長女3歳、次女6ヶ月の ひな祭り
「私、お姉ちゃん!」と妹をしっかり抱っこ。周りはハラハラしながら見守っていたが,長女の真剣な顔と、ぎゅっと握ったかわいい手に、思わず笑ってしまった。
平和な時代に生まれた娘達 幸せに育って欲しいと思いを新たにするのが、このひな祭りでもある。
雛人形には特別な思い出が
私は3歳のひな祭り直前の2月に、埼玉県に疎開をした。その時、せめて内裏雛だけでもと、祖父母が持たせてくれた。3人官女や他の人形は、3月3日までに届けるよと。
しかし、その後の東京大空襲で、我が家は爆撃に合い焼けた。勿論残された雛人形は全て灰に。
初めての女の子の孫に、大騒ぎで雛人形を特注したと母は残された内裏雛だけを大事に飾ってくれていた。
疎開して3回目のひな祭りを迎えた。折り紙で作った人形が、
みかん箱の上に。「私の人形は、おひな様どこ?」と聞いても母は無言
大家さんの家に行くと、大広間に泥人形16段飾ってある。
泥人形の一番上に、私の内裏雛が燦然と光輝いている。
私は思わず「00ちゃんの、00ちゃんの!」と叫んで部屋に上がろうとした。
その時障子が内側から、ピシャっと閉められた。母がいつ来たのか隣に立っていた。
母の顔を見た時、5歳過ぎの子供だった私でも、「泣いてはだめ」と思った事を、障子の音とともに、今でもはっきりと思い出す。
母と手を繋いでの帰り道、「ごめんね、必ず返してもらうから、ごめんね」と
何度も何度も言っていた。母の気持は子供を育てた今、痛いほどよく分かる。
其の当時、お金があっても食料品を手に入れることは、非常に困難だった。
農家に頭を下げて物々交換で食料品を入手していた。
母は自分の着物、毛皮の襟巻き、南京虫の時計、指輪と有りとあらゆる
身辺の品を、ほんの僅かな米や芋と物々交換に失った。
とうとう交換するものが無く、大家さんから強請られるままに、雛人形と
お米とを、泣く泣く交換した、「貴女のお人形だけは残したかった」と
後で聞かされた。
雛人形を飾るたびに、娘たちの幸せと、失った人形のいくへに思いを馳せている。
紅蓮さん、出来ました
この写真を撮り込むのに色々アドバイス、ありがとうございました。
ひな祭りの由来 チロリアンランプさんの所から頂きました
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