竹居安五郎は、竹居村名主の四男として生まれ、黒駒勝蔵の兄貴分であり、甲州を代表する博徒である。別名「竹居の吃安」とも呼ばれている。
安五郎が17歳の時、人斬り長兵衛の代参で兄手合い7人と一緒に相模国道了尊の祭りに賭場を張りに行った。しかし、到着が遅れたため他の一家に場所を取られ盆を敷くことができなかった。連れの仲間は諦めたが、安五郎は多数の親分衆相手に直談判し、甲州弁で火の出るような啖呵を切り、賭場を分けて貰った。この時、大いにどもりが出たので「吃安」のあだ名がついたという。
安五郎はどんなに有能な遊び人でも「いびき」をかく者は身内にしなかった。理由は賭場開帳の際に忍び込んできた役人の足音がわからなくなること、また、逃亡の際には藪の中でも寺の縁の下でも眠らねばならず、いびきをかいていてはすぐに見つかってしまうためであるという。
安五郎は嘉永4年(1851年)伊豆新島へ流罪となる。流刑2年後、嘉永6年(1853年)6月8日の深夜、流人7人とともに島抜けに成功した。島抜け後、伊豆の博徒・大場久八の手助けで故郷甲州に戻った安五郎は、黒駒勝蔵らの子分を得て一家を構え、博徒に復帰した。しかし、島抜けの罪で関東取締出役や石和代官に追われ、さらには地元博徒の国分三蔵、祐天仙之助らとも敵対した。
「新島流人帳」には「無宿・安五郎・亥40歳、嘉永四亥年四月流罪、嘉永六丑年六月八日夜抜船致す」とある。彼と共に島破りしたのは、
大館村無宿・丑五郎27歳、河内村無宿・貞蔵29歳、無宿・角蔵25歳、武州岩槻宿百姓・源次郎39歳、万光寺村無宿・造酒蔵29歳、草加宿無宿・長吉31歳である。
ついに文久元年(1861年)敵対する博徒・国分三蔵、祐天仙之介らの奸計により石和代官に捕縛される。翌年3月には甲府堺町の牢に移され、牢内で死去する。子分から奪還されるのを恐れた役人によって毒殺されたとの噂もある。享年52歳であった。
安五郎の墓所は笛吹市内の寺院に三か所ある。それぞれの墓所の墓石に刻まれた没年月日、戒名・法名はすべて異なっている。
一つ目は、笛吹市八代町竹居にある浄源寺である。八代町竹居は安五郎が生まれた村である。浄源寺墓石の没年月日は文久2年(1861年)2月17日と刻まれている。甲府町年寄の「坂田家御用日記」によれば、同年2月17日は安五郎が捕縛されて、入牢した年月日である。入牢した日を死亡日と判断し、記されたものと考えられる。
二つ目は、笛吹市石和町唐柏にある常在寺の墓石である。常在寺の墓石には嘉永7年(1854年)12月5日と刻まれている。常在寺の墓石は安五郎の子分の石原市五郎が建てたものである。墓石に刻まれた没年月日は、安五郎が新島を脱出して甲斐に潜伏していた時期にあたり、役人の追跡をかかわすための偽装工作として墓石を建てた可能性が強い。
三つ目は、笛吹市石和町市部の仏陀禅寺の墓石である。仏陀禅寺の墓石には文久2年(1861年)10月6日の没年月日が刻まれている。仏陀禅寺の案内板によれば、安五郎の墓石は元々「牢屋に近い臨済宗祥雲山接慶院」に存在し、その後、接慶院が廃寺となり、昭和41年(1966年)仏陀禅寺に移転され、平成13年(2001年)改修されたと言う。
「坂田家御用日記」によれば、文久2年(1861年)3月12日には安五郎は石和代官に捕縛され、すでに入牢しており、その日までの生存が確認されている。従って、捕縛され、入牢してから8ケ月後にあたる仏陀禅寺の文久2年(1861年)10月6日死去の没年月日が最も蓋然性が高いと考えられる。
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新島を島抜けした博徒・竹居安五郎
写真は、一つ目の浄源寺の墓石である。戒名は「鐘嶽玄微居士」と刻まれ、左側面に父親である「中村甚兵衛建立」、右側面に「文久2年2月17日」とある。この日は安五郎が最後に家を出て、入牢した日。
写真は、二つ目の常在寺の墓石である。戒名は「心誠院諦吾日道信士」と刻まれている。
写真は、三つ目の仏陀禅寺の墓石である。砲弾の形をした墓石とお地蔵さんが並んでいる。砲弾形の墓石には戒名「心岳宗安禅定門」と刻まれている。
安五郎が17歳の時、人斬り長兵衛の代参で兄手合い7人と一緒に相模国道了尊の祭りに賭場を張りに行った。しかし、到着が遅れたため他の一家に場所を取られ盆を敷くことができなかった。連れの仲間は諦めたが、安五郎は多数の親分衆相手に直談判し、甲州弁で火の出るような啖呵を切り、賭場を分けて貰った。この時、大いにどもりが出たので「吃安」のあだ名がついたという。
安五郎はどんなに有能な遊び人でも「いびき」をかく者は身内にしなかった。理由は賭場開帳の際に忍び込んできた役人の足音がわからなくなること、また、逃亡の際には藪の中でも寺の縁の下でも眠らねばならず、いびきをかいていてはすぐに見つかってしまうためであるという。
安五郎は嘉永4年(1851年)伊豆新島へ流罪となる。流刑2年後、嘉永6年(1853年)6月8日の深夜、流人7人とともに島抜けに成功した。島抜け後、伊豆の博徒・大場久八の手助けで故郷甲州に戻った安五郎は、黒駒勝蔵らの子分を得て一家を構え、博徒に復帰した。しかし、島抜けの罪で関東取締出役や石和代官に追われ、さらには地元博徒の国分三蔵、祐天仙之助らとも敵対した。
「新島流人帳」には「無宿・安五郎・亥40歳、嘉永四亥年四月流罪、嘉永六丑年六月八日夜抜船致す」とある。彼と共に島破りしたのは、
大館村無宿・丑五郎27歳、河内村無宿・貞蔵29歳、無宿・角蔵25歳、武州岩槻宿百姓・源次郎39歳、万光寺村無宿・造酒蔵29歳、草加宿無宿・長吉31歳である。
ついに文久元年(1861年)敵対する博徒・国分三蔵、祐天仙之介らの奸計により石和代官に捕縛される。翌年3月には甲府堺町の牢に移され、牢内で死去する。子分から奪還されるのを恐れた役人によって毒殺されたとの噂もある。享年52歳であった。
安五郎の墓所は笛吹市内の寺院に三か所ある。それぞれの墓所の墓石に刻まれた没年月日、戒名・法名はすべて異なっている。
一つ目は、笛吹市八代町竹居にある浄源寺である。八代町竹居は安五郎が生まれた村である。浄源寺墓石の没年月日は文久2年(1861年)2月17日と刻まれている。甲府町年寄の「坂田家御用日記」によれば、同年2月17日は安五郎が捕縛されて、入牢した年月日である。入牢した日を死亡日と判断し、記されたものと考えられる。
二つ目は、笛吹市石和町唐柏にある常在寺の墓石である。常在寺の墓石には嘉永7年(1854年)12月5日と刻まれている。常在寺の墓石は安五郎の子分の石原市五郎が建てたものである。墓石に刻まれた没年月日は、安五郎が新島を脱出して甲斐に潜伏していた時期にあたり、役人の追跡をかかわすための偽装工作として墓石を建てた可能性が強い。
三つ目は、笛吹市石和町市部の仏陀禅寺の墓石である。仏陀禅寺の墓石には文久2年(1861年)10月6日の没年月日が刻まれている。仏陀禅寺の案内板によれば、安五郎の墓石は元々「牢屋に近い臨済宗祥雲山接慶院」に存在し、その後、接慶院が廃寺となり、昭和41年(1966年)仏陀禅寺に移転され、平成13年(2001年)改修されたと言う。
「坂田家御用日記」によれば、文久2年(1861年)3月12日には安五郎は石和代官に捕縛され、すでに入牢しており、その日までの生存が確認されている。従って、捕縛され、入牢してから8ケ月後にあたる仏陀禅寺の文久2年(1861年)10月6日死去の没年月日が最も蓋然性が高いと考えられる。
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新島を島抜けした博徒・竹居安五郎
写真は、一つ目の浄源寺の墓石である。戒名は「鐘嶽玄微居士」と刻まれ、左側面に父親である「中村甚兵衛建立」、右側面に「文久2年2月17日」とある。この日は安五郎が最後に家を出て、入牢した日。
写真は、二つ目の常在寺の墓石である。戒名は「心誠院諦吾日道信士」と刻まれている。
写真は、三つ目の仏陀禅寺の墓石である。砲弾の形をした墓石とお地蔵さんが並んでいる。砲弾形の墓石には戒名「心岳宗安禅定門」と刻まれている。
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