Rainy or Shiny 横濱ラジオ亭日乗

モダンジャズ、ボーカルを流しています。営業日水木金土祝の13時〜19時
横浜市中区麦田町1-5

外食に飽きて旬の秋刀魚

2014-09-20 20:56:31 | 

週の前半はどうしても外仕事に関係して外食が重なる。最近、よく通っている食堂はJR成瀬駅北口にある「熱烈中華・日高屋」ここでは「ニラレバ定食」が定番だ。町田・中町の「弥生軒」の「サバ塩焼き定食」座間駅前の「東秀」ここでよく食べるのは「麻婆豆腐丼」、自宅近くの246西原交差点にある「かつや」では80グラムの小さなロースかつを卵でとじた「かつどん」の「梅」がお気に入りだ。一昨日は高島町と戸部に挟まれた一角の「バーグ」という人気カレーショップで「ハンバーグ乗せカレー」というのを食べている。いずれも480円から850円の価格帯のものばかり、どれも超美味いわけではないが平均的独居者の腹を満たしてくれる献立で重宝している。

 

こんな瑣事を書くのも松本 哉(はじめ)さんの「永井荷風 ひとり暮し」という面白い本(朝日文庫)を最近読んだからである。荷風は昭和34年に千葉県・市川市の今でいえば本八幡駅に近い自宅で亡くなっている。享年79歳、戦後移り住んだ市川についての記述は荷風日記にしばしば登場するが、荷風は都合13年間市川に暮らしていたことになる。昭和34年といえば自分は12歳!

まだ小学生だった。兄弟も多く親が極貧状態でお小遣いももらえる状況ではなかった。そこでお小遣い銭欲しさに近所にある朝日新聞の専売所で夕刊の新聞配達を始めていた時期だった。横浜の中村川には国道16号に沿って数多くの橋がかかっている。吉野町という鎌倉街道の交わる交差点を自転車でスタートして天神橋まで移動する。

ここからは肩掛けベルトに新聞の束を支えて徒歩乃至は駆け足で配達をする。たしか磯子区の滝頭が担当地区だった。想い出といってもはるか薄い残像の骨格みたいなものしか残っていないが、どこかの飼い犬に膝を噛まれたこと。当時、飼い犬として流行っていて、今は滅多に見かけることがないスピッツをみると今でも憤怒が湧いてくるのはこうした幼児体験に負っている次第だ。これは今でも小さな傷跡が残っている。また配達の後半に出くわす闇がたちこめた「横浜市立万治病院」という昔風表現で称する「避病院」(腸チフス、赤痢、コレラ等の伝染病患者を収容する)があった。ここの廃屋病棟の傍らを通り抜ける恐怖感、これは怖がりな小学生に毎日襲いかかるけっこうな試練だった。

荷風の卒倒死、樺美智子さんの60年安保闘争における圧死事件等もこの夕刊配達時代に知った出来事である。一面の全段抜き記事の大見出しをみれば小学生の目にも大事件が起きたことくらいは分かるものだ。二年間ほどそのバイトをしたが成果は駆け足がすばらしく早くなったことくらいで学業の方は相変わらず低迷していた。一番、みっともなかったことは極貧状況にあった母親が、自分の配達アルバイト代の微々たるギャラを専売所の社長さんに前借に来たということだった。怒るに怒れない悲しいだけの事件だったが。人間は我慢を仕舞い込んで生きて行く存在だということを知ったのこの頃だったようだ。

松本さんによれば、浅草へ行けなくなってしまった最晩年の3年間、荷風は市川にある近所の「大黒家」で毎日「かつ丼」を食べていたらしい。浅草へ通っていた頃は雷門の「尾張屋」でこれまた来る日も来る日も「かしわ南蛮蕎麦」を定期食にしていたとある。これは新藤兼人監督が岩波の「図書」に書いた文章でも拝見したことがあった。毎日、同じものを食す癖を持たない自分が荷風の晩年のような身体の自由が効かなくなった時のことをふと想像する。

月に数回程度食べる「かつや」の「かつ丼・梅」が毎日だったら困るな等と読後の感想を抱きながら、本日はよく太って艶やかな旬のサンマを「青葉・食彩館」で購入する。一匹120円。これの塩焼きに久米納豆の「おくら」和え、大根の味噌汁、大根、キュウリ、みょうがのサラダ等を自炊する。外食、自炊を繰り返しながら一歩一歩、年を経てゆく秋めいた夕暮れである。


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