みなさんこんにちは。いかがお過ごしですか? お盆でそれぞれのご実家などに帰省されている方も大勢いらっしゃることと思います。どうぞ道中ご無事で、楽しい休暇をお過ごし下さい。あるいはお盆の時期こそ仕事が忙しいという方もいらっしゃると思いますが、くれぐれもお体を大切になさってください。
さて、私事ですが、昨日久しぶりに小千谷へ行って来ました。妻の父親の実家が小千谷にあり、墓参りと実家の片付けを兼ねての日帰りの旅でした。
小千谷にはもともと祖父がひとりで住んでいました。(写真右)今年百歳になります。実家の家は築140年の歴史ある建物で、その昔は藩に仕える武士の宿舎となっていたのだそうです。地震が起きたとき、祖父はたまたま長岡に住む娘の家を訪ねていて難を逃れました。震災直後は娘家族とともに避難生活を送り、現在は新潟市内にある私の妻の実家(彼から見れば息子の家)に身を寄せています。小千谷の家は半壊家屋に指定され、大規模な補修を行わなければ住むことができなくなっていました。私も震災直後に一度だけ小千谷の家の片付けに行きましたが、とても住める状態でないことが見てすぐにわかりました。妻の祖父は、私にとっても大切な祖父なので、何かできることはないかと考えをめぐらせてはみましたが、結局崩れた壁や落ちた書籍をただ黙って片付けることくらいしかできませんでした。小千谷は傷ついていました。町全体が激しく損傷を受け、打ちのめされていました。いや、たぶんそのときは中越地区全体がそうだったのです。実際、もっと大変な事態がいたるところで起きていたのです。
久しぶりの小千谷は穏やかに時が流れていました。新しい家々が建築され、大きなスーパーマーケットができ、人々はふだんの平静さを取り戻しているようにも見えました。信濃川は相変わらずよどみなく流れ続け、町中の木々から蝉の鳴き声が聞こえていました。しかし、よく目を凝らしてみてみると町のあちらこちらにはまだ癒えぬ震災の爪跡が残されていました。ひび割れたコンクリートの柱、崩れたままの土塀、蔵壁。小千谷を訪ねるたびにいつも通っていた妙見の国道は今も土砂の崩落に埋まったまま不通となっています。
私たちは祖父を伴いまずは墓参りに向かいました。墓の多くは地震の揺れでバラバラに崩れてしまいましたが、今はほとんどが元に戻されていました。それでも中には震災当日のまま、手付かずになっているものもありました。何かの事情で墓をなおしに来ることができないのでしょう。
寺の墓地にはたくさんの人が墓の掃除やお参りに訪れていました。すれ違う時には誰もが「こんにちは、暑いですね」と一声掛け合っていました。それぞれがいろんな苦労をして、胸にはきっと様々な想いを抱いているはずなのに、その表情は一様にやさしく穏やかなのでした。祖父はほとんど口を開きませんでした。普段から寡黙な方だけにその心中にはたくさんの想いが去来していただろうと思います。でもたぶん、人間は一番大事な時には何も話したくないものなのです。言葉にならない気持ちは言葉にせず、大切に胸にしまっておきたいものなのです。少なくとも私はそう思っています。
それから私はふと、昨年の夏のことを思い出していました。同じようにお盆で小千谷の実家を訪ねた時のことです。その日もたしか暑い日で、日差しはぎらぎらと照りつけ、蝉時雨が絶え間なく鳴り響いていました。私たちは墓参りをしたあと、散歩がてら信濃川の川べりを歩いて祖父の家へ帰りました。祖父の家には親戚の叔母様方や、姪や甥などが一堂に集まってワイワイと楽しくお茶を飲んでいました。祖父もとても楽しそうでした。やがて姪が持ってきた千代紙で私が手裏剣などを作って子ども達と遊んでいると、叔母様たちもどれどれとばかりに折り紙作りに加わって、結局みんなで和気あいあい折り紙に興じたのでありました。お爺様もご一緒にいかがですか?とお誘いすると、いやいや私は見ているだけで結構ですが、それにしても折り紙はいいもんだねえ、とにこりと笑っておっしゃいました。そして、その二ヶ月後にあの震災が起きたのです。
その時のみんなで折り紙をしている情景が、私の脳裏に突然よみがえってきたのであります。孫娘(私の妻)に手をひかれながらゆっくりと墓地の石段をおりる祖父の後姿を見つめながら。
そして私は今こんな風にも考えています。人はいつも、ずっと後になって「ああ、あれが最後だったのかもしれない」と思う瞬間を生きているのだ、と。それは二度と繰り返すことができないし、時間は淡雪のようにただ静かに降り積もっていく。だからこそかけがえがなく、尊いのだ。
それから私たちは墓地をあとにし、半壊になったまま住む人のいなくなった小千谷の実家を訪ねました。不法侵入を防ぐために縁側の窓一面に打ちつけられた羽目板を妻の父上が釘抜きで丁寧にはずし、みんなで中へ入ると、家の中は時が止まったようにしんとしていました。家具や仏壇などが運び出されていて、不在感はいっそう強く感じられました。その間も祖父はずっと黙っていました。私は何か話しかけたいと思ったのだけれど、うまく言葉にすることができませんでした。私たちはそれから居間に輪になって座り、買ってきた弁当をみんなで食べました。(その時の弁当の美味かったこと!)
窓の外では相変わらずの蝉時雨が、過ぎていく夏を惜しむかのようにけたたましく鳴り響いていました。それ以外はほとんど何も聞こえませんでした。それは一年前となにもかも変わらないような小千谷の暑い午後でした。
さて、あれから一年がたとうとしています。
小千谷の家は近々取り壊すことが決まったのだそうです。
たとえ家がなくなっても、小千谷が大切な場所であることには変わりありません。この私にとっても。
小千谷を含む中越全域が一日も早く震災から立ち直られ、復興を成し遂げられますことを心から願う次第です。
(震災の記憶と小千谷での楽しい思い出を何らかの形で残したく、今日は私のきわめて個人的な話を掲載させていただきました。また何かの機会にお話したいと思っています。どうぞ皆様もお元気で。)
さて、私事ですが、昨日久しぶりに小千谷へ行って来ました。妻の父親の実家が小千谷にあり、墓参りと実家の片付けを兼ねての日帰りの旅でした。
小千谷にはもともと祖父がひとりで住んでいました。(写真右)今年百歳になります。実家の家は築140年の歴史ある建物で、その昔は藩に仕える武士の宿舎となっていたのだそうです。地震が起きたとき、祖父はたまたま長岡に住む娘の家を訪ねていて難を逃れました。震災直後は娘家族とともに避難生活を送り、現在は新潟市内にある私の妻の実家(彼から見れば息子の家)に身を寄せています。小千谷の家は半壊家屋に指定され、大規模な補修を行わなければ住むことができなくなっていました。私も震災直後に一度だけ小千谷の家の片付けに行きましたが、とても住める状態でないことが見てすぐにわかりました。妻の祖父は、私にとっても大切な祖父なので、何かできることはないかと考えをめぐらせてはみましたが、結局崩れた壁や落ちた書籍をただ黙って片付けることくらいしかできませんでした。小千谷は傷ついていました。町全体が激しく損傷を受け、打ちのめされていました。いや、たぶんそのときは中越地区全体がそうだったのです。実際、もっと大変な事態がいたるところで起きていたのです。
久しぶりの小千谷は穏やかに時が流れていました。新しい家々が建築され、大きなスーパーマーケットができ、人々はふだんの平静さを取り戻しているようにも見えました。信濃川は相変わらずよどみなく流れ続け、町中の木々から蝉の鳴き声が聞こえていました。しかし、よく目を凝らしてみてみると町のあちらこちらにはまだ癒えぬ震災の爪跡が残されていました。ひび割れたコンクリートの柱、崩れたままの土塀、蔵壁。小千谷を訪ねるたびにいつも通っていた妙見の国道は今も土砂の崩落に埋まったまま不通となっています。
私たちは祖父を伴いまずは墓参りに向かいました。墓の多くは地震の揺れでバラバラに崩れてしまいましたが、今はほとんどが元に戻されていました。それでも中には震災当日のまま、手付かずになっているものもありました。何かの事情で墓をなおしに来ることができないのでしょう。
寺の墓地にはたくさんの人が墓の掃除やお参りに訪れていました。すれ違う時には誰もが「こんにちは、暑いですね」と一声掛け合っていました。それぞれがいろんな苦労をして、胸にはきっと様々な想いを抱いているはずなのに、その表情は一様にやさしく穏やかなのでした。祖父はほとんど口を開きませんでした。普段から寡黙な方だけにその心中にはたくさんの想いが去来していただろうと思います。でもたぶん、人間は一番大事な時には何も話したくないものなのです。言葉にならない気持ちは言葉にせず、大切に胸にしまっておきたいものなのです。少なくとも私はそう思っています。
それから私はふと、昨年の夏のことを思い出していました。同じようにお盆で小千谷の実家を訪ねた時のことです。その日もたしか暑い日で、日差しはぎらぎらと照りつけ、蝉時雨が絶え間なく鳴り響いていました。私たちは墓参りをしたあと、散歩がてら信濃川の川べりを歩いて祖父の家へ帰りました。祖父の家には親戚の叔母様方や、姪や甥などが一堂に集まってワイワイと楽しくお茶を飲んでいました。祖父もとても楽しそうでした。やがて姪が持ってきた千代紙で私が手裏剣などを作って子ども達と遊んでいると、叔母様たちもどれどれとばかりに折り紙作りに加わって、結局みんなで和気あいあい折り紙に興じたのでありました。お爺様もご一緒にいかがですか?とお誘いすると、いやいや私は見ているだけで結構ですが、それにしても折り紙はいいもんだねえ、とにこりと笑っておっしゃいました。そして、その二ヶ月後にあの震災が起きたのです。
その時のみんなで折り紙をしている情景が、私の脳裏に突然よみがえってきたのであります。孫娘(私の妻)に手をひかれながらゆっくりと墓地の石段をおりる祖父の後姿を見つめながら。
そして私は今こんな風にも考えています。人はいつも、ずっと後になって「ああ、あれが最後だったのかもしれない」と思う瞬間を生きているのだ、と。それは二度と繰り返すことができないし、時間は淡雪のようにただ静かに降り積もっていく。だからこそかけがえがなく、尊いのだ。
それから私たちは墓地をあとにし、半壊になったまま住む人のいなくなった小千谷の実家を訪ねました。不法侵入を防ぐために縁側の窓一面に打ちつけられた羽目板を妻の父上が釘抜きで丁寧にはずし、みんなで中へ入ると、家の中は時が止まったようにしんとしていました。家具や仏壇などが運び出されていて、不在感はいっそう強く感じられました。その間も祖父はずっと黙っていました。私は何か話しかけたいと思ったのだけれど、うまく言葉にすることができませんでした。私たちはそれから居間に輪になって座り、買ってきた弁当をみんなで食べました。(その時の弁当の美味かったこと!)
窓の外では相変わらずの蝉時雨が、過ぎていく夏を惜しむかのようにけたたましく鳴り響いていました。それ以外はほとんど何も聞こえませんでした。それは一年前となにもかも変わらないような小千谷の暑い午後でした。
さて、あれから一年がたとうとしています。
小千谷の家は近々取り壊すことが決まったのだそうです。
たとえ家がなくなっても、小千谷が大切な場所であることには変わりありません。この私にとっても。
小千谷を含む中越全域が一日も早く震災から立ち直られ、復興を成し遂げられますことを心から願う次第です。
(震災の記憶と小千谷での楽しい思い出を何らかの形で残したく、今日は私のきわめて個人的な話を掲載させていただきました。また何かの機会にお話したいと思っています。どうぞ皆様もお元気で。)