兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

盗賊・田舎小僧

2017年08月09日 | 歴史
前回、ブログで鼠小僧について書いた。今回、取り上げるのは、鼠小僧ほど有名ではないが、同じく大名屋敷専門の盗賊・田舎小僧である。田舎小僧は、同時期の稲葉小僧と混同されるが、両者は同じ盗賊なのかは、諸説あって、定かではない。

本人は「自分は稲葉小僧と名乗ったことはない。また田舎小僧と呼ばれているが、これも自分で名乗った異名ではない。」と述べたという。なぜ、田舎小僧と呼ばれるかは定かではない。鼠小僧ほど有名でもなく、あか抜けてもいないためと言われている。

盗賊生活期間は鼠小僧が10年に対して、田舎小僧は2年、盗んだ金子は141両、このうち100両は上野寛永寺から盗んだもので、大名屋敷から金銭の盗みは少なく、衣服、置物、小道具が主な盗品である。忍び込んだ大名屋敷も20軒程と、鼠小僧と比較してかなり小者である。鼠小僧が横綱なら、田舎小僧は幕下程度と言える。

(盗賊名) 田舎小僧   (本名) 新助
(生没年) 宝歴2年(1752年)~天明5年(1785年) 享年34歳
      天明5年9月、小塚原刑場で獄門処刑

田舎小僧は本名新助と言い、武州足立郡新井方村(現・埼玉県川口市)の百姓市左衛門の子として生まれた。幼くして江戸神田明神下の同朋町の染物屋・佐右衛門に年季奉公に出た。

安永2年(1773年)、22歳で年季が明けて暇を貰ったのち、下谷坂本2丁目の又兵衛に奉公に出た。その奉公先の金を盗みそのまま遂電した。その後無宿になり、悪の道に足を踏み入れた。武州豊島郡金杉村(現・東京都港区)の百姓家に忍び込み、村人に見つかり、捕縛される。そして入墨の刑を受け、親元の新井方村に引き渡された。その後、江戸、上州を転々と放浪するも、稼ぎが少ないのを嫌って、江戸に戻り、天明4年7月から、大名屋敷へ盗みを働くようになった。

新助は、2年間に盗んだ盗品を大宮宿の盗品買い取り業者に売り払うが、盗品を鑑定する知識もなく、また行き当たりばったりの盗みで、銀製品など貴重品も安く買いたたかれたようだ。これら盗品も売値で40両余りに過ぎなかった。天明4年9月に小倉藩小笠原家の藩邸から盗み出した印籠は、小笠原氏の先祖が豊臣秀吉から拝領した由緒あるもので大騒ぎになった。その価値を知らない新助は、9両3分ほどで売り払ってしまった。

大名屋敷への侵入ルートは鼠小僧と同様、屋敷の表門近くから、塀、屋根を乗り越え、屋敷内に侵入した。大名屋敷の表門付近は、武士、商人の出入りが多く、かえって目立たず、門をくぐらずに素早く屋根伝いに侵入すれば、簡単に忍び込むことができた。

田舎小僧は、天明5年9月16日、一橋徳川家の屋敷に盗みに入ろうとして、一橋家の屋敷門際の土手から塀を乗り越えたところを夜回りの中間者に見つかり、捕えられた。町奉行所では厳しい尋問、笞打、石抱き、海老責などの拷問を受けて、すべての犯行を自白した。そして北町奉行・曲淵甲斐守景漸より、「重々不届至極」の理由で江戸引き回しの上、小塚原刑場で獄門の刑を受ける。享年34歳であった。

当ブログに関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
義賊・鼠小僧次郎吉



写真は田舎小僧が処刑された小塚原刑場跡地。東京都荒川区にあり、現在、お地蔵が建っている。

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