三州吉良の殿様・吉良義央上野介は忠臣蔵では敵役である。吉良町では「赤穂浪士・忠臣蔵」演劇は客の入りが悪く、役者に怪我人がでるとの噂もあった。一方、人生劇場、義理と人情の博徒「吉良仁吉」は地元の英雄である。
同様に伊勢・鈴鹿荒神山観音寺で起きた「荒神山の決闘」の当事者「穴太徳は強欲な博徒」「神田の長吉は逃げ回った卑怯者」と伝わっている。これは講談・神田伯山、浪曲・広沢虎造によってつくられたフイクションだ。実際の荒神山の決闘はどうか?
荒神山の決闘が起きたのは今から約150年前、慶応2年(1866年)4月8日鈴鹿神戸町の観音寺の祭礼当日である。大正の頃、ラジオで広沢虎造の浪曲が流れた始めたとき、地元三重県神戸町で、荒神山の決闘の聞き込み調査が始まった。事件発生から60年ほど経過した頃で、まだ当時を知る人が生存していた。そして決定的な生き証人を見つけた。
それが「おだいさん」当時87歳のお婆さんである。おだいさんは岡崎の出身、岡崎の祐伝寺の娘である。当時お寺は寺社奉行の管轄で、町方は出入りできない。神戸の長吉は東海道の旅にはいつもこの寺に立ち寄った。ここで長吉に付いてきた若者・久居の才次郎と知り合いになり、惚れ込み、のぼせ上がってしまった。おだいさんは家出して神田にやって来た。ついに才次郎の女房になった。
才次郎は神戸の長吉の一の子分で、吉良仁吉が戦った穴太徳側の用心棒・角井門之介を斬り倒したという博徒である。大正末頃、おだいさんは高齢で耳が遠く、浪曲、講談も聞けず、影響を全く受けていない。故に、当時の状況を生き証人として聞き込むことができた。
聞き込み内容の一部はこうである。「穴太徳はどうだ?」おだい「立派な親分だ。」、「神戸の長吉はどうだ?」おだい「立派な親分だ。」、吉良仁吉はどうだ?おだい「あれは喧嘩の初めに鉄砲玉に当たって、ころっと死んだ。」「清水一家の大政たちはどうした?おだい「清水の衆はただ眺めているだけで、あまり働いてはいない。この喧嘩で一番活躍したのは、わしの旦那の久居の才次郎さ。」と答えた。身びいきもあるが、当事者の実際の話である。
荒神山の喧嘩装束も証言している。「喧嘩に先立って、障子紙、和紙を買い込む。素っ裸の肌に障子紙、和紙をぐるぐる巻き付ける。そして体に水をざぶんとかける。更に繭の真綿を体に巻き付け固く締める。この装束だと斬り合いの時、斬られても刃が立たず、体を守るのに一番良い方法だ。」という。映画のような手甲、脚絆、縞の道中合羽の喧嘩装束とは全く違う。
喧嘩の状況について、次のように証言した。喧嘩当日は神戸藩役人が両方の和解に努力したが、意地の張り合いから、遂に午後になって衝突した。穴太徳側は火縄銃のを持つ猟師を10人ほど雇って、第一線に並べて陣を敷いた。長吉側は、鉄砲があることを知っていたため、ワーワーと掛け声を出すのみで、岩や木陰に隠れて、出る隙を狙っていた。
火縄銃は旧式で一発撃つと、次を撃つまで、筒の掃除、玉を込めるのに時間が必要である。長吉側の叫び声、かけ声の大きさに驚き、猟師は一斉に引金を引いた。銃声が鳴り響き、あたりに真っ黒な煙が立ちこむ。長吉側は鉄砲を撃ち尽くしたと思い、一気に攻め込んできた。
その中で一人の猟師は、火縄銃の火が消えたため、慌てて火を付け直し、ちょうど出てきた大男に向けて撃ち直した。猟師は事前に「大男を狙って打て」と指示されていた。大男とは清水一家の大政、吉良仁吉を言う。その鉄砲が駆け込んだ仁吉の肩から胸に当たり、仁吉はその場にひっくり返り、倒れた。
すぐに猟師たちは一斉に逃げ出した。穴太側は頼りにしていた猟師が逃げ出したのを見て、総崩れとなった。事前に回りを囲んでいた神戸藩の役人たちが来たため、全員が一斉に逃げ始めた。結局、「ワーワー」「ド、ドン」「ワー」「ドン」と長時間の派手な斬り合いはなく、この喧嘩はあっという間に終わったと言う。これが荒神山の喧嘩の実態である。勝者側の解説がフェイク、一方的になるのはいつの時代も同じである。
(参考)「実録・荒神山」味岡源吾著・1992年1月発行・現在、絶版。
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荒神山決闘博徒・穴太徳次郎
清水一家の平井亀吉・黒駒勝蔵襲撃事件「平井村の闘い」(博徒史 その3)
写真は荒神山決闘の現場となった鈴鹿の荒神山観音寺。「高神山」観音寺が正しい。清水に帰った大政たちが次郎長に報告、天田愚庵が「東海遊侠伝」を書いた時、記憶が曖昧のため誤記したもの。「荒神山」の方が有名になったため、現在では観音寺もこちらを使用している。
写真は荒神山観音寺本堂の上に掲げられた「高神山」の額
写真は荒神山の喧嘩で使用されたと言う火縄銃。仁吉を撃ったのは猟師の甚兵衛。事件後は自慢のつもりでしゃべって歩いた。間もなく後難をを恐れて、四国に姿を消したという。
荒神山観音寺境内にある案内板。
同様に伊勢・鈴鹿荒神山観音寺で起きた「荒神山の決闘」の当事者「穴太徳は強欲な博徒」「神田の長吉は逃げ回った卑怯者」と伝わっている。これは講談・神田伯山、浪曲・広沢虎造によってつくられたフイクションだ。実際の荒神山の決闘はどうか?
荒神山の決闘が起きたのは今から約150年前、慶応2年(1866年)4月8日鈴鹿神戸町の観音寺の祭礼当日である。大正の頃、ラジオで広沢虎造の浪曲が流れた始めたとき、地元三重県神戸町で、荒神山の決闘の聞き込み調査が始まった。事件発生から60年ほど経過した頃で、まだ当時を知る人が生存していた。そして決定的な生き証人を見つけた。
それが「おだいさん」当時87歳のお婆さんである。おだいさんは岡崎の出身、岡崎の祐伝寺の娘である。当時お寺は寺社奉行の管轄で、町方は出入りできない。神戸の長吉は東海道の旅にはいつもこの寺に立ち寄った。ここで長吉に付いてきた若者・久居の才次郎と知り合いになり、惚れ込み、のぼせ上がってしまった。おだいさんは家出して神田にやって来た。ついに才次郎の女房になった。
才次郎は神戸の長吉の一の子分で、吉良仁吉が戦った穴太徳側の用心棒・角井門之介を斬り倒したという博徒である。大正末頃、おだいさんは高齢で耳が遠く、浪曲、講談も聞けず、影響を全く受けていない。故に、当時の状況を生き証人として聞き込むことができた。
聞き込み内容の一部はこうである。「穴太徳はどうだ?」おだい「立派な親分だ。」、「神戸の長吉はどうだ?」おだい「立派な親分だ。」、吉良仁吉はどうだ?おだい「あれは喧嘩の初めに鉄砲玉に当たって、ころっと死んだ。」「清水一家の大政たちはどうした?おだい「清水の衆はただ眺めているだけで、あまり働いてはいない。この喧嘩で一番活躍したのは、わしの旦那の久居の才次郎さ。」と答えた。身びいきもあるが、当事者の実際の話である。
荒神山の喧嘩装束も証言している。「喧嘩に先立って、障子紙、和紙を買い込む。素っ裸の肌に障子紙、和紙をぐるぐる巻き付ける。そして体に水をざぶんとかける。更に繭の真綿を体に巻き付け固く締める。この装束だと斬り合いの時、斬られても刃が立たず、体を守るのに一番良い方法だ。」という。映画のような手甲、脚絆、縞の道中合羽の喧嘩装束とは全く違う。
喧嘩の状況について、次のように証言した。喧嘩当日は神戸藩役人が両方の和解に努力したが、意地の張り合いから、遂に午後になって衝突した。穴太徳側は火縄銃のを持つ猟師を10人ほど雇って、第一線に並べて陣を敷いた。長吉側は、鉄砲があることを知っていたため、ワーワーと掛け声を出すのみで、岩や木陰に隠れて、出る隙を狙っていた。
火縄銃は旧式で一発撃つと、次を撃つまで、筒の掃除、玉を込めるのに時間が必要である。長吉側の叫び声、かけ声の大きさに驚き、猟師は一斉に引金を引いた。銃声が鳴り響き、あたりに真っ黒な煙が立ちこむ。長吉側は鉄砲を撃ち尽くしたと思い、一気に攻め込んできた。
その中で一人の猟師は、火縄銃の火が消えたため、慌てて火を付け直し、ちょうど出てきた大男に向けて撃ち直した。猟師は事前に「大男を狙って打て」と指示されていた。大男とは清水一家の大政、吉良仁吉を言う。その鉄砲が駆け込んだ仁吉の肩から胸に当たり、仁吉はその場にひっくり返り、倒れた。
すぐに猟師たちは一斉に逃げ出した。穴太側は頼りにしていた猟師が逃げ出したのを見て、総崩れとなった。事前に回りを囲んでいた神戸藩の役人たちが来たため、全員が一斉に逃げ始めた。結局、「ワーワー」「ド、ドン」「ワー」「ドン」と長時間の派手な斬り合いはなく、この喧嘩はあっという間に終わったと言う。これが荒神山の喧嘩の実態である。勝者側の解説がフェイク、一方的になるのはいつの時代も同じである。
(参考)「実録・荒神山」味岡源吾著・1992年1月発行・現在、絶版。
ブログ内に下記の関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
荒神山決闘博徒・穴太徳次郎
清水一家の平井亀吉・黒駒勝蔵襲撃事件「平井村の闘い」(博徒史 その3)
写真は荒神山決闘の現場となった鈴鹿の荒神山観音寺。「高神山」観音寺が正しい。清水に帰った大政たちが次郎長に報告、天田愚庵が「東海遊侠伝」を書いた時、記憶が曖昧のため誤記したもの。「荒神山」の方が有名になったため、現在では観音寺もこちらを使用している。
写真は荒神山観音寺本堂の上に掲げられた「高神山」の額
写真は荒神山の喧嘩で使用されたと言う火縄銃。仁吉を撃ったのは猟師の甚兵衛。事件後は自慢のつもりでしゃべって歩いた。間もなく後難をを恐れて、四国に姿を消したという。
荒神山観音寺境内にある案内板。
当時のヤクザたちも、やはり命は惜しいのは私たちと同じ、君子危に近寄らずだったことでしょう。