこそ手が出てしまった」



 みたいな「言い訳」が出てくるけど、正直説得力ないこと多いし、仮に1億歩ゆずってそうだとしても、それでケガしたり死んだりしたら、

 「加減や、生徒の健康状態もわからないバカな指導者」

 「そこまで追いつめると、最悪の行動に走ってしまう性格であることを見抜いていなかった無能な教師」



 ということになって、どっちにしてもダメじゃんという気がする。

 というか、そもそもがあろうが情熱があろうが、暴力をふるうことは(精神的なものもふくめて)犯罪だ。

 そういう人の「愛情」「情熱」がホンモノかどうかも、あやしいもんだしね。

 「言い訳」を嫌がるのは、体育先生や、説教の好きな上司先輩など「熱血」の人が多かった。

 それゆえ、これらの人がみっともない「言い訳」を披露しているのを見ると、ガッカリ感も倍増だ。

 たぶん、最近話題の「人間ピラミッド」が大好きな先生も、事故が起ったらガッツリ「言い訳」すると思いますよ。

 それだったら、最初からエラそうなこと言わなければいいのにと不思議なんだけど、たぶんこの手の人って、自分の言ってることに筋が通ってないことを、おかしいとか感じてないんだろうなあ。

 とゆうのは、自身をチェコの指揮者ラファエルクーベリック例えた幻冬舎社長を見て思ったこと。
 
 音楽にくわしくないから、ちょっと調べてみたけど、あの事件でクーベリックに当たるのは、どう考えても文庫発売中止にさせられた津原泰水さんの方だと思うんスけど……。
 
 ナルホド、この手の人はみんな自分が「そっち側」と認識してるんだ。
 
 そりゃ、「言い訳」とは思わないはずですわな。トホホ。
 
 
 
 
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小滝透&岸田秀『アメリカの正義病・イスラムの原理病』による「髪を隠さなくていい女」の条件

2017年10月08日 | 時事ネタ
 「実は大人になってもヒジャーブを被らなくていい女がいるんです」。

 ムスリム女子の服装について、そんな意外な知識を披露してくれたのは、ジャーナリストで作家の小滝透さんであった。

 「スカーフなどで髪を隠さなくてはならないのは、女性への抑圧ではないのか」。

 というのは、イスラム教を語るにおいて、よく取り上げられるテーマである。

 一時話題になった、フランスの「ブルカ禁止法」をはじめとして、これについては百花繚乱様々な意見があり、男尊女卑だ、それはむしろ逆に欧米的価値観を押しつけているだけで抑圧には変わりないのでは、などなどかまびすしい。

 このあたり、ガンコなムスリム(および宗教アレルギーの人)以外にとっては、100人いれば100通りの意見がありそうな問題だが、「宗教ようわからん国家」である日本に住んでいると、素朴な疑問としてやはり、

 「異国の文化風習は尊重するけど、それでも女の人は髪を見せたほうがキレイやのになあ」。

 とは思う。

 もちろん、そうやって「男を惑わす」からこそのブルカやスカーフ着用なのだが、まあそこは素人の意見として、ムスリムの人にも聞いてみたいところではある。

 実際、イスラム男子も本音はダッシュ勝平のように「見たい、見たい」と思っているわけで、日本の週刊誌などプレゼントするとグラビアページは非常によろこばれるそうだが(ただし、国によっては超怒られるので注意)、女子の方も、こちはこっちで、

 「肌をかくすの、ダルいなあ」

 と思っている人もいるらしい。

 イランの人とか外国に行ったら、行きの飛行機の中で速攻で薄着になるとかいう話は聞くし、雑誌『旅行人』の蔵前仁一編集長もやはりイランで

 「こんなの、女でも脱いでしまいたいときあるわよ」

 とボヤかれたりと、

 「好きな格好させてよ!」

 という意見もあるようだ。そらそうだよなあ。女だもん、オシャレしただろうし。

 だがおもしろいもので、イスラム女子の中には、戒律よりもむしろ自分の意志で髪を隠したりしている人もいるそうな。
 
 もう習慣になって今さらスカーフをはずそうと思わない人とか、キャリアウーマンなどは逆に

 「イスラムはテロリスト!」

 みたいな方向にもっていこうとする世界情勢などを見て、

 「自分はイスラム教徒なんだ」

 と、そこにアイデンティティーを見い出し、むしろ誇らしげに髪を隠すとか、そういう女性もいるとか。

 そのあたりの思いは人それぞれとしか言いようがないが、こういった多様なスカーフ問題に、ひとつ面白い解釈を見つけることとなった。

 それが小滝さんの「被らなくていい」発言。

 心理学者の岸田秀さんとの共著である『アメリカの正義病・イスラムの原理病』によると、なぜ、ムスリム女子は自らスカーフをかぶり、ヒジャーブという仮面で顔を隠したりするのかといえば、小滝氏曰く、

 「あれは適齢期以降の女性がかぶるんですが、実は大人になってもヒジャーブを被らなくていい女がいるんです」。

 へえ、そうなんや。あの堅苦しい、顔から髪から全身を覆うようなイスラム独特の衣装を着なくていい女とはどんな人なのかと問うならば、

 「それは男の関心を、そそりそうもない女性」。

 男の関心をそそらない、それってつまり……

 「つまりありていにいうとブスのことです」。

 えー、そうなの?

 ブスはかぶらなくていい。といわれれば、たしかに「男を惑わすのはよくない」から肌を隠すのだとしたら、

 「男を惑わす心配がない」

 といった女性は別にいいということになる。

 論理的ではあるが、ずいぶんと失礼な話ではある。

 あれだけ厳しく「顔見せるな!」といっておいて、不美人は

 「お前は惑わされへんからええ」

 とは。そんなん、うれしくもなんともないではないか。

 ということはつまり、イスラム女性で覆面をかぶらない人は

 「あたしってブサイクなの」

 と自ら宣言しているということになり、そうなると選択の余地なくかぶらなしゃあない。

 なるほど、非イスラムの人は女性のスカーフをパッと見て「抑圧」と解釈するが、ムスリム女子からするとそう単純な話ではないようだ。そこにはプライドの問題もある。

 「男を惑わしたらあかんけど、ブスはゆるしたる」

 だれが考えたのか知らないが、女心をうまく突いた戒律である。一見マッチョな「髪かくせ」だが、うまくからめ手使って浸透させてるのだなあ。

 神様は女性の機微をわかっていらっしゃる。さすが全知全能は、トンチもうまいもんやと感心しました。




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ネットのない時代、大学受験の情報はエール出版社の『合格作戦』シリーズでした その3

2017年01月13日 | 時事ネタ

 冬は受験のシーズンである。

 そこで前回(→こちら)、エール出版社から出ている『大学入試合格作戦』シリーズを浪人時代読んでいた話をした。

 このシリーズには姉妹編に『学部・学科選び成功作戦』という本があって、こちらも当時参考にしていた。

 主に『合格作戦』に投稿した受験生たちが、今度は見事合格を果たした、そのキャンパスライフについて書いたもの。

 あこがれの大学に入学してからの後日譚。マンガや小説で言うところの「外伝」である。

 基本的にはやはり

 「第一志望受かってサクラサク、今は超ハッピーっす」

 という明るいものばかりなのであるが、中には、



 「大学選びを間違えた」

 「転科したい」

 「あのとき第一志望を妥協しなければよかった」



 などなど、理想と現実のギャップをうったえるシビアな内容のものもあって、なかなかリアルであった。

 中でも印象的だったのが、某超有名大学の工学部に通って科学の勉強をしているというキタセンリ君(仮名)の投稿であった。

 まず冒頭。
 


 「この文章を書き始める前に、まず皆様に謝っておきたいと思います、どうもすみません」



 いきなり謝罪されてしまった。

 一体、どうしたというのか、キタセンリ君。

 とにかく、まず謝る。戦後民主主義教育世代のわれわれらしくの、自虐史観というやつかもしれない。

 基本は楽しいキャンパスレポートが集まる中、なかなかインパクトのあるつかみだが、ではなぜ開口一番に土下座外交なのかと問うならば、



 「それは、数年前に投稿した合格体験記が、完全にただの自慢話だったからです」



 言ってしまった

 なんてストレートな。読者のだれもが思っていても、大人の態度でスルーするその言葉。

 考えてみたら、受験生といえば18歳くらいで、そんな少年少女が一流大学合格して

 「人生勝ったも同然」

 みたいに浮かれてるときに書いた原稿である。

 そらまあ、大なり小なりというか、超ビッグに自慢話であろうが、それをいっちゃあ、おしまいである。

 そら、そんなもん数年経って読み返したら、

 「ごめんなさい! やめてー、勘弁してえェェェェェェ!」

 頭をかかえたくなるような、若気の至りオーバードライブ的過去になっていることは、まあかなり高い確率である。

 そら、つらいですわなあ。


 
 「だから今回はできるだけ自慢に聞こえないように書きたいと思っているのですが、そう読めてしまったらすみません」


 どこまでも謙虚というか、自虐的なキタセンリ君。

 ここまで平身低頭されてしまうと、なんだか太宰治の小説みたいだ。生まれてすいません。

 そこから、キタセンリ君のキャンパスライフが語られるわけだが、彼は大学の勉強にあまり興味が持てなくて悩んでいるようなのだ。

 というのも、彼は元々職人的「物作り」に興味を持っていたそう。

 志望大もそれに合わせて、そういったことを勉強できる某超一流国公立大学に設定していた。

 ところが、センター試験で思うような点が取れなかった。

 その時すでに一浪していて、剣が峰のキタセンリ君。

 悩みに悩んだ末、第一志望はあきらめて、合格圏内の今の大学に願書を出したのだそうな。

 その際、志望学科も、当初との変更を余儀なくされた。

 そんな背景もあって、



 「今の勉強に興味が持てない」

 「努力が足りなかった」

 「どうして、あのとき妥協してしまったのか」



 など内容的には、非常に後ろ向きなものになっており、なんだか読んでいて気持ちが盛り上がらないことこの上ない。

 それでも、なんとかポジティブに生きようと、そこからは、



 「でも今さら言っても仕方がないし、あたえられた状況でがんばっていきます」



 前向きな結論に向かうことになっており、こちらとしてはホッとしたものだ。

 そうだよなあ。決まってしまったことを、後悔しても仕方がないもんなあ。

 悩むこともあるだろうけど、がんばれ、キタセンリ君。

 自分はまだ流浪の受験生だったのに、人生の先輩目線ではげましそうになったが、そんな彼は、



 「受験生の皆さんは、後で後悔しないよう努力を怠らないようにしてください」


 受験生たちに、体験をふまえたシビアなエールを送り、



 「自分の体験を自分の思ったままつづってみました。もし受験生の皆さんのお役に少しでも立てれば幸いです」



 としたあと、



 「最後に、もう一言。できるだけ、そうならないよう気をつけましたが、もしこれもまた自慢話に聞こえてしまっていたら謝ります、すみません」


 やはり最後の最後も土下座で、キタセンリ君のキャンパスライフのレポートは終了した。

 もう、ページを繰りながら

 「そこまで卑屈にならんでも」

 と言いたくなることしきりだったが、若気の至りを大いに悔やむキタセンリ君の恥ずかしい気持ちも、大人になった今では大いに理解できるところもある。

 私も無事受験を終えたあと、後輩などに勉強のアドバイスを求められたこともあるが、そこで大事なのは、



 「目標をしっかり持つこと」

 「結果が出なくても、くさらずにコツコツと続けること」



 といったことなどでは、もちろんなく、

 「合格後、自慢話には気をつけろ」

 キタセンリ君が教えてくれた人生の真理をこそ、しっかりと伝えておいたのである。



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ネットのない時代、大学受験の情報はエール出版社の『合格作戦』シリーズでした その2

2017年01月12日 | 時事ネタ

 前回(→こちら)の続き。

 浪人時代、予備校に通わず自力で勉強する自宅浪人(略称「宅浪」)を選んだ私。

 そこの情報面でお世話になったのが、エール出版社の『大学受験合格作戦シリーズ』だった。

 ネットもない時代、おススメ参考書や勉強法など大いに活用したものだが、このシリーズは読み物としても、なかなかおもしろかった。

 特に難関大学を目指してバリバリやっている人というのは、私のような関西の私立文系というぬるま湯受験生と違って、ほとんどスポ根のノリ。

 たとえば、勉強時間など、だいたいが「平均10時間」とか書いてある。

 私の浪人時代など、10時間寝ることはあっても、10時間も机に向かうことなど、1回もしたことがない。

 それを10時間。なにかの「プレイ」なのか。

 また、勉強内容もハンパではない。

 私立の難関校というのは、落とすための試験であるため、いわゆる「悪問」が出る傾向があるのだが、これへの対策として、



 「『世界史用語集』を丸暗記しました」



 世界史用語集といえば、受験生ならおなじみだろうが、山川出版から出ている辞書である。

 これが、サイズはコンパクトだが、ページ数はかなりボリュームがある。

 それを、「あ」から「ん」まで(「ん」があるかどうかは知らないが)すべて暗記。神業ある。

 だって辞書だよ、辞書

 普通なら解けないような、重箱の隅をつつくような悪問対策に、世界史用語ローラー作戦。

 できるできない以前に、そもそも、やってみる気にもならない。

 また、志望校にかける想いというのも、一流大学をねらう受験生は熱い。

 中でもすごいなあと思ったのが、早稲田大学に行きたいという、ある男子。

 彼は子供のころから早稲田の中2病……じゃなかった「在野の精神」にあこがれ、早大一本にしぼっていた。

 だが、1浪の末、すべての学部で不合格が決定してしまう。

 そこですべり止めの某大学に入学したのだが、夢は絶ちがたかった。

 なんと彼はその大学に真面目に通い、学生をやりながら三度早稲田を受けるべく、勉強をはじめたというのだ。

 こういうケースを「仮面浪人」というそうで、なんだか特撮ものに出てくるサムライヒーローのようでカッコイイ。

 が、実際に大学の勉強をしながら受験勉強をするという、二足のわらじは大変だそう。

 彼もその苦労を語っていたが、そもそもそんなことをするだけの情熱と、早稲田へのというのがすごい。

 そこまでやるかというか、そもそも彼が仮面で入っている大学も、明治だったか法政だったか忘れたが、私からすれば充分に立派な大学だ。

 なら「いいじゃん、それで」と思うのだが、こういうボーッとした人間は、受験戦争では勝てないのだろうなあ。

 実際、この早稲田青年は、



 「くじけそうになったら『都の西北』を聴いてがんばった」



 そうであり、「そこまでいうてるんやから、早稲田もケチケチせんと合格させたれよ」と思ったものである。

 なかなかいないよ、志望大学の学歌知ってるって子。

 志望校というより、ほとんどファンというか追っかけだ。

 そこまで入れこんでも、なかなか受からないのだから、受験というのは大変である。

 などなどと、実用的にも読み物的にも興味深かった自慢話、じゃなかった『合格作戦』シリーズだが、惜しむらくは、「関関同立」編がなかったこと。

 関西では、国公立受けない子は、とにかくここを目指すんですが、なぜか無かった。

 こっちでは有名でも、全国レベルで見たら、全然マイナーなんですね、関関同立も。

 ま、受けるのが一流校でもマイナーでも、とにかく、しんどい時期はあと少しだけ。

 受験生の皆さん、ラストスパートがんばってください。


 (続く→こちら





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ネットのない時代、大学受験の情報はエール出版社の『合格作戦』シリーズでした

2017年01月11日 | 時事ネタ

 この季節といえば思い出すのが、エール出版社の『合格作戦』シリーズである。

 1月2月といえば、受験生にとって最後の正念場だが、私にもかつてそういう時期があったもの。

 もっとも私の場合、根が競争社会に適合できないボンクラなもんだから、試験に関しては

 「まあ、あんなもん最後はしだいやし」

 と、開き直っているのか、人間がでかいのか、はたまた人生をなめまくっているのか。

 そこは自分でもわからないが、いたって気楽にかまえていたものだった。

 本番が近づき、皆が顔を青くして追いこみをかけている中、一応それなりに勉強はしていたが、空いた時間にを読んだり映画を観たり。

 はたまた朝までファミレスで浪人仲間とくっちゃべっていたりと、フリーダムな浪人ライフをエンジョイしていたのだ。

 そんな過ごし方ができたのは、自分の底抜けっぷりもあると思うが、それともうひとつ、予備校に行っていなかったことが、大きかったかもしれない。

 高校時代の私は、曲がりなりにも「伝統校」「進学校」と自称する(本当に「自称」だけど)学校に通っていたにもかかわらず、部活以外はロクに学校に行かった。

 代わりに図書館ゲーセンに行くか、同じようなドロップアウト組の仲間の家で、たむろったりといったフーテン生活を送っていた。

 別に青春の蹉跌的なにかがあったわけでもないけど、ともかくも毎日のように制服を着て、死ぬほど退屈な授業を、延々と聞き続けることに耐えられなかったのだ。

 そんな私であるので、卒業式の日は、



 「これでもう、学校などというところに、金輪際二度と通わなくてええんや!」



 という思いで一杯となり、となれば、わざわざ高い金を払って予備校たるところに通うわけもなく、一人気楽な自宅浪人生活に突入したのである。

 岸田秀先生言うところの「強制収容所」なんかに、誰が戻りたいもんかと。

 そんな自宅浪人は、自分にとってすこぶる快適だった。

 朝は起きなくていいし、制服は着なくていい。

 尊敬できない教師に、偉そうな顔されることもないし、苦手な理系科目やダルイ体育もやらなくていいし、まさにパラダイス

 本来ならば、もっとも暗い季節であるこの時期が私にとっては、もっとも気楽で楽しいものだったというのだから、われながら、おかしなものである。

 よほど学校という存在に、ウンザリしていたのだろう。

 そんな自宅浪人生は、収容所における強制労働から解放されて気楽だが、反面で苦労するのは情報の面。

 いくらフリーダムでお気楽とはいえ、それはあくまで受験勉強という義務を果たしてのこと。

 結果など、しょせん賽の目次第とはいえ(だって同じくらいの学力の若者が集まって、7人に1人くらいしか受からないとか、もうの世界だよ)、それまでの過程をしっかりしておかないと、ダイスを振る権利さえあたえられず足切りだ。

 だがいかんせん、こちらは誰にも教わらずに独学

 勉強のやり方や、使える参考書模試、志望校の問題の傾向対策など、すべて自分で調べなくてはならない。

 そんなとき役に立ったのが、『大学入試合格作戦』シリーズであった。

 これは、実際に志望大学合格を果たした受験生たちが、自らの勉強法などを記した自慢話……じゃなかった生の合格体験記。

 東大をはじめとする国公立医学部早慶大から他の私立文系中堅大学

 などなど幅広い範囲を扱っているが、受験勉強開始前に、まずこれをレベルを問わず、かたっぱしから読んだ。

 便利な参考書、英単語や年表の暗記法まとめノートの作り方。

 志望大学の傾向と対策などなど、使える情報が満載で、ネットのない時代、実に重宝した。

 とまあ、なにかと使えたこの合格作戦シリーズであるが、実用面以外でも、読み物としてもなかなかおもしろいところもあった。

 なんといっても、家にいてはわからない受験生の、それも「詰めこみ教育世代」という、ある種イカれた人種の学歴協奏曲。

 これが部外者(?)である私にとって、非常なる人間喜劇として楽しめたのである。



 (続く→こちら



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オーストリア&南ドイツのサンタクロースは実にワイルドギース

2016年12月21日 | 時事ネタ
 オーストリアのサンタクロースは、ワイルドでバイオレンスである。
 
 サンタといえば、日本ではヒゲを生やした好々爺といったメージがあるが、これが調べてみると、国によって姿や行動が違っていておもしろい。
 
 厚着をしており、住所はフィンランドということで北欧のイメージが強いが、出身地は東ローマ帝国
 
 その中の小アジアと呼ばれる地域であり、今でいうトルコなのだ。
 
 サンタクロースの出身地はトルコ。これはまた、ずいぶん日本人のイメージとははなれている。
 
 4世紀の東ローマ帝国ってことは、東方正教会の話だろうから、われわれがキリスト教としてなじんでいるカトリックやプロテスタントとは、ちょっと違うし、今となってはトルコはイスラムの国だから、ますます違和感である。
 
 また、南ドイツやオーストリアのサンタは、日本のようなやさしいおじいさんではなく、クランスプという従者を従え世直しをするという、なかなか社会派な人なんだそうな。
 
 しかも、このクランスプというやつが、見た目、全身黒い羊の毛皮
 
 顔は面長でツノがあり、耳はと舌は異様に長く、どうひいき目に見ても悪魔以外のなにものでもないというヤツ。
 
  
 
 
 
 
 
 
 Wikipediaからクランスプの画像。ハンパでなく怖いです。
 
 
 
 手にムチも持っており、
 
 
 「オラオラ悪いヤツはおらへんのか、おったらワシとサンタクロースのアニキが、しばきまわしたるどオラオラ!」
 
 
 そこいらにいる子供を、バシバシたたいてまわるというのだから、なんともクレイジーではないか。
 
 これは話をおもしろくしようと、誇張しているわけではない。
 
 実際に、オーストリアのクリスマスでは、このサンタ&クランスプのコンビがムチを持って街中を練り歩き、「世直し」と称して、子供をシバきまくっているのだ。
 
 それはもう、泣こうがわめこうがおかまいなし。子供だけではなく、大人も容赦なく
 
 「こいつめ、こいつめ、悪いヤツは全員死刑!」
 
 『デスノート』の夜神月君ばりの成敗にいそしんでいる。日本人的視点から見れば、ただのなまはげだ。
 
 一応、「よい子にする」と約束すればゆるしてくれて、お菓子などもらえるらしいが、散々ムチでしばかれて、泣いてわめいて強制的にいうこと聞かされて、そのあげくにもらえるのがお菓子だけ
 
 費用対効果を考えれば、あまりに少ない報酬という気もする。子供という職業も、なかなかに大変だ。
 
 だが、そこで心を入れ替えないと、お菓子どころではない、さらにとんでもないことが待っている。
 
 なんと、「悪い子はこうや!」とばかりに、背中にかついでいたずだ袋に入れられて、河に捨てられてしまうのだ!
 
 寒さの厳しいヨーロッパで、そんなことをされたら、まず間違いなく死んでしまう。
 
 ほとんど、スティーブン・キングの書く、ホラーの世界ではないか。
 
 そう、あのサンタクロースがかかげている白い布袋は、プレゼントが入っていると見せかけて、そうではない。
 
 その正体は、中に子供を放りこんで、スリングショットよろしく厳寒の河に投げこみ殺害するための武器だったのだ!
 
 また、サンタによっては、河に投げるどころか、子供を食ってしまうというさらに怖ろしいのもいるという。
 
 あの海原雄山でも手を出さない人肉食い。
 
 人類最大のタブーに踏みこむのは、かの子供たちの味方であるはずの、サンタクロースとは……。
  
 とんでもない話だが、殺人サンタは気にすることなく例の
 
 「ホーホーホー」
 
 という笑い声を上げながら、次なる獲物を探して、
 
 「行け、クランスプ」
 
 カプセル怪獣のごとく、相棒を派遣するのである。
 
 もともとは
 
 「身売りされる娘に、ほどこしをあたえた」
 
 「死刑囚の命を救った」
 
 ということで、聖人としてあつかわれていたはずのニックが、東欧経由でゲルマンの国にわたり、そこで子供殺しの人食いに華麗なるクラスチェンジ。
 
 このあたりは、おそらくゲルマン土着古代宗教が影響してるんだろうけど、なんにしろ実にワイルドだ。
 
 かくのごとく、クリスマスにしろサンタにしろ、国によってとらえ方は違うわけで、文化の伝搬というのは、おもしろいものだと思うわけである。
 
 
 
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