江戸の流罪者は大島、八丈島、三宅島等の伊豆七島へ、京、大坂、西国の流罪者は長崎天草、五島、隠岐に流された。八丈島の流人帳「八丈島流人銘々伝」がすべて現存しており、それによれば流人の身分は多い順に、御家人381人、無宿人324人、町人315人、百姓281人、僧侶221人である。僧侶は百姓に次いで5番目に位置する。
それは江戸時代の罪状規定「御定書百箇条」で遠島罪状の定めの中に「女犯の僧で寺持ちの者」「三鳥派、不受不施派の布教に携わった僧、改宗を申し出ても許さず遠島」の規定のためによる。「御定書百箇条」の対象地は関八州と京、大坂、長崎、佐渡の遠国奉行支配地、天領の幕府直轄地である。
三鳥派、不受不施派の信仰に関わった者は遠島と定められている。どちらの派も日蓮宗の一派である。鎌倉時代に宗祖の日蓮が法難により佐渡に流された。江戸時代は三鳥派と不受不施派が幕府により禁教とされ、弾圧された。江戸時代、禁教とされた宗教はキリシタンと呼ばれるキリスト教だけではなかった。日蓮宗不受不施派は、磔刑17人、死刑8人、牢死91人、派祖の日奥をはじめ181人の僧侶が流刑となっている。
不受不施派がご禁制となった理由は次のとおりである。豊臣秀吉は方広寺の大仏が完成すると、豊臣家先祖の菩提を弔うため、毎月法要を営むとし、天台宗や真言宗以下八宗にそれぞれ百人の僧侶の出仕を求めた。これに対し、日蓮宗では大論争が起こった。日蓮宗は「法華を信じない者の施しは受けず、また報恩も与えない」という不受不施を伝統としていた。
激論を戦わせた結果、相手は最高権力者だから、ここは妥協して、出仕しようという結論に達した。しかし京都の妙覚寺の住職日奥はあくまで不受不施を主張し、日蓮宗は受布施派と不受不施派の二派に分裂した。不受不施派の寺院は一切、本堂前に賽銭箱を置かない。それは日蓮信徒以外の者から賽銭即ち布施を貰わないためである。
慶長4年(1599年)受布施派の訴えによって、家康は大坂城で受布施派と不受不施派の日奥を討論させ、日奥を「法華の大魔王」と決めつけて、対馬に流した。それでも不受不施派の抵抗は止まず、寛文5年(1665年)幕府の寺領地子供養の手形提出を拒否して国禁とされた。国禁となると、不受不施派は地下にもぐり、隠れの宗教組織によって信仰を守る。
その後、徹底した原理主義を唱える律寺派(講門派)と一部妥協を唱ええる日指派に分かれる。日指派は岡山県御津町に本山の妙覚寺、講門派は同じく岡山県に本覚寺を本山として信仰の灯を守り続けた。明治9年(1876年)やっと明治に入り不受不施派のご禁制は解かれた。
不受布施講門派三十三世法灯に日珠という僧侶がいた。法灯とは同派の最高位の僧で、日珠は31歳のとき、寛政5年(1793年)「諫曉した行為」を咎められ、国禁の布教の罪で三宅島に遠島となった。不受不施派は「諫曉(かんぎょう)」を究極の目的とした。諫曉とは国王を改宗させるべく諫状を提出することであり、それは宗祖日蓮を見習うものである。
もちろん「諫曉」しても幕府がご禁制の不受不施派に改宗するものでもなく、不受不施派の健在を誇示し、信徒を励ます狙いがあった。日珠は、寺社奉行脇坂淡路守に対し「天下を守る法はひとり法華のみ!」と叫び、更に奉行所前で「日蓮宗不受不施沙門 本妙院日珠」と大書したのぼりを掲げて、諫曉を実行した。
三宅島に上陸した日珠を迎えたのは、御蔵島の船主弥兵衛と船頭の市右エ門が待ち受けており、彼らは島役所の許しを得て、日珠のための借家、食料さらに看護人まで雇い入れていた。これは御蔵島の日蓮宗流僧日縁の指図であった。日珠は三宅島の伊ケ谷村に住み、布教を開始する。
三宅島は水の便が悪かったので、日珠は島民の心をつかむためまず井戸を掘る。役人たちへの振舞いも欠かさず、文盲の島民には文字を教え、医者の子である日珠は病人が出るとすすんで看護した。本土からは色々な薬や医書の送付を依頼し、島民の面倒を見た。
島民は日珠を生き仏と敬い、たちまち30人以上の信者が生まれた。信者には島役人も多く、島内で説教・布教も自由に行うことができた。島民からは「お島さま」と呼ばれ、深く尊敬された。日珠は在島25年の文政元年(1818年)正月21日、56歳で生涯を終えた。
日珠は、島では水汲み女も雇い入れ、何の不自由もない生活を過ごし、三宅島では最も幸せな流人と言っても良いだろう。日珠の墓は伊ケ谷の常勝庵の境内にある。このような攻撃的な日蓮宗不受不施派の修義に田中智學も影響を受けたのだろうか?
下記、ブログ内に関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
新門辰五郎の弟分博徒・小金井小次郎
島抜け物語
写真は三宅島に流され死亡した日蓮宗不受不施派の僧侶の墓である。
それは江戸時代の罪状規定「御定書百箇条」で遠島罪状の定めの中に「女犯の僧で寺持ちの者」「三鳥派、不受不施派の布教に携わった僧、改宗を申し出ても許さず遠島」の規定のためによる。「御定書百箇条」の対象地は関八州と京、大坂、長崎、佐渡の遠国奉行支配地、天領の幕府直轄地である。
三鳥派、不受不施派の信仰に関わった者は遠島と定められている。どちらの派も日蓮宗の一派である。鎌倉時代に宗祖の日蓮が法難により佐渡に流された。江戸時代は三鳥派と不受不施派が幕府により禁教とされ、弾圧された。江戸時代、禁教とされた宗教はキリシタンと呼ばれるキリスト教だけではなかった。日蓮宗不受不施派は、磔刑17人、死刑8人、牢死91人、派祖の日奥をはじめ181人の僧侶が流刑となっている。
不受不施派がご禁制となった理由は次のとおりである。豊臣秀吉は方広寺の大仏が完成すると、豊臣家先祖の菩提を弔うため、毎月法要を営むとし、天台宗や真言宗以下八宗にそれぞれ百人の僧侶の出仕を求めた。これに対し、日蓮宗では大論争が起こった。日蓮宗は「法華を信じない者の施しは受けず、また報恩も与えない」という不受不施を伝統としていた。
激論を戦わせた結果、相手は最高権力者だから、ここは妥協して、出仕しようという結論に達した。しかし京都の妙覚寺の住職日奥はあくまで不受不施を主張し、日蓮宗は受布施派と不受不施派の二派に分裂した。不受不施派の寺院は一切、本堂前に賽銭箱を置かない。それは日蓮信徒以外の者から賽銭即ち布施を貰わないためである。
慶長4年(1599年)受布施派の訴えによって、家康は大坂城で受布施派と不受不施派の日奥を討論させ、日奥を「法華の大魔王」と決めつけて、対馬に流した。それでも不受不施派の抵抗は止まず、寛文5年(1665年)幕府の寺領地子供養の手形提出を拒否して国禁とされた。国禁となると、不受不施派は地下にもぐり、隠れの宗教組織によって信仰を守る。
その後、徹底した原理主義を唱える律寺派(講門派)と一部妥協を唱ええる日指派に分かれる。日指派は岡山県御津町に本山の妙覚寺、講門派は同じく岡山県に本覚寺を本山として信仰の灯を守り続けた。明治9年(1876年)やっと明治に入り不受不施派のご禁制は解かれた。
不受布施講門派三十三世法灯に日珠という僧侶がいた。法灯とは同派の最高位の僧で、日珠は31歳のとき、寛政5年(1793年)「諫曉した行為」を咎められ、国禁の布教の罪で三宅島に遠島となった。不受不施派は「諫曉(かんぎょう)」を究極の目的とした。諫曉とは国王を改宗させるべく諫状を提出することであり、それは宗祖日蓮を見習うものである。
もちろん「諫曉」しても幕府がご禁制の不受不施派に改宗するものでもなく、不受不施派の健在を誇示し、信徒を励ます狙いがあった。日珠は、寺社奉行脇坂淡路守に対し「天下を守る法はひとり法華のみ!」と叫び、更に奉行所前で「日蓮宗不受不施沙門 本妙院日珠」と大書したのぼりを掲げて、諫曉を実行した。
三宅島に上陸した日珠を迎えたのは、御蔵島の船主弥兵衛と船頭の市右エ門が待ち受けており、彼らは島役所の許しを得て、日珠のための借家、食料さらに看護人まで雇い入れていた。これは御蔵島の日蓮宗流僧日縁の指図であった。日珠は三宅島の伊ケ谷村に住み、布教を開始する。
三宅島は水の便が悪かったので、日珠は島民の心をつかむためまず井戸を掘る。役人たちへの振舞いも欠かさず、文盲の島民には文字を教え、医者の子である日珠は病人が出るとすすんで看護した。本土からは色々な薬や医書の送付を依頼し、島民の面倒を見た。
島民は日珠を生き仏と敬い、たちまち30人以上の信者が生まれた。信者には島役人も多く、島内で説教・布教も自由に行うことができた。島民からは「お島さま」と呼ばれ、深く尊敬された。日珠は在島25年の文政元年(1818年)正月21日、56歳で生涯を終えた。
日珠は、島では水汲み女も雇い入れ、何の不自由もない生活を過ごし、三宅島では最も幸せな流人と言っても良いだろう。日珠の墓は伊ケ谷の常勝庵の境内にある。このような攻撃的な日蓮宗不受不施派の修義に田中智學も影響を受けたのだろうか?
下記、ブログ内に関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
新門辰五郎の弟分博徒・小金井小次郎
島抜け物語
写真は三宅島に流され死亡した日蓮宗不受不施派の僧侶の墓である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます