文鮮明先生御言葉選集 6 - 7. 天国を探し求めようとする悲しい父と息子娘たち (1959年5月17日)
1959年5月17日(日)、全本部教会。
ヨハネによる福音書 14:1-24
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1959年5月17日(日)、全本部教会。
ヨハネによる福音書 14:1-24
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<祈り(Ⅰ)>
死の波が押し寄せる災害の中にいるたち人間は、この地上に覚悟の日を勝ち取るために、長い年月を乗り越えて苦労し、不当な扱いを受けながらも戦いの歴史を摂理してこられた父の御前に顔を上げることができず
死の波が押し寄せる災害の中にいるたち人間は、この地上に覚悟の日を勝ち取るために、長い年月を乗り越えて苦労し、不当な扱いを受けながらも戦いの歴史を摂理してこられた父の御前に顔を上げることができず
今、エジプトの奴隷生活のような6000年の歴史から私たちを解放してください。栄光の一時と一日を約束してくださったことに感謝いたします。血と涙の道を歩み、進むべき道とその方向性を示された時が一度や二度ではなかったことを、私たちは歴史的によく知っています。
愛深き父なる神様!愛の父なる神様!私たちは、この地をあなたの慈悲深い御手で支えて頂くことが難しいと知っております。不忠実で不完全な私たちですが、あなたの認識を慕い、あなたの愛を恋しく思い、父なる神様の御前にお伺いしました。
悲しみと悲しみが残るこの地に生きる私たちを自覚してください。また、天のために嘆くか悪い状況を、私たちは嘆かざるを得ません。のような、6000年の試練の歴史における嘆きの領域を、父なる神様、取り
私たちは人間を信じて従ってきました。 しかし、その道は苦役の道であり、歩む足取りが悲しみを呼ぶものであることを知っておりますが、堕落という罪を犯した人間であることが、絶望の淵で苦しむ人間は、天の約束を知ったその日から、この死の淵から逃れようと諦めることができましたが、今日に至るまでサタンの支配下から逃げ抜けていないそして、その中で特に私たち自身がその一部であることを認識しています
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愛深き父なる神様!愛の父なる神様!私たちは、この地をあなたの慈悲深い御手で支えて頂くことが難しいと知っております。不忠実で不完全な私たちですが、あなたの認識を慕い、あなたの愛を恋しく思い、父なる神様の御前にお伺いしました。
悲しみと悲しみが残るこの地に生きる私たちを自覚してください。また、天のために嘆くか悪い状況を、私たちは嘆かざるを得ません。のような、6000年の試練の歴史における嘆きの領域を、父なる神様、取り
私たちは人間を信じて従ってきました。 しかし、その道は苦役の道であり、歩む足取りが悲しみを呼ぶものであることを知っておりますが、堕落という罪を犯した人間であることが、絶望の淵で苦しむ人間は、天の約束を知ったその日から、この死の淵から逃れようと諦めることができましたが、今日に至るまでサタンの支配下から逃げ抜けていないそして、その中で特に私たち自身がその一部であることを認識しています
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今生きていくために、ずっと生きられる父を呼ばなければいけない時が来ました。だから、賢明な自分を憂い、足りない自分を嘆き、迷惑な自分を打ちながら、今日もその国を建てるためにあえぐという切実な心情を我慢してください、明日、愛する父よ、切に願います
今始まった歩みであり、戦いの盾を取りましたので、その日その日戦いに天の力をお与えください。そして、勝利の一日を予告してください。でなければ、苦難のその道を進んでいることはできず、荒野である荒野の道を開拓することもできません。
お父様! イスラエルの60万人の民がファラオの宮廷を抜け出した時には、喜びの歓声が天に満たされましたが、その後ファラオの戦車が追ってきた時には、嘆き、天を恨んだ先祖たちの足取りをよく知っています。今日、私たちの父の前に立つ時、喜びの心がありますか? その心情に反して、天を恨んで心が大きくなるのではないかと恐れています。その一日を誇りに思い、すべての人々が喜んで天を讃えることのできる終末の日を希望としなければなりません。
どのような困難やどのような悲しみが襲ってこようとも、敵が罪の深淵を掘って待っていようとも、粘り強く戦い、天の精兵に相当な気概を覚悟してください、愛する父よ、切に願いを求めます
進む道には山の峠もあり、石ころだらけの道もあり、荒れ地もあり、敵が私たちを狙う時もあるでしょう。また戦いの道を切り開き、約束のカナンの地を解放するその日まで、心に責任を感じて突進できる天の勇士となるよう許してください、父よ、切に願い求めます
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今始まった歩みであり、戦いの盾を取りましたので、その日その日戦いに天の力をお与えください。そして、勝利の一日を予告してください。でなければ、苦難のその道を進んでいることはできず、荒野である荒野の道を開拓することもできません。
お父様! イスラエルの60万人の民がファラオの宮廷を抜け出した時には、喜びの歓声が天に満たされましたが、その後ファラオの戦車が追ってきた時には、嘆き、天を恨んだ先祖たちの足取りをよく知っています。今日、私たちの父の前に立つ時、喜びの心がありますか? その心情に反して、天を恨んで心が大きくなるのではないかと恐れています。その一日を誇りに思い、すべての人々が喜んで天を讃えることのできる終末の日を希望としなければなりません。
どのような困難やどのような悲しみが襲ってこようとも、敵が罪の深淵を掘って待っていようとも、粘り強く戦い、天の精兵に相当な気概を覚悟してください、愛する父よ、切に願いを求めます
進む道には山の峠もあり、石ころだらけの道もあり、荒れ地もあり、敵が私たちを狙う時もあるでしょう。また戦いの道を切り開き、約束のカナンの地を解放するその日まで、心に責任を感じて突進できる天の勇士となるよう許してください、父よ、切に願い求めます
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今日、父の前に集まったあなたの息子娘たちを覚えてください。父よ、この日にここに集まったあなたの息子娘たちが、父の前で新しい約束をできるようにしてください。新しい決意と覚悟を決めてください。
天にいる何千万の聖徒たちよ! この一時間聖別してください。私たちはこの時間、父が動ける、父が主導される、父が行われることに足りないような切実な心情だけが満ちて、父の心情とそこにいることができるよう、心より切に願います。
今、すべてを父の前に進みますので、主導してください。 三一体の神が動ける、すべての悪の要素を分けてください。の中に捉えられるこの一時間としてくださいと、心より切に願います。
この日も地方に囲まれ、孤独に御心のために戦い、心配している多くの息子たちが娘ですので、彼らと共にいてください。父よ、彼らに許された賜物を与えてください。命の賜物をこの目立つの聴衆にも許してくださいことを心よりお願いし、願い求めます。
父よ、この日は聖なる日ですので、集まる場所ごとにあなたの愛の烽火(のろし)を慎重にさせてください。栄光の賜物をお与えください、すべての民が蘇ることのできる賜物の炎を下してください。
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天にいる何千万の聖徒たちよ! この一時間聖別してください。私たちはこの時間、父が動ける、父が主導される、父が行われることに足りないような切実な心情だけが満ちて、父の心情とそこにいることができるよう、心より切に願います。
今、すべてを父の前に進みますので、主導してください。 三一体の神が動ける、すべての悪の要素を分けてください。の中に捉えられるこの一時間としてくださいと、心より切に願います。
この日も地方に囲まれ、孤独に御心のために戦い、心配している多くの息子たちが娘ですので、彼らと共にいてください。父よ、彼らに許された賜物を与えてください。命の賜物をこの目立つの聴衆にも許してくださいことを心よりお願いし、願い求めます。
父よ、この日は聖なる日ですので、集まる場所ごとにあなたの愛の烽火(のろし)を慎重にさせてください。栄光の賜物をお与えください、すべての民が蘇ることのできる賜物の炎を下してください。
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すべてを通りますので、御心のままにお考えください。主の御名によってお祈りします。
<祈り(Ⅱ)>
限りない悲しみが天に満ちていることを、この地上に住む人類はまだ知らないでいます。限りなく苦しいのが天の歴史であるという事実を、私たちは天を信じていながらも知りませんでした。
お父様、私たちに耐え難い御言葉をお与えになり、今まで人々が探し求めても見つけることのできなかった希望の時を私たちに予告してくださり、お父様、感謝いたします。未熟な私たちが、天と地の前で身も心も低くし、お父様に向かって叫ぶには、恥ずかしさを感じずにはいられません。
お父様が「来なさい」とおっしゃる道を歩み始めた私たち、その道が喜びの道だと思っていましたが、進んでいくうちに、限りなく涙を流しながら歩まなければならない道であることがわかりました。そして、他人には知られない中で、天と地を代わって恨みの心情を抱かざるを得ない、悲しく孤独で心配の多い道であることがわかりました。その道は、生きようとする者には進めない道であり、死の覚悟を持った者だけが進むことのできる道であることを感じずにはいられません。
お父様、ここに集まったあなたの孤独な息子娘たちを憐れんでください。この者たちの心に天的な理念が動いていますか?その理念が自己を中心とした理念ではなく、歴史的な理念であることを悟らせてください。理念によって動かされる心情がありますか?その心情が自分の一生にとどまるものではないことを悟らせてください。
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与えられた賜物と感じ取った恵みをこの者たちが体感したならば、もはや自分自身を中心として、自分ひとりで天国を築いて生きるのではないことを悟らせてください。この業を始められたのはあなたですから、自分のすべてをお父様のものとして捧げることを知る私たちになれるように許してくださいますよう、お父様、心から願い求めます。
お父様が「来なさい」とおっしゃるその道に私たちが踏み出すとき、私たちはすべてをすでに神様の前に捧げました。私たちが持っているすべてのもの、私たちの心情までもお父様のものとして捧げました。
すべてを捧げても喜びを感じられるような姿を、神様は待ち望んでおられるのに、失うことを見て悲しむ私たちをどうかお許しください。すべてを委ねても限りなく喜べる心を持たせてください。このような心を持つ者は、お父様のすべてを受け継ぐ者となり、このようにして天への切なる心情を抱いて進む者は、天と地で勝利することを知っています。
お父様、私たちの生活環境からすべてを奪い去るのは、神様が楽しむためではなく、神様のすべてを私たちに託すための摂理の御心であることを理解しました。そのような複雑な御心をもって、私たちを探し、呼び、招かなければならない父の心情を知りました。まだ自分を中心とした意識や感覚が残っているのであれば、今それをすべてお父様の前に差し出させてください。そして、天地に存在するすべてのものを見て、神様に限りない感謝の心を持てるよう、私たちの心と体にその心情を満たしてくださいますよう、心から願い求めます。
神様が悲しんでおられるのを見て、自分も悲しむことができることを感謝できるようにしてください。神様がご苦労されているのを見て、私たちも共に苦しむことができる自分であることを感謝できるよう、助けてください。
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天の戦いの道のりを見て、私たちもそのような場所にいることを感謝できる人間となれるようにしてください。そして、このひとりひとりを父の御胸に抱き、立たせてくださいますよう、私のお父様、心から願い求めます。
お父様、この日に私たちは集まりました。どうか憐れんでください。一つからすべてがお父様のものとして結びつく時間となることを切に願います。孤独な足取りをたどってここに来ましたので、この一週間の間に受けたすべての傷をお父様、引き受けてくださり、癒し、慰め、励ましてくださり、あなたの恵みの手を差し伸べてくださるよう、心から願い求めます。
お父様、この日は聖なる日であり、この地と縁を結ぼうとする天の時間であることを知っています。天の無数の聖徒たちと、善を求めて努力しているこの地上の多くの人々をどうかお支えください。さらに、お父様の前にひざまずき集まるすべての場所で、善の業が協力し、そこにあなたの力の業を加えて、死が渦巻くこの地に勝利のしるしを立て、お父様の栄光を讃えることのできる一日としてくださいと、心から願い求めます。
命の源であるお父様、この時間に現れて栄光の賜物をお与えくださり、直接の業で導いてくださるよう、心から願い求め、すべてを主の御名によってお祈りいたします。アーメン。
<祈り(Ⅲ)>
待ち望んでいた希望の一日を迎えるために摂理を進めてこられたお父様、不信する人々を見捨てることができず、無数の孤独な人々を抱きしめるためにイスラエルという祝福を授け、歴史を導いてこられた中で、約束されていた一人の存在をお送りくださったその日は、父の栄光が天に満ち、全人類の歓喜の心によって天にも地にも喜びが満ちるべき日でした。しかし、4千年の悲しみがイエス様お一人にのしかかったという歴史的な痛ましい事実を、私たちは知っています。
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馬小屋で生まれ、30余年の生涯を生きたその日々は、あまりにも悲惨で、あまりにも孤独で、頼る場所がありませんでした。この地上で信じられる者がいなかったイエス様、自らの心の奥底をさらけ出し、その切なる心情を伝えられぬまま、恨みの主人公として去っていかれたイエス様であったことを、今日私たちは知っています。
天からの勧告の御言葉が残っていましたが、それを受け入れるべき人々が信じなかったために、その御言葉をすべて伝えることができず、心に抱えたまま去っていかれた2千年前のイエス様の悲しみを知らないすべての人々を、どうかお赦しください。それでもなお、天に従う弟子たちを集めて、勧告し、お願いされた御言葉と祈りを私たちは聞きました。この地上の縁と天の縁が交わるその瞬間に、天の喜びが現れ、さらに地上に新しい国が建設されるべきであったのに、その瞬間に喜びは消え、嘆きと悲しみが始まり、恨みの十字架の道が生まれたという歴史的な痛ましい事実を、私たちは知っています。
私たちの先祖たちは天の前に借りを作り、私たちもまた天の前に宇宙的な借りを作っておりますが、それを清算することを知らず、自分の安逸を求めて苦しむ者たちとなっていることをどうかお許しください、お父様、心から願い求めます。
孤独な者たちがお父様の前に集まりましたので、もし勧告すべき御言葉があるならば、どうかお与えください。これまで多くの御言葉を伝えてまいりました。伝えてみると、父の悲しみが現れていることに気づき、知らせてみると、私たちが父の心配を抱えながらも一致していなかったことを知りました。人間に対する父の悲しみがそのように道々に現れ、世紀を超え、時代ごとに現れてきたことを知りました。
お父様、痛ましい心情を感じ取り、地を憂い、天を憂う心を持つ息子娘たちがこの地上にどれほどいるでしょうか? それが極めて少ないことを知っています。哀れな全人類を救うために、数々の苦労をいとわず、孤独な私たちを励まして時を重ねてこられたお父様、私たちの前に新しい約束を立ててください。この者たちに新しい約束と新しい時代の使命を託そうとする天の御心があるのであれば、お父様、どうかお働きください。
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この韓民族を哀れんでください。朝鮮半島を憐れんでください。この民族は哀れな民族であり、頼るべき場所がない民族です。誇るべき伝統も、誇るべき何物もなく、天の前に誇れるような民族性も持たない民族です。この民族の命を担うべき者が誰もおりませんので、哀れなこの民族を憐れんでください。この民族は孤独な民族ですので、どうか彼らの生きる道を開いてください。そして彼らの進むべき道を憂い、彼らが立っている位置を顧みて、慈しんでください。
お父様、この地に希望を託せるものが何もない民族ですので、天の心情を通じてこの民族の生きる道を切り開くことができるようにしてください、お父様、心から願い求めます。
天に対して、地に対して、この民族の悲惨さを訴える者が多くなるようにしてください。進むべき道が塞がれたからといって倒れる者が出ないようにし、進むべき道が塞がれたその事実を持って、お父様の前に訴え、嘆き悲しむ人々が多くなるようにしてくださいと、心から願い求めます。
お父様、迫害される統一教会の道を見つけて進んできたあなたの息子娘たちを憐れんでください。この道を進むことを望んではいなかったのですが、この道に入って他の人が知らないことを知り、他の人とは違う責任を負うようになり、もう後戻りできない立場にいることを知りました。お父様、これまで孤独な道を導いてくださったあなたの心情と、御心を成し遂げてこられたあなたの心情を知りましたので、孤独な私たちの後に続く者たちをどうか導いてください。
哀れな場所で天に向かって切なる心情で訴える者がいるなら、その後に続く者も同じ立場にあることを知りましたので、お父様、どうか彼らを憐れみ、支えてください。
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彼らは人間の仕事によって動いてきたのではなく、人間の事情に絡まって動いてきたのでもありません。天上の愛を通して出発する歩みであり、人間によってその歩みを失わないようにしてください。そしてその過程で絶望することなく進むことができるように、お父様、心から願い求めます。
歴史の道を振り返ってみると、新しい時代と新しい歴史を創り上げてきた人々は、その時代に追いやられた者たちであり、追い込まれ追い込まれた末に残された者たちであることがわかります。お父様、この動きをどうか憐れんでください。
天の御心を抱き、あなたのために忠誠の心を持つ息子娘たちが、どれほどの苦しみが襲ってきても、もしそれがお父様の望む御心であるならば、このことのために何度でも命を捧げることがあっても、結果を残し倒れることができるようにし、最後まで戦い抜くことを許してくださいますよう、お父様、心から願い求めます。
今日は4月10日(旧暦)です。お父様、この民族を祝福してください。お父様、人類に愛の手を差し伸べられたのなら、その手を引っ込めないでください。真理の使徒たちをこの天地に送り、愛の使徒たちを全地に送り込んでください。誠実を立て、あなたをお迎えできる誠実な使徒たちを送り出してください。
探し、待ち望み、願い求め、戦ってこられたお父様の愛を受けて、最後の審判の場で悪魔を恥じ入らせることができる者たちになれるようにしてください。お父様、心から願い求めます。この時間に何を申し上げることができましょうか? お父様、どうかすべてをお任せし、導いてください。
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伝える者の心と受け取る者の心が二つにならず、一つになるように導いてください。このひとときには、お父様の御心と御心情、そして事情に自然と結びつき、父の願いを叶えるための誓いと覚悟ができるように許してくださることを心からお願い申し上げます。どうかすべてをお任せし、導いてください。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。
<御言葉>
皆さんに少しお話ししたい題は、「天国を求めて実現しようとする悲しみの父と息子娘たち」です。「天国を求めて実現しようとする悲しみの父と息子娘たち」という題で、少しお話しさせていただきます。
人類の始祖が楽園を失った悲しみを感じ取ったその日から、今日に至るまで、すべての人には心の悲しみがあり、体の悲しみがあり、生活の悲しみがあります。そして、その悲しみが全世界に、さらには天までも広がっているという事実を、私たちは知っています。
一つの目的を追求すべき私たち人間が、二つの目的に直面する立場に置かれたことで、本来は唯一の主人である神様に向かうべき人間が、神以外に悪魔にも向き合う立場に立たされることになりました。ですから、堕落した私たち人間は、二つの目的の世界に直面する立場にあるということを、日々の生活を通じて感じざるを得ず、それは誰も否定できない現実です。
人間を創造された神の御心から見ると、人間は一つの主人を中心に、一つの目的と一つの理念を持って生きるべき存在でした。しかし、堕落したその日から、人間は二人の主人に向き合い、二つの目的の理念を追い求める存在となってしまったのです。
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そのために、善と悪の問題は、私たち一人一人の環境に限らず、全世界にまでつながっていることを私たちは知っています。さらに、それは地上だけでなく、天にまで及ぶ因縁となっているという事実も私たちは知っています。
今、私たちは目的の世界に向かって進まざるを得ない運命にあり、何であれ私の良心がある方向性を指し示して私を急き立てていることを、拒むことはできません。したがって、今日の私たち人間は、現実の社会の矛盾に直面したとき、世界の複雑な状況を超えた新しい理念の世界を心の中で追い求めずにはいられません。
では、私にそうした心情を感じさせ、私自身も気づかないうちに、ある感覚を通じて心をその一つの方向に導いている動機はどこから始まったのでしょうか。それは、一つの目的と理念を持つ唯一の主人から始まったのです。そのため、その方は、一つの理念を持ち、一つの目的に向かって進んでいける人間と一つの世界を再創造するために、私たちの生活環境を導いているのだと知る必要があります。
今日の人類は、新しい文化世界を創造しようとしています。それだけでなく、その文化世界を創りながら、その文化を通じて心の世界の理念を目指しています。このことを拒むことのできない立場にいる自分を知るならば、皆さんは安穏とした日々を過ごすことはできないでしょう。
なぜなら、私たちの祖先が楽園を失ったその日から、その悲しみの感情は私たちにまで繋がっているからです。この重大な事実は、歴史的に証明された事実です。私たちの心情を通して、生活の中で感じ取るその事実を、何によっても拒むことはできません。このようなことを深刻に考え、御心を抱く人がいるならば、その人はこの悲しみと苦しみの因縁を解くために、天地に向かって両腕を広げ、訴え、もがく立場を免れることはできないでしょう。
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したがって、皆さんは、今日の私たちがそのような姿になるために、どのような目的と理念を持ち、どのような中心を目指して生活する開拓者の立場にいるのか、もう一度振り返って考えなければならない時が来たということを知る必要があります。天はこのような時代を作り、このような御心を成し遂げるために、歴史の道を歩みながら、良心を基盤にして善を追求し、善の理念を探し求める摂理を私たちの先祖たちに働きかけてこられたことを理解しなければなりません。
ですから、皆さんの心が善を目指すように何らかの衝撃を感じる瞬間があるとすれば、それは崇高な瞬間です。崇高な瞬間です。それは、歴代の私たちの先祖たちが、皆さんを立てて、人類が願う善の目的の方向へと進むように急き立てる瞬間です。さらに言えば、それは天が皆さんを立ててくださろうとする瞬間であることに違いありません。
そのため、真の理念、真の中心を目指す良心の動きを持つ人がいるならば、その人はそれをどのように整理して自分の心の中心、体の中心、生活の中心、理念の中心、あるいは目的の中心に据えるために苦しんできたのか、反省しなければなりません。
このような観点から、人間が自分自身を批判し、自分を中心に結びついている世界を批判し、さらにはこれらすべてが目に見えない無形の創造主と結びついていることを憂う心情を抱いて苦しんできたとすれば、私たち人間の心に抱かれた恨みの峠は、すでに歴史のある時点で崩れ去っていたはずです。天がこの問題を解決しない限り、天としての責任を全うしたことにはなりません。
そのため、天はこのようなことをある時、ある一人、ある集団、ある国家に予告し、摂理を進め、またそのような歴史の痕跡を残さざるを得ないのです。
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私たちがその痕跡を探し求めるとき、その恨みの歴史を清算することは、論理的な手段や理論的な形式によっては達成できません。そのため、心の世界を探り、善の理念を追求し、さらに霊的な世界、すなわち超自然的な次元の感情を引き出す方法を見つけ、人間と結びつかざるを得ないために、宗教というものが現れることになったのです。
宗教を通じて私たちが感じるべきことは、一つの目的、一つの理念、一つの中心が歴史の始まりから終末の時代まで変わることがあってはならないということです。一貫した思想で流れていかなければなりません。なぜでしょうか?
皆さんは、善悪の基準、つまり善なる民族、善なる人、善なる事を何を基準にして判断しますか? 始まりと終わりが同じであるものは天であり、善であるから、それを基準にして判断するのです。真の善、真の天であるならば、昔も今もその目的、その理念、その方向が変わることはありません。そのため、宗教が一つの理念を立て、歴史の変遷があっても、その理念は変わることなく着実に進み続けているのです。
人間の悲しみは堕落によって生じました。さらに言えば、天の悲しみも人間の堕落によって生じたのであり、この悲しみを解消するための一日を予告するような何らかの御心がなければならず、それを実践するための方法が必要であり、それを解決できる人がいることは間違いありません。
この役割を担い、この責任を果たすために送られた方が、宗教的に言うと「道」の責任を負った者なのです。
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世界的な「道」の使命、救世主の使命を持って来ることを、キリスト教ではイエスの降臨と呼ぶのです。
そのような中心的な存在が、天の悲しみと地の悲しみを解消するためにこの地に現れるならば、絶対に栄光に満ちた姿で現れることはできないのです。なぜなら、神の実体が現れるには、歴史の過程を無視することはできず、時代の状況を軽視することもできないからです。
天が悲しみの過程を経てきた歴史があるため、イエスが天の理念を代行できる理念の主体であり、目的の主体であり、命の主体としてこの地に現れるためには、そのような過程を経る必要があったのです。
実存するということは、因縁の過程を経なければならないということです。そうして初めて実存の基盤を持つことができるのです。だからこそ、イエスも歴史的に結びついたその悲しい心情を感じ取らなければならなかったのです。人間を代表してその心情を感じると同時に、天を代表して神の悲しみの心情さえも感じ取らなければならなかったのです。
倫理的な視点と宗教的な視点は異なります。人間が見ると、自分を否定し、全体のために民衆の苦しみを背負おうとする人を「善人」として称賛しますが、宗教的に見るとそれだけでは不十分です。人間の悲しみを代わると同時に、天の悲しみをも代わる立場に立たなければならないのです。
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これは、堕落によってもつれた恨みの問題を抱えた人間が必ず持たなければならない天の要求であり、全人類の要求であることを理解しなければなりません。
このような恨みを解消し、堕落によってもつれた問題を解決するために来られたのがイエスであるとすれば、彼は4千年の人類の歴史の中で誰一人として感じ取ることのできなかった神の悲しみの心情を感じ取る道を歩まなければなりませんでした。したがって、イエスは4千年の歴史の中で現れたどの主義よりも、神の心の奥深くに染み込んでいる悲しみの感情を感じ取らなければならなかったのです。もし地上の人間の中で天の悲しみの心情を感じ取った者がいたとすれば、その人は涙なくして地を見つめることができないでしょう。天と地にまで悲しみが染み渡り、嘆き悲しみ、泣き叫ぶ境地に至ることでしょう。イエスはこのような心情を感じておられました。
それは誰のためだったのでしょうか? まずは天のためであり、天が人間のためにイエスをこの地に送ったのですから、その次は人間のためだったと言えます。だからこそ、天の悲しみを抱いて人間を慰め、共に涙を流さなければならなかったイエス、人間の悲しい状況を抱えて天に向かって訴え、泣かなければならなかったイエスであったのです。
もし天が存在し、このような世界の状況を見つめておられることを知ったならば、私たちはさらに大きな恐怖を感じるでしょう。心の世界において、自分でもわからない恐怖の刺激は、時が経てば経つほど、そして時代が切迫してくるほど、ますます強くなるでしょう。
ですから、その世界、その方向をそのまま受け入れて進んではならないのです。その道を進めば、命の危険を感じ、生死の危機に直面することは間違いありません。その道は本来の心を持った人間が進むべき道ではないと再認識し、引き返せる環境を探してみるゆとりを持たなければならないのです。皆さんはそのような心を持つべきです。これまで以上に、地上においても天の前においても忠誠を尽くし、苦難を受けた以上の苦難を耐え、あらゆる情熱を注いできた以上の情熱を注がなければなりません。
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どのような善の主体、どのような善の目的、理念の世界が心に深く刻まれていて、皆さんがそれを感じずにはいられず、もがかずにはいられないような状態でなければなりません。そのような状態になれば、皆さんは何らかの目的の世界を目指して進む動機を持っていることは間違いないでしょう。
これまで自分が持っている合理的な論理を通じて築かれた主観や認識、あるいは自分なりに築いた観念に基づいて、人生を任せて生きていることに安堵を感じている人がいるとしたら、その学んだ知識が自らを縛る結果をもたらすことになるのは間違いありません。
皆さんの心の奥底を掘り下げて考えるとき、このような感情の流れを否定できない一つの真理であり、実在であることを知っているならば、その姿は宇宙的なものであり、宇宙的な証拠であり、歴史的な証拠であり、理念の証拠であり、一つの主体に対する対象的な存在であることは確実な事実です。
もし天が存在するならば、私たちは主体である天が対象である私たちの個々を100%信頼してくれるその一日を探さなければなりません。その目的に対して100%の信念を持って、その一つの場所を目指さなければならないのです。また、100%の信念を持って突き進む方向性を備えなければなりません。これが、現代の人類が解決しなければならない最も重大な問題です。
このような悲しみの環境を乗り越えなければならない人間であるがゆえに、神はこれを解決するための何らかの条件を立ててこられたことは間違いありません。それでは、神は歴史の中でどのように摂理を進めてこられたのでしょうか。人類の祖先が堕落したのは、神を信じることができなかったからだという事実を、皆さんはよく知っています。信じることができなかったからこそ堕落したのです。さらに言えば、神を愛することができなかったからです。そして、神を迎えることができなかったために堕落したのです。これが、キリスト教で言われている信仰の三大要素、すなわち「信仰」「希望」「愛」を象徴しているのです。
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私たちの最終的な希望は何でしょうか?それは神をお迎えすることです。人間が必ず取り戻さなければならないのは、天との縁を回復することです。恨みを晴らすための歴史的な条件、摂理的な条件、未来的な条件があるとすれば、それらの条件はどのようにして私たちにやって来るのでしょうか?過去の私たちの先祖たちが信じることができず、愛することができず、お迎えすることができなかったために、信仰の運動や愛の運動が提唱されてきたという事実を私たちは知っています。このようなことを通して、私たちに近づいてきているのです。
イエス様が来られる前までは、信仰の基盤を築くために苦しみ、イエス様がこの地上に来られてからは、人類を愛するために戦われましたが、その御心をすべて成し遂げることなく、新郎新婦の理念だけを残して去って行かれました。ですから、この人類を抱きしめ、愛することができる愛の主人公が来なければならないのです。
では、その主人公を迎えたその日からはどうすべきでしょうか?日常生活の中でその方をお迎えしながら生きるのです。それが地上天国です。そのように無限にお迎えしながら生きる世界、そのような天国の世界で生きることこそが、信仰者たちの希望であり、理想の基準です。歴史の摂理の道筋もその方向に向かって進んでいます。
そのため、天が悲しみに沈む人間を探し出すためには、逆説的な要素と逆理的な条件を通じて、順理的で法に適った条件を築かなければならないのです。ここに天の困難があります。人間の悲しみも大きいですが、天の深い悲しみはそれ以上に大きいのです。しかし、人間はそのような天の悲しみを知りません。無知な人間に対して法を定め、順理的な過程を経て近づいてこなければならない天の悲しみを知る人はいません。
それゆえ、イエス以降の歴史は、信義の歴史です。人類の歴史は、信仰の一つの基準を形成し、その基準を高め、善の成果を積み上げてきたことを私たちは知っています。イエス様は愛の中心としてこの地に来られましたが、来られた目的を完全に果たすことなく去られたため、これからは信義の時代から侍義の時代へと移行しなければならないのです。
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そのために、天は悲しい環境に置かれている私という一人の存在を救うために、再び訪れてくださるのです。
歴史的に見ると、天が人間を探し求めてこられたのは、信仰という条件を通じてだったということです。天は人間にこの信仰の条件を立てさせる一方で、人間に何を求めたのでしょうか?それは実践を求めたのです。天と人が結ばれ、悲しみの感情を取り除くための一つの足場を築くためには、信仰を中心に実践的な行動が必要でした。そうしてこそ、歴史的な縁を結ぶことができるのです。
なぜなら、私という存在は、私個人のために生きるのではなく、私を否定して天の進む方向に従わなければならない運命にあるからです。天は私たち個人を超えて、世界と宇宙のための方向性を持ち、その方向に進んでいるので、善の方向性は私を中心にしていないのです。善の基準は私を中心にしていません。それは国家が対象であり、天が対象となっているのです。したがって、天は信仰と実践を強調しながら、人類に対して摂理を進めてきました。
今日に至るまで、信仰と実践を強調してきた歴史は6千年に及びます。この6千年の歴史を振り返ると、言葉では言い表せないほどの悲しみの歴史でした。しかし、今日の皆さんが人類の悲しみ以上に、人類を抱えて進んでいる天の悲しみの方がさらに大きいという事実を知らなければ、天との縁を結ぶことはできません。これまでそれを知る者は誰もいませんでした。
私たちは、人間が天を追い出し、預言者や先祖を殺してきた歴史的な先例を持っているということを理解しなければなりません。
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天は、人間が無限に信じ、実践しながら自分を見つけてくれることを望んでおられましたが、人間には神に向き合う心がなく、信仰をもって実践し、行動するための足場も整っていなかったのです。
また、信仰の基盤があるとしても、人間が天の悲しみを理解し、それに共感する心をもって実践しなければ、天の信仰と人間の信仰が交わり、人間のすべての悲しみを解消することはできません。しかし、私たち人間はそのような境地に立つことができなかったのです。
今日、皆さんが新しい理念に向かい、新しい御心を目指して進んでいく中で、自らの信仰に自信を持っていますか?おそらく自信はないでしょう。その自信と共に歴史的な縁を断ち切るだけの命の力を持っていないのであれば、歴史的な縁のある環境を開拓するための実践の道が残っているのです。たとえ信じることを実践できる資格があったとしても、天の悲しみを感じ取り、神の信仰に囚われ、神の実践に囚われようとする感情が先立たないのであれば、皆さんは神が見出し、実現しようとしている天国とは何の関係もないのです。何の関係もないのです。
人間同士の信頼関係も、悲しみの面と喜びの面が相対的な関係を結んでこそ、それが長く維持され、その信頼を基盤に約束された事柄を長く実行することができます。天との信仰の道や実践の道においても、それは変わりません。天の喜びの面と悲しみの面を感じながら、信じて実行できることが必要です。したがって、喜びの自分になるためには、まず悲しみの自分を見つけなければなりません。
そのため、信仰の主人公として来られたイエスは、全ての人々を代表して信仰の中心となる心情を持ち、真の信仰者の姿を備えて天の前に立とうとしました。そして、天はイエスが全ての人々を代表して神と信仰の縁を結び、そのイエスが人々とも縁を結ぶことを望んでおられましたが、その願いがすべて叶うことはありませんでした。つまり、イエスと天は縁を結びましたが、イエスと人間の間には、天が望まれていた縁を結ぶことができないまま、今に至っているのです。これまでの信仰者たちは信仰を立てて実践してきたと言っていますが、信仰と実践が自分の中で完結したと言える日を迎えられていないのです。
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天国とは、真の信仰は「こういうものだ」と解釈でき、真の実践は「こういうものだ」と解釈できる場所です。したがって、今日の人間たちがそのような真の信仰と実践を成し遂げる道で、天が受ける苦難や悲しみの感情を感じ取り、その感情の限界を分析し共感できないならば、その人はまだ天国の理念の世界では両手を挙げて歓迎される立場にはないことを理解しなければなりません。
そのため、イエスが歩んだ足跡は非常に貴重なものでした。イエスは、自分の一言が成り立てば天が成り立ち、その言葉を実行すれば天の御心が実行されることを知っていました。この基準に基づいて生きられたイエスには、人間を心配する心が大きく、天を心配する心が大きく、天地の悲しみを感じ取る感情が大きかったのです。
聖書の中には、イエスが喜びに満ちて踊りながら語ったという箇所はありません。なぜでしょうか?それは、神が今まで喜びの園で子である人間に語ることができなかったからです。イエスは心に喜びがあったとしても、天地を超えられるような喜びの感情で自由に話すことができなかったのです。
イエスの言葉は、喜びの感情を持って紹介されるべきものでしたが、実際に語られたその言葉は、悲しみの感情を通して語られたものであることを知っておかなければなりません。したがって、皆さんはそのような感情に触れ、言葉の尊厳性を理解できるようにならなければなりません。
もしイエスと私が歴史を超えて関係を結べず、現実の生活の理念の中で縁を結ぶことができない言葉であれば、それは天の言葉ではありません。
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皆さん!もし皆さんが真理の道を求め、信仰の歩みを蘇らせようとする切実な心があるならば、イエス様が悲しみの感情で語られた信仰の観念の最終的な限界線がどこにあるのかを知り、その限界を越えなければなりません。イエス様は神の悲しみを解消し、人類の悲しみを解消しなければならない中間的な責任者であったため、その心は計り知れないほどの悲しみで満ちていました。イエス様は人類の悲しみを百なら百、千なら千と感じ取り、さらに神の無数の悲しみをも感じておられました。ですから、すべてがイエス様の悲しみの感情を通して現れた言葉に対する人間の信仰の基準が確立されて初めて、神と人間の間に途絶えていた縁が再び結ばれるのです。そのような基準を立てることこそが、信仰者の本質だと言えます。
したがって、キリスト教は笑いの宗教ではありませんでした。涙の宗教でした。だからこそ、私たちがイエス様について何か一つを知れば胸が詰まり、二つを知れば思わず号泣し、さらに知れば知るほど自分自身が犠牲となるべき立場にあることを感じずにはいられなくなるのです。そのような感情からの信仰、そのような感情からの実践を行えば、死んだ人間をも生かすことができるのです。
どれだけ天の前に素晴らしい功績を立てたとしても、その功績は自分によって成されたものではありません。それは天によって成されたのです。
では、摂理の始まりはどこから始まったのでしょうか?それは、人間の心が天の悲しみと通じたその瞬間から、新しい摂理の歴史が開かれ、築かれてきたことを私たちは知るべきです。
神は人間に対して信仰と実践の道を歩むように促し、6千年という長い歴史の道を歩んでこられました。神は全人類に対して、そのような存在になることを心から願っておられました。神ご自身を全人類の前に100%示すことのできる実体を望んでおられたのです。
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天は、限りなく信じて行動しても、その事実を忘れてしまえるような存在を探しておられます。天の基準とはそのようなものです。「信じなさい」という言葉が必要なく、「行動しなさい」という言葉が必要ない存在を探しているのです。イエス様を通して与えられた言葉を立てることができ、実践の模範を示し、天の感動を起こせる存在を求めてこられました。しかし、そうして天が人間を探し求める限界を超えて実践した人は一人もいませんでした。
今日、キリスト教には多くの信者がいますが、そのような心情の限界を超えて実践の道を誇れる天の子はどこにいるでしょうか?天の子はどこにいるのでしょうか?問題はここにあります。今日の皆さんは、信仰の模範を夢の中でも望み、それを立てることができなければなりません。そして、どんな事実に対しても、時代性や歴史性を超えて、永遠から永遠まで自由自在に自分のものと感じ、楽しむことができ、自分のものとして応じることができなければなりません。神が人間に対して信仰の基盤となる道を確立されたという内容が必要なのです。
世の中で信義の法則を忘れることができる一つの存在、実践の価値を忘れ、実行の価値以上に大切にできる境地で天の御心に染まるとき、天はようやく「我が子よ」と呼ぶことができるのです。だからこそ、真の息子娘を見つけられないことが天の悲しみであり、この地上の人類の悲しみでもあります。この人類を息子娘として迎えられないことが天の悲しみなのです。
今日、絶対者を「神」と呼ぶ言葉は持っていても、神を「こうだ」と紹介するときに真に感情が通じるものがありません。皆さんも感情を抜きにした言葉は存在し得ないことを知っています。では、言葉が通じ、感情で触れ合える神はどこにいるのでしょうか? 皆さんが信仰の道を進む中で、切実な心情を持ってこの問題に向き合い、信仰という言葉や実践という言葉を越えて、お父様に囚われ、自分でも知らないうちに自分の細胞や心が連動してお父様を呼ぶことができなければなりません。天は必ず、そのような叫びが生理的な状態で持続できる一つの存在を探しておられるのです。
今日の人類が泣かなければならないことがあるとすれば、それは人類全体が責任を果たせなかったことに対して悲しみ、涙を流すことです。6千年の間、天を悲しませてきた反逆者であり裏切り者である私たちの先祖たちに対して、悲しみを抱かなければなりません。さらに進んで、今日の自分自身を振り返り、悲しまなければなりません。
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今日の信仰的な観点から、私たち自身がどのような限界の中でさまよっているのかを考えもしないまま動いているならば、そのような私たちに対して天は「良い」と言うでしょうか、それとも「悲しい」と言うでしょうか?その心情は、4千年を経て6千年の歴史にわたる悲しみで満ちていることでしょう。そして、皆さんは天が皆さんを見て嘆く立場にあることを認めなければなりません。
人間が堕落したことにより、信仰を失い、愛を失い、神を迎える生活を失ったその心情に流れているものは何だったのでしょうか?それは悲しい感情でした。何とも言えない悲しい感情でした。ですから、皆さんも信仰生活において、自分でも気づかないうちに悲しみの感情が芽生え、意識的な基準を設けていなくても、生活の中や周囲の環境で悲しみが訪れる時間があるならば、それは天が訪れる時間であると知ってください。そのような時に、その悲しみの実体を抱きしめ、涙で縁を結ぶ者がいるならば、その人は蘇ることができる人です。
本来、そのような縁を結ぶべき人間ですが、堕落した人間は天に対して立体的に向き合うことができないため、平面的な主人公としてこの地にイエス様を送られました。堕落した人間には、実体の主であるイエス様が必要だったのです。それでイエス様はこの地上に来られたのです。
4千年の悲しい歴史の中で追いやられ、追い詰められてきたイスラエル民族が、天の悲しみの感情を抱えたイエス様をしっかりと抱きしめ、共に涙を流すことができていたなら、その民族は今日、世界の前で名を知られる民族となっていたでしょう。そうであれば、民族を失い、主権を失い、国土を失い、さまよい続ける民族にはならなかったでしょう。そのような民族にはならなかったでしょう。そうではありませんか?
統一教会は本来、険しい道を進むためのものではありませんでした。私が皆さんが統一教会に入ることを望むとき、歓迎する気持ちよりも心配する気持ちの方が先に立ちます。そのような心で見つめるようになるのです。歓迎するよりも、ためらいの心を持って見つめるようになるのです。
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このような天の思いと天の事情、つまり私たち人間に対して探し求めておられる天の切実な心情を感じる人ほど、自分を立てることができず、自分を否定せざるを得なくなるでしょう。
もし自分の意識や自分の主観で批判できないような境地に、自分でも知らず知らずのうちに引き寄せられるような存在であるなら、そのような境地で悲しみを感じながらも、主体的な立場で天を安心させ、慰めることができる部分を引き受けて繋げる場所でしか、この道を進むことはできないのです。そのようにして初めて、この道を進むことができるのです。
楽な道を進みたいと思う人は、この道に来ないでください。私が歩んでみたところ、その歩みは友がいない孤独な歩みであり、同志がいない歩みであり、事情を分かち合うことができない歩みであり、頼ることができない歩みであり、信頼できるものがない歩みであるとわかりました。歩んでみて、そんな困難を抱えていたイエス様の心情を少しばかり理解できるようになりました。
今日、私がイエス様を紹介するとすれば、まず悲しみの側面を持つイエス様を紹介したいと思います。食事の時間も忘れ、眠る時間も忘れ、悲しみの胸を抱えてあちらこちらの村を追われながら彷徨っていたイエス様。その時代に誰がその心情を理解し、友となった人がいたでしょうか?天は哀れな天でした。天を代わろうとした預言者たちも哀れな犠牲となり、イエス様までもが亡くなったことで、御心を抱いておられた天は、哀れな天でありました。
その天とは誰なのでしょうか?よくよく考えると、それは父でした。神と私たち人間の関係を知ると、それは父と子の関係だったのです。私たち人類は、父の哀しみを知らない存在になってしまいました。しかし、神がご自身で知らない人間にその哀しみの心情を伝える責任はありません。それは人間にあるのです。だからこそ、この使命を果たすために預言者が来たのであり、イエス様が来られたのです。
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天は今までずっと待ち望み、求めてこられました。イエスが進んだ悲しみの信仰の道、イエスが戦った悲しみの信仰の戦い、その戦いを、今日、子としての名分を持とうとする者は代わって戦い、勝利しなければならないのです。
人類はまだ地上で喜びの日を迎えたことがなく、栄光の日を迎えたこともありません。そのような事情に向き合い、悲しみの感情に触れて天を呼ぶとき、人は知らず知らずのうちに天の存在を感じることができるでしょう。
私が知る限り、イエス様は誰にも知られずに多くの涙を流された方です。この事実を皆さんは知るべきです。聖書にはいくつかの場面しか描かれていませんが、イエス様は人知れずたくさんの涙を流された方です。山や川を見て責任を感じ、広がる民族を見て責任を感じ、無限の天に対しても責任を感じておられました。責任を負わされながら、それを実行できない分野があるのを見て、さらに深い悲しみの心情を抱かれました。また、天を慰めるべき立場で慰めることができなかった悲しみ、人類を救わなければならない救世主の責任を全うできなかったことから来る悲しみなど、彼は真に「悲しみの王子」でした。
私たちが信じているイエス様は、どんな万王の王子、栄光の王子、勝利の王子というよりも、悲しみの王子です。御心のための悲しみの王子であることを、私たちは感じ取るべきです。
こう言うと、キリスト教の異端者だと烙印を押されるかもしれませんが、よくよく考えるとそうなのです。「イエス様は、全人類の前に、歴史の前に、初めて現れた天の悲しみの心情に通じる王子だったのだ!」と感動に胸が打たれる瞬間を持たなければ、皆さんはその方と縁を結ぶことはできないのです。そしてそれだけではありません。イエス様は苦しみの王子でもありました。
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天を裏切り、天に対して呪うことの先頭に立った者たちは誰だったでしょうか?それは、信じて従うべきとされたユダヤ教徒であり、イスラエルの民でした。天がイエスを捕らえて殺させるために、4千年もの間、イスラエル民族を準備されたはずがありません。
これを見れば、イエス様は完全に勝利して去られた方ではありません。完全な勝利を収めることはできませんでした。皆さんもそう思いませんか?
イエス様が十字架にかけられて亡くなられたことが完全な勝利であったならば、その苦難の日はこの上なく喜ばしい日であったはずです。十字架で亡くなられた瞬間が最終的な勝利の瞬間であり、全ての人々と全ての万物を動員して喜べる瞬間であったはずですが、実際にはそうではなかったことがわかります。だからこそ、マグダラのマリアが歓喜の心で迎えようとしたとき、イエス様は「来るな」と制されました。イエス様は、愛する弟子たちと共に喜びに満たされ、天の前に栄光を捧げることができませんでした。それができなかったのです。ですから、イエス様は悲しみを抱えたまま亡くなられ、その死は嘆きに満ちていました。そして、その悲しみを抱いて成し遂げられた復活であったことを、私たちは知るべきです。
私たちは、天の悲しみの心情を感じ取りながら、自分の居場所もわからず、自分の生活の手段も忘れて、家々の門前で冷たい視線を受け、この村からあの村へと彷徨い、追われながらさまようそのやつれたイエス様の同志となるべきなのです。
イエス様は民族の前に追いやられ、宗教団体の前に追いやられ、親戚の前に追いやられ、愛する弟子たちにさえ追いやられました。このように、悲しみの中の悲しみを感じたイエス様でしたが、天の心情を抱き、世界の人類に自分のすべてを捧げようという心を持ち、また人類を信じようとする心を持っておられました。
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イエス様は、悲しい感情で通じ合える人類との縁が過去も現在も未来も続けられなかったため、自分の心の中に抱いていた切なる願い、切なる思い、切なる事情を人類の前にすべて伝えきることができませんでした。このことを皆さんは知るべきです。
今日、終末にいる信者たちは、御言葉を持っているだけで、自分が天の王子の前に立つ約束の花嫁だと名乗り出てはいけません。それはそうなっていないのです。実際にはそうなっていないのです。
ですから、皆さんは今、「お父様! 私たちは御言葉を恐れ、私たちの行いが足りないのです」という畏れ多い気持ちに満たされ、お父様を呼ぶ時には涙が先に出てしまい、お父様を想う時には胸が詰まり、切なる心情がこみ上げてこなければなりません。たとえ自分が何万回犠牲になろうとも、歴史を導くために苦労してこられた父の前に自分を立てることで何かを期待することはできないと知るべきです。その心が天に向かい続けても足りなく、向かい続けても畏れ多く、向かい続けても申し訳ない気持ちに満たされ、悲しみの涙を流す者であってこそ、イエス様の弟子となり、イエス様の花嫁になることができるのです。
私たちがその境地に入って初めて、イエス様が「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところがない」(マタイ8:20)または「カペナウムよ、お前が天まで上げられると思うか? 地獄にまで落とされるのだ」(マタイ11:23)と語られた言葉を理解できるのです。
そのような心情で御言葉に触れるとき、その御言葉はイエス様の言葉としてではなく、自分自身の言葉として骨身に染み渡るようでなければなりません。そして皆さんは新たな理念、新たな覚悟、新たな決意を持ち、新たな目的の時代を目指さなければならず、そのような衝撃を伴った姿で周囲の環境を開拓できる信義の子供となるべきです。
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そうして初めて、本質の世界を通してイエス様の前に花嫁として立つことができる一つの対象となり、信仰者と呼べる存在になるのだということを、皆さんははっきりと理解する必要があります。
私たちを探し出してくださったイエス様は、信仰の重要性を強調する一方で、神は愛であると語られました。愛の神、慈悲の神、正義の神など、神の様々な側面をお話しされましたが、神のすべての側面を代表する結論として、神は愛であるという定義を示し、私たちを導いてくださいました。つまり、真の愛を探し求めている神であることを教えてくださったのです。
「何よりも私をもっと愛しなさい」という言葉はどういう意味でしょうか? それは、私があなたを信じ、あなたを愛するという意味です。また、天も私たちに対してそのように接しているのです。天は私たちを愛するがゆえに、時間を惜しみませんでした。
今日、教会に責任者がいるとすれば、迷っている羊たちを見て、自分の骨身に染みて彼らの命を守り、涙を流して号泣できる心がなければ、天の法に反する牧師になるでしょう。天の法に引っかかるのです。そのような心を持たない牧師がいるならば、その人は死んだ牧師です。
神がなさることは、言葉よりもまず心情が先に立つのが特徴です。心情に染みて自分でも知らずに溢れ出る言葉の前では、悪魔は屈服するのです。悪はそのようなところから屈服していくのです。そうでなければ、どんなに良い言葉を語っても、悪は屈服しません。心に染みた心情が現れ、人間の命が生死の境に立っていることを憤り、それを自分の苦しみとして感じ、自分の状況を顧みずに身を投げ出して、彼らを救いたいという切実な心情が先に立つとき、そこから救いが実現するのです。
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イエス様は十字架を背負って亡くなられるとき、「愛しなさい」という言葉を残して去られました。十字架の上でも、天を離れて敵のもとへ向かう人々を恨むことも、呪うこともしませんでした。
自分自身の痛みよりも、彼らへの哀れみの心が先に立っていたからこそ、敵のもとへ向かう彼らを阻むことができ、手を挙げて敵のために祈ることができたのです。そのような祈りの前でのみ、悪魔は屈服するのです。
したがって、天のために生きようとし、天の前に進もうとする人であれば、自分が食べているものが他人よりも良いものであるときには、罪の意識を感じなければなりません。着ているもの、住んでいるもの、見ているものすべてについて罪の意識を持って歩んでいる人がいるならば、その人は飢えることもなく、追われることもなく、追い詰められることもありません。もし悪魔の世界では追い詰められることがあったとしても、天の心情を求めている者たちの前では、追い詰められることはないのです。
だからこそ、天は私たち人間に対して「私を愛しなさい」と言われました。その愛は、今日の皆さんが感じるような感情の愛や、限界のある愛ではありません。6千年の悲しみを解消できる愛でなければならないのです。それはエデンの園でアダムを追放しなければならなかったその哀れな心情、さらに地獄に行く命までも哀れに思って号泣できる心情を持った愛だということを、皆さんは知るべきです。
神の愛は、本来なら罰を受けるべき罪人であっても、悪魔と天の前に置かれた条件の法則があるため、その法則の条件を実行させるために彼を叩いた後、悲しみ、捨てた後、また引き寄せてこられるのです。
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イスラエルの歴史を見ると、反逆したイスラエルの民は、神の前で誰よりも裏切り者でした。しかし、天は彼らを捨てては拾い、再び捨てては拾ってこられました。個人を取り上げては捨て、また取り上げ、その中で生まれた家庭を取り上げては捨て、さらに一つの家庭を立てて天の前に何百、何千、何万の家庭を取り上げては捨て、取り上げては捨てながら、イスラエルの民を立て、今日の第二のイスラエルとされる世界のキリスト教を展開してこられたのです。つまり、第二のイスラエルといえる世界のキリスト教を築いてこられたのです。
ここにいるすべての信者は、悪魔に対してさえも執着心を持つ神の心情と、悪魔さえも許す法を思い、摂理を進めて戦ってこられた神の心情を理解しなければなりません。そのような神であることを私たちは知るべきです。
今、そのような心情を持つ神であることを知り、今日、皆さんは天を裏切った罪と、自分が至らず引きずってきた過去の生活を振り返り、愛する心だけでなく、無条件で仕えたい心、無条件で尽くしたい心が湧き上がらなければなりません。そのような瞬間から、皆さんは天が愛する者になります。親を忘れ、親を覚えることすらできないほど心を動かされるその一つの境地こそ、天の立場です。
堕落した人類の親でさえ、子の過ちを忘れようとするのに、ましてや天の心情を代行しなければならない私たちは、なおさらそうすべきではないでしょうか?
今、皆さんがそのような心情に触れ、そのような父であることを感じ取って、そのお父様を無限に尊敬し、無限に仕えなければなりません。そうして、自分自身をすべて捧げ、誰かが自分のすべてを奪い去っても「私は感謝します」と言える心情に満たされるべきです。まさにそのような瞬間が、神の愛の世界と結びつく出発点であることを、皆さんはしっかりと理解しなければなりません。
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そのため、イエス様は愛を強調し、愛の主体としての使命を全うしようとされました。ですから、彼のすべての生活は奉仕の生活、与えるための生活でした。与えることができず、もがいていたイエス様でした。彼は自分の命を与えようとし、自分の言葉を与えようとし、自分の栄光を与えようとし、自分の座さえも与えようとしていました。しかし、自分のすべてを与えても受け取ってもらえなかったため、ついには自分の体、自分の血と肉さえも人類のために捧げて去られました。
これが、愛を掲げて実践されたイエス様の生活でした。私たちもそのような愛を追求して進む者であるならば、長く信仰を持ってきた人を見れば自然と頭が下がり、天のために苦労した人を見れば自然と仕えたい気持ちになるべきです。皆さんの信仰生活にこのような心情がなければ、天の愛の縁は切れてしまうでしょう。
人間がこれまで持っていた愛は永遠の愛ではないため、人々は「愛」という言葉を掲げ、その永遠の愛を見つけるために死を覚悟して苦しみ続けています。人間的な愛が天的な愛の理念に触れて、愛の感触を感じる瞬間は、大宇宙の所有権を決定できる価値の甘美を感じるのです。天の愛に触れるその瞬間、すべてを失っても未練はありません。そのような世界は幻想ではありません。何らかの作り話の空想の世界ではなく、実際に存在する現実の世界です。
そのような感情が、今日の人類の心情の中、大宇宙の中にあります。私たちが理解できない天の心情の世界が、人類に向かって回っている感情があるのです。これを否定してはいけません。イエス様は、愛の真髄を紹介するために来られました。これを紹介し、神の愛を立てるためには、人類を代わって何千年もの間苦労されてきた天を仕え、敬う心に満たされなければならなかったのです。
これまでの信仰の世界もそうでした。第一に信仰の世界であり、第二に愛の世界でした。愛の世界は、新郎と新婦の世界を意味します。これからの時代はどのような時代かというと、「仕える時代」です。しかし、信仰の過程を経て愛の過程を経なければ、「仕える時代」に入ることはできません。これを今日のキリスト教徒ははっきりと理解すべきです。
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これまで「信仰だけで救いを得られる」と主張する人は多くいましたが、「愛で救いを得る」と主張する人はいませんでした。使徒パウロは「信仰と希望と愛、この三つはいつもある。しかし、その中で最も重要なのは愛である」と言いました。信仰だけでは行くべき場所がありません。ですから、今日の統一の戦士たちは、信仰の論理を掲げて「信仰で救いを得る」と主張するのではなく、「愛で救いを得る」という標語を掲げて進むべきなのです。
愛とは、自分個人を愛するのではなく、民族を越えて世界と天を愛する心情です。自分に熱意があり、力があり、生きている限り、心から尽くし、叫びたいという気持ちであり、世界を越えて天と縁を結びたいという思いです。
そのような愛を実践するために、今日も困難があり、明日も困難がやって来ても、与えてまた与え、仕えてまた仕えることを続けたのが、イエス様の30年以上の生涯でした。イエス様はパリサイ人たちに「白く塗った墓のような者たちよ」と叱責し、呪われたことがありますが、それは限りなく尽くしたい、限りなく支えたいと思っていたのに、彼らがその心を理解しなかったために、そうおっしゃったのです。
今日、私たちは「ために生きる」人を見つけることができていません。本当に「ために生きる」人を見つけることができていません。この民族は「ために生きる」民族になれていません。「ために生きる」という理念を持っていないのです。過去のこの民族のために尽くす理念を持てず、現在のこの民族のために尽くす理念を持てず、未来のこの民族のために尽くす理念も持っていないため、尽くそうとする天の摂理の御心とは矛盾しているということを私たちは知るべきです。
皆さん自身も同じです。自発的に、過去と現在と未来のために尽くせる心が現れなければなりません。「自分が成功して名を上げよう」といった、自分を中心にするのは堕落の道です。堕落の道はそのようなものです。どのような権力者の立場に立ったとしても、その人は高められるべき者ではなく、3千万人のために尽くさなければならない者です。
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この民族全員が、一口のご飯を食べるときにも3千万人の血と肉を食べる心情であり、1着の服を着るときにもそのような心情を感じることができれば、この民族は滅びません。絶対に滅びません。今日、キリスト教が強調すべきことはそれです。そのような個人、そのような牧師、そのようなキリスト教が現れてこそ、民族が生きるのです。
私たちは今、このような悲しみと困難の嘆きに満ちた現実を見て、目を覚まさなければなりません。
天が掲げた愛の標語を実践するための重要な要素とは何だったのでしょうか? 肉が裂かれ血が流れても、相手のために幸せを祈りたいという気持ちが宇宙全体に満ち溢れ、神さえも引き寄せることができる心を持った存在が現れれば、その人は世界を動かす主人公になるでしょう。心情の主人公になるでしょう。そのような人物が現れれば、心情の世界の理念を掲げて進んできた天さえも、その人を手放すことができないと決心せざるを得ないのです。
だからこそ、天は皆さんの信仰の道において重要な要素である「愛」という言葉を掲げたのです。罪悪に満ちた世の中でも、愛を求めるには心情が必要です。そのような心情に満たされ、相手のために尽くすことができる何かがなければ、愛のイエス様も皆さんとは関係がないのです。
では、天の嘆きを解消するために掲げられた目標は何だったのでしょうか? 失われた天国の回復でした。失われた真の息子娘、永遠に抱きしめて愛することができる息子娘を見つけることでした。日常生活において神を失わず、永遠に共に暮らすことができる息子娘、堕落前のアダムとエバのような本来の人間に戻ることだということを、皆さんは知るべきです。
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堕落した人間が信仰の道をすべて通り、審判を越えて天国に入るために父の子として現れようとするならば、まず本来のアダムとエバの姿を持った状態で、信じなさいという言葉が必要なく、悲しみの境地を超えて愛しなさいという言葉や、仕えなさいという言葉をかけられなくても、感情的にも身体的にも、行動的にも、そして生活全体や理想全体が自動的にその方向へと動くことができなければなりません。
どのような法律的な規定や命令によって動くのではなく、私たちの心情が法を先立ち、私たちの良心の働きがどんな論理や最高の規則を超越する場所であってこそ、天的な縁が完成した世界になります。天の心情に満たされ、動きたくなくても動かざるを得ず、行いたくなくても行わざるを得ず、愛したくなくても愛さざるを得ず、尽くしたくなくても尽くさざるを得ない、そんな崇高な姿であるべきです。キリスト教徒にとってこれが最高の信仰の基準になるでしょう。今日、これが現実に現れなければならないのです。
皆さんがそのような人と出会うその瞬間、マグダラのマリアが復活したイエス様を抱きしめようとしたときに、イエス様がそれを止めた心情を感じ取ることができるでしょう。今、皆さんは「さあ、死の道よ、来るがいい」との覚悟で困難を乗り越え、実践の道を歩みながら愛の心情を抱いて進まなければなりません。苦しみや追い詰められた中でも、その困難を乗り越えて復活の恵みに感謝し、天の前に栄光を捧げられる瞬間、愛の心情を抱いて仕えることができる栄光の境地に入ってこそ、そこから天国生活が始まるのです。
今日、皆さんにとって「天国」という言葉は観念的な言葉として残っています。その観念的な言葉が、いつ私にとって生活的な言葉に転換されるのか、これが問題です。もし天が存在するなら、この転換点を成し遂げるための一つの場所を見つけてくださるでしょう。そのときを「終末」と呼ぶのです。
この観点から、天は私たちを探し求めてこられました。では、今日、皆さん自身を振り返ってみてください。皆さんは天を信じていると言い、天を愛していると言いながら、それを基盤にして信仰の源である神を自分に従わせようとしてきたのではありませんか? 偉大な実践者である神を、自分が実践しなければならないことを代行する小さな存在にしようとしてきたのではありませんか? 宇宙的な愛の主人公を自分の愛の心情の中に見つけようとして、尽くす主人公である神に対して、自分を支える友になってほしいと願ってきた過去を悔やみ、悲しい心情に満たされなければなりません。
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