33
歴史を解決し、時代と未来を解決し、天倫を完成させることができるのは、現在の既成の世界の形態ではありません。それに反対される新しい形態であり、私たちの良心を超えて心情を貫く内容を持つものです。人倫や道徳を超越し、天倫を貫くことができる内容を持つ新しい形態でなければならないのです。
既成の観点や既成の論法を守ろうとするのではなく、既成の論法を新しい論法と融合させ、調和させることのできる論理的な内容を備えた主義でなければなりません。もし良心を持つ何千万人がいたとしても、その人々に対してそのような言葉を伝え、そのような理念を紹介するならば、彼らの良心の方向を180度変えることができ、良心革命を引き起こすことができるのです。
良心革命を引き起こすだけでなく、その良心が向きを変えた後には、その良心を貫き、天の心情が私たちの心と永遠に切り離されることのない情的な縁を結ぶことのできる一つの主義、一つの理念が現れるならば、それが最後の時代の到来を意味します。
そのような主義や理念は、人々の内面に深く浸透し、既存の価値観や倫理を超越して、全く新しい方向性を提示します。それは、天倫と直結し、全人類を統合するための鍵となるでしょう。そのような理念が現れることが、終末の時代における新しい希望の出発点となるのです。
イエスは、無知な人間にこれを教えるために、「私は新郎であり、あなた方は新婦である」と宣言されました。この「新郎と新婦」という関係は、今日の世間で言う男女の情的な理念を超越した、もっと深い心情を通じる関係を意味しています。
34
良心の方向と情的な動きが天を目指して動くその場から、歴史は新しい門をくぐり抜け、新しい世界へと進むのです。そのような次元まで解放されなければ、天の働きは完結しないということを私たちは理解しなければなりません。
人類の歴史の過程で、情的な問題は革命的に解決されたことはありませんでした。しかし、イエスは2000年前に「母や子、誰であれ私よりも愛する者はふさわしくない」と主張されました。これは驚くべき言葉です。
では、「より愛せよ」と言われたその内容とは何だったのでしょうか? その内容は、イエスが十字架にかけられたために完全には明らかにされませんでした。そのため、私たちがその内容を見つけようとする時が「私たちの希望の時」であり、「再臨の時」であると理解しなければなりません。
イエスは言葉を残されましたが、その言葉の心情を貫く内容や主義思想はまだ現れていません。その内容が現れる日、それが再臨の時であり、その時には世界は真の平和の世界となるでしょう。その時こそ、イエスが語られた言葉が完全に具現化され、人類の希望が成就される時です。それを待ち望むことが、私たちの使命であり、新しい時代を迎える準備なのです。
私たちの心の中心は良心です。しかし、神は良心を持つ人間であっても、その良心を完全に主観することはできません。あなたがどれほど良心を持つ善良な人であっても、神が「こちらへ行け」「あちらへ行け」と自由に指示することはできないのです。しかし、神と情的な縁を結んだのであれば、神はどのようにも主観することができるのです。
35
人間の堕落とは、良心を失ったことではありません。神との情的な関係を結べなかったことが堕落の原因です。したがって、良心を超えて神と情的な縁を結ばなければなりません。そのとき初めて、天の恨みが解消され、復帰摂理が終結するのです。このような基準が人類の前に現れることで、神を代弁する人類となることができるでしょう。そして、そのような主義と思想、そのような宗教的理念を実践することで、神はこの地上のすべての万物の領域に自由自在に働くことができるようになるのです。
そのため、この時代において、分派的な宗教は排除されなければなりません。統一教会以前にも「宗教」という名のもとに無数の教派がありましたが、私たちはそのような教派の仮面を取り払い、形骸化した教会をなくすべきです。神は家庭的な教会、個人的な教会を望んでおられます。
さらに、神は万物の領域までも善の聖殿、至聖所として自由に働くことができるようになることを望んでおられます。神はそのような「エデンの園」を待ち望んでおられるのです。それは、人類が神と直接的な情的関係を結び、すべての創造物が神の摂理に基づいて調和する完全な状態を実現することを意味します。この理想を成し遂げることが、神の究極の願いであり、人類の使命です。
そもそも、人間が持つ心情と神の心情が結びつく縁を失ったことが堕落の原因であり、その縁を再び結ぼうとするのが天の復帰摂理であり、人類の希望の基準です。そのため、その摂理と希望の代表として来られたイエスは、「私は新郎であり、あなた方は新婦である」とおっしゃいました。
では、その境地を超えていくためにはどうすればよいのでしょうか? あなた方には、新郎新婦以上の感情、衝撃、そして天を中心として深く感情移入し、憧れ、慕う心情が必要です。それがなければ、あなたはその境地を超えることはできません。
36
こうして天が解放された人類に対して再び提示しようとしているものは何でしょうか? これまでの歴史は「人間の愛」という二文字で埋められてきました。しかし、天の復帰摂理は、この「人間の愛」を打ち破り、「神の愛」という二文字で埋め直そうとしているのです。
神の愛を体験したことのある人がいますか? もし、あなたが神秘的な境地に入り、神の愛を体験したことがあるなら、その愛の感情が存在するすべての感情を総合したものであることを感じたことでしょう。人間の愛の感情は、存在世界全体の意識を総合したものではありませんが、神の愛を感じる瞬間には、存在世界全体の感情を感じることができます。これが、神の愛の持つ価値です。
神の愛は、単なる個人的な感情を超越し、宇宙全体、存在するすべてを包含する普遍的な心情をもたらします。その愛を体験することは、天との完全なる一致を意味し、復帰摂理の完成を象徴します。それが人類の最終的な目的であり、神が人間に求める究極の境地なのです。
神の愛の境地とは、個体が全体を、全体が個体を通じることができる境地です。霊界はこのような愛を基盤とする超自然的な認識の世界であり、時間と空間の支配を受けません。たとえば、太陽の光を中心に万物がその光を慕い、方向を向けるように、人間の本性が求める神の情的な基盤を備えて現れる者がいれば、全人類がその前に頭を垂れるでしょう。そのような時が必ず訪れるはずです。
その条件を提示するために来られたのがイエスでした。しかし、イエスが十字架で命を落とされたために、その情的な縁の基準を地上に残すことができませんでした。これが神の嘆きであり、6千年間の神の恨みであり、イエスの2千年間の恨みなのです。この恨みを解消し成就させる一日を待ち望んで進んできたのが、6千年の摂理の歴史であることを理解しなければなりません。
37
そのような時代の流れの中で、神が解放の歴史を統合しようとされる御旨があるならば、堕落した私たちはこう祈るべきです。「神よ!あなたの愛はどこにありますか?あなたが愛される教派、あなたが好まれる僕、あなたが愛される息子娘はどこにいますか?」と。もしそのような人が存在するならば、その人はこの時代に迫害を受ける存在でしょう。
天はアルファでありオメガです。その形が小さいか大きいかの違いはあっても、初めと終わりが同じ形で現れるでしょう。この原則に基づいて、神の御旨が成し遂げられ、天と地が一つになる時が訪れるのです。その時が来るまで、私たちは神の愛を体現する存在を見つけ、その愛に応える努力を続ける必要があります。
神がエデンの園でアダムとエバを失われたときに感じられた悲しみを理解できる、真の人間の姿が現れなければなりません。そのような人こそ、神の代理者です。歴史を通じて、全人類に対し、またイスラエルの選民に対し、悲しまれた神の心情を掴み、それを代わりに涙して慰めることができる人、そんな感情を感じられる心情の所有者にならなければなりません。
死の領域の中でどこに向かうべきかも分からずさまよっている人類を見て、その時代を代表して神のような心情を感じ、居ても立ってもいられず、神に切に祈り続ける者、真の羊の群れが踏みにじられるのを見て、自分の名誉や立場を気にせず、その苦しみを抱える者たちは、どの時代にも歓迎されませんでした。
神の歴史がそのようなものである以上、解放と統合が進む終末の時代においても、神の心情と通じたいと切に願う心情がいくら強くても、一度に心情が通じることはありません。人間が心情を失うまでにどのような過程を経たのでしょうか?
38
それは、まず神の言葉を失い、神の言葉を守らなかったことから始まりました。その結果、神が与えられた肉体を失い、肉体を失った後に神の愛も失われました。そのため、復帰の過程を経なければならないのです。
復帰の過程は、まず神の言葉を取り戻し、その言葉を実践し、神が与えられた肉体を神の愛と一致させることを目指します。この過程を通じて、神との心情的な縁が回復され、人類は再び神のもとで真の幸福を見出すことができます。そのような人間が現れることで、神の歴史の目的が成就されるのです。
今日の私たちには、体と心、本性と本心、そして良心の奥深くに潜む心情にまで達し、永遠に永遠に動き続けるようにする言葉が必要です。良心を土台として、その良心の中に隠れている心情を呼び覚まし、天の愛を慕うことができる、このような内的能力を備えた言葉が必要だということです。その言葉を聞けば、これまでのどんな主義、どんな思想、どんな観念的な認識でも一度に崩れ去り、新たな心情が湧き上がり、天の仕事をしたいと思えるような、そうした言葉が出てこなければなりません。今日、宗教があり、キリスト教が存在しますが、キリスト教が果たすべき役割もそれです。そしてイエスが再び来られても、それが果たすべき役割です。
私たちが永遠の神の言葉に永遠に結びつくようにする言葉が必要だということです。したがって、私たちはその言葉と調和した実体とならなければなりません。悪魔の世界と縁を結ぶのではなく、永遠の神の世界と縁を結ばなければ、その生活や心情問題において神が喜ばれる一つの人格を持つことができません。そうしてこそ、神が愛されるのではないでしょうか。良くないものを神が愛されると思いますか?
イエスが「新郎新婦」と語られたその言葉は、外面的な言葉であり、一通の手紙のようなものです。これまでの宗教は良心宗教でしたが、心情宗教ではありませんでした。心情的な目標を掲げてはいたものの、心情的な内容を備えてはいなかったのです。したがって、その言葉は良心的な形態であり、約束の手紙のようなものでした。ですから、その手紙の内容を通じて心情の言葉を見つけなければなりません。
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私たちが求めるべきなのは、その言葉によって永遠に心酔し、心情を抱くことができる言葉です。その言葉を慕い、その言葉と共に楽しみ、その言葉と共に愛し、その言葉と共に生きることができる内容を持つ言葉を探さなければなりません。その次に私たちは、父の言葉の実体となるべきです。万物宇宙を代表し、天が否定できない存在、イエスが「新婦」として認めざるを得ない実体を作らなければなりません。それによって初めて天的な人となることができます。
もし、あなたが信じている聖書の言葉について、「よく分からない」「イエスが誰か分からない」「言葉としては知っているが、心情的には分からない」「観念的にイエスを知っていても、体感的には知らない」と言うようではいけません。それでは、イエスとの間に何の関係も築くことができません。
今日、この時を「探すべき時」と言います。「求めるべき時」「扉を叩くべき時」とも言います。多くの人が高いレンガ造りの建物や広い門を行き来しながら数十年にわたり探してきましたが、それを見つけることはできませんでした。ですから、反対の方向から探さなければなりません。天は私たちを背後から押し出し、前方で向き合う形で現れるのです。そのため、天は善良な人々を引き寄せ、悪しき世の中へ送り出します。迫害を受ける人々の中に、天の新しい歴史が内在していたことを知るべきです。
しかし、それが必ずしも「統一教会の人々」だとは限りません。初めて来た人々は「ええ、統一教会なんて…」と言うかもしれませんが、それは各自で考えてください。
これからの世界の終末時代には、共産主義にも民主主義にも反対するような、新しい理念を持つ主義や思想が現れなければなりません。必ず現れる必要があります。そして共産主義と民主主義が協力して、「その主義を排除しよう」と動き出すでしょう。また、長老派、メソジスト、聖潔派などの40以上の教派や宗派がすべて統合して、「その一つの団体を排除しよう、その一つの動きを排除しよう」とするでしょう。
40
このような主義や思想が歴史の終末時代に現れることで、新しい歴史が始まるのです。その主義や思想こそが、これまでの価値観や体系を打ち破り、次の新しい時代を切り開く鍵となります。この動きが始まるとき、天の意図が現れることでしょう。
そのような一つの主義や思想が現れると、そこに行きたくなり、そこにいたくなり、そこに住みたいという感情があなたの心に湧き上がるでしょう。そのように見たいという感情、動きたい、生きたいという感情が湧き上がり、さらに語ること、生活することにおいてそのような感情が誘発されるならば、それが現れるその場所が人類歴史の最終点であり、最終的な主義となるでしょう。それは心情の内容を紹介することのできる最終的で歴史的なものでしょう。
絡み合っていたすべてを解放し、それを再び規合して一つの心情と一つの理念、一つの生命体に結びつけた一つの人格者、その理念に基づく一つの世界観、その心情を歌うことのできる、そして万物宇宙を和動させることのできる一つの主義や思想が現れなければなりません。
そうして初めて、解放してこられた神の全体の御旨がようやく解かれるのです。そのとき天が安息でき、天が安息することで万民が安息し、歴史も安定点を掴んで新しい時代へと出発することができるということを、皆さんははっきりと知るべきです。
<祈祷>
天の歴史の路程は、解くための路程であることを知りました。私たちの体と私たちの心には、食欲、情欲、貪欲があることを知り、また睡眠欲もあることを知っています。そのようなものを持つ人間を中心にして、天が歴史の路程で摂理されるためにどれほど多く苦しんでこられたかを考えると、許されない罪人であることを知るに至り、どうかお赦しくださいませ。
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天が解きほぐそうとされる歴史の路程において、見えない多くの悪魔たちが逆に絡め取るための歴史を進めていることを私たちは知りました。「解く歴史」と言われましたが、反対の世界では絡め取って新たな場所へ行かせまいとする歴史の一面もあることを、今日のこの言葉を聞いた者たちが理解できるようにしてくださいませ。
絡め取る悲しみの歴史と解く喜びの歴史が交差する環境に置かれている私たち、体は絡め取られることを望み、心は解き放たれることを望む嘆きの領域にいる私たち。この心を引き上げ、体を打って、体が心に服従する喜びのひとときを迎えなければならない悲しい歴史の終点を見つめている私たち。このような境地にある自分たちであることを忘れないようにしてくださいませ。
また、このような天運の圏内にある自分たちであることを忘れないようにしてくださいませ。このような復帰摂理の解怨の過程に足を踏み入れている自分たちであることを忘れないようにしてくださいませ。
愛のお父様! 本当に長い間、労苦してこられました。一つの思想を中心に人々を束ねるためにどれほどご苦労されましたでしょうか。また、一つの理念を予告し、民族を動かすためにどれほどご尽力されましたでしょうか。さらに、それを外面的に築きながら、内面的には歴史の背後でこれを生命的な善の基準と結びつけるために宗教を立て、その宗教を動かす過程でどれほど多くの犠牲者を出されましたか。内外で犠牲を払いながらご尽力された父の前に、今日、このように開放的な世界を目の当たりにする私たちの心は、聞き、知り、悟り、見るにつけ、恐れ多く、申し訳なく思います。
お父様! 本然の実体の一存在が、このように恨みの歴史を切り拓いてこられたという事実を知る私たちは、罪深い者たちであり、父の労苦に対して借りのある者たちであり、お父様に赦されたいと願って出てきた者たちですが、何とも申し訳なく、恥ずかしい気持ちでいっぱいです。そのような環境を知らずに、かえって天に背くことを繰り返してきました。天が解き放とうとされる中で、私たちは何百万回も縛り付ける行いを続け、今日も明日もその運命に陥っています。どうか私たちをお赦しください。
42
今日ここに集まったあなたの息子娘たち、この者たちの心が何に結びつくことを望んでおられますか? この者たちの体が何に縛られることを望んでおられますか?今日、お父様が知らない人々の中には、理念に縛られたいと願う者たちもいます。また、主義や思想、あるいは人倫や道徳に自らの良心と体が縛られることを望む者たちもいます。しかし、本性を通じて考えると、彼らは永遠に父の前に立つことのできない悲しい環境に置かれていることが解ります。
このような道を前に進む人類の中には、自分でも気づかぬうちに忍び寄る焦燥感、不安、悲しみの心情を体感する者が多くいますが、それを阻む者はいません。お父様、歴史と共に、時と共に、主義と共に喜ぶことができず、生の原則を知らず、生の方向を知らず、生の道程を知らず、生の目的を知らずに彷徨う人類を、一体誰が責任を持ってくださるのでしょうか?
お父様、真の青年男女をお呼びくださり、三千万の民衆の前に立たせてくださいませ。私たちは追い立てられ、打たれる中で、その縁が尊いものであることを知りました。お父様が異なる道へと私たちを追いやられた摂理の御手には、歴史の血と涙の痕跡があることを知りました。したがって、私たちは歴史的な悲しみの場を通過しなければならず、歴史的な迫害の過程、歴史的な死の峠を越えなければならないことを知っています。
イエスが、「十字架を背負って私に従わない者は私にふさわしくない」と語られたその言葉を成し遂げねばならず、「私のために命を捨てる者は生きるであろう、生きようとする者は死ぬであろう」と語られたその言葉が実現する時が来たことを知っています。
お父様! 今日私たちは、他の誰も歩まない道を歩んでいます。打たれ、打たれる中で立ちはだかる数々の壁を押し倒し、父の前に伏して祈っています。悲しみの心情を抱え、悲しみの事情を受け止める天情との縁を持ったのであれば、その縁を通じて互いを尊重し、互いを思いやる心が育まれ、この世にはない一つの天的な縁となるようにしてください。そして私たちは、その縁が地上において初めて現れる縁でなければならないことを知っています。どうかそのように導いてくださいませ。
43
私たちは、私たち同士で解きほぐさなければなりません。もし絡まりがあるならば、それを解くことが歴史の路程の原則であるがゆえに、イエスは敵に対して恨みの心情を表すべき場で、敵に対してそれを解こうとされたことで、敵の世界を解く解怨の園を築く資格者となられたことを私たちは知っています。
天もこのことを喜ばれ、イエスを復活の座に立たせられたことを知っています。民族が私たちを排斥し、敵の立場に立つことがあったとしても、その民族を敵視するような私たちであってはなりません。世界が私たちを反対するとしても、それを敵視するのではなく、彼らの前に開かれた天の心情を残すために、敵の心情を乗り越えることのできる天的な心情の所有者とならせてください。そして、天的な生命の指導者となり、生命の主権者となるようにしてください。お父様、切に願い、求めます。
今日ここに集ったあなたの息子娘の体と心に、歴史的な悲しみを感じる代わりに、歴史の解怨の基準を見出すことのできる心情を持つようにしてください。この者たちが、栄光の恩恵、栄光の生命、栄光の理念、栄光の愛を歌うことができ、宇宙全体の価値を歌うことができ、理念の世界で天を代表して自分自身の個性を尊重することができるようにしてください。
そのような私たちの栄光の価値、絶対的な価値を万物万象の前に、悪魔の前に示し、誇ることのできるあなたの息子娘としてください。これを切にお願いし、すべての言葉を主の御名においてお祈りいたします。アーメン。
歴史を解決し、時代と未来を解決し、天倫を完成させることができるのは、現在の既成の世界の形態ではありません。それに反対される新しい形態であり、私たちの良心を超えて心情を貫く内容を持つものです。人倫や道徳を超越し、天倫を貫くことができる内容を持つ新しい形態でなければならないのです。
既成の観点や既成の論法を守ろうとするのではなく、既成の論法を新しい論法と融合させ、調和させることのできる論理的な内容を備えた主義でなければなりません。もし良心を持つ何千万人がいたとしても、その人々に対してそのような言葉を伝え、そのような理念を紹介するならば、彼らの良心の方向を180度変えることができ、良心革命を引き起こすことができるのです。
良心革命を引き起こすだけでなく、その良心が向きを変えた後には、その良心を貫き、天の心情が私たちの心と永遠に切り離されることのない情的な縁を結ぶことのできる一つの主義、一つの理念が現れるならば、それが最後の時代の到来を意味します。
そのような主義や理念は、人々の内面に深く浸透し、既存の価値観や倫理を超越して、全く新しい方向性を提示します。それは、天倫と直結し、全人類を統合するための鍵となるでしょう。そのような理念が現れることが、終末の時代における新しい希望の出発点となるのです。
イエスは、無知な人間にこれを教えるために、「私は新郎であり、あなた方は新婦である」と宣言されました。この「新郎と新婦」という関係は、今日の世間で言う男女の情的な理念を超越した、もっと深い心情を通じる関係を意味しています。
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良心の方向と情的な動きが天を目指して動くその場から、歴史は新しい門をくぐり抜け、新しい世界へと進むのです。そのような次元まで解放されなければ、天の働きは完結しないということを私たちは理解しなければなりません。
人類の歴史の過程で、情的な問題は革命的に解決されたことはありませんでした。しかし、イエスは2000年前に「母や子、誰であれ私よりも愛する者はふさわしくない」と主張されました。これは驚くべき言葉です。
では、「より愛せよ」と言われたその内容とは何だったのでしょうか? その内容は、イエスが十字架にかけられたために完全には明らかにされませんでした。そのため、私たちがその内容を見つけようとする時が「私たちの希望の時」であり、「再臨の時」であると理解しなければなりません。
イエスは言葉を残されましたが、その言葉の心情を貫く内容や主義思想はまだ現れていません。その内容が現れる日、それが再臨の時であり、その時には世界は真の平和の世界となるでしょう。その時こそ、イエスが語られた言葉が完全に具現化され、人類の希望が成就される時です。それを待ち望むことが、私たちの使命であり、新しい時代を迎える準備なのです。
私たちの心の中心は良心です。しかし、神は良心を持つ人間であっても、その良心を完全に主観することはできません。あなたがどれほど良心を持つ善良な人であっても、神が「こちらへ行け」「あちらへ行け」と自由に指示することはできないのです。しかし、神と情的な縁を結んだのであれば、神はどのようにも主観することができるのです。
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人間の堕落とは、良心を失ったことではありません。神との情的な関係を結べなかったことが堕落の原因です。したがって、良心を超えて神と情的な縁を結ばなければなりません。そのとき初めて、天の恨みが解消され、復帰摂理が終結するのです。このような基準が人類の前に現れることで、神を代弁する人類となることができるでしょう。そして、そのような主義と思想、そのような宗教的理念を実践することで、神はこの地上のすべての万物の領域に自由自在に働くことができるようになるのです。
そのため、この時代において、分派的な宗教は排除されなければなりません。統一教会以前にも「宗教」という名のもとに無数の教派がありましたが、私たちはそのような教派の仮面を取り払い、形骸化した教会をなくすべきです。神は家庭的な教会、個人的な教会を望んでおられます。
さらに、神は万物の領域までも善の聖殿、至聖所として自由に働くことができるようになることを望んでおられます。神はそのような「エデンの園」を待ち望んでおられるのです。それは、人類が神と直接的な情的関係を結び、すべての創造物が神の摂理に基づいて調和する完全な状態を実現することを意味します。この理想を成し遂げることが、神の究極の願いであり、人類の使命です。
そもそも、人間が持つ心情と神の心情が結びつく縁を失ったことが堕落の原因であり、その縁を再び結ぼうとするのが天の復帰摂理であり、人類の希望の基準です。そのため、その摂理と希望の代表として来られたイエスは、「私は新郎であり、あなた方は新婦である」とおっしゃいました。
では、その境地を超えていくためにはどうすればよいのでしょうか? あなた方には、新郎新婦以上の感情、衝撃、そして天を中心として深く感情移入し、憧れ、慕う心情が必要です。それがなければ、あなたはその境地を超えることはできません。
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こうして天が解放された人類に対して再び提示しようとしているものは何でしょうか? これまでの歴史は「人間の愛」という二文字で埋められてきました。しかし、天の復帰摂理は、この「人間の愛」を打ち破り、「神の愛」という二文字で埋め直そうとしているのです。
神の愛を体験したことのある人がいますか? もし、あなたが神秘的な境地に入り、神の愛を体験したことがあるなら、その愛の感情が存在するすべての感情を総合したものであることを感じたことでしょう。人間の愛の感情は、存在世界全体の意識を総合したものではありませんが、神の愛を感じる瞬間には、存在世界全体の感情を感じることができます。これが、神の愛の持つ価値です。
神の愛は、単なる個人的な感情を超越し、宇宙全体、存在するすべてを包含する普遍的な心情をもたらします。その愛を体験することは、天との完全なる一致を意味し、復帰摂理の完成を象徴します。それが人類の最終的な目的であり、神が人間に求める究極の境地なのです。
神の愛の境地とは、個体が全体を、全体が個体を通じることができる境地です。霊界はこのような愛を基盤とする超自然的な認識の世界であり、時間と空間の支配を受けません。たとえば、太陽の光を中心に万物がその光を慕い、方向を向けるように、人間の本性が求める神の情的な基盤を備えて現れる者がいれば、全人類がその前に頭を垂れるでしょう。そのような時が必ず訪れるはずです。
その条件を提示するために来られたのがイエスでした。しかし、イエスが十字架で命を落とされたために、その情的な縁の基準を地上に残すことができませんでした。これが神の嘆きであり、6千年間の神の恨みであり、イエスの2千年間の恨みなのです。この恨みを解消し成就させる一日を待ち望んで進んできたのが、6千年の摂理の歴史であることを理解しなければなりません。
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そのような時代の流れの中で、神が解放の歴史を統合しようとされる御旨があるならば、堕落した私たちはこう祈るべきです。「神よ!あなたの愛はどこにありますか?あなたが愛される教派、あなたが好まれる僕、あなたが愛される息子娘はどこにいますか?」と。もしそのような人が存在するならば、その人はこの時代に迫害を受ける存在でしょう。
天はアルファでありオメガです。その形が小さいか大きいかの違いはあっても、初めと終わりが同じ形で現れるでしょう。この原則に基づいて、神の御旨が成し遂げられ、天と地が一つになる時が訪れるのです。その時が来るまで、私たちは神の愛を体現する存在を見つけ、その愛に応える努力を続ける必要があります。
神がエデンの園でアダムとエバを失われたときに感じられた悲しみを理解できる、真の人間の姿が現れなければなりません。そのような人こそ、神の代理者です。歴史を通じて、全人類に対し、またイスラエルの選民に対し、悲しまれた神の心情を掴み、それを代わりに涙して慰めることができる人、そんな感情を感じられる心情の所有者にならなければなりません。
死の領域の中でどこに向かうべきかも分からずさまよっている人類を見て、その時代を代表して神のような心情を感じ、居ても立ってもいられず、神に切に祈り続ける者、真の羊の群れが踏みにじられるのを見て、自分の名誉や立場を気にせず、その苦しみを抱える者たちは、どの時代にも歓迎されませんでした。
神の歴史がそのようなものである以上、解放と統合が進む終末の時代においても、神の心情と通じたいと切に願う心情がいくら強くても、一度に心情が通じることはありません。人間が心情を失うまでにどのような過程を経たのでしょうか?
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それは、まず神の言葉を失い、神の言葉を守らなかったことから始まりました。その結果、神が与えられた肉体を失い、肉体を失った後に神の愛も失われました。そのため、復帰の過程を経なければならないのです。
復帰の過程は、まず神の言葉を取り戻し、その言葉を実践し、神が与えられた肉体を神の愛と一致させることを目指します。この過程を通じて、神との心情的な縁が回復され、人類は再び神のもとで真の幸福を見出すことができます。そのような人間が現れることで、神の歴史の目的が成就されるのです。
今日の私たちには、体と心、本性と本心、そして良心の奥深くに潜む心情にまで達し、永遠に永遠に動き続けるようにする言葉が必要です。良心を土台として、その良心の中に隠れている心情を呼び覚まし、天の愛を慕うことができる、このような内的能力を備えた言葉が必要だということです。その言葉を聞けば、これまでのどんな主義、どんな思想、どんな観念的な認識でも一度に崩れ去り、新たな心情が湧き上がり、天の仕事をしたいと思えるような、そうした言葉が出てこなければなりません。今日、宗教があり、キリスト教が存在しますが、キリスト教が果たすべき役割もそれです。そしてイエスが再び来られても、それが果たすべき役割です。
私たちが永遠の神の言葉に永遠に結びつくようにする言葉が必要だということです。したがって、私たちはその言葉と調和した実体とならなければなりません。悪魔の世界と縁を結ぶのではなく、永遠の神の世界と縁を結ばなければ、その生活や心情問題において神が喜ばれる一つの人格を持つことができません。そうしてこそ、神が愛されるのではないでしょうか。良くないものを神が愛されると思いますか?
イエスが「新郎新婦」と語られたその言葉は、外面的な言葉であり、一通の手紙のようなものです。これまでの宗教は良心宗教でしたが、心情宗教ではありませんでした。心情的な目標を掲げてはいたものの、心情的な内容を備えてはいなかったのです。したがって、その言葉は良心的な形態であり、約束の手紙のようなものでした。ですから、その手紙の内容を通じて心情の言葉を見つけなければなりません。
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私たちが求めるべきなのは、その言葉によって永遠に心酔し、心情を抱くことができる言葉です。その言葉を慕い、その言葉と共に楽しみ、その言葉と共に愛し、その言葉と共に生きることができる内容を持つ言葉を探さなければなりません。その次に私たちは、父の言葉の実体となるべきです。万物宇宙を代表し、天が否定できない存在、イエスが「新婦」として認めざるを得ない実体を作らなければなりません。それによって初めて天的な人となることができます。
もし、あなたが信じている聖書の言葉について、「よく分からない」「イエスが誰か分からない」「言葉としては知っているが、心情的には分からない」「観念的にイエスを知っていても、体感的には知らない」と言うようではいけません。それでは、イエスとの間に何の関係も築くことができません。
今日、この時を「探すべき時」と言います。「求めるべき時」「扉を叩くべき時」とも言います。多くの人が高いレンガ造りの建物や広い門を行き来しながら数十年にわたり探してきましたが、それを見つけることはできませんでした。ですから、反対の方向から探さなければなりません。天は私たちを背後から押し出し、前方で向き合う形で現れるのです。そのため、天は善良な人々を引き寄せ、悪しき世の中へ送り出します。迫害を受ける人々の中に、天の新しい歴史が内在していたことを知るべきです。
しかし、それが必ずしも「統一教会の人々」だとは限りません。初めて来た人々は「ええ、統一教会なんて…」と言うかもしれませんが、それは各自で考えてください。
これからの世界の終末時代には、共産主義にも民主主義にも反対するような、新しい理念を持つ主義や思想が現れなければなりません。必ず現れる必要があります。そして共産主義と民主主義が協力して、「その主義を排除しよう」と動き出すでしょう。また、長老派、メソジスト、聖潔派などの40以上の教派や宗派がすべて統合して、「その一つの団体を排除しよう、その一つの動きを排除しよう」とするでしょう。
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このような主義や思想が歴史の終末時代に現れることで、新しい歴史が始まるのです。その主義や思想こそが、これまでの価値観や体系を打ち破り、次の新しい時代を切り開く鍵となります。この動きが始まるとき、天の意図が現れることでしょう。
そのような一つの主義や思想が現れると、そこに行きたくなり、そこにいたくなり、そこに住みたいという感情があなたの心に湧き上がるでしょう。そのように見たいという感情、動きたい、生きたいという感情が湧き上がり、さらに語ること、生活することにおいてそのような感情が誘発されるならば、それが現れるその場所が人類歴史の最終点であり、最終的な主義となるでしょう。それは心情の内容を紹介することのできる最終的で歴史的なものでしょう。
絡み合っていたすべてを解放し、それを再び規合して一つの心情と一つの理念、一つの生命体に結びつけた一つの人格者、その理念に基づく一つの世界観、その心情を歌うことのできる、そして万物宇宙を和動させることのできる一つの主義や思想が現れなければなりません。
そうして初めて、解放してこられた神の全体の御旨がようやく解かれるのです。そのとき天が安息でき、天が安息することで万民が安息し、歴史も安定点を掴んで新しい時代へと出発することができるということを、皆さんははっきりと知るべきです。
<祈祷>
天の歴史の路程は、解くための路程であることを知りました。私たちの体と私たちの心には、食欲、情欲、貪欲があることを知り、また睡眠欲もあることを知っています。そのようなものを持つ人間を中心にして、天が歴史の路程で摂理されるためにどれほど多く苦しんでこられたかを考えると、許されない罪人であることを知るに至り、どうかお赦しくださいませ。
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天が解きほぐそうとされる歴史の路程において、見えない多くの悪魔たちが逆に絡め取るための歴史を進めていることを私たちは知りました。「解く歴史」と言われましたが、反対の世界では絡め取って新たな場所へ行かせまいとする歴史の一面もあることを、今日のこの言葉を聞いた者たちが理解できるようにしてくださいませ。
絡め取る悲しみの歴史と解く喜びの歴史が交差する環境に置かれている私たち、体は絡め取られることを望み、心は解き放たれることを望む嘆きの領域にいる私たち。この心を引き上げ、体を打って、体が心に服従する喜びのひとときを迎えなければならない悲しい歴史の終点を見つめている私たち。このような境地にある自分たちであることを忘れないようにしてくださいませ。
また、このような天運の圏内にある自分たちであることを忘れないようにしてくださいませ。このような復帰摂理の解怨の過程に足を踏み入れている自分たちであることを忘れないようにしてくださいませ。
愛のお父様! 本当に長い間、労苦してこられました。一つの思想を中心に人々を束ねるためにどれほどご苦労されましたでしょうか。また、一つの理念を予告し、民族を動かすためにどれほどご尽力されましたでしょうか。さらに、それを外面的に築きながら、内面的には歴史の背後でこれを生命的な善の基準と結びつけるために宗教を立て、その宗教を動かす過程でどれほど多くの犠牲者を出されましたか。内外で犠牲を払いながらご尽力された父の前に、今日、このように開放的な世界を目の当たりにする私たちの心は、聞き、知り、悟り、見るにつけ、恐れ多く、申し訳なく思います。
お父様! 本然の実体の一存在が、このように恨みの歴史を切り拓いてこられたという事実を知る私たちは、罪深い者たちであり、父の労苦に対して借りのある者たちであり、お父様に赦されたいと願って出てきた者たちですが、何とも申し訳なく、恥ずかしい気持ちでいっぱいです。そのような環境を知らずに、かえって天に背くことを繰り返してきました。天が解き放とうとされる中で、私たちは何百万回も縛り付ける行いを続け、今日も明日もその運命に陥っています。どうか私たちをお赦しください。
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今日ここに集まったあなたの息子娘たち、この者たちの心が何に結びつくことを望んでおられますか? この者たちの体が何に縛られることを望んでおられますか?今日、お父様が知らない人々の中には、理念に縛られたいと願う者たちもいます。また、主義や思想、あるいは人倫や道徳に自らの良心と体が縛られることを望む者たちもいます。しかし、本性を通じて考えると、彼らは永遠に父の前に立つことのできない悲しい環境に置かれていることが解ります。
このような道を前に進む人類の中には、自分でも気づかぬうちに忍び寄る焦燥感、不安、悲しみの心情を体感する者が多くいますが、それを阻む者はいません。お父様、歴史と共に、時と共に、主義と共に喜ぶことができず、生の原則を知らず、生の方向を知らず、生の道程を知らず、生の目的を知らずに彷徨う人類を、一体誰が責任を持ってくださるのでしょうか?
お父様、真の青年男女をお呼びくださり、三千万の民衆の前に立たせてくださいませ。私たちは追い立てられ、打たれる中で、その縁が尊いものであることを知りました。お父様が異なる道へと私たちを追いやられた摂理の御手には、歴史の血と涙の痕跡があることを知りました。したがって、私たちは歴史的な悲しみの場を通過しなければならず、歴史的な迫害の過程、歴史的な死の峠を越えなければならないことを知っています。
イエスが、「十字架を背負って私に従わない者は私にふさわしくない」と語られたその言葉を成し遂げねばならず、「私のために命を捨てる者は生きるであろう、生きようとする者は死ぬであろう」と語られたその言葉が実現する時が来たことを知っています。
お父様! 今日私たちは、他の誰も歩まない道を歩んでいます。打たれ、打たれる中で立ちはだかる数々の壁を押し倒し、父の前に伏して祈っています。悲しみの心情を抱え、悲しみの事情を受け止める天情との縁を持ったのであれば、その縁を通じて互いを尊重し、互いを思いやる心が育まれ、この世にはない一つの天的な縁となるようにしてください。そして私たちは、その縁が地上において初めて現れる縁でなければならないことを知っています。どうかそのように導いてくださいませ。
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私たちは、私たち同士で解きほぐさなければなりません。もし絡まりがあるならば、それを解くことが歴史の路程の原則であるがゆえに、イエスは敵に対して恨みの心情を表すべき場で、敵に対してそれを解こうとされたことで、敵の世界を解く解怨の園を築く資格者となられたことを私たちは知っています。
天もこのことを喜ばれ、イエスを復活の座に立たせられたことを知っています。民族が私たちを排斥し、敵の立場に立つことがあったとしても、その民族を敵視するような私たちであってはなりません。世界が私たちを反対するとしても、それを敵視するのではなく、彼らの前に開かれた天の心情を残すために、敵の心情を乗り越えることのできる天的な心情の所有者とならせてください。そして、天的な生命の指導者となり、生命の主権者となるようにしてください。お父様、切に願い、求めます。
今日ここに集ったあなたの息子娘の体と心に、歴史的な悲しみを感じる代わりに、歴史の解怨の基準を見出すことのできる心情を持つようにしてください。この者たちが、栄光の恩恵、栄光の生命、栄光の理念、栄光の愛を歌うことができ、宇宙全体の価値を歌うことができ、理念の世界で天を代表して自分自身の個性を尊重することができるようにしてください。
そのような私たちの栄光の価値、絶対的な価値を万物万象の前に、悪魔の前に示し、誇ることのできるあなたの息子娘としてください。これを切にお願いし、すべての言葉を主の御名においてお祈りいたします。アーメン。
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