浅田次郎の小説に明治最後の仇討の話がある。しかしこれはフィクションで実際の話ではない。実際にあった話は、秋月藩(現・福岡県朝倉市)の執政心得臼井亘理夫妻が殺害され、実子の臼井六郎が明治13年に仇討した事件がある。この話は「幕末史談会速記録」に記載されている。
臼井亘理は秋月藩士として生まれ、藩主の黒田長徳の側用人まで出世した。秋月藩は宗藩の福岡藩が親幕派の公武合体派であったため、亘理もその流れの中にいた。しかし、側用人の主席公用人執政心得として京都で活動を続ける間に、長州討伐失敗、大政奉還の流れの中で、亘理の考えも親幕派から新政府に組する立場に変更した。このことは国許の反主流である親幕派組織「干城隊」の恨みを買うこととなった。
京都から国許に戻った臼井亘理は自宅で、明治元年5月23日の深夜、干城隊5~6人ほどの暗殺隊が臼井亘理を寝室で殺害、さらに夫の異変に気付いた妻も惨殺した。その当時、実子臼井六郎はまだ9歳の幼少であった。自宅にいた六郎と幼い妹だけが生き残った。
六郎は父母が殺されてから、復讐のため、遊学を理由に東京へ上京した。上京後は山岡鉄舟の内弟子となり、ひそかに親の仇の犯人探しを行った。その結果、遂に東京上等裁判所の判事である一瀬直久を探しだした。
一瀬は父暗殺時、干城隊の伍長であり、当時の名を山本克己と言った。暗殺隊の中心人物でもあった。一瀬が親の仇と知った六郎は裁判所付近で待ち伏せをしたがなかなか姿を現さない。そのうち、旧秋月藩主の黒田長徳邸に毎日のように元藩士が集まり、その中に一瀬もいる情報を得て明治13年12月17日、六郎は黒田邸に足を運んだ。
黒田邸には六郎の秋月藩の旧友2人おり、3人で2階の座敷で話し込んでいると、黒田家の家扶人が客人と帰ってきて、隣室で用談を始める。その客こそが親の仇の一瀬であった。一瀬が用事で1階に下りたので、六郎も小用を理由に後をつけ、玄関の屏風に隠れて、一瀬を待った。
一瀬が戻ってくると、その背後から襟をつかみ、「父の仇である。覚悟せよ。」と叫び、短刀でのどを突き刺した。しかし一瀬は襟巻をしており、かすり傷しか負わなかった。続いて胸を刺したが、止めにならず、馬乗りになって、一瀬の額を左手で抑え込み、首を切り落とした。
凶器とされた短刀は父・亘理が襲撃されたときに父が手にしていたものであった。一階での騒動、叫び声は2階にも聞こえていたはずだが誰も下りてこない。六郎は血に濡れた羽織と足袋を脱ぐと、その足で最寄りの警察署に自首した。
一時代前なら立派な仇討だが、明治6年2月「仇討禁止令」が布告されていた。仇討は犯罪とされていた。当時の新聞は「最後の仇討」として世間の注目をうけ、詳しく報道された。
明治14年9月、東京裁判所は「禁獄終身」の終身刑の判決を下し、六郎は小菅集治監で服役した。しかし大日本帝国憲法公布による大赦によって、六郎は明治23年に放免された。その後、妹の婚家のある門司へ移転し、結婚して饅頭屋を営む。次いで鳥栖で駅前待合所を兼ねた店舗を開き、大正6年、58歳で生涯を閉じた。
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写真は白井六郎の墓。
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京都から国許に戻った臼井亘理は自宅で、明治元年5月23日の深夜、干城隊5~6人ほどの暗殺隊が臼井亘理を寝室で殺害、さらに夫の異変に気付いた妻も惨殺した。その当時、実子臼井六郎はまだ9歳の幼少であった。自宅にいた六郎と幼い妹だけが生き残った。
六郎は父母が殺されてから、復讐のため、遊学を理由に東京へ上京した。上京後は山岡鉄舟の内弟子となり、ひそかに親の仇の犯人探しを行った。その結果、遂に東京上等裁判所の判事である一瀬直久を探しだした。
一瀬は父暗殺時、干城隊の伍長であり、当時の名を山本克己と言った。暗殺隊の中心人物でもあった。一瀬が親の仇と知った六郎は裁判所付近で待ち伏せをしたがなかなか姿を現さない。そのうち、旧秋月藩主の黒田長徳邸に毎日のように元藩士が集まり、その中に一瀬もいる情報を得て明治13年12月17日、六郎は黒田邸に足を運んだ。
黒田邸には六郎の秋月藩の旧友2人おり、3人で2階の座敷で話し込んでいると、黒田家の家扶人が客人と帰ってきて、隣室で用談を始める。その客こそが親の仇の一瀬であった。一瀬が用事で1階に下りたので、六郎も小用を理由に後をつけ、玄関の屏風に隠れて、一瀬を待った。
一瀬が戻ってくると、その背後から襟をつかみ、「父の仇である。覚悟せよ。」と叫び、短刀でのどを突き刺した。しかし一瀬は襟巻をしており、かすり傷しか負わなかった。続いて胸を刺したが、止めにならず、馬乗りになって、一瀬の額を左手で抑え込み、首を切り落とした。
凶器とされた短刀は父・亘理が襲撃されたときに父が手にしていたものであった。一階での騒動、叫び声は2階にも聞こえていたはずだが誰も下りてこない。六郎は血に濡れた羽織と足袋を脱ぐと、その足で最寄りの警察署に自首した。
一時代前なら立派な仇討だが、明治6年2月「仇討禁止令」が布告されていた。仇討は犯罪とされていた。当時の新聞は「最後の仇討」として世間の注目をうけ、詳しく報道された。
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