人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集6(7,8)

2024年10月19日 16時55分21秒 | 学習

そして、復活の瞬間を迎えて「お父様!私のお父様!」と呼ぶことができるだけでなく、父の前で自分の体が溶け込むようでなければなりません。さらに、パウロが三重の天に入って体験したように、自分が体の中にいるのか体の外にいるのかを区別できない境地に至ってこそ、天の基準が生活へと移行していくのだと、私はそう考えており、そのように理解しています。


そのような境地を探し求める天であると理解するとき、その天が存在する場所はどこであり、その天はどのような天なのか? その場所は私たちの国、永遠の私の国であるだけでなく、私が生きる場所です。そして、その神は私の父です。そのようなお父様を、そのような国、そのような生活の場を知らずにさまよっている人々が、この事実を知るべきです。そして、神に歓喜の歌を捧げ、悪魔に対しては怒りをもって打ち倒すことを誓い、立ち上がることができるとき、それがまさに審判の日なのです。


ですから、皆さんが悪魔を打ち破り、「主よ、勝利の基準が立ちましたので、治めてください」と言える姿で現れなければ、イエス様は皆さんを抱きしめてくださることはできないということです。


イエス様がなぜマグダラのマリアを歓迎することができなかったのでしょうか。それは、悪魔との戦いに勝利しなければならない道がまだ残っていたのに、彼女がその道を通らなかったからです。勝利の道を通らなかったマグダラのマリアは、復活したイエス様の前に立つことができなかったのです。


悪魔との戦いに勝利した場に立ち、天に向かって「お父様!」と叫び、お父様を抱きしめることができるならば、全宇宙を所有することができるのです。自分の体に対する意識を忘れ、そのお父様を信じることができるほどの境地に至らなければなりません。そのような境地でお父様を思い、お父様を信じるとき、自分の感情が消えていくのです。


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今や、自分のお父様を敵視してきた悪魔に対して憤りを抱き、彼に対して審判の一撃を加えた後、勝利の姿で現れて「お父様!」と叫び、お父様を抱きしめることができる人になるべきです。そのような場で喜びと悲しみに満たされて泣いた信仰者であってこそ、天国生活の理念の時代に入ることができると私は断言したいのです。


私たちはそのような世界で仕える生活をしなければなりません。希望の天国は迎えましたが、仕えながら実践して生活することのできる天国はまだ迎えていません。つまり、生活の中で主体となる神をまだ理解していないのです。


天は予告されました。「私はあなたたちの中にあり、あなたたちは私の中にあることをあなたたちは知るであろう」(ヨハネ14:20)と。この言葉は否定的なものではありません。観念的には神の存在を知っており、信仰の主体としての神を知っていましたが、自分の良心の主体であり、自分の体の主体であり、自分の生活の主体であり、生活の中で見つかる主体として神が実在するという事実を知らなかったのです。


なぜそうなったのか? 信仰の限界を越えられず、愛の心情と接することができなかったからです。したがって、人類を復帰する使命を負った終末の信者たちはこの事実を知り、どのような犠牲や困難、どのような迫害があっても、天性の悲しみと天主の恨みを解消するという心情に満たされて、天の旗を掲げて進む者となるべきです。


そのような者がどのような民族の前に現れても、その民族には善なる心が導く時代が来ることは間違いありません。今日の世界は知的なものや真理を追求する世界です。真理を動かす原動力は「体」でした。体を動かす原動力は「心」でした。心を動かす実体は何なのかははっきりとはわかりませんが、それは霊的なものでした。だからこそ、真理だけではすべてのことが解決されるわけではありません。だからこそ、未来には私たちの心の方向性を一つの場所に向け、心情の動きを一つの場所に向け、霊的な感情までも一つの場所に向けることができる世界が来るに違いありません。


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そのような理念の世界が来ると信じ、そのような世界を探し求めようとする今日の私たちは、観念的なものに囚われて生きてはいけません。実際の生活の中で、天に向かって歌うことのできる勝利の勇者になるべきです。そのような人がこの地に現れるべきです。


もしそのような信仰を持ちたいと考える人がいるならば、その人は夢の中でもそれを考えるべきです。また、可能性があり、天が存在するのであれば、実際にそれを実現してみたいという切実な心を持つべきです。そのような切実な心を持つだけでなく、時間を超えて、生活の中で6千年前の人間がエデンで歌った歌を今日の歌として歌うことができ、その時の感情を今日の感情として感じることができ、堕落以降抱えてきた悲しみの感情を、今日の喜びの感情に変えることができなければなりません。このような存在が、仕える主体であり、歴史的な恨みを解消する主体なのです。


そのような存在が現れることで、皆さんはその存在と関係を結び、勝利する者となり、天地の悲しみを解消できる存在となるでしょう。そのような関係の中で、皆さんは悲しみと苦しみの心情を抱く神が、永遠に私の父であり、私の国、私の家の主であることを実感するでしょう。そしてまた、皆さんは新郎である方のすべての悲しみを解消してあげることのできる真の息子娘となるのです。


今日、私たちがこの道を探し求めて進んできた結果、お父様が悲しむ父であることを知りました。その悲しむ父の息子娘とはどのような存在であるべきかを理解しました。天国を回復するために、悲しみの中で戦い続ける天の怒りを知りました。天の無念さを知りました。


したがって、皆さんは敵に対して怒りと無念さ、敵意を抱かなければなりません。そうして、どの民族よりも歴史的な勝利の標語を掲げ、すべてを責任をもって果たし、確信をもって勝利するという基準が、皆さんの心から、体から、生活の中でしっかりと根付くことで、勝利の歴史が始まるのです。そうしてこそ、皆さんが実体を持って復活の権限に入ることができるのです。つまり、実体を伴って天国復帰の楽園に入り、神に向かって「お父様」と呼びかけることができ、神が皆さんに向かって「息子娘」と呼ぶことができる境地に至るのです。


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このような境地で心情の世界を探し求める皆さんは、自分のために信じてはいけません。天国に行こうという観念や、自分が何かをしようという観念を捨てましょう。


イエス様は自分が天国に行こうと考えたことはありませんでした。イエス様は宇宙のために信じ、民族のために信じ、さらには神のために信じるという信仰の理念を持っていました。それは単なる言葉ではなく、事実そうだったのです。


自分が行うことは自分のためではなく、人類のために行うのだ、世界のために行うのだ、お父様に代わって行うのだという信念、それがどれほど素晴らしいことでしょうか。


私が愛するのは自分のための愛ではなく、民族をかけて愛し、人類をかけて愛し、神をかけて愛し、天地をかけて尽くすということです。したがって、私たちの仕える心も、人類をかけて仕え、天をかけて仕えるべきです。そして、仕えると同時に感謝の心を持ち、信じながらも実践しようという心を持たなければなりません。


心で愛し、体で仕え、心で仕えると同時に生活の中で感謝できるようにし、自分を超えて信じ、自分を超えて愛し、自分を超えて仕えるという観念を持って皆さんが信仰の道を歩んでいくならば、そこには決して悪魔が侵入することはできません。悪魔の誘惑の手がどれほど強くても、そのような信者には決して触れることができないのです。


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では、天の願いとは何でしょうか? 失われた天国の回復です。失われた親の回復です。失われた子供たちの回復です。


今、私たちは自分の国、自分の民、自分の親を見つけなければなりません。そして、真の親の真の子供となり、6千年のすべての恨みを忘れ去り、悪魔を打ち破り、勝利の条件、愛の条件を誇ることができるようになるべきです。それによって、悲しい歴史を乗り越えてきた神の前に、真の息子娘となることができるのだということを、皆さんははっきりと理解しなければなりません。




<祈祷>
お父様、極端な言葉を述べた後、父の前で心苦しい思いを感じざるを得ません。


距離が遠く、限界が大きいその世界の動きが、狭く荒く、欠けている私たちとどのような縁を結ぶことができるのでしょうか?


その縁を結ぶためには、多くの信仰の先祖たちが犠牲を払わなければならず、命の道を切り開くために多くの教役者たちが血の涙を流さなければならなかったことを、お父様、私たちは知っています。


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今日この日を通じて、悲しみを感じる自分の姿を見つけ、父の栄光の恵みを慕うことができ、実践の場でも倒れることなく永遠に勝利する覚悟を持つ者だけが、お父様を「お父様」と呼ぶことができ、父は彼を「私の息子、私の娘」と呼ぶことができるその日があることを知っています。


お父様、信仰の道を歩むことがこれほど難しいことを知りました。人類の祖先から引き継がれた罪によって、人類が悲しみの道を歩まなければならないことを知りました。これまで悪魔の思考を抱きながら生きてきた人類は、迷える姿だったことも知りました。私たちは、自分たちの命をすべて捧げてでも、死の峠を越え、これを解放しなければならない復帰の基盤が目の前に来ていることを知っています。


これから私たちは天の父の息子娘となり、あなたを真の父として呼び、仕えることができなければなりません。人類に対する父の愛の心情が私たちの心に染み渡り、どのような逆境や悲しみ、どのような不便も乗り越えられるよう、お父様、導いてください。切に願い求めます。


今日ここに集まったあなたの息子娘たちの中で、自分たちが命を持っているという事実に感謝を感じられない者がいますか? 彼らが言葉の中に感動し、何かを感じるならば、命の炎を燃え上がらせ、復活の歴史を起こしてください。


天の理念を追求するこの時間をお許しください。そして、歴史的な今日の環境を切り開きながら、父の心情と縁を結べるこのひとときになることを切に願います。


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伝える言葉が、私たちの心の標準と私たちの生活の標準となるようにしてください。彼らの心を導き、彼らの生活観において刺激的な一つの基準となり、常に不正を整理することができる生きた言葉となり、心とその骨と肉を動かすことができるように、歴史を動かしてください。切に願い、求めます。


この時間も孤独な環境の中で、父の前で涙を流しながら訴える家族を慰めてください。父の前に礼拝する多くの人々にも祝福の手を差し伸べてくださるよう、切に願い、主の御名によってお祈りいたします。アーメン。








文鮮明先生御言葉選集 6 - 8. 恨多き父をお迎えする者
1959年5月24日(日)、前本部教会
マタイによる福音書 23:1-39


<祈り(Ⅰ)>

天のお父様、あなたが居心地の良い場所は、無限の忍耐の世界であり、限りなく苦労される場であることを私たちは知っております。


先祖代々のすべての罪の状況に見られるお父様のご心情とご意志を知る私たち、創造本然の存在を取り戻すために、幾多の苦労の道と忍耐の道をしっかりでこわれたお父様前で、恐縮の念で垂れずにはおられません。


長い年月を一日一日、私たちの先祖とともに耐え忍び、先祖とともに戦いながら人間たちを守るために死ぬでこわれた父なる神様を、今この時、私たちの心を広げる、体を低くして心にお迎えし、体で耐えることができるようにしてくださいと、父なる神様、心から願います。


地上に住む多くの人々の中で、困難な道を避けて通る人は多いですが、あなたの事情をよく考え、あなたの心情を心と体に抱きしめるために、かなり困難な道を選んで進んでください行く人はごくわずかであることを知っています。


お父様のために忠誠を尽くし、お父様のために犠牲となり、お父様の祭壇を飾り、お父様が忍耐する心情を地上に示す人間が非常に少ないことを知るとき、お父様が少し哀れな方であるか人間を愛しながらも嘆き、人間に対して心を砕き、全力を尽くして協力するお父様であることを知ることができます。

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私のお父様! 今、そのようなお父様の事情が地上に生きる人類の前に早く伝わる日が訪れますように。全人類の胸の奥深くに、そのようなお父様の事情がしみじみ伝わることを」心より切に願っております。


父なる神様、この一日、この聖なる日に、あなたに向かって優先して、頭を垂れて祝福を頂くことを心から待ち望んでいる方が多くおりますが、祝福は天のものであり、労苦と苦難、忍そして耐道は人間が担わなければいけないものであることを知らない者たちにならないよう、導いてください


天のものは天に返し、人間のものは人間が責任を持って、そんなあなたの息子や娘がとても少ないことを、私たちは知っています。な者たちと同じように、今この時、お父様なる神様に直面する際に恐ろしい姿を見せないように、どうか導いてください。


私たちに喜びがあるなら、それをすべてお父様のものとしてお返しし、また幸福と感謝の心があるなら、それもお父様のものとして認められるならお許しください。満たされたお父様の辛い道のりを私たち自身が考えることのできる、お父様の息子や娘たちとなれるようにお許しください、そして心からの願いを求めます。


一週間の間、恐ろしい世の荒波にもまれ、お父様の心と一致できない場所で戦い、疲れ果てたあなたの息子娘達ここにおります。疲れたその体はお父様の胸に覚悟できる恵みを待っていておいで。受け取られた責任のための励ましの時となり、心を揺さぶる恵みの時として導いてください

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お父様、この日に私たちの心を考え、罪に苦しむ私たちのすべての考え方を統べてください。私たちが頭を下げたこの場で、お父様の慈しみの手は離さないでください。そして、心を尽くしてお父様の憂θを見出したいと願う私たちの心を念頭に置いて、お父様が直接私たちに向き合って協力してこの時間となることを、切に願いを求めます


この日も、世界中に広がるばる孤独な家族達膝をつき、戦いの道の中で疲れ果てた体でお父様に向かって懇願していることを私たちは知っています。その御手を差し伸べ、試練に晒される場所においても最後まで残る者たちとなれるようにしてください。


どうかこの哀れな民族を祝福し、多くの教団も祝福してください。 お父様が与えてくださった使命のためにすべてを尊び、あらゆる犠牲を払い、最後の日に大いなる使命のために生き、使命の「民族と組織となれるよう、どうか切に願い求めます。


すべてをお任せしますので、最初から最後まで主管してください。また、悪魔に隙をつかれない様にして下さい。


千千万の聖徒が行動する中で、お父様の喜びと栄光がこの現れることを許可して頂く様にお導き下さる様に、切にお願い申し上げます。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。

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「祈り(Ⅱ)」


この時、私たちの体と心がどのようなような場所に残っているのかをよく見て、私たちの心お父様の心のあるところに、私たちの体もお父様の聖体のあるところにあることを了承しております。


お父様と共に生きるその一日が待ち遠しいです。お父様を思い、お父様に向かって歩く私たちが、お父様と共に生きる栄光の日を迎え、お父様の前で感謝と喜びの賛美を尊重することで、創られたすべてものを喜ばせる子どもたちになりますようにお導きください。


お父様! あなたの悲しい心が地上に宿っていることを人々は知らず、天の悲しい涙の跡が人類の歴史に残る中でそこにいるを知らないのです。限りない天のための情報が私たちのものです」心と体に漂っていることを知らなければ、天の前に顔を出すこともできず、天の信任を受けることも堕落した人間の子孫であることを認めざるを得ません


お父様、地上にはあなたの涙を受け止める人がいなくて、あなたの別れを抱いて慰める者もなく、あなたが歩むその道を守る者もいません。 、それは天の悲しみが深く刻まれた地であり、悲しみがあるので、それは天の悲しみが深く心に残った地であり、恨みがあるので、それは天の悲しみが深く心に残った地なのです。


それゆえに、この地に住む人々は、悲しみの供物となることを遠慮することができない運命に置かれている、悲しい場所を超えることを恐れています。



絶望の中で最後の声として天に向かって『お父様! 私たちを助けてください。』と叫ぶ時が来ております、『お父様、愛の心を持って人類を訪ねてください。』こんな時に、お父様の心を抱きしめて悲しんでいる者は誰であり、お父様の心を抱きしめて泣いている者は誰ですか? その様な者がいるなら、彼はお父様の真の息子・娘であると言えるでしょう。


私たちの心に力を与えてくれたおお父様、切実で痛い程におお父様の心情を感じることができる心の動機が欲しいのです。その心情の源に触れたいと思いますので、触れることができる恵みを頂けます様に、そうすれば、その心情に触れるなら、その場では自分の不足に勝てず、人間の罪を受け入れて悔い改めずにはいられないということを知らせてください。


お父様、未熟で不足している私たちを支えてよろしく、心配してくださる協力おお父様の前に、申し訳ない気持ちを抱きつつ、お父様の悲痛な心情と悲しい心情を慰めることで、栄光の中に現れることができる基盤を整える聖徒たちにならなければなりません。 どうか、お父様の力と能力によって不足している私たちを導いてください。


人間を創造し祝福して協力する力が、お父様にあることを知っています。私たちをお父様の懐に楽しんで見てください、お父様の手の中におさめてください。そうそうことで、お父様の栄光の前に供え物として足りないのではなく、お父様のもので受け入れられるあなたの子供たちになるよう導いてください。願っております。


私たち自身が生命を維持する信念の道を持っている中で、数え切れないほどの悪魔たちに力に引きずられることが多かったですが、内面、お父様を思う気持ちはあります。集まったあなたの子供たちをお守りください


彼らは、地上で勝利する最後の一日、最後の一時間まで、お父様のために覚悟を決めた者たちです。突進できる天の聖徒たちとなることをお許しください。お父様、切に願っております。


この日、数え切れない悪魔たちが私たちの周りを取り囲んでいるのも、天の主に全力を尽くそうと私たちの心の前では、その存在を隠してくださいますように。の業を起こし、私の心と体が復活の働きに参加できる場所に立つことができるように、私のお父様、切に願っております


この日、この場が私たちだけの参加となることがありませんようにお許しください。 哀れな何千万もの人類を祝福してください。 方向を見つめ、行くべき道を知らない限りの教団を祝福してくださいし、命の危機に耐えて死んでいる多くのあなたの子どもたちを祝福してくだい。


「終わりの日」に、哀れな人類の前に命の実体を示し、彼らをお父様のもとに繋いでください。


今、お父様の優しい栄光を示し、熱いことのできる心情を持った子供たちが、お父様によって祝福される日が早く訪れるようにお寛容ください、お父様、心から願い求めます。



試練や苦難に耐えても、私たちはお父様のために生け犠牲になる覚悟ができていますので、その心再びサタンに奪われるような子供たちにはなりませんように。体はすでにお父様に別れられていますので、死んでも生きていても、お父様のものであり、尊重されることができるようお許しください。


すべてをお父様に先に進みますので、私たちのものが動くこの時間ではなく、あなたのものであり続けるこの一時間を支配して協力してください


孤独な家族を直接導いてください。主の名前によってお祈り申し上げます。アーメン。






<祈祷(Ⅲ)>


この時間、私が伝えるべきことは何もありませんので、お父様が表したい言葉を示してください。


私たちの心と体が、この一時間だけでも半分概念に囚われないようにしてください。 お父様が動けば私たちも動き、お父様が定まれば私たちも定まり、お父様が和れば私たちも和することができる、私たちにはどうしようもないような心の土台を、お父様、この一時をお許しください。そうして、お父様が動機となり、私たち結果になりますようにしてください


この日を祝福してください。孤独な家族が地方に広がり、お父様の前で祈る時間ですので、同じ恵みの手で守ってください。


お父様、考えられた聖書の言葉は、何も言わない立場に立ったイエス・キリストの冷静な心情から出た最後の後悔の言葉であることを私たちは知っています。 、私たちにもこのような言葉が覚えておいてください、心の扉を開き、身を屈めて、帽子を下げて受け止めることができるようにしてください。


ここに集まった皆さんを導いてください。愛の懐に抱きつき、新しい言葉で励ましてください。このひととき、あなたの心に包まれる時間となることを心から願っています。


伝える人の心と受け取る人の心に隔たりがないようにしてください。また、聖別された供え物となれる様にとを心からお願いします。


三位神が全てを担って導いてくださること、暗黒力が襲わないように導いてくださることを心からお願い申し上げます。すべての言葉を主の名前において祈ります。アーメン。

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<御言葉>

今日の内容は、イエス様がそのまま決められた道を進まなければいけないことを考え、イスラエルに対する希望と期待が非常に多かった為に、決して先に意志を示さずに進まなければならない、悲しい心情から生まれた最後の御言葉でした。


今日はこの御言葉を中心に「恨多きお父様を迎える者」というタイトルでお話します。


今日、私たちは幸福な生活を切望しています。 さらに、自由の世界を心から憧れています。は相反する立場があることを、日常生活を通じてよく理解しています。


一日を生きている間にも、相対的に考えを整理し支配できる何かを心の中に持たなければいけないのに、それを忘れないために心を描く場所に行きたいと思っても行けないのまた、心から望む行動に集中したいと思っても、思い通りに移せないことを私たちは生活の中で感じていますし、また感じてきました。


今日、私たちは幸福な生活を気に入っています。 さらに、自由の天国を心から憧れています。 しかし、心の中で憧れ、憧れ、期待していることと、今日私たちは生きている現実とは対立している立場にあることを、日常生活中によく知っています。

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一日を生きている最中も、対立しているものを整理し支配できる何かを心の中に持たなければいけないのに、それを持っていないために、心を描く場所に行ったくても行けまた、心から望むことが行動に移ることを重ねても、自由に移すことができないことを私たちは生活の中で感じています。


そのような中で、自分を支配できる理念も持たず、自分の環境を整理できるような悩みも持っていない自分を感じています。また、生活の中で大きな希望や願いを抱きながら歌って生きていますが、向こう、心の中には悲しみがあることを私たちは常に感じています。


このような悲しい人々が集まり、一つの国家を形成し、世界を作り上げてきました。それを人類歴史はよく知っています。


人間だけが悲しい歴史の中にいるわけではありません。人間が悲しい道を歩いているので、人間に掛かっているすべてもこの悲しい環境に含まれています。


さらに、人間を支配する創造主がいて、天の法則を運営し、一つの理念世界を再び探し求める神様もまた、悲しい歴史を経てきた人々のために、この地に立つとき、喜びを持つことができないということを理解すべきです。

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このように、私たち自身に悲しいことが多いほど、私たちの社会で起こった悲しい事実が多い方が多いほど、またこの世界全体を通して悲しい出来事が多い方が多いほど、私にとってこの悲しいことが人類全員の間でとりあえず、人間個人の中で終わるのではなく、この地を超えて歴史を導く天の領域にまで考えることを考えざるを得ません。


堕落以降6千年の間、人間を守って導いている神がいることを否定できないのであれば、6千年の悲しい生活を守るために導いているその天の悲しい出来事と、今日の皆さんの心の中に浸透している悲しい出来事とを比べれば、対照も比較もできないほどの違いがあるであろうと言う事です。


真の人間がいて、人間の世界のすべての不快な要素を取り除き、天が苦しんでいるを解決し、地上に平和の国を建設できるような偏見主義や思想を持って現れたら、彼は自分自身の苦しい逆境を乗り越え、人類の苦しい瞬間やその切実な心情をすべて経なければなりません。 さらに、天のすべての苦しい心情、天の切実な心情を解決できる何かを持って現れなければなりません


人間の世界には、悪魔の侵入を受けない平和の世界、幸福の世界、自由の楽園は建設されないということです


皆さんの胸を掘り下げて、自問自問してみてください。私は誰で、誰のために、どのような目的を持ってさまよっているのかと反問したとき、その問いにどのような答えが出ますか」確実な自信や価値を持った答えが得られない場合、その問いが深刻であればあるほど、皆さんの心にぶつかりながら嘆きの心情も比例して高く評価します。

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今日、私たち歴史の悲しみと天の理の曲折を整理して清算しなければそんな立場にいるのに、皆さんはどのような覚悟で、どのような形で、どのような態度でそのような問いに答えることができるでしょうか? もし天が人類の歴史を懸けて、覚悟に満ちた心情を解消できないまま人間に向き合って 実際、事実はそうです そのような天の覚悟の心情を解消しますする者は誰になるのでお願いしますか?この悲しい曲折の原因が天にあるのではなく、人間にあることを私は考えなければなりません。


人間がこのような憂いの曲折を解決すべき立場にあることを認識せず、その曲折を我慢できない、覚悟の歴史は回って時代を越え、世紀を経ても、天の摂理から離れた歴史として続いていきます。

天がいるなら、もしこのような歴史を阻止し、天の覚悟と人類の知恵を清算してくれる一人の人を探していることでしょう。天はその一人を立てるために、これまで戦っその一人を迎えるために、今日まで歴史を支配してきたのは確かです。今、私たちはこのことを振り返って、また思い出した時が来たのです。を約束し、その一人を立てるために無限の戦いを続け、その一人を生かすために無限の苦しみの歴史を重ねています。


しかし、歴史の中でその一人を迎えた者はおらず、その一人を支えた者も気づかれず、天は今も真剣なお心の情を抱いています。これを私たちはまた考え直さなけれはなりません。


神様はこのように思いを重ねている方です。神様は人間の前に自主的に考えを考えることができることができず、人間の前に自主的に考えを伝えられず、じっくりと充実した方です。この満たされた天の憂いは、天から生まれたものではなく、人類から生まれたものです。摂理を行い、未来を切り開くために今も憂いの心情を考えて努力されています。

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したがって、天の憂いを解消できる一つの姿を立てようとすることが神様の意志であり、その一つの存在を生かめることが神様の意志であることを知っているので、歴史的なもの終末に終わっている今日、皆さんは私大切、私たち子供、この民族が天の悲しみを解消できるその日を築くための恵みを許可していただくことを切望に心を持たなければなりませんまた、悲しみの多い神様であるため、私たちの人間は悲しみに満ちた神様を迎え入れ、その覚悟を解消して上げる歴史的な負担を積んでいることを忘れてはなりません。


天は今も人類を救うために、人類の悲しみを解消するために、人類のすべての悲しみの曲折を乗り越えるために、千辛万苦の努力をしていることを皆さんは感じなければなりそれを感じる人がいるなら、その人は先に進んで足を止めて、生活を整理し、過去の生涯を清算し、苦しい心情を抱えながら生きることになるだろう。もしこれを感じないなら、心に満ちた裁きの日を迎える覚悟をしなけれなりません。


私たちは今日、この瞬間も憂いを感じている天を迎え、苦しい天の心情を受け止め、話し合いの多いこの世界を清算しなくても神聖な使命を担った子供たちであることを心に留める私たちは堕落した人間の子孫であるため、多くのお父様の心情を解消するために、人生をかけて戦わなければならない責任と義務があります。


それで、天は人間が堕落した後、4千年の歴史を経て警告し、選民を選んで立て、彼らに『あなたたちの指導者、あなたたちの主人、あなたの平和の王子、自由の王子、幸福の王子になる人を送る。』と約束しました。こうして天は幸福の主人公であり、平和の主人公であり、自由の主人公であり、天の憂鬱を解消し、天の恵みを紹介できる一つの存在として、長い歴史を経て約束されていたその一人を送られました。


そして、長い歴史を経て約束されていたその一人が現れましたが、選ばれたイスラエルの民がその一人を迎え入れず、歓迎し、彼の意志に従って生きていなかった、あくまで彼の意志に従って団結し、天の意志を立てて心の悲しみを解消するために戦わなかった為に、悲しみの歴史は今まで延長され続けているのです。

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では、平和の王子、幸福の王子、自由の王子として来られたその方は誰かというと、堕落以来4千年の歴史の苦しい心情を担って来られたイエス・キリストでした。歴史を責任を持って考えるべきイエス様、4千年の天の摂理を責任を持って考えるべきイエス様は、歴史的な視野と天国的な視野を持って来られました。


イエス様はその悲しみを解消するために、どのような過程を経なければならなかったのでしょうか? 悲しみの過程を経て、苦痛の過程を経なければなりませんでした。だから、この地に来られたイエス様は、4千年の歴史の中でよりも悲しみの体験された方であり、苦痛の悲しみを体験された方であることを皆さんは忘れています。


今日、キリスト教の信者たちはイエス様を信じています。 彼を万王の王、天の独り子、自分たちの苦しみ主として信じています、平和の王子、自分たちに幸福を紹介してくれる方であると。


そんな良い面のあるイエス様であることを知る前に、まず知っておくべきことは、彼が悲しみの王子、苦しみの王子、全人類の悲しみを思い出した悲しみの王子であるということです。


そのように、苦しい持っているイエス・キリストの心情、その心情は誰のためだったのでしょうか? 当時の人類のためであり、人類を抱きしめている神様のためです。

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しかし、その苦しい心情を受け継ぎ、苦しい立場から天との戦いを解消するために悪と戦って勝とうとした者はいなかった。 、彼を送られた心の痛みはさらに勝利を収めたことを私は考えなければなりません。


だから、私たちは全体を責任を持つことができる一人の主人公と出会う運命にあるのです。だから、死にかけていたイエス、復活して昇天されたイエスが、この苦しい心情の曲折を清算するために、悲しみに満ちたこの地に来なければならないのです。


私たちは神を愛しております。だから、神様は6千年間にわたって人類を愛し続けて下さいました。だから私達が今此処にいます。


悲しみがある場合、愛の心情感情感じる悲しみ以上の悲しみはなく、苦痛がある場合、愛の心情感情深い悲しみ以上の悲しみはありません。


それなら、天は愛と言われているのに、愛である神は喜んでいるのでしょうか?愛の神として知られているのに、その愛の神には喜びや幸福、平和だけがあると思われていまいりましたが、実際には今日にはありません。

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愛の心情を持っているからこそ、人間を救おうとする気持ちが大きいほど、その心情に浸透することが大きいことを感じる者は、この地上には無い。その愛の心情に満たされる」居る天的な苦痛を知っている者はいないのです。


人類は神が愛であること、愛の本体であることを知っていますが、神が人類のために美味しい血を流している


ここで、終末に近づいている私たち信者が知っておくべきことは何でしょうか?愛の神を知っている以上、その神の心情に浸透する天的な埋葬を、その神の心に浸透する天的な苦痛を覚悟しなくてはならない。


幼い愛天的な喜びがこの地上に許可されるとしても、その喜びは今日私たちが信じているように喜びを求めている信者たちには考えられません。与えられる一つの幸福であり、歴史の前に約束された一つの希望だからです。

そのため、神の愛と呼ぶなら、今日の愛の神を求める心を持つは、神の愛の心情に浸透する悲しみを抱く者であり、愛の心情に浸透する悲しみを抱く者だとそのような者だけが、天の愛育ちを紹介される幸福を受け継ぐことができるということをはっきりと理解する必要はありません。

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では、神の覚悟とは何でしょうか? 神を信じる人がいないわけではありません。 神を知っている人々がいないわけでもありません。に浸透する悲しみを理解する人がいないことであり、愛の心情に浸透する悲しみを理解する人がいないことです。


人類の割り当てを整理し、天的な課題を解消しなければ終末が来るかもしれない、その時私たちはどのような主人公にならなければならないのでしょうか?抱き合い、苦しみの心情を楽しんで『人類を愛してください』と言う人ならなければなりません。そのような心を持つから出発しなければなりません。自分を抱いて『私を愛しなさい』そのような深い心情を大切に、自分でも考えないうちに行動に移すことができる人がいるなら、その人は人間の世界に天的な悲しみを証明する者であり、天的な苦痛を経験した者と見ることができます。


だから、天の憂いを解消するために来られたイエス様は、幸福を持って現れず、自由を持って現れませんでした。 彼は神の前に最高に善い位置にいながらも、足元中の議論のようにたの出現です。


全宇宙が歓喜することができる天の王子であるにもかかわらず、地上では踏みにじられる王子であり、迫害される王子であり、消え去る王子として生きていたイエスの国境以上の悲しみはない


天の威厳と自分の立場、そして与えられた使命を果たすことができず、逆境にぶつかって黙って消えていっていたイエス様以上に悲しい者はいないでしょう。イエス様は4千年の間、が苦労して選ぶイスラエル民族の前で排斥されました。摂理の意志を受け入れるために長い間愛してきました

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ちょっとではありません。愛する民族に追われ、愛する弟子達の前でも追われたのです。民族のために来たのに、教団が裏切り、民族や人権、あるいは選ばれた者たちのために来たのに、彼らからも裏切られたのです。


このような立場で、イエスが憂慮を抱いて従来表現的に呪おうとして、言葉ではできないほどの懸念をかけることができたでしょう。その間、彼らの悲しみの悩みを抱え、自分を忘れて心配しなければならなかったのです。


イエスが天国建設の王子だと思っていたのに、今日はありません。それは後のことです。イエス様は、世のすべての妥協を乗り越えるために、多くの先を知っている善を望み、意志を求められてきた歴史の道の切実な心情、深い悲しみの心情を体験して、歴史を代表する迷宮の王子でした。内面的には悲しみの心を、外見的には苦痛の重荷を負い、それをサタンの前に解決しなくても、そうして天の前に勝利の足場を築かなければいけない、悲しみと苦しみの王子であったのです。


そして、そのようなイエスがこの地に来て、人間のために悲しみと苦しみの中で生きることを見ている神の心情は、イエスの悲しみより辛かったに違いありません。


神はエデンの園にアダムとエバを創り、彼らが成長することを大切にさせていただきました。 しかし、許可された自由の園で、許可された理念の世界で、天とともに平和「幸福に生きるべきアダムとエバが堕落したために、そういうものを踏まえて、エデンの園から追放されたその事実は、神のために計り知れないほどの深く興味深いだったのです。

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神様と永遠に共に生活しなければならないアダムとエバが、天の懐を離れて悪魔に踏みにじられ、その悪魔に移っていくのを見なければならなかった天の深い心情、その長く深い心情を忘れられない天でありました。


この4千年の悲しみに満ちた人類の歴史を覆うために、その悲しみの歴史を清算し、幸福な復帰の世界を構築するためにイエス様が来られましたが、こうして来られたイエス様を受け入れるべき民族はどこにいたので問う? 受け入れるべき洗礼者ヨハネはどこにいたので問う?


イスラエル民族を選んだのは、イエス様に限界の苦難の道を歩めるためではありませんでした。このイエス様を迎えるべき民族であり、支えるべき組織であり、仕えるべき洗礼者ヨハネだたのです。皆イエス様を見捨てて去ってしまいました。 彼らが皆去っていくのを見て、イエス様は何を感じたのでしょう?


地のために来た道だったが、地を捨てて歩いていけず、民族のために来た道だった、民族を捨てて歩いていけず、団体のために来た道だったが、捨てて行けなかった、それがイエス様の運命でした。


だから、イエス様は何度もオリーブ山へと足を運びました。 その程度に天に向かって言ったイエス様は、どんな祈りを尊重したのでお願いしますか?よりも、一応ご自身をお遣わしになった天が悲しむことを心配されていたのです。

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神は、イエス様を待っては民族と共に平和に生き、民族を導いて理想国家を築くためで結局、その道が閉ざされたため、イエス様は天の前に切なる祈りを守る立場に追いやられしかし、それはご自身の覚悟を忘れるためではなく、ご自身を遣わした神様より大きな悲しみを慰めるためだったのです。


イエス様が道を歩いていく中で、「私のお父様、もしできることなら、この杯を私から取ってください。でも私の思いはそのままではなく、御心のままに行ってください」 (マタイ26:39)と祈られた際の心情。その心があったからこそ、天の悲しむ心情とイエス様の使命の悲しみが、イエス様一人心に一つとなることができたのです。その瞬間が、玄関上での死の瞬間に実現したということを、私たちは知っておくべきです。


4千年前、アダムが堕落して以来、神の胸には痛みが刻まれてきました。そのため、イエス様は地に対して「裁き」という名前を思いながら、痛みを解放する道を開拓し続けてきました。


イエス様の死によって第一イスラエルは崩壊しましたが、復活したイエス様を中心に再び立て直す道が、第二イスラエルの選択民の道です。


過去の第一イスラエルは選択民としての権利を誇りましたが、今日の世界に広がる第二イスラエルであるクリスチャンは、第二イスラエルの精神を奮い立たせ、約束の地である天国を建設するために総力挙げて立てなければならなくなりました。

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神様はこのように、世界に通用している第二イスラエルを集めて、天の選ばれた民の権利を立ててこられ、裁きの歴史を越えて進んでいける権利を持つイスラエルを注目してられました。


さて、このような悲しい歴史を抱いて進んできた神の悲しみは、いつ解放されるのでしょうか? かつて選民としての権利を誇っていた第一イスラエルはサタンの前に追いやられ虐げられましたが、天の選ばれた民である第二イスラエルは悪魔を追い払わなければなりません。 そうすることで、今日の私信者によって歴史に刻まれた痛みは癒され、イエス様の死後2千年の間多くの苦難と痛みを通り抜けてきたイエス様と聖霊の前に、希望の一線が立てられるのです。


私たちは今、歴史の終わりに立ち、嘆きの歴史を乗り越え、痛みに満ちた人類と世界を超えて、悲しみに満ちたお父様の胸に触れ、その心の奥底にある悲しみと苦しみを共に感じ取り、歴史的なすべての悲しみと深く刻まれた怨念を胸に抱き、その理由となった無数の悪魔に対して最後の一撃の覚悟を持つ、天の息子娘とならなければならない時が来たのだということを、私たちは覚悟しておかなければならないと言う事です。


今日、このような世の中を乗り越えたのが悪魔であり、当面を導いたのも悪魔であり、この現状をしばらく見ていた悪魔です。心に抱き、また体で背負い、天の選ばれた民としての権利を持って行動し、歴史的な恨みの原因である悪魔との関係を清算しなければなりません。一つの民族、一つの主権がこの地上に現れることを天はできるでおられることを理解しなければなりません。


そのような者となるには、どうすれば良いのでよろしくお願いします。 私たち統一信徒は復帰原理を読んで知るように、私たち自身が神の心情に深く共感する信仰生活を行わなければなりません。名前だけのお父様ではなく、現実のお父様として共感しなければならないのです。 そのような立場から、エデンの園でアダムとエバが堕落する姿を見て深く悲しんで神に向かってて、無限の悲しみの心情を持って涙を流す者とならなければなりません。

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さらに、神がカインがアベルを殺したときの無限の悲しみの心情に共感しなければなりません。 その後1600年を経てノア、さらに400年後のアブラハム、その後400年後のモーセ、そしてさらに1600年後のイエスの時代まで、各時代において天の使命を担った多くの先祖たちの悲しみと怨念に満ちて戦い続けてきた歴史を見つめられる神の悲しい心情を実


また、4千年を経て6千年の歴史の間ずっとその摂理に行き続けてきた代表人物たちが抱えていた悲しみの心に共感しなければなりません。遠くて悲しまなければなりません


そのような心の覚悟を持ち、過去の悲しみと悲しみをもたらした怨念に同情し、歴史悲しみと心の悲しみを晴らして差し上げようという溢れ出す心情を持つ者優しく、イエスが求め、天が求める終わりの日の希望として立つことはできるず、花嫁の立場をとることもできないのです。


そこで、今日の終末の信徒の中で真実な信仰生活住民がいるとすると、その人は自分でもわからないほどの深い悲しみの心情に消えない瞬間に何度も諦めるだろうが、そのような瞬間を乗り越えなければなりません。


歴史的な怨念、将来的な怨念、その覚悟の原因を清算しなければ時が終末です。未来とともに涙を流せるようにならないのです。

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そして、自分の幸福を忘れ、人類の葛藤と問題を乗り越えて進むことが避けられない立場に立ったとき、天の喜びはそのような人々に対して目に見えるのです。


私は神が愛であることを信じています。また、多くの教えも神が愛であることを伝えています。たでお願いですか? 天の心情を抱き、悲しみに満ちた歴史を見つめ、悲しみを思い心の心を思いやったことはあるでしょうか?神が愛の心で人類を招かれるその思いには、私たちに喜びを伝えたいという心よりも、私たちを探しているよう求めているのと対話がより多く含まれていることをよく考えてきたでしょうか?このような神の心を理解する必要があります


『お父様! 天を気にすると、言葉にできないほどの悲しみがこみあげます。 お父様を見つめ、そのご意志を思うとき、限りなく悲しむべき人類を見つめるとき、言葉に尽くせないほどの覚悟が感じられます』という心、これがイエスが天に対して抱いた忠誠の心でした。このように、喜びをお父様のもとに帰すよう望む心、イエスが広めようとした福音の内容であったことを、私たちは知っているべきです。


私たちは天の祝福を得るために、これまで一生懸命に頑張りました。 「この道を切り開くためには、ただ楽しいだけで着せられるものではありません。


キリスト教の歴史は、悲しみの歴史であり、歴史の歴史です。キリスト教という宗教は、アメリカの宗教であり、知覚の宗教なのです。これはキリスト教に限定されず、道を目指すどの宗教も、このような形で歩かなければなりません。


また、歴史的な認識とともに人類の認識を抱き、心に溢れる瞬間を体感したことがありますかか?それを知覚していないなら、死んでも知覚しなければならない、死んでからでも。

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偶然、この地上にいる信徒たちは、地上で地獄の危機を乗り越え、地上で地獄の試練を踏み越えていく必要があります。


民族を救う者とは誰で頼むのですか?それは、民族の苦しみを骨の髄まで感じ、民族の対話を深く理解する者です。では、世界を救う者とは誰で頼むのですか? 現在の先進国はアメリカですが、皆さんは彼らに期待を寄せてはなりません。 彼らは色々世界的な役割を果たすことはできても、世界を主管することはできません。世界を主管することはできないのです。


一つの国に正義を優先者がいるとするならば、その者はその国の悲しみと覚悟を共に背負い、洞察し続ける存在であるべきです。 この世界をまとめられるのはどのような人たちでしょうか? それは、世界の懸案を抱きしめて泣き、世界の視野を向いて議論する人々です。


私たち韓民族は哀れな民族です。長い歴史を乗り越えられたもの、他の民族に誇示や民族的な自信を持つことができませんでした。民族が21世紀の新しい文化の時代に、天が望む心を抱き、人類の悲しみと共に奮闘し、人類の意思をともに背負う民族となり、さらに神の世界と思慮を奮って立って民族となるならば、この民族は世界を考え、天の愛を受ける民族になるでしょう。


イエスが万王の王として決定されたのはどのような場所でのことだったでしょうか? それは、豪華で華麗な宮殿の玉座に座り、幸福な立場で人々の前で誇り高く歌う場でイエス様は、対話的な道において、歴史的な森と人類の葛藤、歴史的な議論と人類の認識を問われ、すべての人々の前で天の喜びを広げようとする情熱に彼はそのような心情に満ちていました。 だから、彼はすべての人々を救う救世主となり、信念の歴史の道において、天の主人公として輝く存在になったのです。は天が正義できた覚悟の歴史の中で、誇りとなる存在となり、未来の信念の歴史においても王としての地位を当然なことを知っておくべきです。

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ここに、悲しい歴史霊の道を先にできた多くの人たちも、イエスを救世主として迎えなければなりません。同様の理由であります。


今日、イエスの希望を実現する者として現れ、花嫁となろう者は、自分中心の信念に満足してはなりません。な問題を抱えて、イエス様に別れて『もし喜びがあるなら、それは天のものであり、迷惑と問題があるなら、それは私のものだ』と言う心情を持った者にはならないの「です。このような者であればこそ、天を支配し、地獄さえも支配することができるのです。


だから、今まで私が持ってきた信念、これから「信じて天国に行く」という信念観念を断ち切ってください。「自分が信じて天国に行く」というその考えを捨ててください。王子であるという考えすらずに生きました。 もし自分を天国の王子だと思っていたら、どうやって死ぬことがあるでお願いしますか?そのようなことは考えてないのです。のすべての悲しみと悲しみを背負い、「お父様よ、どうか御心のままに」と切りに受け入れたのです。


では、現代の人々はどのような心を持っているのでしょうか? 自分たちの悲しみに泣き、自分たちの対話に苦しむだけの民族には絶望しかありません。を抱きしめ、共に悲しみ、苦しむ民族がいるなら、その民族には希望があるのです。道がこの民族の前に行かなければいけないのです。これを考えて進んできたのが統一教会なのです。


この統一戦士の心情、統一戦士の精神を抱く者は、「自分が救われるために信じる」という思いを持つべきではありません。を開き、怨霊に満ちた地獄のたちまで救うために信じるのだという心情が必要なのです。イエス様が今日あったからこそ、歴史的なメシアとなったのです。

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教会に通うクリスチャンの後ろ姿を見つめる時、皆さんも考えてみてください。 あなたの歩みは何のためにあるのでお願いしますか?自分の命の問題を解決するために動いているのでお願いしますか?もし、天の子供にはなれません。民にはなれても、しもべにはなれても子女となる事はできません。


天の子供になりたいのであれば、そしてその思いを持っているのであれば、天の悲しみを失っている人類に向かって、神と人類を悲しみから解放するための解放運動の先駆者となる必要があるそして、天の戦いに負けない勇者として、敵に立ち向かうための精神的な取り組み、理念の歩みをしなければなりません。 それは自分中心の理念ではなく、全宇宙を考えることができる理念で前進しなければなりません


今、天は復帰の摂理の門を開き、終末における聖徒たちに向けて、個人、家庭、民族、国家の代表者を探しています。歴史を見渡しても、天が求めるそのような個人や家庭、国家、そして世界を見つけることはできません。自己中心のままでは不可能なのです。意識をもって生存行動し、天の法則に沿って生存意識をもって歩むことができるようになるべきです


限られた範囲の中で得た意識を生存の価値と見なして、それなりにして生きている人は自分です。 歴史はその人を反省するでしょう。私たちの意識を超えたところに世界の意識があり、そのさらに上には天の意識があります。皆さんは心を広げ、世界の意識を越えて、その意識の中にある困難と困難を乗り越え、喜びの姿で「天よ、どうか私たちを顧みてください」と言えるような復活の姿を持つべきです。


イエスもまたそのような道を歩いたのだ。同様に、今日のこの歴史的な幕を脱ごうとする世界の前に、大宇宙の光を放ち、新しい自己意識を持って前に立つ者こそが、終末の再臨と復活の時代において、天が求める栄光の国民、栄光の子供として立つことができるということを皆さんは理解する価値がある。


その立場に立つ者だけが、歴史的な壁を乗り越え、天の葛藤を解き放ち、この時代において天の喜びを携えて進むことができるのです。

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今一度、神の立場に立って戻って考えてみると、愛する子供たちを迫害にさらされなければならないと言う、神にとっての辛さがありました。子女が叫び訴えた後も2千年の歴史の中でも多くの聖徒たちが殉教し続け、そのような悲しみを抱き続けた神の目的はどこにあったのでしょうか? それは、私たちの困難のためだったのです。


天がこれまで私たちのために尽力されたのも、天が悲しみの道をずっとこれたのも、私たちとこの世界のためでした。


皆さんが今日地上にいる人々を見つめ、天が歴史の歩みの中で感じられた心情を体験し、天の前で「困難と苦難をすべて乗り越えて進んでまいります。万宇宙よ、私を見て喜んでください。私を見て栄光をお受けください」と言えるようになるためには、皆さん自身が悲しみの王子、天の王子となる必要があります。全人類と生死を共にする信念を持ち、現実において死の峠を越えて、覚悟の峠を越えて、今日のあらゆる困難を打破し、天からの喜びを感じる必要があります。


そのようにして、「お父様、私を見て喜んでください。万民よ、私を見て喜んでください。万宇宙よ、私を見て喜んでください」と言えるようになる事が願いであったと言う事です。


私たちがこのような存在となり、会いたかった神様をお父様として迎え、共に生きたいと願った神様をお父様として共に生活できる時、天の悲しみと歴史の交差点、天の試練と歴史の覚悟が私徹底的に解決されるのだと考えなければなりません。

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このような存在になってこそ、統一王国の子供として代表者となることを、皆さんは理解すべきです。



<祈祷>
お父様! 長い長い歴史は、今も私たちを巻き込み、私たちの心に影響を与え続けています。この悲しみの中で日々を過ごす私たちは、お父様の深い悲しみを解消し、天に刻まれた嘆きを解消しならないという、計り知れない使命があることを知りました。


そのような使命を担った私たち、天と地の心情を抱き、悲しみを分かち合い、正義を感じ、幾度も命を尊重することがあったとしても、お父様を慰める息子娘で有るべき事をしりました。


イエス様がこの地上に来られた時、多くの教団や信者たちがメシアの到来を待っていましたが、彼らはメシアが自分たちの希望を超える存在として現れて信じていました。来られたメシアは、喜びを実現する存在ではなく、人類のすべての橋を架けた悲しみのメシアであり、歴史のすべての知覚を体現したメシアでした。メシアがそのような姿で現れたと考えた者は、誰一人としていなかったことを私たちは知っています。


歴史は示された通りに行われるということを私たちは知っています。感情、歴史を通して流れ続けてきた悲しみの感情、それら縦の歴史で生まれた悲しみを、私たち一人ひとりが横の歴史として展開し、それを整理して、横的な喜びをお父様に返す責任が終末の聖徒たちにあることを私たちは知っています。

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お父様! 私たちは世界のために忠誠を尽くしたいと願います。 すべての人類のために天の幸福を目指したいと思っています。必要と考えを全て受け入れられる者だけが、天からの喜びを継承する者として登場できることを知っています。滅びることを理解できるようにして下さい。


お父様! 喜びを求めてさまよい戦う者は、勝利の成果を得られないことを私知っています。誓い出た者こそが、歴史の讃え物を高め、歴史を導いたことを、そしてそのような人こそが滅びゆく民族や滅びゆく世界を導かなければならないことを、理解出来る様にして下さい。


終末の犯罪を見ても、人類を見ても悲しみがあり、天地を見ても恐れに包まれるこの時、私たちは誰を信じて生きますか? お父様を仰ぎ、お父様の悲しみを解くために戦い、命を大切にしない最終審判の時がございます。敢えてない陰に心が包まれている人がいるなら、その陰を打ち砕いてください。ことを知るようお許しください


わからない宇宙の声に悩まされ、嘆きと死の道をさまようあなたの子供たちがいますか? 彼らの命が今危機に瀕していることを自覚できるようお許しください。


このように、生死の危機を覚悟の上で、悲しみと嘆きと覚悟が生まれたのは人間の故です。私達は天を求めてこそ、初めて天に向き合うことができると理解できるようお許し下さい。

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今日お聞かせいただいた御言葉が、あなたの子供たちの心から忘れ去られることを遠慮せずご容赦ください。ただ悲しみの歴史を乗り越え、喜びの心で勝利の姿を成し、「お父様、どうか悲しまないでください。あなたが待ち望んでいた栄光の子供たちがここに来ましたので、どうか抱きしめてください」と言って堂々とした姿になれるようにお許しください。

お父様、どうか私たちの努力と犠牲のために、この地上に喜びの子供の姿が現れる様にしてください。先に現れる道を切り開き、基礎を築く者となれるようにお許しください。

お父様、心からの願いとともに、すべてを主の御名においてお祈りいたします。アーメン


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