博徒・穴太徳(または安濃徳)と言っても知っている人は少ない。義理と人情の吉良仁吉が神戸の長吉に加担して闘死した「血煙荒神山」の相手方博徒の親分と言えば解かるだろう。天田愚庵(次郎長養子・山本五郎)の「東海遊侠伝」では、強欲非道の博徒として書かれている。
「東海遊侠伝」は、明治17年に次郎長が賭博禁止令で収監された際、減刑嘆願書に次郎長半生記として添付提出されたものである。当然に、次郎長は善玉の博徒、加勢した神田の長吉は逃げ回る臆病者博徒、荒神山の決闘相手方・穴太徳は強欲悪玉親分とされている。唯一、清水一家のみが勇敢に戦い抜き、勝利へ導いたと書かれている。これは本当だろうか?実際の穴太徳を見てみよう。
穴太徳は、文政6年(1823年)員弁郡神田村穴太(現・員弁郡東員町)で生まれた。幼名は徳松と呼び、その後、中野徳次郎と名乗った。20歳頃、桑名に出て、遊び人となり、地元の博徒・神戸屋祐蔵の配下となる。30歳頃、博徒一家を構え、桑名江戸町で渡世を張った。
その後、穴太徳は神戸屋祐蔵の跡目を継いだ。神戸屋の地元の神戸藩はわずか1万5千石、本多伊予守の城下町。一方、穴太徳が渡世を張る桑名宿は徳川親藩桑名藩11万3千石、松平越中守の城下町、神戸の長吉の神戸とは比較にならない規模と裕福な縄張り。穴太徳は桑名宿に三つの賭博場を持ち、寺銭収入はかなりの金額となる。穴太徳は桑名から美濃、尾張まで勢力を持つ大親分に成長、黒駒勝蔵側博徒の雄となった。
博徒名 穴太徳(別名・安濃徳ともいうが穴太徳が正しい)
本名 中野徳次郎
生没年 文政6年(1823年)~明治7年(1875年)9月3日 病死 52歳
講談で有名な「血煙荒神山」荒神山の喧嘩は、同じく神戸屋祐蔵の支配下にいた神戸の長吉と穴太徳との間で、博奕場のある高神山観音寺境内の縄張り争いである。観音寺の祭礼の際に開かれる博奕場は大繁盛し、祭礼時だけで千両あまりを稼ぐ「千両かすりの賭場」と呼ばれた。
一方、神戸の長吉は下総国千葉郡(現・千葉市)出身、全国を流浪、伊勢の神戸屋祐蔵の配下になったとき、すでに中年になっていた。長吉は、元治元年3月(1864年)博徒同士のいざこざで、穴太徳一派の博徒を斬った。長吉は逃亡を余儀なくされ、地元の神戸を離れた。逃亡の間に、高神山観音寺の賭場は穴太徳一派が支配下に置いた。その賭場を奪還するため、長吉は兄弟分である三州・寺津間之助に助っ人を依頼した。
荒神山の喧嘩は、慶応2年(1866年)4月8日、観音寺祭礼当日。当時、長吉は52歳、穴太徳は男盛りの44歳。寺津間之助一家に寄宿していた清水一家の大政と子分たちと吉良仁吉一家は長吉側に加勢することとなった。寺津間之助は当時55歳、高齢のため吉良仁吉が間之助の代理となった。
一方、穴太徳側は、黒駒勝蔵、兄弟分三州平井一家・雲風亀吉こと平井亀吉が加勢し、実質、黒駒勝蔵、清水次郎長の代理戦争の様相となった。戦いは一瞬で終わった。騒ぎを聞きつけて集まった神戸藩の町方、目明したちが周囲を取り囲み、両者とも全員が一斉に逃亡した。
荒神山の戦い後、穴太徳は四国阿波へ逃亡した。黒駒勝蔵も京に逃れ、赤報隊に入隊する。穴太徳は、幕末、維新の混乱に乗じて地元に戻った。荒神山の喧嘩の2年後が明治維新である。世の中は明治へと大きく変動。その間、穴太徳の妻・お秀はしっかり者で子供もなく、穴太徳の留守宅をしっかり守っていた。後日、穴太一家は仁吉の仇討ちで清水一家の総攻撃を受け、和解した。東海道と伊勢街道の縄張りの裕福さに優劣の差が出たのだろう。
地元に戻って7年後、明治7年9月3日、脚気衝心で穴太徳は急死した。享年53歳。その遺体は菩提寺である地元の専明寺に埋葬された。法名は「釋信順位」。穴太徳は強欲で人の縄張りを横取りしたわけではない。神戸長吉が留守中に縄張りを支配下に置いただけ。地元では立派な親分として知られている。穴太徳を極悪無道の親分にしたのは、講談「次郎長伝」の三代目神田伯山である。
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義理と人情に生きた博徒・吉良仁吉
写真は員弁街道沿いにある穴太徳の石碑。表側には「穴太徳事神戸屋徳次郎碑」裏側は「大正5年2月建立、伊藤松二郎、妻えり」と彫られている。伊藤松二郎は穴太徳の甥で、通称「市六松」と呼ばれる侠客である。
下の写真は高神山観音寺境内にある吉良仁吉の碑である。境内裏山が荒神山決闘の現場。
「東海遊侠伝」は、明治17年に次郎長が賭博禁止令で収監された際、減刑嘆願書に次郎長半生記として添付提出されたものである。当然に、次郎長は善玉の博徒、加勢した神田の長吉は逃げ回る臆病者博徒、荒神山の決闘相手方・穴太徳は強欲悪玉親分とされている。唯一、清水一家のみが勇敢に戦い抜き、勝利へ導いたと書かれている。これは本当だろうか?実際の穴太徳を見てみよう。
穴太徳は、文政6年(1823年)員弁郡神田村穴太(現・員弁郡東員町)で生まれた。幼名は徳松と呼び、その後、中野徳次郎と名乗った。20歳頃、桑名に出て、遊び人となり、地元の博徒・神戸屋祐蔵の配下となる。30歳頃、博徒一家を構え、桑名江戸町で渡世を張った。
その後、穴太徳は神戸屋祐蔵の跡目を継いだ。神戸屋の地元の神戸藩はわずか1万5千石、本多伊予守の城下町。一方、穴太徳が渡世を張る桑名宿は徳川親藩桑名藩11万3千石、松平越中守の城下町、神戸の長吉の神戸とは比較にならない規模と裕福な縄張り。穴太徳は桑名宿に三つの賭博場を持ち、寺銭収入はかなりの金額となる。穴太徳は桑名から美濃、尾張まで勢力を持つ大親分に成長、黒駒勝蔵側博徒の雄となった。
博徒名 穴太徳(別名・安濃徳ともいうが穴太徳が正しい)
本名 中野徳次郎
生没年 文政6年(1823年)~明治7年(1875年)9月3日 病死 52歳
講談で有名な「血煙荒神山」荒神山の喧嘩は、同じく神戸屋祐蔵の支配下にいた神戸の長吉と穴太徳との間で、博奕場のある高神山観音寺境内の縄張り争いである。観音寺の祭礼の際に開かれる博奕場は大繁盛し、祭礼時だけで千両あまりを稼ぐ「千両かすりの賭場」と呼ばれた。
一方、神戸の長吉は下総国千葉郡(現・千葉市)出身、全国を流浪、伊勢の神戸屋祐蔵の配下になったとき、すでに中年になっていた。長吉は、元治元年3月(1864年)博徒同士のいざこざで、穴太徳一派の博徒を斬った。長吉は逃亡を余儀なくされ、地元の神戸を離れた。逃亡の間に、高神山観音寺の賭場は穴太徳一派が支配下に置いた。その賭場を奪還するため、長吉は兄弟分である三州・寺津間之助に助っ人を依頼した。
荒神山の喧嘩は、慶応2年(1866年)4月8日、観音寺祭礼当日。当時、長吉は52歳、穴太徳は男盛りの44歳。寺津間之助一家に寄宿していた清水一家の大政と子分たちと吉良仁吉一家は長吉側に加勢することとなった。寺津間之助は当時55歳、高齢のため吉良仁吉が間之助の代理となった。
一方、穴太徳側は、黒駒勝蔵、兄弟分三州平井一家・雲風亀吉こと平井亀吉が加勢し、実質、黒駒勝蔵、清水次郎長の代理戦争の様相となった。戦いは一瞬で終わった。騒ぎを聞きつけて集まった神戸藩の町方、目明したちが周囲を取り囲み、両者とも全員が一斉に逃亡した。
荒神山の戦い後、穴太徳は四国阿波へ逃亡した。黒駒勝蔵も京に逃れ、赤報隊に入隊する。穴太徳は、幕末、維新の混乱に乗じて地元に戻った。荒神山の喧嘩の2年後が明治維新である。世の中は明治へと大きく変動。その間、穴太徳の妻・お秀はしっかり者で子供もなく、穴太徳の留守宅をしっかり守っていた。後日、穴太一家は仁吉の仇討ちで清水一家の総攻撃を受け、和解した。東海道と伊勢街道の縄張りの裕福さに優劣の差が出たのだろう。
地元に戻って7年後、明治7年9月3日、脚気衝心で穴太徳は急死した。享年53歳。その遺体は菩提寺である地元の専明寺に埋葬された。法名は「釋信順位」。穴太徳は強欲で人の縄張りを横取りしたわけではない。神戸長吉が留守中に縄張りを支配下に置いただけ。地元では立派な親分として知られている。穴太徳を極悪無道の親分にしたのは、講談「次郎長伝」の三代目神田伯山である。
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義理と人情に生きた博徒・吉良仁吉
写真は員弁街道沿いにある穴太徳の石碑。表側には「穴太徳事神戸屋徳次郎碑」裏側は「大正5年2月建立、伊藤松二郎、妻えり」と彫られている。伊藤松二郎は穴太徳の甥で、通称「市六松」と呼ばれる侠客である。
下の写真は高神山観音寺境内にある吉良仁吉の碑である。境内裏山が荒神山決闘の現場。