はれた日は学校をやすんで 「かわいそう」の心理 その4

2023年07月06日 | ちょっとまじめな話
 先日の話題の続き
 
 
 「《かわいそうだね》というマウントの取り方には、いつも疑問をおぼえる」
 
 
 というテーマで、高校時代の思い出など何回か紹介しながら話していたが、私がこの言葉に反応してしまうのは、自分がいわれたことがあるからと同時に、そこにある「欺瞞」と「傲慢」を感じてしまうから。
 
 たしか大学生のころ、北村薫先生の本を読んでいて、この言葉ができてきたことがあった。
 
 文化祭が舞台だったから、たぶん『夜の蝉』だと思うけど、クラスの出し物の看板を作っている女子が、それに参加せず帰ってしまう生徒のことをこう評すのだ。
 
 

 「なんか、かわいそうだね」

 
 
 ここを読んだとき、ほとほとグッタリするような脱力感を味わったものだった。
 
 北村先生、あなたもか、と。
 
 北村先生はミステリファンならご存じの通り、元学校の先生である。
 
 なので、ここにおける「かわいそう」は、先日語った「マウントを取る」行為でなく、教師として心からの心配だと思われるが、それでもやっぱり素直に首肯はできない。
 
 大ファンである先生に、こんなことを言うのは本当に心苦しいけど、それでも言わせてください。
 
 
 「だからあ、そこで彼が(彼女が)『かわいそう』だと、なんで勝手に判断しちゃうんですか?」
 
 
 世間やみんなが思う「楽しさ」や「充実」が、他者にもまた同じくらい価値があるとは限らない
 
 自分にとっての宝物が、他人にとってはただの石ころにしか過ぎないかもしれず、だとすればもまた、そうであるかもしれない。
 
 という当たり前の上にも当たり前のことを、なぜ人は時にあまりに軽視した言動を取ってしまうのか。
 
 それを「かわいそう」と言われたら、やはりこう言わざるを得ないのだ。
 
 
 「そうかもしれないね。でも、そうとは限らないかもしれないとも思わない?」
 
 
 そしてそこに、親切心配の名をかぶせた
 
 
 「お前だけ、逃さねえぞ」
 
 
 という欺瞞はないのか?
 
 私は文化祭のクラス行事に参加しなかった。
 
 でも、本番では部活の出し物で舞台に立ち、充実した2日間を過ごした。
 
 これは断言できるけど、もし私が部活をやらず、ただなんとなくクラス行事に参加していたら、間違いなくあの2日間は、その後の人生で、まったく語られることはなかったろう。
 
 これは私だけではない。
 
 体育祭をサボってバンドの練習をしていた子や、嫌いな教師の授業をボイコットして図書館でずっとSFを読んでいたヤツもいた。
 
 お仕着せのイベントなどに目もくれず、恋人と会ったり、アルバイトにはげんだり、プログラムを組んだり、マンガを描いたり。
 
 彼ら彼女らが「かわいそう」なのかといえば、私は絶対にそうは思わない
 
 なぜなら皆、
 
 
 「今一番、自分がなにをしたいのか」
 
 
 これを、わかっている連中だったからだ。
 
 「」に参加しなかった人は、端から見ると「こんなステキなものに、なんで?」と感じるかもしれない。
 
 でも、そのステキはもしかしたら、あなたをふくめた一部だけのものかもしれない。
 
 私やバンドマンやSF野郎のように、
 
 
 「他にやりたいこと、やるべきこと」
 
 
 を知っていて、そっちの方が、はるかに楽しいかもしれない。
 
 もしかしたら、あなたのにいる人も、あなたに合わせてくれているだけで、本当は「そうでもないな」と内心思ってるかもしれない。
 
 「多数派の祭」にいない人は、入りたいのに入れないのではなく、「自らの意志」でいないのかもしれない。
 
 「祭」に出なかった生徒は、もしかしたらその時間を、ただラジオを聴くことに費やしていたかもしれない。
 
 でも、「祭で一体感を味わうこと」ことが、「ラジオを聴くこと」より良きことかどうかを判断するのは、「祭に参加した側」の人間ではない
 
 「かわいそう」な彼や彼女は、もしかしたら今、愛する恋人と永遠に忘れられない夜を過ごしているのかもしれない。
 
 いや、仮に何もなくただダラダラしていても、つまんなくてもいい。
 
 「自分で選んだ無為の一日」は、「やらされている退屈なこと」よりも、ずっといいかもしれない。
 
 それは本人しかわからないのだから。
 
 だから、自分がかわいそうかどうかは自分で決めるよ。だって、あなたには判断材料なんかないんだから。
 
 もちろん私も、自分の大切なものや、参加した祭に見向きもしない人がいても、あわれみもバカにもしない。
 
 そのことを決めつけるだけの根拠など、こちらにはないのだから。
 
 嗚呼、なんだろう。この件に関しては、ライムスター宇多丸さんが、「日本語はヒップホップに合わない」と言われたときに立ち上がるような「義憤」を感じてしまう。
 
 それはわかんないじゃん。わかんないことを、勝手に決めつけられても、どうなの?
 
 もしくは、キミもやればいいじゃん。今がつまらないなら。
 
 「多数派の輪に入らない不安」が重苦しいのはわかるけど、それにとらわれず、自分で選んだ道を歩く楽しさは、そんな暗雲など軽やかに飛び越えていく。
 
 これは本当にそう。
 
 だから、ぜひやってみて。
 
 一応つけくわえておくが、私は北村先生や先生の作品自体にケチをつけているわけではありません。
 
 その中の1フレーズに勝手に反応して、なかばヤカラを入れているだけです。念のため。
 
 なんだか大層な話になってしまったが、とにもかくにも、だれかの言う「かわいそう」がマウントを取りに来ているなら、
 
 
 「余計なお世話」
 
 
 北村先生のように親身になってくれているなら、こう言いたいのだ
 
 
 「そうでもないから、気にしないで」
 
 
 
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自分の不幸を相対的に緩和するために、他人の幸福値を下げようとする行為 「かわいそう」の心理 その3

2023年06月30日 | ちょっとまじめな話
 前回の続き。
 
 高校文化祭において、「クラスのイケてる男女」中心のクラス行事に興味がなかった私は、とっととエスケープすることに。
 
 そこに、クラスの女子2人が「待ったをかけてきた。
 
 
 「なんか、そういうのって、かわいそうだね……」
 
 
 かわいそう
 
 はて、そこに悪気はないとはいえ、クラスの中心人物数人だけが楽しくて、あとは「モブキャラ」あつかいのイベント。
 
 これに出なくていいことを、「幸運なこと」と思いこそすれ、そこになんら「かわいそう」なる感情が入る余地は、ないと思うのだが、彼女らは続けて、
 
 
 「せっかくの文化祭で、みんなでひとつになって盛り上がろうって言ってるのに、そこに入っていこうとしないなんて、孤独だね。さみしいよね。そういうの、かわいそうだね」。
 
 
 これを聞いたときの正直な感想は、「出たよ、またか」というものだった。
 
 「知らんがな」とも。
 
 もちろんのこと、彼女らは本気でこちらを想って、あわれんでくれているわけではなく
 
 
 「この楽しくない状況を、あたかも《自分のほうが冷静に物事を見る余裕がある》ふりをすることによって、逆転しようとする試み」
 
 
 これに他ならない。
 
 クラス行事に参加したくなくても、の民族である日本人には、
 
 
 「クラスの中心人物だけが楽しくて、残りは勝手に雑用係にさせられてる。こんなのバランスを欠いていて、おかしいではないか」
 
 
 とは言いにくい。まあ、人気者たちも少々配慮が足りないだけで、悪い人ではないしね。
 
 なら、不参加を表明すればいいではないかと思うけど、これまた協調性を過度に重視する日本人には難しい。
 
 なので、しぶしぶながら、やらざるを得ないわけだ。
 
 部活の伝統、会社の飲み会、町内のつきあい、商店街のイベント
 
 どこの世界でも、山のようにある話である。
 
 そうなるとおもしろくないのは、他者の目を気にせず「やらないよ」とか、気軽に言ってしまう私のような存在である。
 
 なにおまえだけ、回避してんだよ、と。
 
 でも、だからといって、私が不参加をうったえることの、足をひっぱろうとするのは、つまるところ、
 
 
 「自分の不幸緩和するために、だれかの別の者の幸福値を下げることに血道をあげる」
 
 
 ということであって、あまり健全な行為でもないし、私自身その標的にされるのは、まっぴらごめんだ。
 
 それが、この「かわいそう」という表現に表れている。
 
 
 「わたしたちは、あなたのすることに、なんとも思ってない。怒りも羨望もない。むしろ、こんな行事に参加して、《一体感》を味わおうとしないあなたを、かわいそうだと思って、あわれんでいる。見よ、この心の余裕を! どうよ、この立場逆転!」
 
 
 ということなのである。
 
 でも、そもそも「そんなの入りたくない。つまんないもーん」という人が、「かわいそう」とか言われても……。
 
 これはおそらく、多くの「自らの意志で同調圧力に乗らない」人が、一度はかまされたことのあるアップだと思うけど、なんかもう、言われるとガックリきます。
 
 「せまい学園生活で、そんなことできない」ことはわかってるけど、やっぱり言いたくなる。
 
 「やりたくないなら、やらなきゃいいじゃん」
 
 イヤなら、サボればいい。つまんなきゃ、企画した人にうったえればいい。
 
 通らないなら、もう自分バンド組むなり脚本書くなり、なにかをやればいい。
 
 そんだけのことだと、思うんだ。
 
 私が日本人的同調圧力や、強制参加が嫌いなのは、自分がイヤなだけでなく、こうして、
 
 
 「自分が強制された嫌なことを、他者強要することによって《自分のやっていることはムダではない》と心をなぐさめる」
 
 
 という欺瞞が「悪しき伝統」として続くからだ。
 
 部活のしごき、子供の虐待、セクハラを我慢することやサービス残業
 
 などなど、すべてこういった心理の働きである。
 
 強制されたことを、あたかも「自分で選んだ」かのようにふるまい、そこから、
 
 
 「振り返ってみれば、やってよかった。いろいろ鍛えてもらった」
 
 「あのころがあったから、今の自分がある」
 
 「苦しかったことも、今となってはいい思い出」
 
 
 ホントかよ
 
 いや、本当にそうだって人もいるんだろうけど(だとしたら、それは素晴らしいことだと思う)、なんか嘘くさい人も聞いてて多いし、なによりそういう人のを見ても、「自分もやろう」ってならないのだ。
 
 見た感じ、楽しそうじゃないから。
 
 そしてまた、その空気が伝わるものだから、彼ら彼女らはそのウソが「本当である」ということを「証明」するため、それを他者に強要する。
 
 
 「ほら、キミたちもやってごらん。ボクは(アタシは)こんなすばらしい体験をしたから、こうしてススメることができる。もしホントにイヤだったら、人にやれなんていわないでしょ? だから、本当に【やってよかった】って思ってるんだ!」
 
 
 メチャクチャ余計なお世話だよ!
 
 そのときの女子2人もそうだけど、「やってよかった」「あのころがあるから今が」とか言う人って、もう目がね雄弁に語ってるんですよ。
 
 
 「テメーだけ、逃がさねえぞ」
 
 
 本当に「やってよかった」「かわいそうだと思う」なら、こんな負の圧かけないって! 絶対、今が楽しくないから言うてますやん!
 
 もう一度言うけど、そんなのやりたくないなら、やらなきゃいいのだ。
 
 エスケープでも、反乱でも、独立でも、自分で考えて、やってみればいいんです。
 
 本当は思ってもいない
 
 
 「《一体感》を味わえるクラス行事に参加しないなんて、かわいそう」
 
 
 なんておためごかしで、こんな、どうでもいい男子のマウント取らなくてもさ。
 
 そりゃ、大人になって社会に出れば、それが通じないケースが多々ではある。そこを立ち向かえとは、別に言わない。
 
 でもなんか、フワッと、それこそこの2人の女子みたいに「なんとなく」拒否できないのなら、思い切って飛び出してみても、いいんじゃないか。
 
 西原理恵子さんによる、ステキなタイトルのマンガ
 
 
 『はれた日は学校をやすんで』
 
 
 こんな気分になって。
 
 
 (続く
 
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文化祭における「イケてる」生徒と「サイレント・モブキャラ」の階級闘争 「かわいそう」の心理 その2

2023年06月29日 | ちょっとまじめな話
 前回の続き。
 
 
 こういった《かわいそうマウント》による議論をすり替えで、いつも思い出すのが、高校2年次の文化祭のシーズン。
 
 文化祭といえば、文化部以外でもクラス単位で様々な催し物が出され、お化け屋敷喫茶店など、皆様にも楽しい思い出があることだろう。
 
 ただ、ときおりひっかかるのが、そういった企画を考えたり実行したりするメンバーが、たいていがクラスの中心の、いわゆる「リア充」な子たちなこと。
 
 活発で人気者の彼ら彼女らが、祭りをひっぱってくれるのはいいが、時にはそれが仲良しチームだけが楽しい「身内のノリ」に終始することも。
 
 そのときの出し物も、クラスの人気男女数人が主導権を取って勝手にやることを決め、彼ら彼女らが主要メンバーとして出演することに。
 
 残った面々は、大道具や衣装など裏方スタッフにまわることとなった。特に話し合いなどもなく。
 
 一応、ここに当時のクラスメートをフォローしておくと、彼ら彼女らは別に性格が悪いとか、嫌がらせとかで、そういうことを言っているのではなかった。
 
 ただ、「自分たちのステキな思い出作り」にしか目が行っていないのと、スクールカースト(なんて言葉は当時なかったケド)上位の
 
 「悪気のない無神経
 
 が炸裂しただけだが、まあモブキャラあつかいをされたクラスメートたちは、おもしろくないかもしれない。
 
 さらには、
 
 
 「クラスの一体感を出そう」
 
 
 という理由から、
 
 「クラス全員おそろいのチェックの服を着る」
 
 ということになったのだ。
 
 そんな不思議な光景になったのは、クラス1人気者だったマリコちゃんという女子が、藤井フミヤさんのファンだったから。
 
 いや、フミヤさんがどうこうではなく、マリコちゃんとゆかいな仲間たちが、そこに縁も興味もない他のクラスメートたちにチェッカーズ(フミヤさんが以前やっていたバンド)の格好をさせて「一体感」とは、今思い返しても、
 
 
 「【イケてる人たち】って、すげーなー」
 
 
 苦笑を禁じ得ないところだが、もちろんのことそこに、悪気といったものはカケラもなく、彼ら彼女らはただただ「それが楽しい」と思っているだけ。
 
 
 「自分たちが、こんなに充実しているのだから、きっとみんなもそうに違いない」
 
 
 そういうことなのだ。善意の恐ろしさである。
 
 それ以降、私は「一体感」とか「統一感」というのが、
 
 
 「空気が読めない多数派や権力者のエゴ
 
 
 というものにすぎないことに気がつかされ、この手の言葉を使う人を、まったく信用できなくなった。
 
 人生とは勉強の連続であるなあ。
 
 と、ことここにすべてが決まってしまっては、することはひとつであろう。
 
 そう、とっとと逃げだす
 
 私は彼ら彼女らに恨みはないが、「善良」だからといって、彼ら彼女ら「だけ」の遊びのために、貴重な青春の時間と労力を取られるのは、なんといってもバカバカしいではないか。
 
 幸い、私は文化部所属であり、学校のルールでは
 
 
 「文化祭で活動する、文化部の仕事や練習がある場合は、クラスよりもそちらを優先していい」
 
 
 ということだったので、ありがたくエスケープすることにしたのだ。
 
 ビバ! 万年1回戦負けの運動部より、文化部の方がレベルの高い、わが母校!
 
 というわけで、今日も今日とて「クラブがあるんで」と放課後とっとと消え、部活に精を出していたところ、こんな声がかかったのだ。
 
 
 「ちょっと〇〇君(私の本名)、なんで先に帰っちゃうの?」
 
 
 振り向くとそこには、クラスの女子2人が立っていた。
 
 「いやあ、部活がいそがしくてね」と適当に流そうとすると、彼女らは
 
 
 「でも、クラス行事だから参加しないと」
 
 「みんなでやらないと、意味ないよ」
 
 
 などと私を道連れ……もとい引き留めようとするのだが、興味もない行事には参加したくないし、押しつけられた服も着る気はない。
 
 それにそもそも、祭を仕切ってるのみなさんも、私のような地味な生徒のことなど気にも留めないので(実際「放課後、抜けます」「いいよ、別に」で、なんのおとがめもなかった)、もういいんでね?
 
 そういったことを伝えてみると、彼女らは不服そうに「ふーん」と言った後、ポツリとこうつぶやいたわけだ。
 
 
 「なんか、そういうの、かわいそうだね……」。
 
 
 (続く
 
 
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「われわれ全員の仕事」について、ロシア文学者の沼野充義先生が

2021年12月31日 | ちょっとまじめな話

 「誇り高く生きる」しか、ないんじゃないかなあ。

 というのが、後輩諸君にできる、唯一のアドバイスかもしれない。

 私はいい歳して、頭に「ド」のつくボンクラであるが、それゆえかときに、同じような人種の後輩から、相談を受けることもある。

 そんな彼ら(ときに彼女ら)のことを、あれこれと考えていると、いつも結局は、ひとつの結論に行きついてしまうことになる。

 「負けるなよ、せめて誇り高く生きるんだ」と。

 悲しいことであるが、この世界には人の尊厳を踏みにじることが、人生の喜びであるという人が存在し、それが後輩諸君の「相談」で頻出する。

 私自身は、こういう人を、できるだけ避けて生きてきた。

 そして、たまさか、彼ら彼女らのような人に出会うと、こうも思うのだ。

 「そういう人に、決して負けてはいけない」と。

 ここでいう負けるとは、一般的な「勝ち負け」ではない。

 たとえば、その「踏みにじる人」が自分よりも偉かったり権力があったり、金持ちだったりしても、そんなことはどうでもいい。

 そういう人に試合で負けたり、成績が下だったり、モテなかったりしても、それだって、なんてことはない。

 ここで私がいいたい「負けるな」とは、

 「そういう人を見て、【自分も見習ってしまう】こと」

 これこそが、大いなる敗北なのである。

 キミにとって、そしてにとって負けなのはなにかといえば、そういう「踏みにじる人」を見て、

 「こういうのが、【賢いやり方】なんだ」

 と学んでしまったり、「踏みにじられた」屈辱感に耐えられなくなって、

 「自分の尊厳が踏みにじられたらなら、他のだれかの尊厳を踏みにじれば、この苦しさが軽減されるのだ」

 そう考えてしまうことだ。

 「この人がやったように」と。

 たとえば、暴力でなにかを強制されたとき、人は決して強くないから、

 

 「自分は暴力で支配された。ということは、暴力というのは支配に有効な手段(これは悲しかな事実である)なんだ」

 「こんな苦しみを自分だけが受けるのは不条理だから、他者にも同じ目に合ってもらわなくては帳尻が合わない」

 「でも、それをそのまま言うのはみっともないから、【おまえのため】とか【伝統】という言葉で糊塗しよう」

 

 とか、なることはある。気持ちはわかる。

 自分の感じた劣等性を、他者にスライドさせることによる自己欺瞞を土台にした、「屈辱感の軽減」は、下手な薬やはげましの言葉より、よほど効き目があったりする。

 でも、そういう姿を見ると、私は思うのだ。

 「それ、おまえ(オレ)負けだよ」と。

 それは大きな誘惑であるが、決してのってはいけない。

 そう、聖書(私はクリスチャンではないけど)に出てくる悪魔は決して、殺人や破壊を行わない。

 映画『ダークナイト』のジョーカーと同じだ。人を追いつめ、

 「自分が傷ついたなら、その代わりに他者を傷つければ、心が落ち着くぞ」

 そう誘いかけてくる。

 「悪魔」とは「誘惑者」の別名なのだ。

 だから、もし「負け」そうになってるキミにアドバイスをするとしたら、たとえ他で、世間的には負けに見える状態におちいっても、その「最終防衛ライン」だけは死守すべきだ、と。

 シュテファン・ツヴァイクだったか、ロマン・ローランだったかの本に、こんな言葉があったよ。

 

 「たとえ自身が堕ちようとも、奴隷商人にはなるな」

 

 たいした取り柄もない我々だけど、いやだからこそ、たとえなにがあっても、せめてそこくらいは、強がって生きよう。

 という話をすると、

 「それ、わかります」

 神妙な顔で、うなずいてくれる子もいれば、

 「ボクが聞きたいのは、そういうんや、ないんスけどねえ……」

 という顔をする子もいる。

 中には、こう問う者もいる。

 「話はわかりました。じゃあ、どうしても耐えられない不条理に出会ったとき、具体的にどうすればいいんですか?」

 これにはたぶん、ロシア・スラブ文学者である沼野充義先生の言葉が「正解」だろう。


 どんなに、おそろしい同調圧力のもとにあっても、心の中ではそっと不同意の姿勢をつらぬくこと

 そして、大声を張り上げなくてもよい。小さな大事なものを、そっと守り続けること。

 それはおそらくですね、文学に携わるわれわれ全員の仕事ではないかと思うのです。

 

 それをやったとて、人生において、たいしたプラスはないのかもしれない。自己満足と言われれば、それまでだろう。

 でも、だれかのそういう姿を見ると、そこに、かすかな希望の灯がともる。

 そして、いつもかどうかは、わからないけど、たまになら、本当に何回かに一回でも。

 ささやかな誇りを「そっと守り続ける」ことが、できるのかもしれないという、強い力が湧いてくるのだ。

 

 

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「オチないんかい!」という関西人について、大阪人が対処法を考えてみた その3

2021年11月24日 | ちょっとまじめな話
 前回(→こちら)の続き。
 
 「話にオチないんかい!」
 
 そう関西人がつっこみがちというイメージがあるけど、それは果たして本当なのか。
 
 いわゆる「オチのない話」問題は、
 
 
 「句読点の有無」
 
 「サービス精神」
 
 「エンタメ体質」
 
 
 これがあるかないかが本質であって、関西人がどうとか、話の中身が「おもろい」かどうかとか、実はそれほどにはメインの理由ではないのでは?
 
 実際、前回も言ったが、著作の中で「オチがない話」に憤っている西原理恵子さんは高知出身だし、オーケン東京人。
 
 その他でも、特に関西人じゃない人の本や、ラジオなどでも同じようなことを言っている人は結構いる。
 
 ツイッターやインスタグラムにあがっている、夕焼け食事の写真。
 
 また、心象風景をつづったポエムなどが不評なのは、内容うんぬんじゃなくて、そのひとりよがりゆえに、
 
 「受け手のことを、あまり考えているように見えない題材」
 
 そこにガッカリしてしまう。
 
 そしてそれは、おそらく関西人のそれが、あけすけで目立つだけで、どの地域の、どの国の、どこの民族にもきっと一定数いるはず。
 
 空気を読んで、それを黙っているだけで。
 
 だから、関西では、いやそれよりもっと広く西原さんやオーケンのような「サービス精神」を重視する人と話すときは、軽くでいいから起承転結オチを用意するといい。
 
 むずかしく考える必要はない。
 
 私の見立てでは、「オチ」とは「プチズッコケ」とか「プチ自虐」でいいのだ。
 
 ブログを書くコツなどを指南した本や、サイトなどで必ず出て来るのは、
 
 「失敗談など自虐を書け。自慢話は厳禁」
 
 これは、その攻撃的舌鋒が売りである斎藤美奈子さんも強調しておられた、「読んでほしい文章」の必須中の必須要項。
 
 逆にいえば、これさえ入れておけば、お手軽に話が収まるという便利アイテムでもある。
 
 だれかと話すときは、話のところどころと最後に、プチ自虐を入れる。
 
 たとえば、私が大学時代遭遇した、
 
 
 「この服、いい色でしょ。昨日買っちゃった」
 
 
 という報告なら、そこにもうひとつ増しで、
 
 
 「でも、ちょっと高かったんだよねー。しばらく、3食カップ麺生活かも」
 
 
 とか、プラスアルファがあれば、
 
 
 「ファッションはお金かかるもんね。でも、似合ってるからええやん。その服で、オシャレにチキンラーメン食うたらええねん(笑)」
 
 
 なんて会話が多少スムーズにつながる。
 
 あるいは、
 
 
 「高かったんだよねー」
 
 
 の後に、やはりそこで終わらず、
 
 
 「散財したなあ。ところでさあ、今までで一番高い買い物って何? これ、やっちまったわーみたいな」
 
 
 なんて、相手に「パス」をまわすとか。
 
 こんなもんで、いいんじゃないかなあ。
 
 聞いていて「オチがない」と感じる話は、とにかく、
 
 
 「買った」
 
 「行った」
 
 「話した」
 
 
 みたいに、「それだけでおしまい」という終わり方に、強く感じる。
 
 なんだか、すごい急ブレーキをかけられたようで、つんのめり方がハンパではないと。
 
 とにかく、言いっぱなしにしないことが大事。
 
 なんにしろ、「オチのない話」の本質は、「おもしろくない」よりも、
 
 「句読点とサービス精神の欠如
 
 が問題なのだ。
 
 そこを押さえたうえで、話のおりおりと最後に「プチズッコケ」を入れれば、だいぶ景色が違って見える。
 
 むこうがあなたに好意的ならば、その「オチ」だけで
 
 
 「あなたを楽しませたかった」
 
 「聞いてくれてありがとう」
 
 
 という感謝の意味として伝わるはず。
 
 その意味で、「オチ」とは内容よりも、文章でいう「句読点」であり、これがあることによって、
 
 
 「自分の聞いてほしい話は終わったよ、ありがとう」
 
 
 という想いが伝わる。
 
 まあ、食事でいう「ごちそうさま」みたいなもんです。
 
 「今、自分のターンは終わった」ことを伝え、「次どうぞ」と会話の橋渡しをする。
 
 「オチ」を求める人は、おたがいの、その気持ちを重視しているのだから。
 
 なんだか、大げさみたいだけど、「オチ」を求める人の考え方をポジティブに表現すると、たぶん、そういうことなんですよ。
 
 え? それでも「おもんない」「オチないの、サブいわー」とか言ってくる人がいる?
 
 うーん、それはもう関西人がどうとか以前に、
 
 「ただのデリカシーがない人」
 
 だから、単純に距離を置いてつきあうのが、いいんじゃないでしょうか。
 
 でも若いと、しょうがないかもなー。
 
 私なんかも、10代のころは
 
 
 「世界でおもしろいことを言えるのは、オレ様ダウンタウンだけ」
 
 
 とか本気で思ってたし。
 
 たぶん、今のヤングたちも、大して変わらないでしょう。そら偉そうに、「オチないんかい!」とか言いますわ。
 
 うん、サラッと書いてるけど、尿もれるほど恥ずかしいぞ。ザッツ黒歴史
 
 ただ、そんな自意識過剰男子にとっても、「サービス精神」とか「感謝の心」があったのも本当。
 
 だからまあ、そういう人は大人になったら、当時のことを思い出して、布団の中で「あああああ!」とか、もだえてるから、そのとき笑ってあげましょう。
 
 
 
 
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「オチないんかい!」という関西人について、大阪人が対処法を考えてみた その2

2021年11月23日 | ちょっとまじめな話
 前回(→こちら)の続き。
 
 「話にオチないんかい!」
 
 世間話で関西人につっこまれて、他府県の人がビックリしたり、憤ったりしているという話はよく聞く。
 
 それはなぜかと問うならば、ひとつは関西人にありがちな、
 
 
 「オレはおもしろい」
 
 「笑いのセンスがある」
 
 
 という勘違い(単に「人気者」だからみんなが笑ってくれるだけだったり)から生まれる「上から目線」。
 
 それともうひとつ、ここから個人的見解になるんだけど、そういった「芸人気取り」以外に、たぶん「オチ」を求める傾向として、
 
 
 「句読点の有無」
 
 「サービス精神」
 
 「感謝の心」
 
 
 これらが、あるのではないかと。
 
 単純な「お笑い」的要素は、実はそんなに重視されてないわけで、そこを「おもしろい」かどうかで測ろうとすると、本質を見失うのではないかと思うわけだ。
 
 まず、そもそも論として、私としては本当に「オチのない話」に違和感を感じるのが、関西人だけなのかという疑問がある。
 
 そう感じたのは、マンガ家である、西原理恵子さんの本を読んでいたときのこと。
 
 『鳥頭紀行』や『毎日かあさん』など、エッセイ漫画で西原さんはたまに、
 
 「話の面白くないヤツ」
 
 に怒っていることがある。曰く、
 
 
 「つまんねえ話を長々と」

  「しかも、そこにオチがなくて、時間返せとブチ切れそうになる」
 
 
 また、ミュージシャンの大槻ケンヂさんも、エッセイや対談なんかで、たしか
 
 「ライブの打ち上げに行かなくなった」
 
 ことに対する理由として、
 
 
 「いやもうねえ、つまんないうえに、オチもない話を延々する人とかがつらくて。どうしてやろうかと思いますよ」。
 
 
 やはり、似たような提言をされておられる。
 
 先日、マトコちゃんという女子としゃべっていたとき、話題が彼女が昔行った旅行の話になった。
 
 なんでも、ハイソな人々が集まる地区のオシャレなカフェで食事をしたそうなのだが、そこで周囲から聞こえてくる会話を、なにげなく耳にしていて驚いたことが、
 
 
 「すごいねん。あそこの人ら、自分の話しかせえへんのよ」
 
 
 場所柄、比較的オシャレだったり裕福な人が集まるゆえか、そのほとんどが、自分のこと、さらにいえばイケてる自分のこと、平たく言ってしまえば
 
 「ストレートな自慢話
 
 しか飛び交っていないというのだ。
 
 そこでマトコちゃんがいうには、
 
 
 「あの人らって、サービス精神とか感謝の気持ちがないんやろかね?」
 
 
 彼女は不思議そうに、
 
 
 「あたしなんか、そりゃ自慢が楽しいのはわかるけど、それよか人としゃべってたら、せっかく自分のために時間割いてくれてるわけやから、もっとゆかいな気分になってほしいけどなあ」
 
 
 そう言ってさらに、
 
 
 「それに、長話を聞いてくれたら、ありがとうって思うけど、そうやない人もおるんやね」
 
 
 これには深く、うなずかされたものだ。
 
 わかるよ。メッチャわかる
 
 話を聞いてくれてる人には、せっかく自分のために時間を割いてくれているんだから、一緒に楽しんでほしい。
 
 それこそ、このブログだって読んだ人に、楽しい気分になってほしい。役立つ情報を届けたい。
 
 けっこう、自然な発想だと思うわけなのだ。
 
 このとき私は、先の西原さんと、オーケンことを思い出したのだ。
 
 そう、この3人の言っていることは同じだ。
 
 西原さんにしても、オーケンにしても、マトコちゃんにしても、べつに単に「話がつまらない」こと自体に怒っているわけではないのだ。
 
 それよりも、むこうに
 
 「聞いてくれてる人を楽しませたい
 
 という発想がないことに、ガッカリしているのだ。
 
 話の内容が問題なのではない。
 
 人とのコミュニケーションは、いついかなるときでも、良いものでもない。
 
 そんないつも、興味を引ける話題があるわけでもないし、話術の達人がいるわけでもない。
 
 親友や恋人ですら、話してて退屈を感じることだって、いくらでもある。
 
 会話というのは、そういうものなのだ。
 
 だったら、
 
 「自分のターンのときは、なるたけ相手がよろこびそうな話をしたい」
 
 という願望を持つのは、ポジティブな人間関係構築に大事なのではないか? 
 
 ということが言いたいわけだ。
 
 
 (続く→こちら
 
 
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「オチないんかい!」という関西人について、大阪人が対処法を考えてみた

2021年11月22日 | ちょっとまじめな話
 「《オチないんかい!》って怒られちゃうんだけど、どうしたらいいのかな」。
 
 なんて相談を持ちかけてきたのは、友人トサコちゃんであった。
 
 彼女は昔、アルバイトをしてた店で一緒だった女の子だが、私の住む大阪ではなく、もとは東北の出身。
 
 進学を機に関西に出てきたわけだが、北国とこちらでは文化がいろいろとちがうらしく、最初はとまどうことが多かったそうな。
 
 中でもビックリしたのが、こちらで仲良くなった人と話をしていて、突然に、
 
 
 「……って、話にオチないんかい!」
 
 
 そうつっこまれること。
 
 彼女はふつうに話してるだけなのに、急にそんなこと言われても、どう対処したらいいか困っているというのだ。
 
 たしかに世間話をしていて、別におもしろトークというわけでもないのに、最後にオチを求めるという傾向が関西にはある。
 
 かくいう私も、大学生になったとき、はじめて関西以外の人とガッツリ話をして、そこに「オチ」がなくておどろいたもの。
 
 その内容というのは今でも憶えていて、静岡出身の子が、その日着ていたジャケットを見せながら、
 
 
 「昨日さ、梅田の街で、おしゃれな店見つけてね」。
 
 
 前置きした後、ちょっと自慢げに、
 
 
 「いいと思って、買っちゃった」。
 
 
 そこで数秒沈黙が流れ、私が「……うん、それで?」と問うならば、彼はニッコリ笑って、
 
 
 「それでって……それだけだけど」
 
 
 このときの衝撃は、どう表現すればいいのだろう。
 
 大げさに言えば、異文化とのファーストコンタクトというか、
 
 「え? まさかそれで終わり? ただの報告?」
 
 そしてたしかに、自分もまた関西人の御多分にもれず、こう思ったのである。
 
 「そこからの展開オチもないの?」。
 
 私は生まれも育ちも大阪という生粋の浪速っ子で、交友関係もそのほとんどが地元以外でも兵庫奈良京都和歌山といった面々。
 
 経験上、われわれ関西人(特に大阪人)の
 
 
 「自分たちはおもしろい」
 
 「笑いのセンスがある」
 
 
 という自負はただの「幻想」であることは、なんとなくわかっていたので(関西人は単に「明るくてノリが良い」ことを「プロの芸人的な笑いのセンス」と混同しているケースが多いから)、上から目線で
 
 「ないんかい!」
 
 と声をあらげることはなかったけど、その話がおもしろいかどうかは別にして、
 
 「トークの最後にオチ」
 
 というのが、もしかしたら関西独特の文化(私はこれに懐疑的だが、そのあたりについては後ほど)なのではないかと、はじめて思い至ったわけなのだ。
 
 しかも、たいして悪気もない(いや、あることもあるかな)「ないんかい」に、
 
 「怒っている」
 
 「怖い」
 
 と受け取る人もけっこう多いと。
 
 なるほどー。そうなんやー。
 
 私は海外旅行が好きで、その理由のひとつに、
 
 「異文化と接触することによって生じる自己の相対化
 
 が心地よいというのがあるけど、その萌芽はこのときの「オチのない話」にあった。
 
 「自分の常識が、他者には必ずしも、そうにあらず」
 
 ということを学んだ、それなりにインパクトのある事件だったのだ。
 
 将棋の羽生善治九段は「怖いものはなんですか?」というアンケートに
 
 
 「常識」
 
 
 と答えたことがあったが、共感できるところ大だ。
 
 私が「当たり前」「ふつう」「常識」という言葉が偉そうに飛び交うときに、少しばかり警戒心を持つようになったのは、この「オチ事件」からかもしれない。
 
 それって、自分の文化だけを絶対と思いこんだ、ただの「世間知らず」なんじゃないの? と。
 
 大げさに言えば、行ってもほとんど価値のない日本の大学で、もっとも勉強になったことが、この発見かもしれない。
 
 それくらいの衝撃だったのだ。
 
 なんて振り返ってみても、「そんな、たいそうな話かよ」と笑われそうだけど、本当におどろいたのは事実。
 
 それにこの問題は、これから関西に住むかもしれない人にとっても、そういう人に対するこちらにとっても、それなりに解決策を用意しておいた方が、スムーズなコミュニケーションの助けになりそうな気はする。
 
 そこで次回は、この関西人にとっては「オチないんかい!」、他府県人に取っての
 
 「オチとか言われても……」問題
 
 の本質と対処法について語ってみたい。
 
 
 (続く→こちら
 
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男の紹介する「いい人」「おもしろい人」は、どこまで信用できるの?

2020年11月12日 | ちょっとまじめな話
 「コイツ、めっちゃええ奴やねん」
 
 
 という言葉は、どこまで信用していいのか、わからないことがある。
 
 よく、だれかから、その友人を紹介されたりすると、「エエ奴」なんて言われたりするが、ちょいちょい、
 
 「そうかぁ?」
 
 首をかしげざるを得ないケースがあったりするのだ。
 
 そういう人の言動はわりとハッキリしており、紹介者の前ではナイスガイだが、われわれなど他人の前ではそうでなかったりするから。
 
 先輩に礼儀正しい分、後輩にはメチャクチャいばるとか、変な「カマシ」を入れてきたり、要するに、この場合の「エエ奴」というのは、
 
 
 「その人の前だけエエ奴」
 
 
 というだけの話で、単に「ヒエラルキーに敏感」なだけだったりする。
 
 私の定義では、立場や力関係を軸に接し方を変える人というのは、「いい人」に入らないが、これが「エエ」態度を受けている側にはわからないのだ。
 
 似たようなものとして、
 
 
 「コイツ、めっちゃおもろいヤツねん」
 
 
 これもほとんどの場合、実際におもしろいというより、
 
 
 「内輪の人気者」
 
 「単に明るいだけ」
 
 「紹介するほうもされる方も、芸人気取りのカン違いさん」
 
 
 このどれかであって、たいていがトホホである。
 
 飲み会などで、「おもろいヤツ呼んだろか」と言われて、延々とそっちの友達の間だけで流行ってる、身内ノリのギャグやフレーズを連発された日には、もう苦笑しかないではないか。
 
 もちろん、本当に「性格がいい人」「おもしろい人」を連れてくる場合もあるが、結構な確率で「なんでこの人が?」という過大評価を感じさせる人もいるのだ。
 
 これはまったく他人事ではなく、かくいう私の身近にいる人も被害にあっていて、友人タカツキ君は学生時代にある先輩から、
 
 
 「キミ、メッチャおもろい男やな」
 
 「オレ、友達いうより、もはやファンやから」
 
 
 なんて、かわいがっていただいたことがあったそうな。
 
 芸人さんが言うところの「ハマった」状態で、まあそれはありがたいことだが、ひとつ問題だったのが、その先輩がことあるごとに、それをよそで吹聴すること。
 
 「こいつオモロイ」
 
 「センス抜群」
 
 とか、お世辞として聞いてる分にはいいけど、それはあくまで「身内のノリ」であり、外の世界で通じる普遍性はないし、なによりタカツキ君もそれを理解する冷静さを持った男だった。
 
 それこそたとえば、先輩の中でタカツキ君の「毒舌」がウケたとて、それは「共通の知人の悪口」のような、すでに関係性が出来上がったうえでのものである。
 
 それを、
 
 
 「おい、あの得意の【毒舌トーク】披露したってくれや」
 
 
 という、身も凍るようなフリから語ったところで、その熱量は通じないどころか、
 
 「単に人の悪口を言ってよろこぶ、性格の悪い人」
 
 というだけのあつかいになってしまうのは、想像に難くない。
 
 もちろん話題も、先輩のことを知っているから、そこに関したものを選ぶし、たとえ話とかも、彼の趣味から選んでみたりと、ニーズに合った対応もできるが、つき合いのない人ではそれもできない。
 
 そんなもん聞かされても、タカツキ君の「ファン」でない人には「はあ……」であるし、ましてや関西のヤングはたいてい、
 
 
 「オレはおもしろい」
 
 「自分には笑いのセンスがある」
 
 
 なんて勘違いしてるから、「おもしろい」なんて評価(しかも仲良しゆえの幻想の)を受けている男を素直に受け入れるわけもなく、
 
 
 「さーてキミは、笑いの才能アリなオレ様に、どんな【おもしろ】を見せてくれるのかな」
 
 
 みたいな、ブラック企業の人事担当者のごときビッグな態度でマウントを取りにこられて、迷惑なことこの上ないのだ。
 
 結局、「メッチャおもろい」タカツキ君はテンション下がりまくりで、「センスがある」くせに消極的になり、たまに口を開いてもシラけるしで、いつこの場から撤退するかに血道をあげることになる。
 
 あまつさえ、アウェーの状況で苦戦するタカツキ君を見かねた先輩が、
 
 
 「お前ら、こんなオモロイ男が一所懸命ボケてくれてるのに、なんで笑わへんねん!」
 
 
 なんて怒り出した日には、もういたたまれない気分である。ここは地獄か。
 
 友曰く、
 
 
 「先輩には、ようさんおごってもらいましたけど、ああいう状況で呼び出されたときは、食いもんの味がせんかった」
 
 
 皆様も、だれかを紹介するときは一回
 
 「いい人とか、おもしろいとか、それ感じてるのはオレだけでは?」
 
 そこを検討していただきたいものだ。みんなが不幸になります。
 
 
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「報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない」という王貞治理論に懐疑的です

2020年09月01日 | ちょっとまじめな話

 「【無敵理論】って議論に勝ったように見せるに便利やけど、だからこそNGワードにしたほうがええよなあ」


 というのは、意見やイデオロギーがぶつかる場面で、いつも思うことである。

 前回、ウィスコンシン州で起こった、警官による黒人男性銃撃事件に抗議する大坂なおみ選手を支持したい、といったことを書いた(→こちら)。

 そこで、彼女を攻撃する声にちょいちょい見られる、

 

 「スポンサーの迷惑」

 「多くの人がかかわっているのに、その気持ちを考えろ」

 

 といった、


 「どんな意見や反論も、あたかも相手側に非があるように見せられる詭弁


 に警戒すべきと語ったが、これは本当にあらゆるところで出てくるもので、注意が必要だ。

 たとえば、偉大な人なので、名前を出すのは少々はばかられるが、王貞治さんの有名な言葉にも似たものを感じる。

 


 「努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない」


 

 私はこう見えて、意外と努力主義である。

 人間がんばれば、それなりに、いいことが返ってくると信じている。

 だからこそ「努力はかならず報われる」的な発想には懐疑的だ。

 努力すれば自分を高められるし、ある程度のスキルも身につくだろうし、自信を得ることも大きい。

 でも、それはあくまで「自分」がどうなるかという問題で、努力と、その結果「報われる」かは、かならずしも因果関係があるとはかぎらない。

 少なくとも必要条件かもしれないが、充分条件ではない。

 下手すると、必要条件ですらないケースもあるのだ。

 「自分を高める」は自分だけですむが、「結果」は他者など競争相手の存在や、才能出会いの有無、経済力時代の要請。

 などなど、数え切れないほどのランダムネスの介在があって、決して自分だけではコントロールできない。

 「一所懸命に勉強」すれば、たいていの人は成績が多少なりとも上がるが


 「第一志望にかなら受かる」


 かといえば、それは断言などできない。

 試験に出る問題や当日のコンディション倍率の高さや、はたまたそもそも高望みしているかもなど、「努力」でそれを「100%」にはできないのだ。

 それをつかまえて、

 

  「報われてないあなたは、努力が足りないから」

 

 ですむなら、世界のありとあらゆる、おそらくは特定不可能な様々な要因からはじき出されたはずの「結果」を「努力不足」で切り捨てられることになる。

 それは、

 

 「上に立つ者」

 「結果を出せた者」

 

 という「既得権者」にとってはいいかもしれないが、あまりにも単純で、もっといえば「都合が良すぎる」のではないか。

 これはどんな人にも、結果が出ないだけで「努力不足」って、あたかもその人責任があるかのように糾弾できる「無敵」の理論。

 正直、かなり理不尽だし、卑怯と言って悪ければ「フェアでない」と思うんだよなあ。

 どうしても、「便利すぎる」ように見えてしまう。

 だって、頭使わず「それだけ」言ってりゃいいんだから、楽なもんだ。

 また、私のようなボンクラより、まじめな人や、がんばっている人ほど乗せられてしまいそうな話なのが、困りものだ。

 「その通りだ」とか、言っちゃうんだよなあ。だまされてるよ。

 もちろん、王さんにそんな気はないんでしょうが、その構造に「気づいてない」可能性は大だし、わかったうえでマウントを取る「卑怯者」もいることだろう。

 中条一雄さんの『デットマール・クラマー 日本 サッカー改革論』という本を読むと、1936年ベルリン・オリンピックで、たまたま「報われた」(はっきり言って大まぐれで)メンバーたちが、いかにそれを振りかざして、日本サッカー発展の足を引っ張ったかよくわかる。

 結果が「努力」だけで生まれないことは、

 

 レナード・ムロディナウ『たまたま

 フランス・ヨハンソン『成功は“ランダム”にやってくる!

 

 とか、いろんな本に書いてある。

 あのダウンタウンの松本人志さんですら「芸人が売れるのは」と言っているのだ。

 昨年、はじめてタイトルを獲得した将棋の木村一基九段は、それまで6回も挑戦に失敗してきたが、その理由が、

 

 「今は努力したが、昔は努力が足りなかったから」

 

 では絶対ないはず。

 あまりにイノセントすぎる考え方だし、なにより、そんなのは木村九段に対して、あまりにも失礼ではないのか。

 芦田愛菜さんのように、この言葉に感銘を受け、礎にしてがんばっていくというのは、すばらしいことである。

 けど、だれかが「結果」を出せなかったり、「報われなかった」と失望したり、その実力や才能よりも得られるはずの実りが少なかったとて、それを、

 

 「努力と呼べない」

 

 で片付けてしまうのは、


 「なーんか、それだけではねーんでないの?」


 と感じてしまうのだ。ハッキリ言って、論点のすり替えでしょう。

 

 「努力はかならず報われる」

 「失敗したのは、自分のがんばりが足りなかったからだ」

 

 というのはシンプルでわかりやすく、ある意味「美しい」言葉なので、人が惹きつけられるのは理解できる。

 だからこそ、警戒が必要なのだと思うのだ。

 チェスの元世界チャンピオンであるガルリ・カスパロフ氏も「才能」や「努力」「結果」というものを、道徳的観念単純化すること、つまり、

 


 「X選手のほうが才能があるのにY選手が勝った。それはY選手の努力が上まわったからだ」


 

 という言い回しを、



 「いささか滑稽に聞こえる」



 と著書の中で書いている。

 世界はもっと複雑で、個人の能力や感覚や経験では、はかれないことが山のようにある。

 それを無視して「努力不足」の一点で人を断罪するのは、

 

 「一瞬、いいこと言ったように見える」

 

 という誘惑はあるけど、「フェアでない」し、不幸の総量をいたずらに増やすだけ。

 場合によっては視野狭窄におちいり、


 「原因の究明」

 「改善策の検討」


 といった健全な考えを「見ないふり」したり、最悪なのは「言い訳」「サボり」と決めつけたりしがちだ。

 そうなると、結果的に「報われる」とこからも遠ざかる恐れがあるから、私は今ひとつ懐疑的なのだ。

 

  

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「大坂なおみ選手を支持します」 差別や暴力、ヘイトや詭弁と戦うアスリートについて

2020年08月31日 | ちょっとまじめな話

 「【無敵理論】って議論に勝ったように見せるに便利だけど、だからこそNGワードにしたほうがええよなあ」

 というのは、意見やイデオロギーがぶつかる場面で、いつも思うことである。

 先日、アメリカのウィスコンシン州で、黒人男性が警官に背後から銃撃されるという事件があった。

 アメリカの歴史は、同時に黒人や先住民に対する暴力の歴史でもあり、本などでそういものに触れると、あまりのやりきれなさに、グッタリしてしまうことも多い。

 これはもちろん、アメリカにかぎらず、あらゆる国や民族に内包される問題でもある。

 決して他人事というわけではないので、こういう事件にキッチリと抗議の声を上げることは、立派だし当然のことだと思うわけだが、どうも世界はそれに賛成してくれない人も多いよう。

 それは、日本人テニスプレーヤーの大坂なおみ選手が、抗議のため試合をボイコットしたことに顕著にあらわれた。

 賛同する声と同時に、反対したり揶揄したりする声も大きいのだ。

 その意見も様々だが、私が大坂なおみ選手に賛同する立場というのもあるとしても、なんだか今ひとつピンとこないものも多い。

 「やっぱり日本人じゃなかった」

 (アンタの言う「日本人」は人種差別や殺人を否定したらアカンのか?)

 「スポーツに政治を持ちこむな」

 (日本的感性として「めんどくさい」というのは、わからなくもないけど、「ダメ」な理由も別に見当たらない)

 「警官に殺されるようなことをするヤツが悪い」

 (いや、撃って殺そうとする方が悪いでしょ……)

 

 などなど、

 「なんで、そうなるの?」

 といったものから、ちょっとここには引用したくないような醜悪な言葉や罵詈雑言まで百花繚乱だが、そういったヘイトは論外として個人的に気になるのがこれだ。

 

 「スポンサーに迷惑」

 「多くの人がかかわっているのに、その人たちの気持ちを考えろ」

 

 すごく日本人的な発想のようだが、これは

 「コンコルド効果」

 と呼ばれるものに近い考え方だから、世界でも似たようなものなのだろう。

 和文和訳するならば、

 「多数派がやってることにはガタガタ言わずに従え。空気読め」

 という同調圧力であり、私などこれを聞いた瞬間、

 「あ、コイツちょっと、信用ならねえかも」 

 と警戒しているワードなのだ。

 これ自体なんとなく「正論」ぽいし、私も「大人の事情」なんてのがわかる歳になってからは、「まあ、ねえ……」となることもある。

 でも、この理論自体がどうかと言われれば、ハッキリ言ってこれって

 「卑怯者の言い分」

 だと思うんだよなあ。

 この理屈が通るなら、この世界のあらゆる多数派や強者や金持ちや押しの強い人が、かかわることすべて。

 そこで、どんな理不尽なことがあっても、一切の反対意見を受け付けなくていいことになってしまう。

 実際、セクハラやパワハラなどがまかり通る場所では、よく聞くものだ。

 ブラック企業の人からとか、ね。

 大会側だって一定の理解を示したが、そりゃ言い分もあろう。

 「勘弁してくれよ」と頭を抱えたかもしれない。

 それだって、決して無視できるものではない。

 けど、この理屈自体はやはり一種の「詭弁」であり、これでもって人を押さえつけようとするのは、それすなわち「卑怯」ではないか。

 ましてやスポンサーや関係者ならまだしも、外野の人間が

 「だまって言うことを聞け」

 とは、どんな奴隷根性やねんと。

 言うまでもないが、自分の主張を通したかったら人に迷惑をかけてもいい、と言っているわけではない。

 そうではなく、私はこのような、

 「ありとあらゆる反論を、あたかも相手側に責任があるかのように見せられる詭弁

 が好きではないわけだ。

 これはある意味「無敵理論」であり、真面目でちゃんとした人ほど足を取られたり、ごまかされたりする危険な言葉遊び。

 あまり好きな言葉ではないが「思考停止」に、つながる恐れもあり、この理屈を持ち出してくるあたりで、もうその人がだれだろうが大減点なのだ。

 その意味でも、そんな「アンフェア」な攻撃を受けるなおみちゃんには、ヘイトや詭弁や同調圧力に負けず、自分の意思を示してほしい。 

 そもそも、彼女の言動に賛成、反対など意見は様々あろう。

 それについて議論するのは大事だけど、ただ汚い侮蔑の言葉を投げつけることは、だれだってゆるしてはいかんでしょう。

 今回、あれこれダラダラ書いてきたが、一言でいえば、こういうことなわけだ。

 「大坂なおみ選手を支持します」。

 あなたのやっていることは間違いではなく、なにより、私はあなたの笑顔のファンだ。

 だから、テニスと同じく、あなたの勇気を尊敬し、その強い意志と行動を応援します、と。

 

 (王貞治さんの「無敵理論」編に続く→こちら

 

 

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スカトロジーで学ぶ「多様性の尊重」 その2

2020年04月08日 | ちょっとまじめな話

 前回(→こちら)の続き。

 「エロジェダイ」こと友人タカイシ君のおすすめで、スカトロ動画の上映会をした、我が母校大阪府立S高校のボンクラ男子生徒たち。

 グロがダメな私は早々にギブアップを宣言したが、そこで感じたことというのが、

 

 「自分と違う人間というのはいるものだ」

 

 と同時に、

 

 「でも、それはそれで尊重すべきなんやろうなあ」

 

 たしかに、私自身にスカトロ趣味はなかった。正直、ひいた。
 
 でも、その趣味を持っている人を、どうこうしようとはならない。とも思ったわけだ。

 そりゃ、その嗜好を押しつけられたりしたら困るし、もし好きになった女の子に「飲んで」とか言われたら、どうしたもんかと頭を抱えるだろう。

 けど、それでもだからといって、差別したり、迫害したり、検閲禁止をしようとも思わない。

 そういう趣味なら好きにやって、なんの問題もないのである。

 当然、私も自分の好きなものは、他の人がどう言おうと好きにやらせてもらう。

 それはスカトロのようなマニアックなものだけでなく、私が嫌悪感を抱いたり密かにバカにしているものでも、すべて同じ。

 「嫌い」「イヤ」「理解不能」となっても、「差別」「迫害」「禁止」はしない。

 多様性って、きっとこういうことなんじゃないだろうか。

 別にイヤならイヤでいい。理解する必要もない。かといって、排除する必要もない。

 ここでのポイントは「多様性の尊重」とは

 

 「自分と違う人のことを理解しよう」

 

 ということではないこと。

 そんなことを掲げてもハードルが高いし、またそういうことを言いがちな「善良な人」ほど、うまくいかなかったり、「放っておいてほしい」とか反応されると、

 

 「こちらが努力しているのに、むこうが応えてくれない」

 「信じていたのに裏切られた」

 

 最悪なのは「改心」させようとしたり、あげくには勝手に盛り上がって「アンチ」になってしまったりと(「善良な人」はときに自分の善を絶対視するもので「独善」とはよく言ったものです)、めんどくさいケースが多いのだ。

 大事なのはたぶん、

 

 「自分と違う人のことは、《そういうもの》として放っておく」

 

 ということなんだけど、人はこの一見簡単そうなことが案外できないらしく、

 

 「理解しようとして失敗から逆ギレ」

 

 とか下手すると「」「不道徳」「不謹慎」と認定して石を投げるとか、迷惑なアクションを起こしてしまう。

 「おたがい様」かもしれないのにだ。

 そもそも、「自分の不快」でなにかを抑圧したら、自分が好きなものが、

 「オレ様が不快だから」

 と、やり玉にあがったとき反論する「道義的権利」を失うのに。

 それだったら「わからないまま、じっとしてる」方が、よほど世界は平和なんだけど、人はどうも、

 

 「自分と違うもの」

 「理解の範疇を超えているもの」

 

 これを放置するストレスに耐えられないようなのだ。

 あと、

 

 「自分から見て少数派だったり、《下》と判断した者たち」

 

 これが楽しそうにしていることに、無条件でイラッとするものもあって、それが相乗効果を生んだりもする。

 

 「○○のくせに生意気だ」

 

 とかね。

 まったくもって不条理に余計なお世話だが、これもまた理屈では割り切れない人の業なのだ。

 翻訳家でありスティーブンミルハウザーポールオースターの名訳で知られる翻訳家の柴田元幸先生は、あるエッセイでこんなことを書いている(改行引用者)。

 

 スチュアート・ダイベックという作家が僕は大好きで、短編集を一冊訳してもいるが、彼の描くシカゴの下町では、おばあちゃんの真空管ラジオはいつもポルカ専門の放送局に合わせてある一方、孫たちはロックバンドを組んでスクリーミン・ジェイ・ホーキンスのシャウトを真似しあったりしている。

 どっちが正しいか、正しくないか、といった話はいっさい出てこない。両方が、別に意識して仲よくしようと努めたりせず、ただ併存している。

 おばあちゃんのラジオも、何せ古いから、ときどきチューニングがポルカからずれて、違う音楽が紛れこんできたりする。こういう方がずっといい。


    ―――柴田元幸「がんばれポルカ」

 

 バリバリの「ロック世代」である柴田先生だが、その通りではないだろうか。

 ポルカもロックもスカトロも、その価値はすべて並列上にある。えらそうにする必要もないし、卑下する意味もない。

 

 「え? そこをアップにするんですか?」

 「そんな【カクテル】とか、ムリっすよ!」

 

 放送室で悲鳴を上げた若き日の私だが、柴田先生も言う通り、独善なんかより「こういう方がずっといい」のである。

 

 

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スカトロジーで学ぶ「多様性の尊重」

2020年04月07日 | ちょっとまじめな話

 「多様性とはなにか」ということを、スカトロ動画から学んだ。

 と、はじめると、なんだかわけがわからないうえに、私がスカトロジストのような印象をあたえそうだが、そういうことではなく、今から説明してみたい。

 高校生のころ、クラスメートだったタカイシ君は皆から「ジェダイ」と呼ばれていた。

 ジェダイとはもちろん『スターウォーズ』のそれで、彼がなにゆえにそのような尊称で語られるのかと問うならば、なにをかくそう、それは

 

 「エロのジェダイ」

 

 なのであった。

 健康な高校生にとって、エロというのは勉強や、将来の展望を鼻息プーで吹き飛ばす最重要科目である。

 でもって、「ジェダイ」タカイシ君はネットのない時代、そのカナメともいえる「アダルトビデオ」にメチャクチャくわしかったのだ。

 そんな男なので、彼の周囲には

 

 「ジェダイよ、われにナースもののAVをあたえよ!」

 「マスター、桜木ルイの新作をお願いします!」

 

 という迷える子羊たちが、常に群がっていたのである。

 私はそちらに関しては「活字派」で、あまり映像作品にはくわしくなかったが、あるとき彼と話していて、

 

 「シャロン君はどんなんが好きなん? よかったら、ええのん用意するで」

 

 ソムリエか、ポン引きのように誘われてしまったのだ。

 そこで、ふつうのを観てもおもしろくないということで、なかなか見る機会のないマニアックなものをどうかと頼んでみると、用意してくれたのがスカトロ動画なのだった。

 スカトロジーとは、要するに糞尿志向というか、お笑いコンビであるリットン調査団藤原さんの名言を借りれば、

 

 「あー、女子高生のおしっこをドンブリ一杯飲みてえ!」

 

 といったノリであり、まあなかなかにノーマルではない愛の形である。

 そんなコアなものをひとりで観るのもなんなんで、放課後、放送部の友人に頼んで機材を用意してもらい、ボンクラ男子が集まってワイワイ鑑賞したのだが、これがインパクト充分だった。

 まずは入門編(?)ということで、女優のみなさんが、トイレで排泄する動画からスタート。

 和式便器にまたがり、音を立てて女性が放尿し、脱糞する。

 

 「どうや、これがスカトロいうやつや。まずはゆるい感じから、なれてくれ」

 

 笑顔で紹介するタカイシ君だが、情けないことに私はここで、すでに逃げそうになった。

 こう見えて、グロはダメなのである。それをモロに見せられては、とても正視できるものではない。

 さらにタカイシ君は

 

 「洋式便器の中にカメラを仕込んで見る、放尿脱糞シーン」

 

 こんなビデオをセットし、こうなるとまるで自分の顔面めがけて「ブツ」が飛んでくる気分が味わえる。今でいう「VR」感覚である(ホンマかいな)。

 

 「どうや、ええ感じやろ」

 

 ジェダイは上機嫌だ。

 さらには、プレイの幅がもっと具体的になってきて、そろそろあまり言及したくないが「接触」「飲食」が入ってくると、もうグロッキーである。

 ヘタレな私は、ここで、

 

 「オレ、もう無理やから」

 

 ギブアップしたが、上映会はその後も続き、ちょっとここではとても書けないようなハードな展開を見せ、最後まで見た友人曰く、

 

 「人の想像力って、限界がないんやなあと感心したわ。ようあんなん、思いつくで。だって、太ったオッサンの脂肪を吸引器で吸ってそれを(以下マジでグロいので略)」

 

 性的興奮や嫌悪感を超えて、ほとんどアートを見る目で観てしまったというのだ。

 この上映会を通じて私は思ったわけだ。

 

 「世の中には、自分と違う価値観の人間がいるものだ」

 

 同時に、こうも思ったわけだ。

 

 「違うことは違うけど、それはそれで尊重すべきであろうなあ」

 

 (続く→こちら

 

 

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2019年最後の夜にカート・ヴォネガットとウォルト・ホイットマンの言葉を

2019年12月31日 | ちょっとまじめな話

 あらゆる「抑圧」が嫌いだ。

 子供のころから間の抜けたボンクラだが、「抑圧」「暴力」「差別」「搾取」というのはするのも、されることも、できるだけ避けて生きてきた。

 ときにそれを押しつけられそうなときは「喧嘩上等」くらいの気持ちであり、周囲から「安パイ」あつかいされる人間が、そこだけはゆずらないんだから、よほどそういうものとソリが合わないのだろう。

 だから、今でも「ベルリンの壁崩壊」の映像を見ると、つい見入ってしまう。

 それが「抑圧からの解放」の象徴のようなシーンだからだ。

 見るといつも思い出すのは、学生時代購読していた『月刊基礎ドイツ語』という雑誌のこと。

 そこでは「ドイツ統一の問題点」という記事が掲載されており、悲願であった統一を果たしたドイツだが、旧東西地域の経済格差や生活スタイルの変化に戸惑う人々など、その問題点が指摘されていた。

 「感動的」な東西の融和でも、物事は理想通りにはいかないものだと感じたが、それでも旧東ドイツに住んでいたというある女子大学生が、こう言っていたのが印象的だった。

 「たしかに、今のドイツは問題も多く、統一もスムーズとは言えません」

 そう前置きしてから、

 「でも、今の私たちは、言いたいことを言えるようになり、なりたいものになろうとすることができます。これは素晴らしいことではないでしょうか」

 この言葉が、今でも忘れられない。

 言いたいことが言え、なりたいものになろうとすることができる。

 そんな当たり前のことが、おそらく彼女だけでなく私にとっても金や地位や名誉なんかより、はるかに大切な何かだったからだ。

 けど不思議なことに、こんなささやかな願いを憎み、妨害しようとする人というのが世の中にはいる。

 私はそういう人を警戒する。

 だれかを抑圧し「その人のためなんだ」なんて、おためごかしを言う人を信用しないし、ましてやそのことを「よろこび」とする人を見ると心の底から落胆する。

 今年の夏、読んだ小説にこういう一説があった。

 

 「悪とは、愚か者のなかにあって」

 とわたしは言葉をつづけた、

 「人を罰し、人を中傷し、喜んで戦争をおっぱじめる部分のことさ」


 ―――カート・ヴォネガット『母なる夜』

 

 できることなら、自分がおもしろいと思った物語の作者に軽蔑されるような人間になりたくないものだ。

 クラウス・コルドンの『ベルリン三部作』を読んだとき、私はこれを「昔の話」と思った。

 ドン・ウィンズロウ『仏陀の鏡の道』で描かれた大躍進や文化大革命の描写を「よその国の出来事」と読んだ。

 山本弘さんの『神は沈黙せず』で描かれた未来の日本に対して「日本人はちゃんとしてるから、こんなことにはならないよ」と無邪気に笑っていた。

 私は単に、甘かったのかもしれない。

 最初に書いたとおり、私は間の抜けたボンクラだ。だから、この世界で行われているパワーゲームにはなんの興味もない。

 ただ「抑圧」「暴力」「差別」「搾取」と、それを是とする人が大手を振って闊歩する光景だけは見たくない。

 昔の東ドイツにかぎらず、若者が「言いたいこと」すら言えない社会があることを憂うくらいには。

 『将棋世界』の表紙で、ほほ笑む藤井聡太七段の横にヘイト本が並んでいるという現実に、悲しみと憤りをおぼえるくらいには。

 人の尊厳を踏みにじり、それで肥え太り、罰を受けないことを「かしこいやり方」とほくそえんでいる者は絶えることなく、またそれを支持する人も多い。

 私など無力な存在だが、少なくとも「誰かの用意した憎悪」に乗っかることを「みっともない」と感じる心と、拒否する意志くらいは忘れないようにしたいものだ。

 これもまた、学生時代に読んだ詩のように。

 

 合衆国、あるいはそのいずれかの州、あるいはいずれかの都市に訴える。

 大いに抵抗し、服従は少なく。

   ―――ウォルト・ホイットマン「合衆国へ」

 


 それでは本年度はここまで。

 サンキュー、バイバイ!

 また来年。


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「人生の意味」に悩む女子高生に、わりと真剣な「正解」を考えてみた その3

2019年08月08日 | ちょっとまじめな話
 前回(→こちら)の続き。
 
 人生を生きる意味は、
 
 「自分が好きなもの、影響を受けたもの、その感動から生じたなにかを伝えていく」。
 
 ということだと、私は創作活動から学んだわけで、そのことをカフェで隣り合った悩める少女に伝えたくなった。
 
 これには同じことを言ってくれている著名人もいて、たとえば内田樹さん。
 
 内田先生が、その著作でよく使われる言葉に
 
 
 「パスを出す」
 
 
 というものがある。
 
 お金でも人材でも情報でもなんでも、先生はどんどん誰かにわたしていけという。
 
 そうしてモノや情報がぐるぐると回っていくことによって、社会が活性化し、そこに仕事や経済やコミュニティーなどが出来てくる。
 
 金がないならオレんとこへこい。
 
 この古い歌の歌詞のような生き方こそが、人の本質だと内田先生は言うのだ。
 
 内田先生との対談本もある、岡田斗司夫さんもまた、似たようなことをいっておられて、あるイベントでは、
 
 
 「人の生きる意味は簡単。受け取って、考えて、真似して、伝える」
 
 
 内田先生と、そして私とも本質的には同じ答えです。
 
 さらにもう一人は、作家の関川夏央さん。
 
 その著書『おじさんはなぜ時代小説が好きか』という著書の中で、
 
 
 「以前に誰かが成し遂げた仕事を無駄にはしない。先人の遺業を尊重し、参考にしつつ、さらに遠くまで行こうとするとき、作家はオリジナリティを発揮するのです。

  そしてそのたびにその作品世界は広く、かつ深くなるのです。」
 
 
 ね、これも同じだ。
 
 我々の生きる意味は、
 
 
 1「まず、誰かから受け取る」

 2「それについて尊重し、そしてじっくりと考えてみる」

 3「自分なりにまねをしたり、答えらしきものを出したりしてみる」

  4「あとは、それをどんどん回していく」
 
 
 そのパスが回り回って自分のところに戻ってきたら、また1に戻る。
 
 ね、簡単でしょ?
 
 これは私だけじゃない、内田樹、岡田斗司夫、関川夏央といった社会的影響力がある人もいっているんだから、相当に「正しい」はず。
 
 私が知らないだけで、きっと似たようなことを発表している人は、他にもっといるんだろう。
 
 「スキあらばパスを出せ」。
 
 そうしているかぎり、キミは決して無意味でも孤独でもない。
 
 だからマムコちゃん、なにも悩むことはない。
 
 キミの生きる意味はそれだ。『オール東宝怪獣大進撃』をめくりながら、そういってあげたくなってしまった。
 
 なんて伝えてみると、もしかしたら彼女は、
 
 「でも、あたしには何の特技もない。伝えることもない」
 
 そう反論するかもしれないが、そんなことはない。
 
 たとえば岡田さんは言っていた、
 
 
 「ボクは、朝ほうきを持って家の外を掃除しているおばあさんの姿が好きなんだ。

  それは日本の良き姿のような気がするし、それを見た誰かがいいなと思って真似してくれたら、そういう文化が伝わっていって、その光景が日本に広がって、もしかしたら町が、少しきれいになったりするかもしれないでしょ」
 
 
 岡田さんの言葉を借りれば、そういった「ミーム」が広がることによって、社会が少しずつでも動き、活性化し、よい方向に転がっていくかもしれない。
 
 「バタフライ効果」というSF用語があるが、まさにそれ。大陸の蝶のはばたきが、どこかの国で台風になるかもしれない。
 
 え? バカバカしい? 
 
 でも、人の営みって案外とこういう「ささいなこと」で出来てないかな。
 
 ふと立ち寄った書店で出会った一冊の本が、自分の人生に大きな影響をあたえたりする。
 
 たまたまつけたテレビでやってた番組の影響を受けて、進路を決める子供もいる。
 
 落ちこんだとき勇気づけられたという友人が「あのとき、ありがとな」とお礼を言うけど、こっちの方は
 
 「あれ? オレ、そんなん言うたことあるっけ?」
 
 憶えてなかったりする(だから、よく怒られます)。
 
 我々が大小問わず人生を豊かにすることは、たいていがそういった「なにげないこと」だったりする。
 
 だから、伝えることも、渡すものも、そりゃすごい感動でも高価なプレゼントでもいいけど、別に特別でもない「なにげないこと」でもいいのだ。
 
 古いスマホとか、読み終えたマンガとか、ネットのおもしろ動画とか。
 
 近所のスーパーの安売り情報とか、簡単なしみ抜き方法とか、ジャムのフタの開け方とか、そんなんでもいい。
 
 だって、そのことがだれに、どんな影響をあたえるかなんて知る由もない。
 
 結果なんてわかんない。だから大事なのは種をまく「手数」だ。
 
 もう一度いう。人生を生きる意味とは、
 
 
 「なにかを受け取ったら、それを尊重しつつ考えてみて、自分なりに真似をして、あとはそれをどんどん伝えてまわしていく」
 
 
 だから、たまたまカフェで隣り合わせた見も知らぬ女子高生マムコちゃん、私はこれをキミにパスしよう。
 
 そりゃキミはこれを今読んでないだろうけど、なあに人生はムダに長い。
 
 もしかしたら数年後にでも、ここに行き着いてこないとも言い切れまい。だから、種だけまいておく。
 
 人生は受け取ったモノを咀嚼して、どんどんまわせばいい。
 
 キミの場合は、「人生に意味はあるのか」という問いを受け取った。だったら、それを
 
 「尊重しつつ考え」
 
 「自分なりの答えを出して」
 
 「それを伝え」ればいいのだ。
 
 伝える相手はそう、おそらくはキミの後に続いてくるであろう、第2第3の「生きる意味」に悩んでいる少女たちだ。
 
 いつか「答え」が出たら、いやもし出なくたって、彼女たちにそのことを教えてあげればいい。
 
 それは5年後かもしれないし死ぬ直前かもしれないけど、それでもキミなら若気の至っている「彼女たち」の気持ちを、少しは理解できるだろう。
 
 周囲の人のように「ウザ」「めんどくさ」とはいわないはずだ。「わたしもそうだった」と共感し、話を聞き、自分なりに考えて出した結論を伝える。
 
 「生きる意味」に悩む女子高生という存在は、きっと人類が滅ぶまで絶えることなどない。
 
 いつか、かならず出会うはずの、その「かつての自分」のためにキミはここにいる。彼女らに声をかけ、なぐさめ、もし迷子になったり間違えそうになっていたら、そっと導いてあげる。
 
 それこそがキミが今ここで悩み、生きている意味なんだ。
 
 
 
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「人生の意味」に悩む女子高生に、わりと真剣な「正解」を考えてみた その2

2019年08月07日 | ちょっとまじめな話
 前回(→こちら)の続き。
 
 カフェでお茶をしていると、
 
 「この人生を生きる意味って、ホンマにあるんかなあ」。
 
 隣の席から、そんな声が聞こえてきた。
 
 その主は行きずりの女子高生マムコちゃんだが、不肖この私、おせっかいにも彼女にこう答えてしまいそうになったのだ。
 
 「意味はあるよ」
 
 人生を生きる意味とはなにか。
 
 答えは簡単。今、自分が持っているものを、どこかのだれかに伝えていけばいい。
 
 これだけのことだ。
 
 というと、「え? ホンマにそれだけかいな」とあきれられそうだが、これだけです。
 
 これこそが唯一無二で、おそらくは「正解」に一番近いんじゃないかなあ。
 
 私は基本的にボーッとした人間であり、若いころからあまり、マムコちゃんみたいな青春の悩みにとらわれることはなかった。
 
 そんな自分が、なぜ「人生の意味」に自分なりの結論が出せたのかといえば、そのきっかけは「創作活動」であった。
 
 私は若いころ(というか今でもだけど)、いわゆる「表現したいさん」であった。
 
 子供のころから本を読むのが好きで、物語の世界にタンデキするようになった。
 
 おかげで、高校生くらいから演劇をやったり落語をやったり、今でもこうして、だれも読みもしないコラムもどきを書きたれたりしている。
 
 そういった活動に興味のない方からすると、
 
 「お金にならないし、たいした才能があるわけでもないに、なんでそんなことやってるの?」
 
 不思議だろうが、その理由というのは簡単で、
 
 「先人の作品から受けたこの感動を、他のだれかに伝えたい」
 
 この衝動があるから。
 
 これは創作活動に限らず、スポーツでも料理でもなにか研究活動でも、なんでも同じだと思うけど、人がなにか行動を起こすときというのは、これなんですよ。
 
 「だれかの言ったこと、やったことの影響を受けたとき」
 
 この瞬間、人はいてもたってもいられなくなり、立ち上がって、走り出したり、筆を執ったり、今ならネットで語り出したりするのだ。
 
 自分の場合もそうだった。
 
 坂口安吾の『風博士』を読んだとき、ビリー・ワイルダーの『あなただけ今晩は』を見たとき。
 
 アラン・エイクボーンの『パパに乾杯』を観劇したとき、ミッシェル・ガン・エレファントの『チキン・ゾンビーズ』を聴いたとき。
 
 時あたかも天恵を受けたかのごとくに私は立ち上がり、ワープロに向かったり友に電話をかけたり、意味もなく感極まって踊り出したりした。
 
 そこにあった衝動はただひとつ。
 
 「今自分が感じているワケのわからない高揚感を、なんとか形にして伝えられないものか」
 
 そうして私は嗚呼、今日もこうして「たいした才能もない」文章のために、キーをたたくのである。
 
 そう、創作というのはこれすべからく「返歌」であり、もっといえば「ラブレター」なのだ。
 
 誰か先人の作品、それはショパンのピアノでも、レンブラントの絵でも、スピルバーグの映画でも、キング牧師の演説でも。
 
 ロジャー・フェデラーのスーパープレーでも、藤井聡太の絶妙手でも、おばあちゃんの知恵袋でも、レタスのおいしい食べ方でもなんでもいい。
 
 そういった自分が「好き」「すばらしい」と思ったものを、紹介したり、評論したり、自分なりにアレンジして別の作品に仕上げてみたり、そうしてだれかに伝える。
 
 返歌をしたしめて、送る。
 
 それこそが「モノを創る」ことの本質であり、それは同時に、少なくとも私にとっての、創作だけにかぎらない「生の本質」となったのだ。
 
 私にとって、生きることとは
 
 「自分が好きなもの、影響を受けたもの、もしだれかが知ってくれたら、きっとその人の人生を豊かにしてくれるだろうと思えるもの」
 
 そういうものを、だれかに伝えることである。
 
 この考えを、私は長らく、あまり口にすることはなかった。
 
 なんだか説教みたいだし、それにこれが万人に当てはまる普遍性があるとも思えなかったから。
 
 きっかけが「創作」という、ちょっと偏ったところに端を発しているし。
 
 だとしたら、それをあたかも「正解」のように語るのはよけいなお世話ではないのか。そう感じていたわけだ。
 
 だがそこに、幾人か強力な援軍となりそうな人たちの意見を聞くことができたとき、私は「やっぱりそうか」との確信を得ることができた。
 
 それ以来、私はわりとフランクにこの「人生の意味」を語ることにしている。そのための背中をポンとたたいてくれたのは、まず内田樹さんがいる。
 
 
 (続く→こちら
 
 
 
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