
昨日は旧友のYさんが座間へ遊びに来る。40年の付き合いである。郊外の緑に触れて美味い蕎麦を食べたいということ。こちらのオーディオ再生の最新状況の具合を確かめること。目的は二つあったようだ。蕎麦の方は座間小学校の近くにある「やぶ久」という相模原への旧街道から引っ込んだ店が気になっていた。ちょうど昼休みのせいで店は混雑していたがそこへ案内する。こちらは穴子丼と盛り蕎麦のセット、Yさんはとろろ蕎麦と牛蒡の唐揚げを食べる。蕎麦の味はよく晒した白い系統の手打ち蕎麦で香りも歯ごたえも十分なものだった。自分の注文分の穴子が旬らしくよく肥えているのを眺めて悔しがっている子供っぽさも、昔ながらのYさんである。Yさんが住んでいてお互いがよく食べたことのある六本木近隣の蕎麦店の味と比較する。かっこと尊大だけの「本村庵」を凌駕していて、素っ気なくも昔東京風「みのち庵」クラスに拮抗できる味というのが「やぶ久」への評価だった。
肝心のオーディオについては両者のコンセプトに全く歩みよるものがない。こちらは箱に収まった古い英国スピーカーだけに心酔する守旧派である。あちらはスピーカーを箱から駆逐して純粋な始原音の理想を自作開発で示さんとする革新派である。一致があるとすればフルレンジスピーカーへの愛好癖くらいだろうか。年をとってきてオーディオのポリシーで対立がなければ、Yさんとの陶磁器や文化状況への見解は、片や大学教授、こなた市井の隠棲者という立場の違いはあってもよく一致する面が多い。今の行き止まり日本についてもケムに巻いたような比喩になるが、かってのドイツを画したメッテルニッヒに象徴されるビーダーマイヤー的な反動時代になっていることを最近の嫌な事例を持ち出して蕎麦食いの合間に嘆きあう場面となった。

Yさんは古典音楽の膨大なデータが欧州の現地人のレベルなみに血肉化している。我が家でクラシックを聞かせても釈迦に説法みたいなものである。しかしジャズについては偏見も多い。いくらかの救いは最近になってジャズを虚心に聴く姿勢になってきたことである。老境による進化例かもしれない。レスター・ヤング、アート・ペッパー、ウイントン・ケリー、ジョン・コルトレーンを愛好してきたが、この機会になにか聞かせてくれと言われる。予断抜きでジャズ史に傑出しないテナーサックスやトランペット、ピアノなどのCDソフトも選ぶことにする。

レスター・ヤングについても最盛期を遥かに過ぎた1950年代後期のものも混ぜて聞かせる。ロイ・エルドリッジがフルトーンでラッパを高らかに歌いあげて、レスター・ヤングが図太いサブトーンを効き味にした「アイ・ソウト・アバウト・ユー」などを選曲する。これはモダンジャズにおける夏目漱石の「こころ」みたいな古典だと絶賛しあう。レスターの心情表現の大きさにYさんはいつも賛辞を呈している。改めてレスターの格を賞賛しながら、これを基準に無知の強みでメッタ斬り大会となる。Yさんはチェット・ベイカーとかスタン・ゲッツが琴線に触れないようだ。
代わりに変種として流したトランペットのトニー・フラッセラの1953年という「オープンドア」の劣悪ライブ録音の一曲「ラバーマン」を褒めちぎっている。「こんなに人生の痛々しさを搾り出されてはかなわないな!」はたまた「アンプジラ」や「スモウ」といった強力アンプで一世を風靡して先ごろ他界してしまったジェームス・ボンジョルノのピアノトリオアルバム中の「アイ・シュッド・ケアー」等の快刀乱麻風ピアノ奏法を激賞している。多種多様にかけまくってみたが、Yさんが持っている人間やアート解析力と同根のジャズ理解があることに気がついたのは大きな収穫になったようである。
肝心のオーディオについては両者のコンセプトに全く歩みよるものがない。こちらは箱に収まった古い英国スピーカーだけに心酔する守旧派である。あちらはスピーカーを箱から駆逐して純粋な始原音の理想を自作開発で示さんとする革新派である。一致があるとすればフルレンジスピーカーへの愛好癖くらいだろうか。年をとってきてオーディオのポリシーで対立がなければ、Yさんとの陶磁器や文化状況への見解は、片や大学教授、こなた市井の隠棲者という立場の違いはあってもよく一致する面が多い。今の行き止まり日本についてもケムに巻いたような比喩になるが、かってのドイツを画したメッテルニッヒに象徴されるビーダーマイヤー的な反動時代になっていることを最近の嫌な事例を持ち出して蕎麦食いの合間に嘆きあう場面となった。

Yさんは古典音楽の膨大なデータが欧州の現地人のレベルなみに血肉化している。我が家でクラシックを聞かせても釈迦に説法みたいなものである。しかしジャズについては偏見も多い。いくらかの救いは最近になってジャズを虚心に聴く姿勢になってきたことである。老境による進化例かもしれない。レスター・ヤング、アート・ペッパー、ウイントン・ケリー、ジョン・コルトレーンを愛好してきたが、この機会になにか聞かせてくれと言われる。予断抜きでジャズ史に傑出しないテナーサックスやトランペット、ピアノなどのCDソフトも選ぶことにする。

レスター・ヤングについても最盛期を遥かに過ぎた1950年代後期のものも混ぜて聞かせる。ロイ・エルドリッジがフルトーンでラッパを高らかに歌いあげて、レスター・ヤングが図太いサブトーンを効き味にした「アイ・ソウト・アバウト・ユー」などを選曲する。これはモダンジャズにおける夏目漱石の「こころ」みたいな古典だと絶賛しあう。レスターの心情表現の大きさにYさんはいつも賛辞を呈している。改めてレスターの格を賞賛しながら、これを基準に無知の強みでメッタ斬り大会となる。Yさんはチェット・ベイカーとかスタン・ゲッツが琴線に触れないようだ。
代わりに変種として流したトランペットのトニー・フラッセラの1953年という「オープンドア」の劣悪ライブ録音の一曲「ラバーマン」を褒めちぎっている。「こんなに人生の痛々しさを搾り出されてはかなわないな!」はたまた「アンプジラ」や「スモウ」といった強力アンプで一世を風靡して先ごろ他界してしまったジェームス・ボンジョルノのピアノトリオアルバム中の「アイ・シュッド・ケアー」等の快刀乱麻風ピアノ奏法を激賞している。多種多様にかけまくってみたが、Yさんが持っている人間やアート解析力と同根のジャズ理解があることに気がついたのは大きな収穫になったようである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます