2015/12/08(火)
11月末から年賀状欠礼はがきが届き始めた。
21年前の12月に親が亡くなった時、まだまだせわしい中、年賀欠礼状を黙々と書いた。
その頃、欠礼状は出すものであると疑わなかった。
今年ひとり残っていた老親が亡くなったのは4月。
充分に欠礼はがきを書く時間はある。
でも、書きたくない。
老親が亡くなったことを再度文字にして人に知らせたくないのだ。
もうとっくに忘れている人もいるだろうし、知らない人もいるだろう。
そこに欠礼のはがきが来て、
「あぁ、そうだった」とか「え?そうなの?」と人にわざわざ一瞬の動揺を受けてもらいたくない。
そういうことを考えていると結局は、
「自分の心に老親の死を改めて焼き付けたくない。」というのが本当なんだろうと思う。
で、平成28年に向けて欠礼状は出さない。
寒中見舞いもなんにも出さない。
悲しみの傷はこういうことで刺激をうけたりする。
21年前は悲しみが心に深く沈み込む前だったので動けたのだろうな。
11月末から年賀状欠礼はがきが届き始めた。
21年前の12月に親が亡くなった時、まだまだせわしい中、年賀欠礼状を黙々と書いた。
その頃、欠礼状は出すものであると疑わなかった。
今年ひとり残っていた老親が亡くなったのは4月。
充分に欠礼はがきを書く時間はある。
でも、書きたくない。
老親が亡くなったことを再度文字にして人に知らせたくないのだ。
もうとっくに忘れている人もいるだろうし、知らない人もいるだろう。
そこに欠礼のはがきが来て、
「あぁ、そうだった」とか「え?そうなの?」と人にわざわざ一瞬の動揺を受けてもらいたくない。
そういうことを考えていると結局は、
「自分の心に老親の死を改めて焼き付けたくない。」というのが本当なんだろうと思う。
で、平成28年に向けて欠礼状は出さない。
寒中見舞いもなんにも出さない。
悲しみの傷はこういうことで刺激をうけたりする。
21年前は悲しみが心に深く沈み込む前だったので動けたのだろうな。