いまこうして振り返ってみると、その二日間に起きた出来事でまず最初に思い出すのは、空がどこまでもどこまでも青かったということ。森の木々は見事に色づいて、その色が空の青さと美しいコントラストを描き出していたこと。空気は凛として冷たく、何もかもが透き通ってしまいそうなほど鮮やかだった。
翌24日の朝7時頃に私たちは目を覚ました。前の晩は深夜まで余震が続いて、妻はあまり眠れなかったという。私は午前1時頃までは覚えていたけれどそれ以後はどうやら眠ってしまったらしい。寝覚めはそれほど悪くなかった。
私たちは顔を洗い、朝食を食べた。テレビをつけると、どの局も地震に関する報道番組を放送していた。一夜明けて私たちの目に飛び込んできたのは、私たちの想像をはるかに超えた悲惨極まりない被災地の姿だった。私たちはそこでようやくこの新潟で何が起きたのかを知ることとなった。
私はそれから幼稚園はどうなっただろうと考えた。倒壊した家屋の映像が繰り返し映し出され、多くの人が家の下敷きになったと伝えられていた。園は休みのため無人のはずだから人的被害はないだろうが、建物は潰れているかもしれないと思った。園舎の一部は園長夫妻が住んでいるが、安否がわからなかった。老先生宅はどうなっただろう?
私たちは全ての予定を切り上げて新潟へ戻ることにした。管理人夫妻は地震発生後も終始冷静に対応してくださって、私たちは何度もお礼を言った。ご自身の家族や自宅の事もさぞかし心配であったはずなのだ。
またおいでください、と別れ際に管理人さんは言った。お互い無事でまたお会いいたしましょう、と私は言った。そして我々はにっこり笑って別れた。車が走り出すと、管理人夫妻は何度も手を振って見送ってくださった。
車は足早に山をおり、妙高高原インターチェンジから上信越道に乗った。時間を稼ぐためにとにかく高速で行けるところまで行こうというのが我々の計画であった。上越まではなんとか行けるだろうというのが私の予想だった。新井を過ぎ、上越市に入る頃になっても高速道路から眺める景色はいつもと何ら変わりがないように思えた。それでも中越地方が震源であり、その一帯は混乱しているということをすでに知っていたので、そこを迂回するように海岸沿いを走れば何とか新潟市へ戻れると考えていたのである。とにかく私は私の家族のことが心配で一刻も早く帰らねばと思っていた。
私たちは高速道路内で足止めされることを避け、上越市で一般国道に下りることにした。下道ならどうにかなると考えていた。そこで上越から直江津に抜け、海沿いの道を走ることにした。実際高速道路は柿崎(上越と柏崎の中間)ですべてストップしていて、車は下道に下りなければならなかった。そのため海沿いの国道は予想以上に混雑していて柿崎から柏崎を抜けるまでに一時間以上の時間を費やした。それでも新潟方面に向かう車線は反対車線に比べるとはるかに空いているようだった。新潟方面に向かう車線はのろのろとではあったがそれでもゆっくりと進んでいるのに対し、北陸や関西方面に向かう車線は長蛇の列になって遅々として進まない様子だった。被災地域をどうにかこうにか抜けてきたらしい大型トラックやバスや一般車両が何キロにもわたって列をなしていた。その海沿いの国道がそれほどまでに混雑しているところを私たちは見たことがなかった。
その海沿いの道も地震の規模や範囲から考えてこの先どこかで不通になっているかもしれないと考えたが、我々はとにかく行けるところまで行こうと話し合った。その先のことはそのとき考えれば良いのだ。しかしありがたいことに道は新潟市までちゃんと続いていてくれたのである。ところどころ陥没している箇所はあったが十分通れる状態であった。
やがて野積を越え、角田を過ぎる頃には日も西に傾き、我々はようやく安堵した。無事に帰り着くことができそうだった。少し安心すると、ひどく腹が減ったような気がした。ハンドルを握りながら窓の外を見ると、日本海はやけに静かでいつもよりずっと凪いでいるように見えた。まるで何事もなかったかのように。空は相変わらず抜けるように青く、風は優しかった。車を北に走らせながら、私たちの左手には穏やかな日本海がどこまでも静かに横たわっていた。
翌24日の朝7時頃に私たちは目を覚ました。前の晩は深夜まで余震が続いて、妻はあまり眠れなかったという。私は午前1時頃までは覚えていたけれどそれ以後はどうやら眠ってしまったらしい。寝覚めはそれほど悪くなかった。
私たちは顔を洗い、朝食を食べた。テレビをつけると、どの局も地震に関する報道番組を放送していた。一夜明けて私たちの目に飛び込んできたのは、私たちの想像をはるかに超えた悲惨極まりない被災地の姿だった。私たちはそこでようやくこの新潟で何が起きたのかを知ることとなった。
私はそれから幼稚園はどうなっただろうと考えた。倒壊した家屋の映像が繰り返し映し出され、多くの人が家の下敷きになったと伝えられていた。園は休みのため無人のはずだから人的被害はないだろうが、建物は潰れているかもしれないと思った。園舎の一部は園長夫妻が住んでいるが、安否がわからなかった。老先生宅はどうなっただろう?
私たちは全ての予定を切り上げて新潟へ戻ることにした。管理人夫妻は地震発生後も終始冷静に対応してくださって、私たちは何度もお礼を言った。ご自身の家族や自宅の事もさぞかし心配であったはずなのだ。
またおいでください、と別れ際に管理人さんは言った。お互い無事でまたお会いいたしましょう、と私は言った。そして我々はにっこり笑って別れた。車が走り出すと、管理人夫妻は何度も手を振って見送ってくださった。
車は足早に山をおり、妙高高原インターチェンジから上信越道に乗った。時間を稼ぐためにとにかく高速で行けるところまで行こうというのが我々の計画であった。上越まではなんとか行けるだろうというのが私の予想だった。新井を過ぎ、上越市に入る頃になっても高速道路から眺める景色はいつもと何ら変わりがないように思えた。それでも中越地方が震源であり、その一帯は混乱しているということをすでに知っていたので、そこを迂回するように海岸沿いを走れば何とか新潟市へ戻れると考えていたのである。とにかく私は私の家族のことが心配で一刻も早く帰らねばと思っていた。
私たちは高速道路内で足止めされることを避け、上越市で一般国道に下りることにした。下道ならどうにかなると考えていた。そこで上越から直江津に抜け、海沿いの道を走ることにした。実際高速道路は柿崎(上越と柏崎の中間)ですべてストップしていて、車は下道に下りなければならなかった。そのため海沿いの国道は予想以上に混雑していて柿崎から柏崎を抜けるまでに一時間以上の時間を費やした。それでも新潟方面に向かう車線は反対車線に比べるとはるかに空いているようだった。新潟方面に向かう車線はのろのろとではあったがそれでもゆっくりと進んでいるのに対し、北陸や関西方面に向かう車線は長蛇の列になって遅々として進まない様子だった。被災地域をどうにかこうにか抜けてきたらしい大型トラックやバスや一般車両が何キロにもわたって列をなしていた。その海沿いの国道がそれほどまでに混雑しているところを私たちは見たことがなかった。
その海沿いの道も地震の規模や範囲から考えてこの先どこかで不通になっているかもしれないと考えたが、我々はとにかく行けるところまで行こうと話し合った。その先のことはそのとき考えれば良いのだ。しかしありがたいことに道は新潟市までちゃんと続いていてくれたのである。ところどころ陥没している箇所はあったが十分通れる状態であった。
やがて野積を越え、角田を過ぎる頃には日も西に傾き、我々はようやく安堵した。無事に帰り着くことができそうだった。少し安心すると、ひどく腹が減ったような気がした。ハンドルを握りながら窓の外を見ると、日本海はやけに静かでいつもよりずっと凪いでいるように見えた。まるで何事もなかったかのように。空は相変わらず抜けるように青く、風は優しかった。車を北に走らせながら、私たちの左手には穏やかな日本海がどこまでも静かに横たわっていた。