一昨年、北海道の樺戸監獄に行ってきた。明治時代、北海道の開拓、産業発展に多くの囚人の労働力が寄与した。しかし多くの囚人が刑期途中で獄死している。その中に熊坂長庵という贋札作りがいた。文春文庫「疑惑」に併録された松本清張の小説「不運な名前」でも知られている。
「不運な名前」の由来は、義経記に出てくる奥州に下る金売吉次を途中の美濃赤坂で襲い、牛若丸に討たれた大盗賊「熊坂長範」と名前が似ていることによる。
熊坂長庵は、明治11年12月、関西で発見された弐円札紙幣の贋札事件の犯人とされた人物である。贋札事件は西南戦争戦費で大儲けした政商・藤田組の疑獄事件として表面化した。様々の政局の中で熊坂長庵が犯人とされ逮捕された。弐円札紙幣は現在の価値に直すと約4万円に当たる。
藤田組贋札事件とは、各府県から政府に納められた国庫金から贋札が発見され、政府内は騒然となった。明治12年(1879年)9月15日「ドイツ滞在中の井上馨と組んで現地で贋札を製造、密かに国内に持ち込み会社の資金としようと企てた」という疑惑で藤田組に家宅捜査が入り、藤田組の藤田傳三郎ら7名が逮捕された。
これは藤田組元支配人・木村眞三郎の告発によるものであった。しかし、贋札製造となる証拠は一切発見されなかった。
藤田傳三郎は長州奇兵隊出身で、井上馨、伊藤博文と懇意で、長州閥政商と言われた。当時、井上馨は尾去沢鉱山事件、予算関連で、司法卿・江藤新平、大蔵卿・大隈重信らの薩摩閥と対立があった。背景に薩摩側が西郷隆盛の戦死や大久保利通の暗殺で有力者を失い、長州側に押されていた。
そこで薩摩閥が支配する内務省警視局を動かして、長州閥の不正を暴く戦術が練られた。長州閥の山縣有朋が政商・山城屋和助の汚職事件との疑惑で命を狙われる事件も起きていた。
贋札事件は3年後、突然進展した。明治15年(1882年)9月20日、贋札事件犯人として神奈川県愛甲郡中津村(現・愛川町中津)に住む元小学校校長の熊坂長庵が逮捕された。自宅から贋札815枚、製造機器が押収されたことがその根拠とされた。しかし、熊坂長庵は一貫して冤罪を主張した。
当時、熊坂長庵は画工の技術を持っていたが、精巧な贋札を作成する銅板印刷技術があるとは考えられなかった。当時の交通事情からも神奈川居住の長庵製造の贋札が関西で流通された根拠も明確ではなかった。
熊坂長庵は、明治15年(1882年)12月8日神奈川重罪裁判所で無期懲役が決定し、翌年大審院で確定、明治17年(1884年)3月、北海道樺戸集治監に収監された。長庵は樺戸集治監では優遇されたようで、あまり労役に出ることもなく、何枚も絵画を描き、人々に渡している。
特に観音図(弁天像)を描き、月形町の北漸寺に寄贈している。逮捕されて3年後、明治19年(1886年)4月29日樺戸集治監で獄死した。享年43歳であった。樺戸集治監の近くの篠津囚人墓地の中に熊坂長庵の墓がある。
熊坂長庵は神奈川県愛川町の富農家の出身。長庵が住んでいた家は、昭和19年、東京裁判の戦犯で有名な大川周明が買い取り、生涯ここに居住した。建物は半原の宮大工の建築によるもので、寺院建築の立派なものである。
現在は古民家山十邸として公開されている。「山十」とは熊坂家の屋号である。平成21年国の登録有形文化財に指定された。民間人戦犯の大川周明が長庵に生家で一生を終えたのも何か因縁だろうか?
ブログ内に下記関連記事記事があります。よろしければ閲覧ください。
北海道最果ての監獄・樺戸監獄
長州藩に処刑された賊軍・長州奇兵隊士
写真は北海道月形町の篠津囚人墓地。樺戸監獄で死亡した者は全部で1,046名、うち縁者に引き取られた者はたったの24名、引き取り先のない1,022名がこの墓地に眠っている。
篠津囚人墓地内の熊坂長庵の墓。当初、一般獄死者同様の木製墓柱だった。その後、神奈川県愛川町龍福寺住職、檀家の篤志によって建立された。「樺川堂宝山跡昌居士之墓」と刻まれている。
「不運な名前」の由来は、義経記に出てくる奥州に下る金売吉次を途中の美濃赤坂で襲い、牛若丸に討たれた大盗賊「熊坂長範」と名前が似ていることによる。
熊坂長庵は、明治11年12月、関西で発見された弐円札紙幣の贋札事件の犯人とされた人物である。贋札事件は西南戦争戦費で大儲けした政商・藤田組の疑獄事件として表面化した。様々の政局の中で熊坂長庵が犯人とされ逮捕された。弐円札紙幣は現在の価値に直すと約4万円に当たる。
藤田組贋札事件とは、各府県から政府に納められた国庫金から贋札が発見され、政府内は騒然となった。明治12年(1879年)9月15日「ドイツ滞在中の井上馨と組んで現地で贋札を製造、密かに国内に持ち込み会社の資金としようと企てた」という疑惑で藤田組に家宅捜査が入り、藤田組の藤田傳三郎ら7名が逮捕された。
これは藤田組元支配人・木村眞三郎の告発によるものであった。しかし、贋札製造となる証拠は一切発見されなかった。
藤田傳三郎は長州奇兵隊出身で、井上馨、伊藤博文と懇意で、長州閥政商と言われた。当時、井上馨は尾去沢鉱山事件、予算関連で、司法卿・江藤新平、大蔵卿・大隈重信らの薩摩閥と対立があった。背景に薩摩側が西郷隆盛の戦死や大久保利通の暗殺で有力者を失い、長州側に押されていた。
そこで薩摩閥が支配する内務省警視局を動かして、長州閥の不正を暴く戦術が練られた。長州閥の山縣有朋が政商・山城屋和助の汚職事件との疑惑で命を狙われる事件も起きていた。
贋札事件は3年後、突然進展した。明治15年(1882年)9月20日、贋札事件犯人として神奈川県愛甲郡中津村(現・愛川町中津)に住む元小学校校長の熊坂長庵が逮捕された。自宅から贋札815枚、製造機器が押収されたことがその根拠とされた。しかし、熊坂長庵は一貫して冤罪を主張した。
当時、熊坂長庵は画工の技術を持っていたが、精巧な贋札を作成する銅板印刷技術があるとは考えられなかった。当時の交通事情からも神奈川居住の長庵製造の贋札が関西で流通された根拠も明確ではなかった。
熊坂長庵は、明治15年(1882年)12月8日神奈川重罪裁判所で無期懲役が決定し、翌年大審院で確定、明治17年(1884年)3月、北海道樺戸集治監に収監された。長庵は樺戸集治監では優遇されたようで、あまり労役に出ることもなく、何枚も絵画を描き、人々に渡している。
特に観音図(弁天像)を描き、月形町の北漸寺に寄贈している。逮捕されて3年後、明治19年(1886年)4月29日樺戸集治監で獄死した。享年43歳であった。樺戸集治監の近くの篠津囚人墓地の中に熊坂長庵の墓がある。
熊坂長庵は神奈川県愛川町の富農家の出身。長庵が住んでいた家は、昭和19年、東京裁判の戦犯で有名な大川周明が買い取り、生涯ここに居住した。建物は半原の宮大工の建築によるもので、寺院建築の立派なものである。
現在は古民家山十邸として公開されている。「山十」とは熊坂家の屋号である。平成21年国の登録有形文化財に指定された。民間人戦犯の大川周明が長庵に生家で一生を終えたのも何か因縁だろうか?
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長州藩に処刑された賊軍・長州奇兵隊士
写真は北海道月形町の篠津囚人墓地。樺戸監獄で死亡した者は全部で1,046名、うち縁者に引き取られた者はたったの24名、引き取り先のない1,022名がこの墓地に眠っている。
篠津囚人墓地内の熊坂長庵の墓。当初、一般獄死者同様の木製墓柱だった。その後、神奈川県愛川町龍福寺住職、檀家の篤志によって建立された。「樺川堂宝山跡昌居士之墓」と刻まれている。