流人の島抜けは、島破り、脱島とか言われ、流人犯罪の花である。しかしその成功率は千に一つ。失敗すれば極刑に処され、成功しても幕府は面子にかけても捕縛の努力をするため、最終的には本土で捕まり、獄門が待っている。
それでも多くの島で島抜けが繰り返し発生している。特に多発したのは、本土に近い新島は言うまでもなく、三宅島や黒潮の流れの果てにあり、最も遠く島抜けが困難な八丈島でも発生している。
新島では寛文8年から明治4年までの200年間に18件、三宅島では明和2年から文久3年まで100年間に35件、八丈島では享保7年から万延元年まで138年間に25件の島抜けが発生している。
御蔵島は三宅島の南約20キロの海上にあり、神津島よりやや大きく、伊豆七島の中では五番目の大きさの島である。長い間、三宅島の属島としてその支配下にあった。御蔵島は火災で流人帳を焼失していて詳細は不明である。
三宅島の記録によれば、享保14年(1729年)には島民110人のうち流人5人。寛保2年(1742年)には島民100人に対して9人の流人がいたという。有名な流人では絵島事件の奥医師の奥山交竹院や禁制日蓮宗不受不施派の僧侶、日縁などがいる。
流人の少なかった御蔵島にこんな島抜けの物語がある。宝暦3年(1753年)当時、御蔵島には8人の流人がいた。その中に漁師で海に詳しい善吉という男の呼びかけに応じて、8人流人全員で島の村に火を放って、島抜けしようと計画を立てた。
ところが流人のなかのひとりの長右衛門が島の娘と恋仲の関係にあり、長右衛門が密かに娘と別れを告げたため、娘から島抜けの計画が発覚した。娘から島役人に密告されて、7人の流人は捕縛され、斬首された。しかし長右衛門だけは村を火から守った救世主として特別に一切の罪を許され、娘と夫婦となって島で暮らしたという。
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八丈島 女流人お豊
写真は御蔵島ヘリ―ポート崖下にある島抜けに失敗し、斬首された流人の「古入金七人之墓」の石碑「七人塚」と呼ばれている。
それでも多くの島で島抜けが繰り返し発生している。特に多発したのは、本土に近い新島は言うまでもなく、三宅島や黒潮の流れの果てにあり、最も遠く島抜けが困難な八丈島でも発生している。
新島では寛文8年から明治4年までの200年間に18件、三宅島では明和2年から文久3年まで100年間に35件、八丈島では享保7年から万延元年まで138年間に25件の島抜けが発生している。
御蔵島は三宅島の南約20キロの海上にあり、神津島よりやや大きく、伊豆七島の中では五番目の大きさの島である。長い間、三宅島の属島としてその支配下にあった。御蔵島は火災で流人帳を焼失していて詳細は不明である。
三宅島の記録によれば、享保14年(1729年)には島民110人のうち流人5人。寛保2年(1742年)には島民100人に対して9人の流人がいたという。有名な流人では絵島事件の奥医師の奥山交竹院や禁制日蓮宗不受不施派の僧侶、日縁などがいる。
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ところが流人のなかのひとりの長右衛門が島の娘と恋仲の関係にあり、長右衛門が密かに娘と別れを告げたため、娘から島抜けの計画が発覚した。娘から島役人に密告されて、7人の流人は捕縛され、斬首された。しかし長右衛門だけは村を火から守った救世主として特別に一切の罪を許され、娘と夫婦となって島で暮らしたという。
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