われらしんじんのこども

真人幼稚園の子どもたちの日々の様子や、
  楽しいエピソードなどをお伝えしています。

十五歳になったきみに

2006-11-15 23:57:00 | Weblog
『十五歳になったきみに』  
        まえだ かん

十五歳になったきみに
ひとこと伝えたい
きみに会えてよかった、と。
どうしてこんなことを言うのかというと
たぶんぼくには
十五歳になったきみに
してあげられることは何もないだろうと
おもうからだ。
それはかつて十五歳だったぼくが
まわりの誰をも必要としていなかったのと
ほぼ同じ意味あいにおいて。
だからぼくは
きみのために
このままずっと黙っていようと思う。
よけいな手出しはすまいと思う。
遠いところからずっときみを見ていようと思う。
かつて十五歳だったぼくは
まわりの大人たちに対して
少なくともこう思っていた。

「ぼくは大丈夫です、ほんとうに大丈夫です」と。

それはぼくなりの声高らかな独立宣言でもあった。
もちろん口に出して言ったわけではない。
心の中でぼそぼそと呟いていただけだ。
十五歳になったきみも
もしかしたらそんなことを考えているんじゃないか?
もしそうだとしたら
きみはもう
自分のことは自分でやらなくてはならない。
本当の意味での独立を果たすために
自分の足で歩き始めなくてはならない。

十五歳になったきみは
どんな場所を歩いているのだろう。
そこは明るい場所かも知れない。
あるいは、じめじめと暗い場所かも知れない。
いまきみのいる場所はどんなところですか?
たくさんの友だちに囲まれているのでしょうか。
泣いたり、笑ったり、けんかしたり、
何かに夢中になったり、あきらめたり。
それともひとりで公園の芝生に寝転んで
吸い込まれそうな青空に
いつまでも心を奪われているのでしょうか。
十五歳になったきみは
あるいは恋をしているかも知れない。
開きかけた教科書なんか机の引き出しに放り込んで
さあ、恋文をしたためよう!
(こいぶみという言葉もあるのだよ、世の中には)
間違っても恋をメールで打ち明けてはいけない。
それはただの連絡だ。報告だ。手続きだ。
恋は自分の肉体を通して
燃え盛る焔のように語らなくてはならない。
書くのが面倒なら声に出してみればいい。
声は空気を震わせ、沈黙を突き破り
やがて誰かの心を震わせるだろう。
もちろんうまく伝わることもあるし
うまく伝わらないことだってある。
それでも恋は素晴らしいものだ。
恋をすると
人はさびしさや悲しみを知ることができる。
人間はみなひとりだけど
決してひとりぼっちじゃないということに気づく。
それはほとんど奇跡に近い。
奇跡はいつもいつも起こるわけではない。
十五歳になったきみには
奇跡をつかまえることができる。

十五歳になったきみは
自分の未来について考えるだろう。
自分の未来について考え、
恋する人の未来について考え、
親やきょうだいの未来について考える。
それは人間がどこから来て
どこへ行こうとしているのか
過去と未来のひとつの繋がりを
ぼくらはみんな知りたいと願っているからだ。
けれども十五歳のきみにはもう
未来は永遠に続くものではない
ということもわかっているはずだ。
無限に続いていくように思える時間にも
必ず終わりがあることをきみは知っている。
それはとても厳しい事実だ。
だから何をやっても意味がない、という人もいる。
終わりが来ることに耐えられない、という人もいる。
生きている今さえよければいい、という人もいる。
いずれにしてもぼくらはそれを受け入れなくてはならない。
何が正しくて何が間違っているか
どんな生き方を選べばよいのか
それはぼくにもわからない。
せっかく生まれてきたのだから
人生は楽しいほうがいいに決まっている。
ユーモアは生活を豊かにする。
笑いのない人生は出汁をとり忘れた味噌汁のようなものだ。
人生は楽しむべきものである。
でもいつもいつも楽しいことだけが
人生の醍醐味ではないということもぼくにはわかった。
ぼくらの心には、光と闇がある。
人を思いやる心もあれば、憎しみの心もある。
燦々と太陽の降り注ぐ日もあれば
どしゃ降りの日もある。
喜びで満たされる日もあれば
ぽっかりと大きな穴のあくこともある。
どんな歓喜の渦の中にあっても
人の哀しみは消え去りはしないものだし
絶望の深い淵に佇んでいても
朝の訪れない夜はない。
だから未来は
ぼくらが自分で作っていくものだ。
そこにはいろんな生き方があっていい。
いろんなひとがいろんな創意工夫をすればいい。
いろんなスタイルを持った人々が
いつも自分らしく生きてゆける
そんな懐の深い世の中になればいい。
人はどんな生き方をしてもいいのだ、本当は。
たったひとつの生き方しかできないなんて
ほかにはもう生きる道がないなんて
それではあんまり寂しいじゃないか!
それではあんまりつらいじゃないか!

十五歳になったきみに
何度でも伝えたい
きみに会えてよかった、と。
どうしてこんなことを言うかというと
じつはぼくは知っているんだ
たぶんきみはぼくのことを
いつか忘れてしまうだろうということを。
いまのきみはまだ子どもかも知れないけれど
やがて十五歳になり、そして大人になる。
大人になると、人はいろんなものを忘れてしまう。
何もかも全部を憶えていては生きていけないものなんだ。
忘れてしまうしかないことだって、たくさんあるんだ。
このぼくだってそうだ。
たくさんの人に出会い、すれ違い、別れてきた。
いろんなことを知り、憶え、忘れてきた。
嬉しいこともあった。
悲しいこともあった。
胸つぶれるような思いもした。
死んでしまいたくなるようなことだって、確かにあった。
それでも、やがてあらゆるものは通り過ぎていく。
そして歳をとればとるほど、人は忘れっぽくなる。
それは決していけないことではない。
忘れるのは良いことでさえある。
だからきみがぼくを忘れてしまっても
それはそれで仕方がないことだと思う。
しかしそれとはべつに
ぼくらにはぜったい忘れてはならないこと
というものもあるはずだ。
自分らしく(あるいは人間らしく)あるために
失ってはならないものもあるはずだ。
きみがどこでどんなふうに暮らしていても
それを見失ってはいけないよ。
たとえば、きみがいまひとりぼっちだと感じていても。
誰もわかってくれないからといって
放り投げて捨ててしまったり
自分の足で踏みつけたりしてはいけない。
いつも上手にできなくたっていいじゃないか。
ぼくらはロボットじゃないんだから。
気持ちをうまく言葉にできないときは
無理にしゃべらなくたっていいじゃないか。
誰もが誰とでもわかりあえるわけじゃないんだから。
ひどいことを言う人もいる。
ひどいことをする人もいる。
心ない人々に奪われそうになったら
その小さな胸にしっかり抱いておくんだ。
でも生きていると
かならずきみの言葉に耳を貸してくれる人がいる。
きみのことをまるごとぜんぶ受け止めてくれる人がいる。
きみに生き続ける勇気と力を与えてくれる人がいる。
今はいないかもしれない。
でもどこかにきっといる。
いつか、そのひとを見つけるんだ。

十五歳になったきみに
たくさん伝えたい
きみに会えてよかった!
きみに会えてよかった!




※やがては十五歳になるであろうしんじんの子どもたちと、昔いちどは十五歳だった自分自身のためにこの詩を書いてから、はや3年が過ぎました。しかしその間にもいじめや虐待はさらにエスカレートして、多くの子どもたちが次々と死に追いやられています。いじめも虐待も、これらはすべてこの国を構成している私たち大人の責任であると私は考えています。誰か一人に責任を押し付けて、加害者たちを追及しても、問題の根本的な解決にはなりません。社会全体が変わる必要があるのです。私たち大人が変われば社会全体が変わり、ひいては子どもたちも変わるはずなのです。誰も本当はいじめや虐待なんかしたくないはずなのです。子どもはすべて「愛されたい、愛されたい」と願って生まれてくるのだし、きちんと愛情を注がれ人格を認められて育った人間はむやみに人をいじめたり大人になってわが子を虐待するようなことは決してしないのです。
 
 けれども、現にいま本当に辛くて死にそうな人(死のうと思っている人)がいたら、どうか迷わず逃げてください!どこでもいい。とにかく今すぐその場から立ち去ってください。逃げても逃げても、もう行くところがないというのなら、ぼくのところへ来ればいい。いつも立ち向かうことばかりが勇気じゃありません。もうそれ以上頑張る必要はありません。頑張っても頑張ってもうまくいかないことなんか、人生にはたくさんあります。命を失うくらいならさっさと逃げだしたほうがいいのです。学校もその他のいかなる組織も、そもそも自分の命を賭けてまでしていなければならないところではないのですよ。
 とにかく、死なずに生き続けること、それが何よりも大切なことです!


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