Rainy or Shiny 横濱ラジオ亭日乗

モダンジャズ、ボーカルを流しています。営業日水木金土祝の13時〜19時
横浜市中区麦田町1-5

横浜港付近のカフェで

2013-05-20 09:49:13 | その他
日曜日は骨董ランプの残金を支払いに横浜駅へ出かける。支払ってさっぱりしたついでにお天気が好転してきたものだから、トーシローさんと横浜の旧市街地を散歩しようということになった。旧市街といえば少年時代は伊勢佐木町裏にある福富町みたいな悪場所にある知り合いの八百屋を手伝ったりしたことがある。中学生時代にはやはり真金町(大阪だったら西成地区風)という柄の悪さでは天下一品の場所にある添田柔道場へ稽古に通っていた。ティーンエイジャーになってのアルバイトといえば海岸通にある荷役会社の日雇い沖仲士が定番だった。そうした活動圏だったところから1キロほど足を伸ばすと会社や官庁街の整然とした区画になって少しバタ臭い横浜らしい異国情緒が流れるエリアになる。

横浜という町は外面に映るイメージと都市下層庶民がひしめく旧市街区との落差が激しい町だと今でも思っている。この感覚は後年に横浜化した多摩プラーザや青葉台等のニュータウンに住んでいる人には到底実感が沸かない筈だと思う。横浜港の大桟橋付近へ鯖の群れが廻ってきたなどという情報が耳に届くと、さっそく夜釣りへ自転車で出かける。新山下の運河でハゼの湧きがよいと聞けば仲間と連れ立って遠征する。そんな少年時代を送った町だ。港から2キロ圏内に住んでいた旧友の青柳、濱野といったいまでも交流がある諸氏も同じような横浜の空気を感じていることと思っている。物心がついて横浜は田舎町、東京が都会という確信が強まる歳月を重ねてしまったが、最近は鮭の母川回帰みたいに故郷の横浜へ戻っている。


そんな訳で最近はしばらく忌避していた横浜港周辺の観光エリアへも足を伸ばしている。トーシロー氏との散歩コースは、桜木町下車、「味奈登庵」、横浜公園、日本大通り「カフェ・ド・ラ・プレッセ」、シルクセンター地下、大通り公園、伊勢佐木町「カフェ・ジョン・ジョン」という順序の散歩になった。トーシロー氏と別れて自分は黄金町駅まで歩く。万歩計を見たら、朝までの夜勤勤務分を含めて18000歩!その間に口に入れたものは、ザル蕎麦+とろろ+穴子天ぷら、シュークリーム+エスプレッソ、マンゴージュース、ホットドック+コーヒーといったものである。歩数計の消費カロリー表示では524キロカロリーとある。



久しぶりに寄った新聞博物館の2階にあるカフェのシュー・クリームも格調の味は健在だった。これはエスプレッソコーヒーと交互に口に入れると味覚が高揚する210円の名品である。このカフェの窓辺から眺める日本大通に並ぶ公孫樹の青葉、近くの横浜公園を覆っている風にざわめく楠木やケヤキの青葉がしみじみと清清しい。散歩の締めは有隣堂の横で行っていた陶器市だ。文庫本探しの感覚で半額品を精査する。小さなずんぐりとした湯飲み茶碗と伊万里輸出風英文が呉須で書かれた醤油挿しの小瓶をゲットする。各500円也。湯飲みは窯で窯変したせいか、白釉が分厚くビードロ状になっている。まもなく青磁みたいに貫入の罅割れが始まりそうな気配がしていて面白い。
散歩から戻ってこれらのゲット品を洗ったついでに、以前にドクター桜井氏からいただいたイタリア製のエスプレッソマシンを引っ張り出して清掃する。美味いエスプレッソを飲むと影響されるところがおっちょこちょいなのかもしれない。

立夏の蕎麦

2013-05-17 18:04:13 | 
愛用している安川電機製の特別配布用棟方版画カレンダーも5枚目が半ばを過ぎている。待望の5月は熊本・人吉城址公園のアヤメ景色が描かれている。大好きなこのパートの絵が早くこないものかと、念じていたら5月は足早に去っていこうとしている。「人吉城雨中」という志功の記す正規表題があってその余勢をかってか?「アヤメアメアメ」と志功ならではの奔出する陽性なサブコピーが欄外に付記してある。降りしきる雨の中を歩くすっ呆けた表情の元気な母子、これが実に良い顔をしている。こんな顔を眺めれば不機嫌な自我も一瞬くらいはエポケーされること請け合いである。舞い飛ぶ鳥の群れ、強い南国・九州の雨足、咲き誇るアヤメ、まさに「ぴちぴちじゃぶじゃぶ らんらんらん!」の世界を志功の鑿が駆け巡っている。昔、薩摩の美山地方を歩いていて、この版画みたいな5月を物語るような強い雨に出くわしたことがあった。忘れ難い光景だ。

立夏が過ぎて梅雨ももうすぐやってくる。気候のせいだろうか。連日の朝食がパンから蕎麦へ切り替わってきた。昨日は相鉄ローゼンで買ってみた「二八そば」の乾麺、今朝は渋谷・本町にある製麺屋さんの半生麺である。

こういう廉価版の蕎麦に蘊蓄は無用である。いつも食べる新宿なら立ち食い蕎麦の「かのうや」横浜の市街なら「味奈都庵」のような良心的な廉価蕎麦店の味に伍しているくらいの味ならば、自分なりの合格点をつけることにしている。乾麺の「二八」は半生麺の1人前よりも割高な設定で自信があるのだろう。水洗いして丹念に引き締めると、たまに茹でる山形産の筒状束で売っている乾麺よりも上等な味がする。山形をコピーにしたあれは古風な巻紙のデザインに吸い寄せられる蕎麦だけど肝心の味のほうはイマイチである。具は長ネギのみじん切だけだ。


副菜には青森産長芋のスライスへ美濃地方で作っている最近よく使っている黒酢を垂らすことにしている。これからの季節、方々を歩いた折に乾、半生を問わずに蕎麦を買ってきて味を比較することも蒸し暑く口がまずくなる夏の余興くらいにはなりそうである。

ジョン・ミリの写真にうっとり

2013-05-16 08:15:12 | JAZZ
夜勤明けの体調がいいものだから、思いつきで川崎まで散歩の足をのばす。この前は二月だった。国道15号の近くにある渡田町へバイタボックスのスピーカーを受け取りに行った時だから、あれから三ヶ月が経っている。そのときは時間が足りなくて古本屋巡りに集中できなかった。会津喜多方地方のラーメンチェーン店「坂内食堂」のラーメンを啜ってからJR駅前の大通りを歩いていたときに、少し後ろを歩いてきた三十台くらいの男に声をかけられた。川崎は砂子の繁華街も近いことだ。人生の途上で調子が外れた連中も多数徘徊するような地域である。因縁でもつけられたかと思ってそっちへ振り返った。近所の会社で働いているような空色の作業服を着た男の言葉が面白かった。「おじさん達、なんだかかっこいいすね。この辺じゃいませんよ。俺も見習わなきゃ!」と酔っ払っているわけでもないのにしきりに感心した声を上げている。ちょうど横には青柳君がいる。

彼は容姿もスタイルも良くて昔からもてる人間だった。ジーンズにウルトラマリン色したヨットのパーカーが青柳氏の冬装束だ。自分は敬愛するジャズピアニスト、ピート・マリンベルニのトリオでベースを弾いているデニス・アーウィンという初老の男がいる。そのデニスがピートとその相棒のリロイ・ウイリアムスとニュージャージー州のバン・ゲルダースタジオの付近にある晩秋を迎えた雑木林で撮っているポートレートがある。「A VERY GOOD YEAR」という「ブルー・イン・グリーン」「イマジネイション」といった心への保湿成分を絶え間なく供給してくれる曲が揃っている大好きなアルバムの一つだ。そのCDの裏写真にあるデニスの服装がバックスキンの茶色の半コート、ツイード生地のハンチング、褐色系の木綿スエットといった構成である。これに触発されて、秋から冬にかけて遠慮なく真似をしたようなバリエーションのいでたちで最近は過ごしている。思わず「どっちもかっこいいの?」と不安もあって聞いてみた。答えは「お二人ともですよ」と返ってきて青柳君限定でないことがわかって単純に安心する。

そんな三ヶ月前の吉事を思い出したのが、その付近にある大島書籍の前だ。今日も吉事があるぞと念じて物色を重ねる。やはり吉事はあった。バブル期に発刊されたニッコール倶楽部の非買品の写真集である。ベン・シャーンなどと同じ20世紀アメリカを代表するジョン・ミリのモノクロ写真集。500円也。神保町にあれば優に2000円は超える商品価値を持っている。神保町と川崎の違いを真に対象化している人間の所業と自画自賛風に嬉しくなる。ジョン・ミリはストロボ発光の超絶テク的創造者だ。ジーン・クルーパというスイングジャズ期のドラム大家が瞬時に捌くスティックのストロボ撮影作品などは即物性の魅力をいかんなく発揮している。其の為に動態の瞬間を撮るバレー、アスリート、ジャズメンの肖像を撮らせたら右に出るものはいないという伝説写真家である。帰ってから舐めるようにしてジャズやクラシック分野の写真に視野を這わせる。これは嬉しくも豊かな五月の宵だ。しかし「画家と歌手」の稠密な右ページに対向する存在論的な彫塑を喚起させるヘレーネ・ワイゼルの肖像写真だ。これは誰かに似ていると視覚をたぐりよせている。シュールレアリスト、滝口修造だ。晩年の品がよい老婆みたいな相貌になっていた詩人 滝口修造を思い出す。プラド音楽祭のリハに専心するパブロ・カザルスの表情もやはり素晴らしい。

「しらん」の誕生日

2013-05-10 09:03:09 | その他
昔買った益子のマルチ(多目的)碗のような汲出し器で煎茶を飲んでいて思い出す。5月8日の明日はなにかある日だと思ったら、死んだ妻の誕生日だった。ちょうど夜勤に出かける前でよかった。伊勢原にあるいつもの農産物直売所へ夕方寄ることにする。そちらでは百姓家の余技みたいな栽培和花のいいものが安く売っている。5月らしい花菖蒲もよいが、ちょうど紅色と紫色が微妙に配合されたような鮮やかな「シラン」が手桶に挿してあった。

いま時分の「シャガ」「シラン」「サクラソウ」なら去年まで住んでいた日向であればすぐに庭の一角で調達できたものだ。都市部へ移って花は買わざるを得ない暮らしになったが、日向で隠遁暮らした5年のせいで、花々の節気や移ろいが自分の感覚に溶け込んだ指標になったようである。「シラン」は一束で120円と格安だ。これを帰ってから活けて当日の8日、仏壇に供えることにする。小さな仏壇の埃を拭う。供物は有り合せの缶コーヒーと遠州三ケ日から妹達が土産に持ってきたネーブルオレンジにする。これに頂き物のヨックモックのチョコ菓子があれば、故人や同じ仏壇内に祀ってある親父やその先妻さんからの文句もでまい。お香は鳩居堂製の「ローズのかおり みづほ」というもので、これも妻の幼稚園、女学校、大学とずっと一緒だった同級生からのだいぶ前に頂いた贈り物で5月にふさわしい香りが漂う。

そういえば「シラン」は、柳宗民(宗悦の四男、園芸家)の「日本の花」にも春の項目に登場する。それによるとその微妙な色調からシランは「紅蘭」とも呼称されているそうだ。健在だったころの妻からは植物のイロハをよく教わったことがある。妻とは思想や文学の話はしても学校の話などしたことがなかったが、その出身女子学校の別称が「紅蘭」というのを耳にしたことがある。

そのおりには遊歩道を観察しながら、土手の雑草を選り分けて「えびね」という絶滅種(里では)と「紅蘭」の由来が一緒という説明を聞いた。去年は見かけたのに今年はでていないと妻が嘆いていた時で、以降その土手に野生の「えびね」を見る機会はなかった。学校の冠称になるくらいだから横浜の山手近辺でも、昔は野生の「えびね」がよく群生していたんだね!などという会話が交わされたことがある。「えびね」と「シラン」は別ものということは後に知った。「紅蘭」は「えびね」でも薄茶がかったものではなく赤味を帯びた花を指しているということだったようである。「えびね」は色の重なりがソフィスティケートされ複雑なマニアっぽい蘭だ。「シラン」はシンプルで蘭のスタンダードモデルみたいなものである。しかしその系統は同じ蘭の仲間の近縁種みたいなものだろう。ちょうど「つつじ」とこれから盛りを迎える「さつき」みたいな関係なのだろう。

人生の後半にあたる15年を呼吸器病で棒にふった妻だ。今思えば、その誕生日にこうした「シラン」でも供えることもこちらとの意義ある縁ということで、これからは命日よりも誕生日を折々の花で祝ってあげたい気分になっている。

カサゴ唐揚げのち読書

2013-05-06 11:14:24 | その他
一日おきの24時間勤務というGWに伴う拘束週間がようやく終わった。今年は晴天続きだった。しかも空気の寒暖差にメリハリがあってだらけた気分にならなかったことがよかった。初日の勤務明け付近には旧友の青柳君のカップルと合流して横浜橋の大衆食堂へ、いつものごとくカサゴ唐揚げ定食を食べにでかけた。先日はふられたカサゴの在庫があって注文にありつくことができた。ホクホクしたきれいな白身と香ばしく揚がった周りの骨や皮をむしゃむしゃと食べ尽くす快感がカサゴ唐揚げの醍醐味だ。

グローバル化したスーパーなどでは、まずお目にかからない近海もののカサゴを、場末のこの食堂はどのように仕入れているのだろう。とヨットと釣に関しては一家言を持っていて魚に詳しい青柳君と自分はいつも首をひねりながら食べている。偶然、随伴してきた青柳君の女友達もおそるおそるワイルドな佇まいのカサゴの身をほぐして美味い美味いと呟いている。食べ始めにポン酢はないか?などと場末食堂の黙契コードを理解できていないその女友達の発言があった。これに青柳君が愛情豊かに乗って消費者の権利風にポン酢等求めないで欲しいという、大らかになれない小心な自分を案じながら食べるのも辛いものである。

ここの調味類はテーブル上にあるものだけらしいよ。と軽く口添えしたことでその場の空気は場末食堂の平常なコードに戻って安心する。良い型のカサゴが二匹と添え物、蜆の味噌汁がついて950円。食が細い青柳君の女友達などは、魚のボリウムに苦闘している裡に満腹になってしまいご飯を残すことになってしまった。これは稀少なことだから、ブログなどで情報披瀝をしないほうがよいね。と笑いあって美味いこのカサゴ食事は重圧勤務前の気分をほぐすことができた。

24時間拘束は27日から5日間あった。このあいだに持ち込んだ書籍は合計で7冊。全て読了できた。新規、再読分を含めて疎外感や重圧が重くのしかからないものを硬軟に混ぜてバランス配分する。

ジャズ関係の本は聴くことを優先してきたせいで、あまり読むことをしなかった。しかしこのところ書棚から取り出して読むようにしている。ユダヤ系白人のエリック・ニセンソンの「マイルス・デイビス」(CBSソニー出版1983刊)、本多俊夫「ジャズ」(新日本新書1976刊)が今回の対象本。自然関係では池沢昭夫/池沢洋子著「野の花365日」(文化出版局1980刊)「山梨の野鳥」(山梨日日新聞社1981年刊)。

思想関係では内田樹(たつる)「日本辺境論」(新潮新書2009年刊)埴谷雄高「闇の中の思想 形而上学的映画論」(三一新書1962年刊)古典は「歎異抄」(梯 じつえん訳本願寺出版2002刊)といったところだ。別格の「歎異抄」を除いてマイルスの伝記、埴谷雄高、内田 樹のものに特別な感慨が湧くが、感想について次回に綴ってみたい。