「誇り高く生きる」しか、ないんじゃないかなあ。
というのが、後輩諸君にできる、唯一のアドバイスかもしれない。
私はいい歳して、頭に「ド」のつくボンクラであるが、それゆえかときに、同じような人種の後輩から、相談を受けることもある。
そんな彼ら(ときに彼女ら)のことを、あれこれと考えていると、いつも結局は、ひとつの結論に行きついてしまうことになる。
「負けるなよ、せめて誇り高く生きるんだ」と。
悲しいことであるが、この世界には人の尊厳を踏みにじることが、人生の喜びであるという人が存在し、それが後輩諸君の「相談」で頻出する。
私自身は、こういう人を、できるだけ避けて生きてきた。
そして、たまさか、彼ら彼女らのような人に出会うと、こうも思うのだ。
「そういう人に、決して負けてはいけない」と。
ここでいう負けるとは、一般的な「勝ち負け」ではない。
たとえば、その「踏みにじる人」が自分よりも偉かったり、権力があったり、金持ちだったりしても、そんなことはどうでもいい。
そういう人に試合で負けたり、成績が下だったり、モテなかったりしても、それだって、なんてことはない。
ここで私がいいたい「負けるな」とは、
「そういう人を見て、【自分も見習ってしまう】こと」
これこそが、大いなる敗北なのである。
キミにとって、そして私にとって負けなのはなにかといえば、そういう「踏みにじる人」を見て、
「こういうのが、【賢いやり方】なんだ」
と学んでしまったり、「踏みにじられた」屈辱感に耐えられなくなって、
「自分の尊厳が踏みにじられたらなら、他のだれかの尊厳を踏みにじれば、この苦しさが軽減されるのだ」
そう考えてしまうことだ。
「この人がやったように」と。
たとえば、暴力でなにかを強制されたとき、人は決して強くないから、
「自分は暴力で支配された。ということは、暴力というのは支配に有効な手段(これは悲しかな事実である)なんだ」
「こんな苦しみを自分だけが受けるのは不条理だから、他者にも同じ目に合ってもらわなくては帳尻が合わない」
「でも、それをそのまま言うのはみっともないから、【おまえのため】とか【伝統】という言葉で糊塗しよう」
とか、なることはある。気持ちはわかる。
自分の感じた劣等性を、他者にスライドさせることによる自己欺瞞を土台にした、「屈辱感の軽減」は、下手な薬やはげましの言葉より、よほど効き目があったりする。
でも、そういう姿を見ると、私は思うのだ。
「それ、おまえ(オレ)負けだよ」と。
それは大きな誘惑であるが、決してのってはいけない。
そう、聖書(私はクリスチャンではないけど)に出てくる悪魔は決して、殺人や破壊を行わない。
映画『ダークナイト』のジョーカーと同じだ。人を追いつめ、
「自分が傷ついたなら、その代わりに他者を傷つければ、心が落ち着くぞ」
そう誘いかけてくる。
「悪魔」とは「誘惑者」の別名なのだ。
だから、もし「負け」そうになってるキミにアドバイスをするとしたら、たとえ他で、世間的には負けに見える状態におちいっても、その「最終防衛ライン」だけは死守すべきだ、と。
シュテファン・ツヴァイクだったか、ロマン・ローランだったかの本に、こんな言葉があったよ。
「たとえ自身が堕ちようとも、奴隷商人にはなるな」
たいした取り柄もない我々だけど、いやだからこそ、たとえなにがあっても、せめてそこくらいは、強がって生きよう。
という話をすると、
「それ、わかります」
神妙な顔で、うなずいてくれる子もいれば、
「ボクが聞きたいのは、そういうんや、ないんスけどねえ……」
という顔をする子もいる。
中には、こう問う者もいる。
「話はわかりました。じゃあ、どうしても耐えられない不条理に出会ったとき、具体的にどうすればいいんですか?」
これにはたぶん、ロシア・スラブ文学者である沼野充義先生の言葉が「正解」だろう。
どんなに、おそろしい同調圧力のもとにあっても、心の中ではそっと不同意の姿勢をつらぬくこと
そして、大声を張り上げなくてもよい。小さな大事なものを、そっと守り続けること。
それはおそらくですね、文学に携わるわれわれ全員の仕事ではないかと思うのです。
それをやったとて、人生において、たいしたプラスはないのかもしれない。自己満足と言われれば、それまでだろう。
でも、だれかのそういう姿を見ると、そこに、かすかな希望の灯がともる。
そして、いつもかどうかは、わからないけど、たまになら、本当に何回かに一回でも。
ささやかな誇りを「そっと守り続ける」ことが、できるのかもしれないという、強い力が湧いてくるのだ。
「しかも、そこにオチがなくて、時間返せとブチ切れそうになる」
「【無敵理論】って議論に勝ったように見せるに便利やけど、だからこそNGワードにしたほうがええよなあ」
というのは、意見やイデオロギーがぶつかる場面で、いつも思うことである。
前回、ウィスコンシン州で起こった、警官による黒人男性銃撃事件に抗議する大坂なおみ選手を支持したい、といったことを書いた(→こちら)。
そこで、彼女を攻撃する声にちょいちょい見られる、
「スポンサーの迷惑」
「多くの人がかかわっているのに、その気持ちを考えろ」
といった、
「どんな意見や反論も、あたかも相手側に非があるように見せられる詭弁」
に警戒すべきと語ったが、これは本当にあらゆるところで出てくるもので、注意が必要だ。
たとえば、偉大な人なので、名前を出すのは少々はばかられるが、王貞治さんの有名な言葉にも似たものを感じる。
「努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない」
私はこう見えて、意外と努力主義である。
人間がんばれば、それなりに、いいことが返ってくると信じている。
だからこそ「努力はかならず報われる」的な発想には懐疑的だ。
努力すれば自分を高められるし、ある程度のスキルも身につくだろうし、自信を得ることも大きい。
でも、それはあくまで「自分」がどうなるかという問題で、努力と、その結果「報われる」かは、かならずしも因果関係があるとはかぎらない。
少なくとも必要条件かもしれないが、充分条件ではない。
下手すると、必要条件ですらないケースもあるのだ。
「自分を高める」は自分だけですむが、「結果」は他者など競争相手の存在や、才能や運や出会いの有無、経済力や時代の要請。
などなど、数え切れないほどのランダムネスの介在があって、決して自分だけではコントロールできない。
「一所懸命に勉強」すれば、たいていの人は成績が多少なりとも上がるが
「第一志望にかならず受かる」
かといえば、それは断言などできない。
試験に出る問題や当日のコンディション、倍率の高さや、はたまたそもそも高望みしているかもなど、「努力」でそれを「100%」にはできないのだ。
それをつかまえて、
「報われてないあなたは、努力が足りないから」
ですむなら、世界のありとあらゆる、おそらくは特定不可能な様々な要因からはじき出されたはずの「結果」を「努力不足」で切り捨てられることになる。
それは、
「上に立つ者」
「結果を出せた者」
という「既得権者」にとってはいいかもしれないが、あまりにも単純で、もっといえば「都合が良すぎる」のではないか。
これはどんな人にも、結果が出ないだけで「努力不足」って、あたかもその人に責任があるかのように糾弾できる「無敵」の理論。
正直、かなり理不尽だし、卑怯と言って悪ければ「フェアでない」と思うんだよなあ。
どうしても、「便利すぎる」ように見えてしまう。
だって、頭使わず「それだけ」言ってりゃいいんだから、楽なもんだ。
また、私のようなボンクラより、まじめな人や、がんばっている人ほど乗せられてしまいそうな話なのが、困りものだ。
もちろん、王さんにそんな気はないんでしょうが、その構造に「気づいてない」可能性は大だし、わかったうえでマウントを取る「卑怯者」もいることだろう。
中条一雄さんの『デットマール・クラマー 日本 サッカー改革論』という本を読むと、1936年のベルリン・オリンピックで、たまたま「報われた」(はっきり言って大まぐれで)メンバーたちが、いかにそれを振りかざして、日本サッカー発展の足を引っ張ったかよくわかる。
結果が「努力」だけで生まれないことは、
レナード・ムロディナウ『たまたま』
フランス・ヨハンソン『成功は“ランダム”にやってくる!』
とか、いろんな本に書いてある。
あのダウンタウンの松本人志さんですら「芸人が売れるのは運」と言っているのだ。
昨年、はじめてタイトルを獲得した将棋の木村一基九段は、それまで6回も挑戦に失敗してきたが、その理由が、
「今は努力したが、昔は努力が足りなかったから」
では絶対ないはず。
あまりにイノセントすぎる考え方だし、なにより、そんなのは木村九段に対して、あまりにも失礼ではないのか。
芦田愛菜さんのように、この言葉に感銘を受け、礎にしてがんばっていくというのは、すばらしいことである。
けど、だれかが「結果」を出せなかったり、「報われなかった」と失望したり、その実力や才能よりも得られるはずの実りが少なかったとて、それを、
「努力と呼べない」
で片付けてしまうのは、
「なーんか、それだけではねーんでないの?」
と感じてしまうのだ。ハッキリ言って、論点のすり替えでしょう。
「努力はかならず報われる」
「失敗したのは、自分のがんばりが足りなかったからだ」
というのはシンプルでわかりやすく、ある意味「美しい」言葉なので、人が惹きつけられるのは理解できる。
だからこそ、警戒が必要なのだと思うのだ。
チェスの元世界チャンピオンであるガルリ・カスパロフ氏も「才能」や「努力」「結果」というものを、道徳的観念で単純化すること、つまり、
「X選手のほうが才能があるのにY選手が勝った。それはY選手の努力が上まわったからだ」
という言い回しを、
「いささか滑稽に聞こえる」
と著書の中で書いている。
世界はもっと複雑で、個人の能力や感覚や経験では、はかれないことが山のようにある。
それを無視して「努力不足」の一点で人を断罪するのは、
「一瞬、いいこと言ったように見える」
という誘惑はあるけど、「フェアでない」し、不幸の総量をいたずらに増やすだけ。
場合によっては視野狭窄におちいり、
「原因の究明」
「改善策の検討」
といった健全な考えを「見ないふり」したり、最悪なのは「言い訳」「サボり」と決めつけたりしがちだ。
そうなると、結果的に「報われる」とこからも遠ざかる恐れがあるから、私は今ひとつ懐疑的なのだ。
「【無敵理論】って議論に勝ったように見せるに便利だけど、だからこそNGワードにしたほうがええよなあ」
というのは、意見やイデオロギーがぶつかる場面で、いつも思うことである。
先日、アメリカのウィスコンシン州で、黒人男性が警官に背後から銃撃されるという事件があった。
アメリカの歴史は、同時に黒人や先住民に対する暴力の歴史でもあり、本などでそういものに触れると、あまりのやりきれなさに、グッタリしてしまうことも多い。
これはもちろん、アメリカにかぎらず、あらゆる国や民族に内包される問題でもある。
決して他人事というわけではないので、こういう事件にキッチリと抗議の声を上げることは、立派だし当然のことだと思うわけだが、どうも世界はそれに賛成してくれない人も多いよう。
それは、日本人テニスプレーヤーの大坂なおみ選手が、抗議のため試合をボイコットしたことに顕著にあらわれた。
賛同する声と同時に、反対したり揶揄したりする声も大きいのだ。
その意見も様々だが、私が大坂なおみ選手に賛同する立場というのもあるとしても、なんだか今ひとつピンとこないものも多い。
「やっぱり日本人じゃなかった」
(アンタの言う「日本人」は人種差別や殺人を否定したらアカンのか?)
「スポーツに政治を持ちこむな」
(日本的感性として「めんどくさい」というのは、わからなくもないけど、「ダメ」な理由も別に見当たらない)
「警官に殺されるようなことをするヤツが悪い」
(いや、撃って殺そうとする方が悪いでしょ……)
などなど、
「なんで、そうなるの?」
といったものから、ちょっとここには引用したくないような醜悪な言葉や罵詈雑言まで百花繚乱だが、そういったヘイトは論外として個人的に気になるのがこれだ。
「スポンサーに迷惑」
「多くの人がかかわっているのに、その人たちの気持ちを考えろ」
すごく日本人的な発想のようだが、これは
「コンコルド効果」
と呼ばれるものに近い考え方だから、世界でも似たようなものなのだろう。
和文和訳するならば、
「多数派がやってることにはガタガタ言わずに従え。空気読め」
という同調圧力であり、私などこれを聞いた瞬間、
「あ、コイツちょっと、信用ならねえかも」
と警戒しているワードなのだ。
これ自体なんとなく「正論」ぽいし、私も「大人の事情」なんてのがわかる歳になってからは、「まあ、ねえ……」となることもある。
でも、この理論自体がどうかと言われれば、ハッキリ言ってこれって
「卑怯者の言い分」
だと思うんだよなあ。
この理屈が通るなら、この世界のあらゆる多数派や強者や金持ちや押しの強い人が、かかわることすべて。
そこで、どんな理不尽なことがあっても、一切の反対意見を受け付けなくていいことになってしまう。
実際、セクハラやパワハラなどがまかり通る場所では、よく聞くものだ。
ブラック企業の人からとか、ね。
大会側だって一定の理解を示したが、そりゃ言い分もあろう。
「勘弁してくれよ」と頭を抱えたかもしれない。
それだって、決して無視できるものではない。
けど、この理屈自体はやはり一種の「詭弁」であり、これでもって人を押さえつけようとするのは、それすなわち「卑怯」ではないか。
ましてやスポンサーや関係者ならまだしも、外野の人間が
「だまって言うことを聞け」
とは、どんな奴隷根性やねんと。
言うまでもないが、自分の主張を通したかったら人に迷惑をかけてもいい、と言っているわけではない。
そうではなく、私はこのような、
「ありとあらゆる反論を、あたかも相手側に責任があるかのように見せられる詭弁」
が好きではないわけだ。
これはある意味「無敵理論」であり、真面目でちゃんとした人ほど足を取られたり、ごまかされたりする危険な言葉遊び。
あまり好きな言葉ではないが「思考停止」に、つながる恐れもあり、この理屈を持ち出してくるあたりで、もうその人がだれだろうが大減点なのだ。
その意味でも、そんな「アンフェア」な攻撃を受けるなおみちゃんには、ヘイトや詭弁や同調圧力に負けず、自分の意思を示してほしい。
そもそも、彼女の言動に賛成、反対など意見は様々あろう。
それについて議論するのは大事だけど、ただ汚い侮蔑の言葉を投げつけることは、だれだってゆるしてはいかんでしょう。
今回、あれこれダラダラ書いてきたが、一言でいえば、こういうことなわけだ。
「大坂なおみ選手を支持します」。
あなたのやっていることは間違いではなく、なにより、私はあなたの笑顔のファンだ。
だから、テニスと同じく、あなたの勇気を尊敬し、その強い意志と行動を応援します、と。
(王貞治さんの「無敵理論」編に続く→こちら)
前回(→こちら)の続き。
「エロのジェダイ」こと友人タカイシ君のおすすめで、スカトロ動画の上映会をした、我が母校大阪府立S高校のボンクラ男子生徒たち。
グロがダメな私は早々にギブアップを宣言したが、そこで感じたことというのが、
「自分と違う人間というのはいるものだ」
と同時に、
「でも、それはそれで尊重すべきなんやろうなあ」
たしかに、私自身にスカトロ趣味はなかった。正直、ひいた。
でも、その趣味を持っている人を、どうこうしようとはならない。とも思ったわけだ。
そりゃ、その嗜好を押しつけられたりしたら困るし、もし好きになった女の子に「飲んで」とか言われたら、どうしたもんかと頭を抱えるだろう。
けど、それでもだからといって、差別したり、迫害したり、検閲や禁止をしようとも思わない。
そういう趣味なら好きにやって、なんの問題もないのである。
当然、私も自分の好きなものは、他の人がどう言おうと好きにやらせてもらう。
それはスカトロのようなマニアックなものだけでなく、私が嫌悪感を抱いたり密かにバカにしているものでも、すべて同じ。
「嫌い」「イヤ」「理解不能」となっても、「差別」「迫害」「禁止」はしない。
多様性って、きっとこういうことなんじゃないだろうか。
別にイヤならイヤでいい。理解する必要もない。かといって、排除する必要もない。
ここでのポイントは「多様性の尊重」とは
「自分と違う人のことを理解しよう」
ということではないこと。
そんなことを掲げてもハードルが高いし、またそういうことを言いがちな「善良な人」ほど、うまくいかなかったり、「放っておいてほしい」とか反応されると、
「こちらが努力しているのに、むこうが応えてくれない」
「信じていたのに裏切られた」
最悪なのは「改心」させようとしたり、あげくには勝手に盛り上がって「アンチ」になってしまったりと(「善良な人」はときに自分の善を絶対視するもので「独善」とはよく言ったものです)、めんどくさいケースが多いのだ。
大事なのはたぶん、
「自分と違う人のことは、《そういうもの》として放っておく」
ということなんだけど、人はこの一見簡単そうなことが案外できないらしく、
「理解しようとして失敗から逆ギレ」
とか下手すると「悪」「不道徳」「不謹慎」と認定して石を投げるとか、迷惑なアクションを起こしてしまう。
「おたがい様」かもしれないのにだ。
そもそも、「自分の不快」でなにかを抑圧したら、自分が好きなものが、
「オレ様が不快だから」
と、やり玉にあがったとき反論する「道義的権利」を失うのに。
それだったら「わからないまま、じっとしてる」方が、よほど世界は平和なんだけど、人はどうも、
「自分と違うもの」
「理解の範疇を超えているもの」
これを放置するストレスに耐えられないようなのだ。
あと、
「自分から見て少数派だったり、《下》と判断した者たち」
これが楽しそうにしていることに、無条件でイラッとするものもあって、それが相乗効果を生んだりもする。
「○○のくせに生意気だ」
とかね。
まったくもって不条理に余計なお世話だが、これもまた理屈では割り切れない人の業なのだ。
翻訳家でありスティーブン・ミルハウザーやポール・オースターの名訳で知られる翻訳家の柴田元幸先生は、あるエッセイでこんなことを書いている(改行引用者)。
スチュアート・ダイベックという作家が僕は大好きで、短編集を一冊訳してもいるが、彼の描くシカゴの下町では、おばあちゃんの真空管ラジオはいつもポルカ専門の放送局に合わせてある一方、孫たちはロックバンドを組んでスクリーミン・ジェイ・ホーキンスのシャウトを真似しあったりしている。
どっちが正しいか、正しくないか、といった話はいっさい出てこない。両方が、別に意識して仲よくしようと努めたりせず、ただ併存している。
おばあちゃんのラジオも、何せ古いから、ときどきチューニングがポルカからずれて、違う音楽が紛れこんできたりする。こういう方がずっといい。
―――柴田元幸「がんばれポルカ」
バリバリの「ロック世代」である柴田先生だが、その通りではないだろうか。
ポルカもロックもスカトロも、その価値はすべて並列上にある。えらそうにする必要もないし、卑下する意味もない。
「え? そこをアップにするんですか?」
「そんな【カクテル】とか、ムリっすよ!」
放送室で悲鳴を上げた若き日の私だが、柴田先生も言う通り、独善なんかより「こういう方がずっといい」のである。
「多様性とはなにか」ということを、スカトロ動画から学んだ。
と、はじめると、なんだかわけがわからないうえに、私がスカトロジストのような印象をあたえそうだが、そういうことではなく、今から説明してみたい。
高校生のころ、クラスメートだったタカイシ君は皆から「ジェダイ」と呼ばれていた。
ジェダイとはもちろん『スターウォーズ』のそれで、彼がなにゆえにそのような尊称で語られるのかと問うならば、なにをかくそう、それは
「エロのジェダイ」
なのであった。
健康な高校生にとって、エロというのは勉強や、将来の展望を鼻息プーで吹き飛ばす最重要科目である。
でもって、「ジェダイ」タカイシ君はネットのない時代、そのカナメともいえる「アダルトビデオ」にメチャクチャくわしかったのだ。
そんな男なので、彼の周囲には
「ジェダイよ、われにナースもののAVをあたえよ!」
「マスター、桜木ルイの新作をお願いします!」
という迷える子羊たちが、常に群がっていたのである。
私はそちらに関しては「活字派」で、あまり映像作品にはくわしくなかったが、あるとき彼と話していて、
「シャロン君はどんなんが好きなん? よかったら、ええのん用意するで」
ソムリエか、ポン引きのように誘われてしまったのだ。
そこで、ふつうのを観てもおもしろくないということで、なかなか見る機会のないマニアックなものをどうかと頼んでみると、用意してくれたのがスカトロ動画なのだった。
スカトロジーとは、要するに糞尿志向というか、お笑いコンビであるリットン調査団の藤原さんの名言を借りれば、
「あー、女子高生のおしっこをドンブリ一杯飲みてえ!」
といったノリであり、まあなかなかにノーマルではない愛の形である。
そんなコアなものをひとりで観るのもなんなんで、放課後、放送部の友人に頼んで機材を用意してもらい、ボンクラ男子が集まってワイワイ鑑賞したのだが、これがインパクト充分だった。
まずは入門編(?)ということで、女優のみなさんが、トイレで排泄する動画からスタート。
和式便器にまたがり、音を立てて女性が放尿し、脱糞する。
「どうや、これがスカトロいうやつや。まずはゆるい感じから、なれてくれ」
笑顔で紹介するタカイシ君だが、情けないことに私はここで、すでに逃げそうになった。
こう見えて、グロはダメなのである。それをモロに見せられては、とても正視できるものではない。
さらにタカイシ君は
「洋式便器の中にカメラを仕込んで見る、放尿脱糞シーン」
こんなビデオをセットし、こうなるとまるで自分の顔面めがけて「ブツ」が飛んでくる気分が味わえる。今でいう「VR」感覚である(ホンマかいな)。
「どうや、ええ感じやろ」
ジェダイは上機嫌だ。
さらには、プレイの幅がもっと具体的になってきて、そろそろあまり言及したくないが「接触」「飲食」が入ってくると、もうグロッキーである。
ヘタレな私は、ここで、
「オレ、もう無理やから」
ギブアップしたが、上映会はその後も続き、ちょっとここではとても書けないようなハードな展開を見せ、最後まで見た友人曰く、
「人の想像力って、限界がないんやなあと感心したわ。ようあんなん、思いつくで。だって、太ったオッサンの脂肪を吸引器で吸ってそれを(以下マジでグロいので略)」
性的興奮や嫌悪感を超えて、ほとんどアートを見る目で観てしまったというのだ。
この上映会を通じて私は思ったわけだ。
「世の中には、自分と違う価値観の人間がいるものだ」
同時に、こうも思ったわけだ。
「違うことは違うけど、それはそれで尊重すべきであろうなあ」
(続く→こちら)
あらゆる「抑圧」が嫌いだ。
子供のころから間の抜けたボンクラだが、「抑圧」「暴力」「差別」「搾取」というのはするのも、されることも、できるだけ避けて生きてきた。
ときにそれを押しつけられそうなときは「喧嘩上等」くらいの気持ちであり、周囲から「安パイ」あつかいされる人間が、そこだけはゆずらないんだから、よほどそういうものとソリが合わないのだろう。
だから、今でも「ベルリンの壁崩壊」の映像を見ると、つい見入ってしまう。
それが「抑圧からの解放」の象徴のようなシーンだからだ。
見るといつも思い出すのは、学生時代購読していた『月刊基礎ドイツ語』という雑誌のこと。
そこでは「ドイツ統一の問題点」という記事が掲載されており、悲願であった統一を果たしたドイツだが、旧東西地域の経済格差や生活スタイルの変化に戸惑う人々など、その問題点が指摘されていた。
「感動的」な東西の融和でも、物事は理想通りにはいかないものだと感じたが、それでも旧東ドイツに住んでいたというある女子大学生が、こう言っていたのが印象的だった。
「たしかに、今のドイツは問題も多く、統一もスムーズとは言えません」
そう前置きしてから、
「でも、今の私たちは、言いたいことを言えるようになり、なりたいものになろうとすることができます。これは素晴らしいことではないでしょうか」
この言葉が、今でも忘れられない。
言いたいことが言え、なりたいものになろうとすることができる。
そんな当たり前のことが、おそらく彼女だけでなく私にとっても金や地位や名誉なんかより、はるかに大切な何かだったからだ。
けど不思議なことに、こんなささやかな願いを憎み、妨害しようとする人というのが世の中にはいる。
私はそういう人を警戒する。
だれかを抑圧し「その人のためなんだ」なんて、おためごかしを言う人を信用しないし、ましてやそのことを「よろこび」とする人を見ると心の底から落胆する。
今年の夏、読んだ小説にこういう一説があった。
「悪とは、愚か者のなかにあって」
とわたしは言葉をつづけた、
「人を罰し、人を中傷し、喜んで戦争をおっぱじめる部分のことさ」
―――カート・ヴォネガット『母なる夜』
できることなら、自分がおもしろいと思った物語の作者に軽蔑されるような人間になりたくないものだ。
クラウス・コルドンの『ベルリン三部作』を読んだとき、私はこれを「昔の話」と思った。
ドン・ウィンズロウ『仏陀の鏡の道』で描かれた大躍進や文化大革命の描写を「よその国の出来事」と読んだ。
私は単に、甘かったのかもしれない。
最初に書いたとおり、私は間の抜けたボンクラだ。だから、この世界で行われているパワーゲームにはなんの興味もない。
ただ「抑圧」「暴力」「差別」「搾取」と、それを是とする人が大手を振って闊歩する光景だけは見たくない。
昔の東ドイツにかぎらず、若者が「言いたいこと」すら言えない社会があることを憂うくらいには。
『将棋世界』の表紙で、ほほ笑む藤井聡太七段の横にヘイト本が並んでいるという現実に、悲しみと憤りをおぼえるくらいには。
私など無力な存在だが、少なくとも「誰かの用意した憎悪」に乗っかることを「みっともない」と感じる心と、拒否する意志くらいは忘れないようにしたいものだ。
合衆国、あるいはそのいずれかの州、あるいはいずれかの都市に訴える。
大いに抵抗し、服従は少なく。
―――ウォルト・ホイットマン「合衆国へ」
それでは本年度はここまで。
そしてそのたびにその作品世界は広く、かつ深くなるのです。」
2「それについて尊重し、そしてじっくりと考えてみる」
3「自分なりにまねをしたり、答えらしきものを出したりしてみる」
4「あとは、それをどんどん回していく」
それは日本の良き姿のような気がするし、それを見た誰かがいいなと思って真似してくれたら、そういう文化が伝わっていって、その光景が日本に広がって、もしかしたら町が、少しきれいになったりするかもしれないでしょ」