今週のある朝、先生の部屋で仕事をしていると、年中組のある女の子がやって来て言いました。「えんちょうせんせい、これ私がうちで書いたんだけど、読んでもらおうと思って持ってきたの。読んでくれる?」
彼女は手に持っていたかわいらしいキャラクターのメモ用紙二枚を差し出します。私はそれを受け取ると、さっそく読んでみることにしました。題はついていませんでしたが、そこには本人が自分で書いたらしい手書きのひらがなで、こんな詩が書かれていました。
きみがいるから
きみがいるから
きみがいるから
ぼくはいつもげんきでいられるんだよ
ちょっとふしぎだね
ちょっとおもしろいね
ちょっとたのしいね
はっぱにかたつむり
はっぱにかたつむり
もりのあさ
はっぱにかたつむり
ぼくにはじぶんの
こころがある
ぼくにはじぶんの
かぞくが
いる
ふいにまぶたに涙がどっと溢れてきて、私はそれがこぼれ落ちてしまわぬようにこらえるので必死でした。こんなにも豊かな言葉による表現が5歳児の子どもにもできるのです。発表会の様々な活動を経た今、すべての子どもが大きく変貌を遂げようとしていますが、この女の子の無限の可能性にもつくづく感心させられ、大きな成長を感じました。私たちが想像し意図することを遥かに凌駕して、子どもたちの中では多くの変化が起きているのです。そしてこれこそが、私がこれまでずっと長いあいだ子どもたちの中にぜひとも育てたいと願い続けてきたことなのだと、その時はっきりと思い至ったのです。
それは、それぞれの子どもが「自分の言葉で語り、記し、歌い、描き、喜びや悲しみといった自らの想いを豊かに表現できる」そういった力をたくさん養ってほしいという願いです。言い換えれば、それは自分の頭で考え、自分の意思で行動し、自分たちの生活を自分たちで作っていくことのできる力でもあります。それを実現するために、私たちはありとあらゆる方法を考慮してカリキュラムを組み、日夜実践と反省をくりかえしながら、さらなる改良を重ねてきたのです。そしておそらくは、この女の子が(当人はそれと気づかぬうちに)そのひとつの答えを携えて、その朝わたしに伝えに来てくれたのでしょう。あなたがやり続けてきたことの、これがひとつの答えですよ、と。そんな気がしてならないのです。
それが詩であれなんであれ、形のないものを形にするということ、何もないところから何かを生み出すこと、これは人が生きていくうえでとても大きな力になります。発表会に向けた一連の活動を通して垣間見ることができた子どもたちのあの姿はそのことを如実にあらわしています。確かに芸術や表現はそれ自体何の腹の足しにもなりませんが、人はパンのみに生きるにあらず、精神という巨大で精緻な構造物を誰もが胸の奥深くに秘めているのです。生きて今ここに在ることの証(あかし)を打ち立てなければならないのです。それは大人も子どもも同じなのですね。そして結局のところ、私たちにできることは、彼らが彼ら自身の心と体で自らの人生を力強く生き抜いていくそのために、いま必要と思われる様々な可能性の種をまいてやること、それに尽きるのではないでしょうか。その種がやがて芽を出し、木になり、枝を広げ、花を咲かせ、いつの日か大きな実をつけることを信じて。
もちろん、形になったもの、できあがったもの(作品)の上手下手や出来不出来はこの場合問題ではありません。結果よりもその過程にこそ意味があるのであり、たとえどんな身なりをしていても本物には本物の輝きというものがあります。大切なことは、その子どもが自己の内面をどれだけ見つめたか、心の声に耳を傾け自分と向き合ってきたか。放っておけばただ慌ただしく繁雑に流れ去っていくだけのこの日常の中で、どれくらいそのような透明でしんとした時間を持つことができたか。あるいは様々な人々とのかかわりや、出会いや別れや、その時々の言葉や音や匂い、風景の記憶といった細部に至るまでの事柄を、どれくらい自分の血や肉として取り込んで来れたのか、ということなのです。
さて、三月がやってまいります。
一年の活動も終わりを迎え、また年長組の卒園を間近に控えた今、私たちがこれまで歩いてきた道のりと、これから辿るであろう道のりについて、静かに心を巡らせる毎日です。
それでは皆様、よい週末をお過ごしください。
彼女は手に持っていたかわいらしいキャラクターのメモ用紙二枚を差し出します。私はそれを受け取ると、さっそく読んでみることにしました。題はついていませんでしたが、そこには本人が自分で書いたらしい手書きのひらがなで、こんな詩が書かれていました。
きみがいるから
きみがいるから
きみがいるから
ぼくはいつもげんきでいられるんだよ
ちょっとふしぎだね
ちょっとおもしろいね
ちょっとたのしいね
はっぱにかたつむり
はっぱにかたつむり
もりのあさ
はっぱにかたつむり
ぼくにはじぶんの
こころがある
ぼくにはじぶんの
かぞくが
いる
ふいにまぶたに涙がどっと溢れてきて、私はそれがこぼれ落ちてしまわぬようにこらえるので必死でした。こんなにも豊かな言葉による表現が5歳児の子どもにもできるのです。発表会の様々な活動を経た今、すべての子どもが大きく変貌を遂げようとしていますが、この女の子の無限の可能性にもつくづく感心させられ、大きな成長を感じました。私たちが想像し意図することを遥かに凌駕して、子どもたちの中では多くの変化が起きているのです。そしてこれこそが、私がこれまでずっと長いあいだ子どもたちの中にぜひとも育てたいと願い続けてきたことなのだと、その時はっきりと思い至ったのです。
それは、それぞれの子どもが「自分の言葉で語り、記し、歌い、描き、喜びや悲しみといった自らの想いを豊かに表現できる」そういった力をたくさん養ってほしいという願いです。言い換えれば、それは自分の頭で考え、自分の意思で行動し、自分たちの生活を自分たちで作っていくことのできる力でもあります。それを実現するために、私たちはありとあらゆる方法を考慮してカリキュラムを組み、日夜実践と反省をくりかえしながら、さらなる改良を重ねてきたのです。そしておそらくは、この女の子が(当人はそれと気づかぬうちに)そのひとつの答えを携えて、その朝わたしに伝えに来てくれたのでしょう。あなたがやり続けてきたことの、これがひとつの答えですよ、と。そんな気がしてならないのです。
それが詩であれなんであれ、形のないものを形にするということ、何もないところから何かを生み出すこと、これは人が生きていくうえでとても大きな力になります。発表会に向けた一連の活動を通して垣間見ることができた子どもたちのあの姿はそのことを如実にあらわしています。確かに芸術や表現はそれ自体何の腹の足しにもなりませんが、人はパンのみに生きるにあらず、精神という巨大で精緻な構造物を誰もが胸の奥深くに秘めているのです。生きて今ここに在ることの証(あかし)を打ち立てなければならないのです。それは大人も子どもも同じなのですね。そして結局のところ、私たちにできることは、彼らが彼ら自身の心と体で自らの人生を力強く生き抜いていくそのために、いま必要と思われる様々な可能性の種をまいてやること、それに尽きるのではないでしょうか。その種がやがて芽を出し、木になり、枝を広げ、花を咲かせ、いつの日か大きな実をつけることを信じて。
もちろん、形になったもの、できあがったもの(作品)の上手下手や出来不出来はこの場合問題ではありません。結果よりもその過程にこそ意味があるのであり、たとえどんな身なりをしていても本物には本物の輝きというものがあります。大切なことは、その子どもが自己の内面をどれだけ見つめたか、心の声に耳を傾け自分と向き合ってきたか。放っておけばただ慌ただしく繁雑に流れ去っていくだけのこの日常の中で、どれくらいそのような透明でしんとした時間を持つことができたか。あるいは様々な人々とのかかわりや、出会いや別れや、その時々の言葉や音や匂い、風景の記憶といった細部に至るまでの事柄を、どれくらい自分の血や肉として取り込んで来れたのか、ということなのです。
さて、三月がやってまいります。
一年の活動も終わりを迎え、また年長組の卒園を間近に控えた今、私たちがこれまで歩いてきた道のりと、これから辿るであろう道のりについて、静かに心を巡らせる毎日です。
それでは皆様、よい週末をお過ごしください。