平賀源内は天才、異才、多才などいろいろ言われる。蘭学者として油絵、鉱山開発、人形浄瑠璃の戯作家など多彩の才能を持った人である。平賀源内は讃岐国寒川郡志度浦(現・さぬき市志度)の白石家の三男として生まれる。父は白石茂左衛門、讃岐高松藩の足軽身分の家である。
12歳のとき、掛け軸の天神様にお神酒を供えると顔が赤くなる「おみき天神」と称するカラクリを発明して「天狗小僧」の異名をとった。父の死後、平賀家を継いだが、学問で身を立てようと考え、26歳のとき、妹の婿にいとこの権太夫を迎えて、家を継がせ、自分は江戸にのぼり医師・本草学者(今でいう薬学、博物学である)田村藍水に師事した。
源内は、江戸で師の藍水を主催者として「薬品会」と称する現在で言う「物産展示即売会」博覧会を開いた。これが大評判となり、源内を高く評価した高松藩は、正式藩士として3人扶持を与え、再び召し抱えた。藩に採用された源内は、藩にこき使われるようになった。これを嫌った源内は藩に辞職を申し出た。藩は「仕官お構い」すなわち幕府、他藩に再就職することを認めない条件で、藩を離れる許可が出た。
源内は学者として楽して生きていけると思ったが、世間はそれほど甘くなかった。安定収入なく、世を渡っていくのは並大抵ではない。源内は燃えない布「火浣布」水平を調べる「平線儀」「寒暖計」など新しい製品を制作し、世に出した。これらは生活費を稼ぐためであった。
源内の功績とし重要なのは蘭画(西洋画)を広めたことである。杉田玄白の「解体新書」に精巧な人体解剖図が載っている。これを原典から見事に写しとった秋田藩士の小田野直武は源内の弟子である。源内は秋田に蘭画を広めている。これを契機に杉田玄白と親しい友人関係が最後まで続いた。
源内晩年の発明品で有名なのは「エレキテル」である。エレキテルとは、オランダから輸入された「摩擦起電機」、箱から突き出た金属の二本のヒゲの間に発生する静電気を利用して、病気を治療する医療機器である。発明品と言ったが、正確には、職人の弥七に細工をさせて7年の歳月を費やして「復元に成功した」というのが正しい。源内はこれを見世物にして多いに金を稼いだ。
安永8年(1779年)橋本町に新しい屋敷を購入した。その頃、秋田屋の息子・久五郎が、武家屋敷の工事を請け負うことになった。その工事の経費を知った源内が「自分ならもっと安くできる」と豪語し、半額以下の見積もり仕様書をつくった。人づてにこの話を聞いた久五郎が源内宅にその真偽を糺しに来た。
実際に見てみると、非常によくできた内容だった。そこで久五郎は、一緒に武家屋敷の工事をしようと提案、源内もこれを受け入れ、仲直りの祝宴がはじまった。酒盛りは夜を徹して続き、いつしか源内は寝てしまう。朝方、源内がめを覚ますと、自分の仕様書や図面が見当たらない。「さては、久五郎が盗んだに違いない」そう思った源内は、久五郎を叩き起こして、問い詰めた。
思いがけぬ言いがかりに、久五郎も激怒して、「たとえ本当に盗んだとしても誰がお前に言うものか!」と言い返した。激した源内は、久五郎の脳天めがけて白刃を振り下ろした。
家を飛び出た久五郎は間もなく死亡した。殺人を起こしてしまった源内は死罪は免れず、家に戻って、切腹しようとした。切腹前に家の中を整理しようとしたところ、例の図面、仕様書が出てきた。つまり源内の勘違いで、久五郎に濡れ衣を着せて殺してしまったのだ。ますます後悔して死のうとしたが、知人の丈右衛門が止めに入り、已む得ず入牢することとなった。
源内は元々男色家であった。そのため生涯、妻帯せず、殺された久五郎との間もそのような関係にあったと言われている。晩年になると、怒りやすく、被害妄想的になってきたらしい。言動にも異常が現れてきた。安永8年(1779年)11月21日入牢した源内は、翌月12月18日に喧嘩の際に付いた傷口から破傷風のばい菌が入り、獄中で死んでしまった。享年51歳であった。
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うつ病の尾張藩士小山田勝右衛門という人
写真は東京都台東区橋場にあった総泉寺跡地墓地にある平賀源内の墓。戒名は「智見霊雄居士」である。背後に源内に仕えた従僕である福助の墓がある。
生前親しかった杉田玄白は、墓の隣に源内を称える碑を建立した。
碑銘「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」「ああ、なんと変わった人よ、好みも行いも常識を超えていた。どうして死に様まで非常だったのか!」の意味である。
12歳のとき、掛け軸の天神様にお神酒を供えると顔が赤くなる「おみき天神」と称するカラクリを発明して「天狗小僧」の異名をとった。父の死後、平賀家を継いだが、学問で身を立てようと考え、26歳のとき、妹の婿にいとこの権太夫を迎えて、家を継がせ、自分は江戸にのぼり医師・本草学者(今でいう薬学、博物学である)田村藍水に師事した。
源内は、江戸で師の藍水を主催者として「薬品会」と称する現在で言う「物産展示即売会」博覧会を開いた。これが大評判となり、源内を高く評価した高松藩は、正式藩士として3人扶持を与え、再び召し抱えた。藩に採用された源内は、藩にこき使われるようになった。これを嫌った源内は藩に辞職を申し出た。藩は「仕官お構い」すなわち幕府、他藩に再就職することを認めない条件で、藩を離れる許可が出た。
源内は学者として楽して生きていけると思ったが、世間はそれほど甘くなかった。安定収入なく、世を渡っていくのは並大抵ではない。源内は燃えない布「火浣布」水平を調べる「平線儀」「寒暖計」など新しい製品を制作し、世に出した。これらは生活費を稼ぐためであった。
源内の功績とし重要なのは蘭画(西洋画)を広めたことである。杉田玄白の「解体新書」に精巧な人体解剖図が載っている。これを原典から見事に写しとった秋田藩士の小田野直武は源内の弟子である。源内は秋田に蘭画を広めている。これを契機に杉田玄白と親しい友人関係が最後まで続いた。
源内晩年の発明品で有名なのは「エレキテル」である。エレキテルとは、オランダから輸入された「摩擦起電機」、箱から突き出た金属の二本のヒゲの間に発生する静電気を利用して、病気を治療する医療機器である。発明品と言ったが、正確には、職人の弥七に細工をさせて7年の歳月を費やして「復元に成功した」というのが正しい。源内はこれを見世物にして多いに金を稼いだ。
安永8年(1779年)橋本町に新しい屋敷を購入した。その頃、秋田屋の息子・久五郎が、武家屋敷の工事を請け負うことになった。その工事の経費を知った源内が「自分ならもっと安くできる」と豪語し、半額以下の見積もり仕様書をつくった。人づてにこの話を聞いた久五郎が源内宅にその真偽を糺しに来た。
実際に見てみると、非常によくできた内容だった。そこで久五郎は、一緒に武家屋敷の工事をしようと提案、源内もこれを受け入れ、仲直りの祝宴がはじまった。酒盛りは夜を徹して続き、いつしか源内は寝てしまう。朝方、源内がめを覚ますと、自分の仕様書や図面が見当たらない。「さては、久五郎が盗んだに違いない」そう思った源内は、久五郎を叩き起こして、問い詰めた。
思いがけぬ言いがかりに、久五郎も激怒して、「たとえ本当に盗んだとしても誰がお前に言うものか!」と言い返した。激した源内は、久五郎の脳天めがけて白刃を振り下ろした。
家を飛び出た久五郎は間もなく死亡した。殺人を起こしてしまった源内は死罪は免れず、家に戻って、切腹しようとした。切腹前に家の中を整理しようとしたところ、例の図面、仕様書が出てきた。つまり源内の勘違いで、久五郎に濡れ衣を着せて殺してしまったのだ。ますます後悔して死のうとしたが、知人の丈右衛門が止めに入り、已む得ず入牢することとなった。
源内は元々男色家であった。そのため生涯、妻帯せず、殺された久五郎との間もそのような関係にあったと言われている。晩年になると、怒りやすく、被害妄想的になってきたらしい。言動にも異常が現れてきた。安永8年(1779年)11月21日入牢した源内は、翌月12月18日に喧嘩の際に付いた傷口から破傷風のばい菌が入り、獄中で死んでしまった。享年51歳であった。
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