伊豆の流人島のうちで島抜けが最も多く発生したのは三宅島である。三宅島の代表的な島抜けが「伴作騒動」と言われる島抜け事件である。万延元年(1860年)は大変な飢饉であった。そのためか、飢饉の年は島抜けが多発する。この年、三宅島では島抜けが5件も発生している。島の流人258人中、34人の流人が島抜けに関係した。
万延元年11月、阿古村預けの流人金子伴作は5ケ村の流人仲間13人を誘って島抜けを実行した。しかし当日は海が荒れ、船が進まず、島に押し戻され失敗した。そのため一味は島役人の鉄砲を奪い、坪田村の山に立てこもった。ここで計画を練り直して、恨みのある村人を殺害し、坪田村に火を放ち、混乱に乗じて、再度、島抜けする策を練った。
10日後、伴作一味は暗闇に乗じて、阿古村の浜から島抜けを図ったが、村の漁船に遺跡されて、全員が海上で射殺された。この島抜けの失敗の陰には、藤太郎という流人の働きがあった。
藤太郎は火付けの罪で15歳のとき三宅島に送られ、坪田村に預けられた。藤太郎も島抜けに誘われ、一味に加わったものの、世話になった坪田村に火を付けることができず、決行の直前、山を抜け出し、坪田村の名主に訴え出た。
藤太郎の通報で一味の計画を知った名主は非常線を張って警戒し、島を脱出した一味を追跡して一網打尽にした。伴作騒動はそれで決着したが、坪田村を放火から救った藤太郎は殺された。藤太郎は村を救った功労者として名主から島役人に届けられたが、島役人は藤太郎を功労者として認めず、島抜けの伴作一味の仲間として捕らえ、藤太郎は結果的に伊ケ谷村の刑場で斬首された。
それを知った坪田村の名主は村を救った恩人として、藤太郎の供養碑を建てた。その供養碑が現在も坪田村の海蔵寺の墓地にあり、今も村人が花をたむけ、管理している。
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流人・沼崎吉五郎という人
写真は三宅島にある藤太郎の供養碑
写真は三宅島の処刑場跡地
刑場跡地の案内板
万延元年11月、阿古村預けの流人金子伴作は5ケ村の流人仲間13人を誘って島抜けを実行した。しかし当日は海が荒れ、船が進まず、島に押し戻され失敗した。そのため一味は島役人の鉄砲を奪い、坪田村の山に立てこもった。ここで計画を練り直して、恨みのある村人を殺害し、坪田村に火を放ち、混乱に乗じて、再度、島抜けする策を練った。
10日後、伴作一味は暗闇に乗じて、阿古村の浜から島抜けを図ったが、村の漁船に遺跡されて、全員が海上で射殺された。この島抜けの失敗の陰には、藤太郎という流人の働きがあった。
藤太郎は火付けの罪で15歳のとき三宅島に送られ、坪田村に預けられた。藤太郎も島抜けに誘われ、一味に加わったものの、世話になった坪田村に火を付けることができず、決行の直前、山を抜け出し、坪田村の名主に訴え出た。
藤太郎の通報で一味の計画を知った名主は非常線を張って警戒し、島を脱出した一味を追跡して一網打尽にした。伴作騒動はそれで決着したが、坪田村を放火から救った藤太郎は殺された。藤太郎は村を救った功労者として名主から島役人に届けられたが、島役人は藤太郎を功労者として認めず、島抜けの伴作一味の仲間として捕らえ、藤太郎は結果的に伊ケ谷村の刑場で斬首された。
それを知った坪田村の名主は村を救った恩人として、藤太郎の供養碑を建てた。その供養碑が現在も坪田村の海蔵寺の墓地にあり、今も村人が花をたむけ、管理している。
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写真は三宅島にある藤太郎の供養碑
写真は三宅島の処刑場跡地
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