江戸・永代橋のふもとから、八丈島に流される一隻の流人船が、隅田川を下って行った。その船に、近藤富蔵という23歳の若者が乗っていた。ときは江戸時代後期の文政10年(1827年)旧暦4月26日(太陽暦5月末頃)の朝である。犯した罪は殺人である。彼の父親は近藤重蔵という武士で、蝦夷地探検家として名を知られ、旗本として、また学者としても一流の人物だった。富蔵がなぜ罪を犯したのか?それには父・重蔵のことを知る必要がある。
(生没年)文化2年5月3日(1805年5月31日)~明治20年(1887年)6月1日
(氏名) 近藤富蔵 (近藤守真)
一家殺傷事件で八丈島に流罪、赦免後、八丈島で病死。享年83歳
(生没年)明和8年(1771年)~文政12年6月16日(1829年)7月16日
(氏名) 近藤重蔵 (近藤守重)
蝦夷地調査探検家・近藤富蔵の殺人に連座、大溝藩にお預け後病死。享年59歳
近藤重蔵は直参だが、御目見以下の御家人で御先手鉄砲組与力の三男として生まれた。近藤家は代々与力職を引き継ぎ、重蔵で7代目となる。重蔵が近藤家を継いだ頃、寛政の改革で創設された「学問吟味」という制度があった。この制度は旗本をその家格の上下に関係なく、優先的に役職に登用する試験制度である。重蔵は上昇志向が強く、世襲職与力の地位から、勘定方役人への昇進を目指し、この試験の丙科に及第した。
学問吟味及第を契機に、重蔵は長崎奉行手附出役として長崎出島に赴任した。ここで重蔵は外国情勢の知識を吸収し、海外に目を向けるようになった。2年間の長崎出島での勤務のち、江戸に戻り、支払勘定方、関東郡代附出役を歴任する。当時の重蔵の上司が勘定奉行・中川忠英であり、のちに大目付まで出世している。
中川は、幕閣でも改革派で従来の蝦夷地松前藩管轄に異議を唱え、蝦夷地幕府直轄政策の推進勢力の一人であった。幕府の蝦夷地政策は改革派と保守派との間の対立抗争がその後も続く。重蔵もその対立抗争に振り回さられる。
北方ではロシアの来航が目立ち、蝦夷地防備が幕府の緊急課題となっていた。重蔵は幕府に北方海防策の意見書を提出した。重蔵は寛政10年(1798年)から文化4年(1807年)にかけ、途中の空白期間を含め、5度にわたり蝦夷地御用取扱として派遣を命じられた。この間、重蔵は最上徳内と千島列島、択捉島を探検、同地に「日本恵土呂府」の木柱を立てる。
さらに蝦夷地調査、開拓に従事、貿易商人高田屋嘉兵衛に国後島と択捉島の航路を調査させた。蝦夷地派遣は重蔵にとって、身分上昇につながる業績となった。第4次踏査直後、老中より「御目見以上」の世襲旗本の格式を得た。その頃、重蔵の側室「梅」が男子を出産した。それが後の近藤富蔵である。
江戸に戻った重蔵は、文化5年(1808年)江戸城紅葉山文庫の書物奉行となる。書物奉行は学知豊富な人物が就任する職だが、引退までの高齢者が勤める一種の閑職である。代官など勘定方系統での出世を望んでいた重蔵にしてみれば、蝦夷地政策の現場からの排除とも見え、その落胆と焦燥はひとしおであった。
自信過剰で豪胆な性格の重蔵は、10年余りの書物奉行の仕事ぶりに批判が集まり、文政2年(1819年)大坂勤番弓奉行に左遷される。その頃、富蔵は15歳元服を迎えて、将軍家斉に御目見を果たし、旗本惣領としてのスタートを切った。
上昇志向強く、自己の力量で出世してきた重蔵が、惣領息子たる富蔵に寄せる期待は、富蔵にとって大きな重荷になっていた。父・重蔵に随行した富蔵は、大坂で知り合った少女に一目ぼれした。父の重蔵は、富蔵が学問もせず、町人の娘の所に行き、遊び惚けていることに業を煮やし、富蔵を烈火のごとく叱りつけた。
富蔵は思わず家を飛び出し、街中を放浪した。乞食同様の生活を町人に笑われたと言って、刀を抜き、人を騒がせ、捕まり、家に連れ戻されている。富蔵には少女の家に転がりこむような度胸もなかった。父・重蔵は幼児の頃から神童と言われ、8歳で四書五経を諳んじた。それに対して、富蔵が四書五経を諳んじたはやっと15歳になってからである。
重蔵は大坂時代、大塩平八郎と会っている。この時、重蔵は大塩に「畳の上では死ねない人」という印象を抱いた。大塩もまた重蔵を「畳の上で死ねない人」という印象を抱いたという。大阪弓奉行もまた閑職である。さらに重蔵にとって大坂弓奉行職は学知の必要もなく、重蔵自身も奉行職への意欲は見られず、大坂の文人たちとの交際に忙しかった。そのため、重蔵の仕事ぶりに批判が集まった。
文政4年(1821年)4月、重蔵は2年も満たないうちに罷免され、江戸に召喚される。改易は免れたが、近藤家は永久小普請入(非役)とされた。重蔵と富蔵の間の確執はさらに拡大し、富蔵によれば、妾腹の富蔵を喜ばず、一時は越後高田仏光寺に出奔して、出家することも考えたが、決心がつかず戻って来ている。
富蔵は、良く言えば純情でシャイな性格、一途な行動家である。しかし父・重蔵から見れば、とんでもない意気地なしの大バカ者と思われていた。だが富蔵も少しでも父の期待に沿えるよう必死な努力をしていた。
重蔵は本宅のほか、三田村槍ケ崎(現在の中目黒2丁目)に別宅を所有していた。そこに重蔵は、大坂赴任前に富士山を模した山(富士塚)を造園し、隣地の所有者百姓・半之助に管理を任せていた。当時、目黒新富士、近藤富士と呼ばれ、多くの参拝客で賑い、門前に露店も出店し、半之助も近くで蕎麦屋を開業、評判になった。この頃までは、重蔵へ蝦夷地商人からの贈り物があり、それなりの別途収入となっていた。
江戸に戻り5年余り、重蔵と半之助の間で土地賃貸料、利益配分でトラブルが発生した。富蔵が勘当を許され、越後高田から江戸三田村に戻ったのは重蔵と半之助のトラブルの真っ最中であった。富蔵は重蔵からトラブル解決を任せられた。富蔵は父の信頼を得るため、必死の思いで半之助と交渉した。しかし交渉の口論のすえ、文政9年(1826年)5月18日半之助一家を皆殺しにしてしまった。
当初、重蔵は旗本に対する無礼、狼藉による手討ち事件と処理しようとした。しかし評定で、罪なき子女まで殺害したこと、富蔵・重蔵の供述に虚偽があったことが判明、富蔵は八丈島遠島、重蔵は他家お預けとなった。
重蔵は武士の一分にこだわり、それが反対に武士にあるまじき行為として処分された。近藤家は改易となり、重蔵は、近江国大溝藩分部家にお預けになった。大溝陣屋に幽閉されて2年余り、文政12年(1829年)重蔵は死亡した。事件から3年後、享年59歳であった。
一方、文政10年(1827年)秋、八丈島に着船した富蔵は、島内三根村に配属された。翌年、富蔵は宇喜多秀家の末裔に連なる大賀郷百姓栄右衛門の長女「逸」と水汲み女と同居、一男二女をもうけた。富蔵は八丈島配流後、近藤家の系譜編纂、さらには「八丈実記」69巻を著した。八丈島の百科事典とも言われ、島の政治・経済・宗教・地理・風俗・教育などあらゆる情報が含まれていた。
時代は明治に移り、流罪制度も無くなり、多くの流人は許されて本土へ帰っていった。しかし富蔵だけには赦免の通知はなかった。ご赦免のある時は、無実の罪で流刑となり、悲しみのあまり絶食して死んだ僧侶・慈雲の墓の隣のソテツの花が咲くものだった。人はこの花を「赦免花」と呼んだ。明治8年、妻・逸も亡くなり、長男は早死、娘も嫁に行き、富蔵はひとりぼっちになった。
明治11年、東京府の役人が島の視察に来て、富蔵の著した八丈実記を見て驚いた。69巻のうち33巻を清書して差し出すように命じた。明治13年(1880年)富蔵は清書した八丈実記を東京府に差し出すと同時に、その罪を赦免された。近藤富蔵76歳、八丈島に流罪されて53年が経過していた。
本土に戻った富蔵は、若い頃、大坂で好きになった娘のその後を知りたくて、大坂へ出かけた。しかしすでに長い日時が経過し、娘の居所は知ることができなかった。その後、父親重蔵の墓参り、西国33ケ所巡りをしたのち、再び八丈島に戻っている。本土に戻り、東京の娘の世話になっても、東京は昔の江戸とは異なり、富蔵にとって誰一人知り合いもなく、安住の地ではなかった。
富蔵は島に帰ってから、三根村の寺「大悲閣」の堂守をして暮らした。「罪を許されて本土に帰った者で再び島に戻ってきた者はいない」と島の人は驚いた。しかし島の人たちは優しく迎い入れた。島に戻った富蔵は「八丈島ほど良いところはない。」それが富蔵の口癖であった。堂守になって5年後、富蔵は83歳の生涯を閉じた。「富蔵は、堂守の間、命あるものは虱すら殺さなかった」と島の人はいう。
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八丈島を島抜けした博徒・佐原喜三郎という人
写真は八丈島にある近藤富蔵の墓。左の大きい石は顕彰碑、右側の三角形の自然石が富蔵の墓である。その隣の右側に長女・操が建立した富蔵の妻・逸の墓(半分隠れている)がある。場所は開善院善光寺境内にある。
写真は近藤重蔵の墓。滋賀県高島市、円光寺塔頭瑞雪院にある。
重蔵が死亡して32年後の万延元年(1860年)徳川家斉十三回忌に際し、重蔵は罪を恩赦され、名誉を回復した。これに応じて、大溝藩は同寺に墓石を建てた。法号は「自休院俊峯玄逸禅定門」である。
(生没年)文化2年5月3日(1805年5月31日)~明治20年(1887年)6月1日
(氏名) 近藤富蔵 (近藤守真)
一家殺傷事件で八丈島に流罪、赦免後、八丈島で病死。享年83歳
(生没年)明和8年(1771年)~文政12年6月16日(1829年)7月16日
(氏名) 近藤重蔵 (近藤守重)
蝦夷地調査探検家・近藤富蔵の殺人に連座、大溝藩にお預け後病死。享年59歳
近藤重蔵は直参だが、御目見以下の御家人で御先手鉄砲組与力の三男として生まれた。近藤家は代々与力職を引き継ぎ、重蔵で7代目となる。重蔵が近藤家を継いだ頃、寛政の改革で創設された「学問吟味」という制度があった。この制度は旗本をその家格の上下に関係なく、優先的に役職に登用する試験制度である。重蔵は上昇志向が強く、世襲職与力の地位から、勘定方役人への昇進を目指し、この試験の丙科に及第した。
学問吟味及第を契機に、重蔵は長崎奉行手附出役として長崎出島に赴任した。ここで重蔵は外国情勢の知識を吸収し、海外に目を向けるようになった。2年間の長崎出島での勤務のち、江戸に戻り、支払勘定方、関東郡代附出役を歴任する。当時の重蔵の上司が勘定奉行・中川忠英であり、のちに大目付まで出世している。
中川は、幕閣でも改革派で従来の蝦夷地松前藩管轄に異議を唱え、蝦夷地幕府直轄政策の推進勢力の一人であった。幕府の蝦夷地政策は改革派と保守派との間の対立抗争がその後も続く。重蔵もその対立抗争に振り回さられる。
北方ではロシアの来航が目立ち、蝦夷地防備が幕府の緊急課題となっていた。重蔵は幕府に北方海防策の意見書を提出した。重蔵は寛政10年(1798年)から文化4年(1807年)にかけ、途中の空白期間を含め、5度にわたり蝦夷地御用取扱として派遣を命じられた。この間、重蔵は最上徳内と千島列島、択捉島を探検、同地に「日本恵土呂府」の木柱を立てる。
さらに蝦夷地調査、開拓に従事、貿易商人高田屋嘉兵衛に国後島と択捉島の航路を調査させた。蝦夷地派遣は重蔵にとって、身分上昇につながる業績となった。第4次踏査直後、老中より「御目見以上」の世襲旗本の格式を得た。その頃、重蔵の側室「梅」が男子を出産した。それが後の近藤富蔵である。
江戸に戻った重蔵は、文化5年(1808年)江戸城紅葉山文庫の書物奉行となる。書物奉行は学知豊富な人物が就任する職だが、引退までの高齢者が勤める一種の閑職である。代官など勘定方系統での出世を望んでいた重蔵にしてみれば、蝦夷地政策の現場からの排除とも見え、その落胆と焦燥はひとしおであった。
自信過剰で豪胆な性格の重蔵は、10年余りの書物奉行の仕事ぶりに批判が集まり、文政2年(1819年)大坂勤番弓奉行に左遷される。その頃、富蔵は15歳元服を迎えて、将軍家斉に御目見を果たし、旗本惣領としてのスタートを切った。
上昇志向強く、自己の力量で出世してきた重蔵が、惣領息子たる富蔵に寄せる期待は、富蔵にとって大きな重荷になっていた。父・重蔵に随行した富蔵は、大坂で知り合った少女に一目ぼれした。父の重蔵は、富蔵が学問もせず、町人の娘の所に行き、遊び惚けていることに業を煮やし、富蔵を烈火のごとく叱りつけた。
富蔵は思わず家を飛び出し、街中を放浪した。乞食同様の生活を町人に笑われたと言って、刀を抜き、人を騒がせ、捕まり、家に連れ戻されている。富蔵には少女の家に転がりこむような度胸もなかった。父・重蔵は幼児の頃から神童と言われ、8歳で四書五経を諳んじた。それに対して、富蔵が四書五経を諳んじたはやっと15歳になってからである。
重蔵は大坂時代、大塩平八郎と会っている。この時、重蔵は大塩に「畳の上では死ねない人」という印象を抱いた。大塩もまた重蔵を「畳の上で死ねない人」という印象を抱いたという。大阪弓奉行もまた閑職である。さらに重蔵にとって大坂弓奉行職は学知の必要もなく、重蔵自身も奉行職への意欲は見られず、大坂の文人たちとの交際に忙しかった。そのため、重蔵の仕事ぶりに批判が集まった。
文政4年(1821年)4月、重蔵は2年も満たないうちに罷免され、江戸に召喚される。改易は免れたが、近藤家は永久小普請入(非役)とされた。重蔵と富蔵の間の確執はさらに拡大し、富蔵によれば、妾腹の富蔵を喜ばず、一時は越後高田仏光寺に出奔して、出家することも考えたが、決心がつかず戻って来ている。
富蔵は、良く言えば純情でシャイな性格、一途な行動家である。しかし父・重蔵から見れば、とんでもない意気地なしの大バカ者と思われていた。だが富蔵も少しでも父の期待に沿えるよう必死な努力をしていた。
重蔵は本宅のほか、三田村槍ケ崎(現在の中目黒2丁目)に別宅を所有していた。そこに重蔵は、大坂赴任前に富士山を模した山(富士塚)を造園し、隣地の所有者百姓・半之助に管理を任せていた。当時、目黒新富士、近藤富士と呼ばれ、多くの参拝客で賑い、門前に露店も出店し、半之助も近くで蕎麦屋を開業、評判になった。この頃までは、重蔵へ蝦夷地商人からの贈り物があり、それなりの別途収入となっていた。
江戸に戻り5年余り、重蔵と半之助の間で土地賃貸料、利益配分でトラブルが発生した。富蔵が勘当を許され、越後高田から江戸三田村に戻ったのは重蔵と半之助のトラブルの真っ最中であった。富蔵は重蔵からトラブル解決を任せられた。富蔵は父の信頼を得るため、必死の思いで半之助と交渉した。しかし交渉の口論のすえ、文政9年(1826年)5月18日半之助一家を皆殺しにしてしまった。
当初、重蔵は旗本に対する無礼、狼藉による手討ち事件と処理しようとした。しかし評定で、罪なき子女まで殺害したこと、富蔵・重蔵の供述に虚偽があったことが判明、富蔵は八丈島遠島、重蔵は他家お預けとなった。
重蔵は武士の一分にこだわり、それが反対に武士にあるまじき行為として処分された。近藤家は改易となり、重蔵は、近江国大溝藩分部家にお預けになった。大溝陣屋に幽閉されて2年余り、文政12年(1829年)重蔵は死亡した。事件から3年後、享年59歳であった。
一方、文政10年(1827年)秋、八丈島に着船した富蔵は、島内三根村に配属された。翌年、富蔵は宇喜多秀家の末裔に連なる大賀郷百姓栄右衛門の長女「逸」と水汲み女と同居、一男二女をもうけた。富蔵は八丈島配流後、近藤家の系譜編纂、さらには「八丈実記」69巻を著した。八丈島の百科事典とも言われ、島の政治・経済・宗教・地理・風俗・教育などあらゆる情報が含まれていた。
時代は明治に移り、流罪制度も無くなり、多くの流人は許されて本土へ帰っていった。しかし富蔵だけには赦免の通知はなかった。ご赦免のある時は、無実の罪で流刑となり、悲しみのあまり絶食して死んだ僧侶・慈雲の墓の隣のソテツの花が咲くものだった。人はこの花を「赦免花」と呼んだ。明治8年、妻・逸も亡くなり、長男は早死、娘も嫁に行き、富蔵はひとりぼっちになった。
明治11年、東京府の役人が島の視察に来て、富蔵の著した八丈実記を見て驚いた。69巻のうち33巻を清書して差し出すように命じた。明治13年(1880年)富蔵は清書した八丈実記を東京府に差し出すと同時に、その罪を赦免された。近藤富蔵76歳、八丈島に流罪されて53年が経過していた。
本土に戻った富蔵は、若い頃、大坂で好きになった娘のその後を知りたくて、大坂へ出かけた。しかしすでに長い日時が経過し、娘の居所は知ることができなかった。その後、父親重蔵の墓参り、西国33ケ所巡りをしたのち、再び八丈島に戻っている。本土に戻り、東京の娘の世話になっても、東京は昔の江戸とは異なり、富蔵にとって誰一人知り合いもなく、安住の地ではなかった。
富蔵は島に帰ってから、三根村の寺「大悲閣」の堂守をして暮らした。「罪を許されて本土に帰った者で再び島に戻ってきた者はいない」と島の人は驚いた。しかし島の人たちは優しく迎い入れた。島に戻った富蔵は「八丈島ほど良いところはない。」それが富蔵の口癖であった。堂守になって5年後、富蔵は83歳の生涯を閉じた。「富蔵は、堂守の間、命あるものは虱すら殺さなかった」と島の人はいう。
ブログ内に下記の関連記事があります。よろしければ閲覧ください。
八丈島を島抜けした博徒・佐原喜三郎という人
写真は八丈島にある近藤富蔵の墓。左の大きい石は顕彰碑、右側の三角形の自然石が富蔵の墓である。その隣の右側に長女・操が建立した富蔵の妻・逸の墓(半分隠れている)がある。場所は開善院善光寺境内にある。
写真は近藤重蔵の墓。滋賀県高島市、円光寺塔頭瑞雪院にある。
重蔵が死亡して32年後の万延元年(1860年)徳川家斉十三回忌に際し、重蔵は罪を恩赦され、名誉を回復した。これに応じて、大溝藩は同寺に墓石を建てた。法号は「自休院俊峯玄逸禅定門」である。
midorishakoといいます。
近藤重蔵、富蔵のお話を一気に読ませていただきました。とても勉強になりました。