人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集6(9)

2024年11月03日 17時38分42秒 | 学習
文鮮明先生 御言葉選集 6 - 9
新しい自分と、その自分が生きることのできる天国
1959年6月7日(日)、旧本部教会


ヨハネによる福音書 3:1-15




1
<祈り(Ⅰ)>


困難な人生の道を歩む私たちが、心に沈んでいることを知らないであり、考えが残っていることも知らないであることを信じます。神様になる、そしてこの地と全ての人々に向かって歌う心を大切にしていなかったことを知っています。


父なる神さま! あなたが私たちに与えてくださった賜物が圧倒的に素晴らしいものであり、偉大である私たちが感じていますが、その賜物を受けながらもあなたに栄光をお返しすることができなかった私たちを、お父様、どうかお許しください。


父なる神様、あなたは悲しみに満ちた世の中にあって、その悲しみを覚悟する道を先に私たちに示してくださったのに、その予告された御心に十分に受け止めることができなかった私たちを、どうぞお許しください。


私たちは、残された人生を父なる神様の喜びと栄光のために捧げ、すべてを神様の心に忠実になって生きていきたいと願っております。悪魔の権勢があまりにも強く、私たちの周囲を取り囲んでおります。 これらの束縛から抜け出すことが非常に難しいことを、父なる神様もご存じであると信じます。この時、私たちのもとに顕現してお導き下さい。


これまで、解放された場であなたの栄光を讃え、あなたの先に喜びを捧げることができなかった私たちを、どうかお許しください。力と希望をお与えください。 私たちの勝利の姿で復活の栄光を賛美することができるよう、再創造の御業を起こしてくださいますよう、父なる神様、心から切にお願いいたします。


2


死の権勢が私たちを押し流しているため、私たち生命の覚悟を持ち、生死をかけた闘いを経てこれを押し進めていくための、自発的な力と自動的な能力が必要です父なる神様、今この時、その力を切にあなたの息子や娘がここにおります。に、一日一日の生活を切り拓いていく天の鋭精たちとならせてくださいますよう、愛する父なる神様、心から願い求めます。


これまでの歩みが前進したとしても、父なる神様、どうかお許しください。 もし未来にあなたの御心があれば、その御心と理想、そして希望を見据え、今日も明日も開拓者としての責任を果たせるようお考えくださいますよう、愛する父なる神様、切にお願いします。


父なる神様、今は自主的に聖別し、自主を省いてあなたの前にあってはいけない時です。父なる神様、終わりの日には、自らあなたの心情を通じ、自らサタンの勢力を取り除き、自らの勝利の姿であなたに栄光を讃えることができる者が必要とされます。


父なる神様、この道を歩むために、あなたの心情を察する御言葉も聞き、あなたの恵みを証する行為も見てきました。祭壇を向こう、天の精鋭とならなかったことで、あなたの嘆きを言うのではないかと恐れております。


お父様に対して忠誠を尽くしたと自負する者があり、お父様に対して自ら正しいと主張する者が果たしているでしょうか。私たちはただ不足しているものばかりであり、不忠な部分ばかりがある者たちでございます。善を志向されるお父様の御心を知り、善の意志を立てようとされる方をお探しであることを承知しつつも、思い通りに行動できない不忠の身でございましたことをお許しくださいませ。このような事情が交錯するお父様の御心を知ることにより、私たちのすべてを差し出し、お父様がお受けになることができるものとして再度整頓させてください。お父様の御心をひたすら抱きしめ、お父様にすがり、お父様の行かれる所に私たちも共についていくことができ、お父様が動かれるままに私たちも共に動き、お父様が行動されるままに私たちも行動できるようにしてくださいと、お父様、心から切望し願っております。


3


ただひたすらあなたの情に抱きつき、あなたにしっかりと捕らえられて、あなたが行ける場所にはどこでも私がいられるように、あなたが動けるたびに私たちも一緒に、あなたが行動されるたびに私たちも一緒に行動できるようにしてください。父なる神様、心から切に願います。


父なる神様、今は自主的に聖別し、あなたの御前に立っつべき時です。父なる神様、終わりの日には、自らあなたの心を理解できる者、自ら悪魔の勢力を抑える事ができる者、そして自ら勝利の姿を備え、あなたに栄光をお返しすることができる者が必要とされます。そのような姿を成し、そのような存在を立てるために、あなたは私たちをお呼びくださいましたが、今日の私たちはあなたですの御前に顔に向けられない姿であることを、お許しください。


父なる神様、この道を歩むにあたって、あなたの心情を理解するための御言葉も聞き、あなたの恵みを証明することも目にしてまいりました。天の御前に忠実な祭壇を築くことができず、天の精鋭になれないため、あなたが怒られるのではにもどうか恐れております。


父なる神様、あなたに対して忠誠を尽くして言う者や、自主的に正しいと胸を張り張って言う者が、私たちの中にいると信じています。私たちには至らない点ばかりで、善を追求されるあなたの心情を理解し、善の御心を中心として見る者をお探しであることを知りながらも、その御心通りに行動できない私たちを、どうぞお許し下さい。


このような状況の中で交じり合ってあなたの心情を考えて、私たちを差し出して、あなたが見つめられるように再び整えられることができますように。捉えられ、あなたが行ける場所へどこへでも私たちも共に行き、あなたが動くたびに私たちも共に動けるようにしてください。神様、心から願い求めます。


4


どうか、この三千万の民族を再創造してください。この人々の生命を再び、父なる神様の希望の園へと導いてください。この民族を導くために適当たち私とならせてください。この御心を申し上げますために、まず私たちを神様の御前にお招きいただきましたので、この皆様に天の心を伝える責任を果たせるようにお許しください。 そして、天の御言葉を伝えることのできること息子娘とならせてくださいますよう、父なる神様、心から願い求めております。


父なる神様、今日ここに集まったあなたの息子娘達、それぞれの心情は違うかも知れませんが、その心の中心は同じであると信じています。あなたの心情を供えたいと願っていますから、この思いを元にお導きください。父なる神様、どうか動かれて、私たちに復活の栄光をお示しください。そして、私たちを解放の恵みの領域に移してくださいますよう、愛するお父様、切に願っております。


この時、あなたと私たちの間に隙がないかと、数え切れない悪魔が見つめていることを私知っています。私たちの体、あなたの事情と私たちの事情、あなたの願いと私たちの願いを合わせて、お父様が優しく私たちに取り組んでこのひとときとなりますよう、心から願いを求めます。


どうか私たちが押し寄せる悪魔のあらゆる力を避け、父なる神様の御前に勝利の栄誉を捧げることを約束するこの時とならせてください。そして、最終的な決断を下して頂きます様に、愛するお父様、心から願っております。


父なる神様、この時間をお決めしましたので、どうかあなたの御心のままに導いてください。そして、私たちの前に親しく御言葉を伝えて頂き、その御言葉をお授けください。


5


これからのすべての時間を聖なる三位一体の神が優しく主宰してくださいり、数千万の聖徒が共に守って悪魔が一切入っていないことのできない時とならせてください。た体、聖別された心情とともに、生ける供え物として父なる神様の御前に寵愛され、「神のものである」と認められるこのひとときとならせてくださるこの礼拝の時間となりますよう、心から願っております。


出席できなかった兄弟姉妹がいた同様に、どうか父なる神様、同じ恵みによって彼らをお守りください、祝福が恵みによって守られるよう、心からお願い申し上げます。すべての祈りを主の御名によってお捧げいたします。アーメン


どうか今、私たちの心がどこに残っているのかを見つめられるようお許しください。 体は一つの場所に集まっておりますが、心は様々な方向に動いていることを承知しております。の塊が自由に動ける父なる神様の御手に従っていたアダムのように、私たちの心もまた、父なる神様が主管されます様に願います。


今、私たちの体は一つの祭壇の形を成していますが、その心の本来の姿と本質が、父なる神様の心情を近く至聖所としているように、このひととき、尊き父を恋い慕い、畏敬の思いを持てる様にお許しください。


穏やかな父なる神様の御姿に接して、自分でも知らぬ間に切なる思いが心に染み渡るような感覚がなければいけないと感じています。深いところで私たちと語り合うことを喜び、静かに現れて私たちの使命を傷つけようとされる父なる神様の御働きを、私たちは心から望まずにはいられません。


6


私たちは、静かにおられる父なる神様をお迎えし、父なる神様と密かな事情を通せることができる姿になれなかったとき、悲しくて孤独な方は父なる神様であり、困難な立場にいらっしゃったのはお父様であった事をしっております。


そのような立場に優しい父なる神様を私の優しい父としてお迎えし、一体となる関係を結び、永遠の命と永遠の愛を中心として一時的に分かれることのない縁で結ばれていると思われてもいいと思うそれでも、もし私たちの心にこのような思いが湧き出ない時には、どうして私たちはあなたの息子と娘と呼ばれることができますか?もしそのような私たちであるならば、許されようとしている天国の理想も私たちには関係がなく、歴史を通して労をとっていた父なる神様の慰めの基盤も私たちには無縁であることを、この時に悟らせてください。


慈悲深い父なる神様、愛の父なる神様、哀れな者達をそのまま放置すれば、死の影の中で永遠に抜け出せない姿になってしまいます。 、何を持っているというので、父なる神様の前で自分を弁明できるでしょうか?何もありません。あると言うのは至らなさばかりであり、感じているのは畏敬の心のみであり、お父様の御前にお許しを願うばかりで御座います


摂理の時は終わりを急がせており、死の波が私たちの周囲を押し寄せて、私たち一人一人を容赦なく飲み込んでいます。覚悟の父なる神様が、私たちのために憂θされるその心情がこの地に残されており、労苦の跡が残っていることを知っています。神様の心が言い表せないほど焦っておられることを理解します。どうか、お父様、この時、私たちを見つめて、導いてくださいますよう、心から切願っております。


私たちが孤独な心情を抱えているなら、この時すべてを把握して頂き、その心情を包んで変えて頂ける様にして下さい。悲しみと苦しさを抱えているなら、お父様の喜びを持って命の心情に変えて頂き、困難な状況をから再び力を求めなければならない事をお許しください。お父様、心から切に願い求めます。


7


お父様、ここに集まった者の心情を共に一致させて頂ける様にお許しください。そして、お父様の天的な理想を目指し、その摂理の理想を仰ぎ求めてここに集まりましたので、お父様、どうか私たちを覚えて下さり、訪ねてくださいますよう、心からお願い致します。


誰がお父様の御前で自信を持つことができるでしょうか? お父様が「自信を持ちなさい」と語って下さったので私たちもまた自信を持ちたいと願いました。 「これが正しい」と言われたので、私たちもそれが正しいと感じたいと願いました。


父なる神様、三千万のこの民族をご覧下さい。どこへ進むべきかも知らず、苦しみ中、生と死の岐路で叫び声を上げています。悪魔の手がこの人々の命に向かっています。その勢力はますます増しており、お父様、私たちはこれを悲しむことしかできておりません。この人々の道を切り開き、彼らを縛る死の縄を断ち切り、勝利の基盤を高めなければいけないことを私たちは知っています。お父様、もし私たちに力が足りないのであれば、その力をお与えください。また、決断と勇気の心が足りないのであれば、その決断と勇気をかつてヨシュアとカレブに「強くて、勇敢であれ」とお告げになったように、今この時、同じ励ましの言葉をお許しください、私たちを励ましてくださいますよう、お父様、心からお願い致します。


どうか私たちがこの三千万の民族をお父様の祭壇の前に考え、お父様の命と結びつけることができるようにお許しください。それが断たれないように、すべてを犠牲にしてでも戦い抜いて、お父様の息子娘となれるよう導いてくださいますよう、お父様、心から切実に願っております。


今日もまた、遠く地方に広がっているあなたの息子娘達、悲しい心情を抱きながらお父様の前で思い出していることと思います。私たちを励まし、慰めてくださいますよう、心から切にお願い申し上げます。


8


悲しい状況に置かれても、人にその思いを理解する環境がなく、孤独な立場にあってもその心情を分かち合う家族を持たないあなたの息子娘たちを、どうかどうか考えてください。心情に結ばれた世界では、時間や空間の距離を超えて動くことができることを知っています。どうかお一人様に恵みの御手を差し伸べて、皆様の心を感動させて、またお父様の心情にしっかりと取り組んでくださいますよう、お父様、心から切にお願い申しあげます。


今、許されたこの時間に御言葉を持って下さるお父様、共にいてください。良い言葉も祝福の言葉も必要ありません。悟ることであり、苦痛の血統から抜け出さずにおり、裁きの座に立つことを恐れる心を持つことである事を悟らせて下さい。心よりお願い申し上げます。


どうか、伝える人の心も、受け取る人の心も二つにならず、一つの心情が繋がり合って、お父様の静かな心情に通じるように導いてください。神様の前にひざまずいて、自分でも知らぬうちに礼拝したような心情で溶け込む一時となるように導いてくださいますよう、お父様、心から切にお願いします。


今までに無い時間となるようお導きください。主の御名によってお祈りいたします。アーメン






<御言葉>
「皆さんに伝えたいテーマは『新しい自分と、その自分が生きることのできる天国』です。この『新しい自分と、その自分が生きることのできる天国』というテーマについて、少しお話したいと思います。


9


地上には多くの人が住んでいますが、その心に天国を持っていると認められる人は誰もいないでしょう。また、人間が憧れ、探し求めてきた理想世界とは何かと言えば、それがすぐそこにあった天国です。


「今日のこの世界には、良い生活を送り、恵まれた場所にいたいと望む人は多いですが、『よく生きた』とか『祝福を受けた』と言う人は非常に少ないのが現状です。今の状況を考えると、地上で生きている私たちの生活が天国生活ではなく、その逆の生活であるこの境界線に立つ私は、天国に向かって進むべき立場にあります。そのような場所を目指して生きていかなければ自分の立場である私たちである自分自身のことも否定できません。ただし、私の心はより良い理想を求め、私たちの身体もよいものを求めます。


「しかし、今日に続くまで、歴史上これが最高に素晴らしいものであり、ここが人間の本心に近い場所だと自信を持って示せるような場所や、それなりの生活様式や生活を営む社会組織は、まだ人類の歴史の中に現れていません。


私たちの心が理想の世界を超えているにもかかわらず、望まない生活環境から逃れられず、今日も困難と共に生きています。そしておそらく明日も同じでしょう。私たちの人生の歩みの中でも、理想の世界を憧れながらも、その環境の中で嘆きや不満を抱いて生きている状況にあることを、誰も否定することはできないでしょう。


このような困難な環境に置かれた自分自身を勇気づけ、乗り越えて、さらにまた乗り越えていくことで、私たちが望む希望の園、理想の園、幸福の世界をいつかは実現し、いつか私たちが本当に願うものを中心にして生きられるのでしょうか? これこそが、今日の私たちが全面的に深く考えなくてはならない問題の中の問題であり、人類が再び、解決しなくても良い、最も難しい課題であることを私たちは理解すべきです。


10


だから、私たちはこのような問題をただ見ているだけで省略することはできません。 また、これは実現が難しい問題だとしても、私たちはそれを断ち切って生きることができない運命にあることを、自分の人生を通してよく理解しています。


私たちはこの地上に生まれました。しかし、この地上に一つの人生を持って生まれてきたのが先生たのか悪かったのか、私たちは深く考えたことがありません。人々の中には、現実の中でこうして生きていることが真実の人生なのか、今日はないのかを考えずに生きている人が多い。 「いく、一応死を迎えなければいけない立場にあることを理解しています。私たちには、死という峠を越えなければ運命に置かれていることをよく知っています。


そもそもは、自分の死が真実の死であるのか、自分が真実の場所で死ぬのか、現状ない場所で死ぬのかみたいな問題が、皆さん自身と直接関係しており、皆さんの人生真剣に取り組んでいます」ことを忘れてはなりません。私たちが一度始めたことには必ず終わりを迎えなければいけない、ありがたい関係の中に置かれていることを意識する必要があります。


自分が親の血肉を受けてこの地上に生まれたことを誇りに思う人も多いかもしれないが、真の親の心情を持っている者であれば、生まれた子どもを見て嘆いているおそらくその子が生まれた瞬間、幸福の巣にいるようであっても、その人生が幸せであると断言できない以上、産んだ親自身も喜びの心情を味わう前に、悲しみの心情を味わうのが一番なのです。


その子の誕生が幸福の楽園から来たものでないと認めない、その子が生きる生活もまた同様であり、そしてまた死の峠も同じようなものでしょう。このような状況の中『あなたは真の人生を切望したことがあるのか? あなたは真の人生の価値を讃えながら最後に嬉しい死を勝利のうちに乗り越えていける自信があるのか?」と問われたとき、誰も『いいえ』と答えるでしょう。


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そのため、このような個々の人間、すべての人間が堕落の範囲内にあり、嘆くべき運命にあることを否定できません。覚悟して、私たちは正常な心の世界にいるのではなく、異常な世界、異常な環境に置かれています。そのため、人生全体、とりあえずその日から死ぬその時まで、誰もが『幸福』という言葉を本当に求めることができないのです。


人間が求める幸福や理想、希望といったものは、実際には今日の私たちと関係を持っていないことを冷静に考えないといけません。自分が自ら楽しんでるだけで、喜ばせる存在にまだいないからです。


私が自分の内に希望の実体を持っていれば、その希望を実現したことで喜びを感じることができるでしょう。また、もし私が理想の実体になっていたら、あらゆるものに『私についてこい』と堂々と、自信を持って立つ立場に立つことができたはずです。ですが私はそのような立場に立つことができていないのです。


本来であれば真の理想を持つべき人間が、そのことを見据えず、幸福な環境で生きるべき人間が幸福の理想楽園を無理してしまいました。 本来、人間は自由と平和を歌い、さらに創造主の前で、自分の心に染み込むような全ての幸福の要素を持って栄光を讃える存在であるべきであるにもかかわらず、そのような存在になることができませんでした。


これ以上に哀れで悲しいことはないと、まず理解しなければなりません。


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そのために、イエス様は4千年の歴史のすべての重荷を背負い、4千年の歴史の中で生きた先人たちのすべての責任を担い、また4千年の歴史の中で人々が思ってきたすべての理想と希望を背負い、幸福な天国の理想を持って来られたのでした。これは中心の中の中心であり、私たちの生活全体の中心であり、希望や理想、さらには生死における中心にまでなれたはずです。そしてイエス様はこの地上に『幸福』という名詞を残しました。


天は、この嘆きの領域に残っている人間たち、不幸な死の領域に残っている人間たちを、新たな希望を持ち、新たな天国の理想の中で幸福を感じられる存在に回復させる」そのために、そして自分の意志をもう一度立て直すために、4千年という長い年月をかけて摂理を行ってきたのです。


では、この摂理を成就させるためには、まずどのような作戦を立てて進めばよいのでよろしくお願いします。 それは、一人の人を立て、その人を聖別し、特別な立場に立つという方法を現在、地上にいる人間はそのままでは天とつながることができないため、天は長い歴史の中で人間とつながりを持つために、選ばれた民を選んであげられたのですそして、その選民の中からさらに選ばれた者を立てられたという摂理の歴史の歩みを、私たちはよく理解しているのです。


ノアを選んだこともそのためであり、アブラハムを選んだこともそのためであり、モーセを選んだこともまた同じ理由でした。


神はイエス様お一人を立て、4千年の歴史を終結させ、このイエス様歴史上のすべての真剣を晴らし、解消しようとしました。それが神の御心だったのです。しかし歴史的な摂理に従って選ばれたイスラエルの民も、イエス様に反意を持つ状況に置かれました。イスラエルの民だけでなく、その時代に生きていたすべての人類もまた、イエス様に従えないという立場にあったのです。 これまでのどの被造物も同じ状況にあったのです。


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天が存在しないのであれば別ですが、仮に天が存在するのであれば、実体である人間が望む理想の中心や幸福な環境を実現するためには、必ず行う原則的な基準を定める、その基準から始めることが摂理の絶対的な法則であると言えるでしょう。


公式を通さなければ問題を解けないのと同様に、歴史的な懸案を乗り越え、人類の心に紹介できる一つの原則的な基準が立てられなければ、天のどのような幸福があってもいい」同様に、天のような理想や命があっても、それは人間と関係を結ぶことができません。そのため、天の心情を代わりに伝え、天の幸福を代わりに実現し、天国全体を代わりに担えるようにするために、神はイスラエルの民にそのような心情を忘れて理想的、理想的な継承が可能な摂理を進められたのです。 、そのイスラエルが天と実体的に不安く幸福の園、善の園を築くために、神は4000年の摂理の歴史を経てイエス様を送られたということを、私たちは理解しています。


では、イエス様とはどのようなお方でお願いします。4000年の歴史の歩みでは、誰も神の喜びを紹介することができませんでしたが、イエス様の到来によって神の初めての喜びが紹介され、神が許された幸福の園が築かれる可能性があったのです。私たちは、イエス様がそのように歴史的な新しい存在であったことを理解しなければなりません。イエス様の姿こそ、先祖たちが待っているだ一つの実体であり、先祖たちは戦いながら求めようとした希望の存在であったことを、当時のイスラエルの民は理解しませんでした。


また、イエス様ご自身は、先祖たちの希望を再び蘇らせて存在してあり、さらに神の心に深く刻まれていた地上の希望を代わりに考えて存在しました。そして、神が本気で思ってやまなかった天国の理想を人間世界に実現するために送られた神の代理人としての存在であり、人間にとっては幸福の園を築くための私たちの代理人でもあったのです。そのために、イエス様は地上に来られたもの、新しい世界の主人公とはならぬ、新しい世界の民を持つこともできず、新しい世界の生活を開く切り捨てることもできず、新しい世界の社会や新しい世界の国家を築かず去られたということを、私たちは理解する必要があります。


現在、私たちが生きているこの地は堕落した世界です。堕落したこの地上のすべては、神が頂上でおられた実体にはなりえないため、神が喜ばれる形として現れることができません」のです。、私たちが暮らしている今日の生活や環境、国というものは、神の心情に直接見られることができない環境であり、社会であり、国であり、世界であるため、神はこの世界「『裁き』という名前を考えて見られるということを理解しなければなりません。


14


では、神が今待っているのは何でしょうか? それは新しいものを待っているということを理解しなければなりません。イエス様がユダヤ教の前に現れて、選ばれた民として誇示していたパリサイ人たちの前に現れたとき、イエス様は彼らに向かって『あなたたちが主張し、誇示しているものだけでは十分ではない』と言いました。実体として、新しい理念と新しい宇宙観を携えて来られたため、『誰も私を通らなければならない』ということを示すために、またその立場を宣言するために出ていき戦われたのが、イエス様の3年間の公生涯であったということを、私たちはわかりませんでした。


そのようなイエス様の前に集まった多くの群衆や、イエス様についてという弟子たちに対して、イエス様は新しい群衆となり、新しい弟子となることを願われました。はイエス様と出会いながらも、彼は新しい心情、新しい理念、新しい命、新しい幸福を紹介し、それらを築くために来られたと信じて従った人は随分いたのです。地上に来られながらも、自らが新しい理念、新しい主義、新しい生活様式、新しい世界の形を十分供えていました。


このような心情を抱きながら拝見されましたイエス様の前に、ニコデモが現れました。彼はユダヤの指導者であり、選ばれた民を率いる立場にある教師でした。イエス様は彼に『もう一度生まれなければいけない』ことを強調しました。 同様に、今日の私たちもまた、再び生まれなければ運命に置かれているのです。


6千年の歴史にもしも終末があると考えるなら、その時に歴史のすべてを清算しなければ天は見てられます。 天は、この罪に満ちた世界をある時点で裁き、清算そのため、私たちは今日、終末の日を恐れながら信じる道を心得ています。すべて清算し、新しいものを掲げる必要があります。


歴史の歩みを振り返ると、過去に多くの主義や主張が歴史の進歩とともに歩みやってきました。そして、終末の瞬間ある今日、私民主主義と共産主義がどちらも優劣を競い合っている状況にあります。


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今日、天は私たち人間に対して、新たな第二の自分となることを捉えております。そのため、皆さんの良心は、今の自分ではなく、さらに新しい自分を求めてさまよっているのです。良心に従って生きている私たちは、この事実を否定できません。私たちの良心は『このままではいけない、このような生活を続けてはいけない…』と感じ、このような社会や世界の現状ではいけないと感じています。


そのため、私たちは良心の働きによって、自分の心や理想に沿って、心の中に平和をもたらし、心の中で幸福を感じられる新しい自分の姿を、知らなければなりません。


イエス様は、4千年続く命の帰還摂理の歴史を終結させるために来られましたが、何を持って来てくれたのでお願いしますか?それは新しい命を持って来られた。だけでなく、新しい理想も持って来られたのです。 そして、新しい理想を持って来たと同時に新しい命を持ってこられました。


今日、皆さんは、自分の心情を通して天から与えられる運命の流れがある時々、その流れと一体となり、共に動ける生命の躍動を感じることができるでしょうか? 存在、理想的なものすべてを動かせる中心的なの心情を感じられているでしょうか? 万象を抱き、その心情で包み込むような愛の心情を体験できているでしょうか? 私たちは、残念ながらそのような状態には達していません。


神が存在するなら、その神はどのようなお方なのでしょうか? 生命力を持つどのような存在も、今日この瞬間も動き続け、さらに今日も、永遠の未来に向けても動き続ける方です。また、生命を持つ存在であれば誰でも、神と共に永遠にいたい、神を中心に生活を共にし、生死さえも共にしたいそのような理想の範囲から外れることができない世界において、本体として存在されるのが神なのです。創造された万物と深く関わりながら、全宇宙を主管されるお方であるのです。


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今日、私たちは新しい心情を待っています。そして、新しい理念を探しています。その新しい理念はどこで上映するのでお願いしますか?それは、人と人の間で成り立つものではなく、私と神歴史の終末には必ず裁きがあるだろうが、その裁きとは何でしょうか? それは、神と人間が存在していたすべての間接的な条件を清算する「してしまうことです。この間接的な条件が清算されると、そこから人類と神が直接見つめられる新しい歴史が展開されるのです。


こんなことがなければ、神が存在しても意味がありません。もし神がこのような目的を中心に摂理を進めておられないのなら、今日のキリスト教において『裁き』という言葉」 「しかし、『裁き』という言葉があるから見て、この目的を中心に摂理を進められるお神が確かに存在していると考えられます。


私たちは堕落によってすべてを学びました。生命の本体となる主人公を学び、理想の主人公を理解し、愛の主人公を通り抜けた存在なのです。そのため、私たちの心は真の喜びを覚悟生命私たちの心は、より高い宇宙的な理想を待っています。そして私たちの状況は、さらに高次の愛を求めています。


堕落後、人間が探し求めてきた生命力、人間が追い求めてきた理想、堕落した人間の情を中心に絡み合ったその愛というものは、堕落の歴史から出発したものであり、神の理想があった楽園から始まったものではありません。


今こそ、6千年の歴史のすべてを未練なく押し流せる生命力が必要な時が来ています。私たちには、歴史に代わることができる生命力、6千年の間に積み重ねた力や生命の価値を誇ったそのすべてを、ためらわずに押し流さなければなりません。


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6千年の歴史とはどのような歴史でしょうか? それは、生命力を持った人間に回復するための歴史です。 思い切って、今日の私たち、6,000年間サタンが守り、サタンが支配してきた領域で動いていたすべてを押し流すことができる生命力を持たなければなりません。


新しい自分として現れるためには、6000年の歴史の過程で今日まで形を成してきたあらゆる主義や思想があっても、それを押し流せるような新しい理念を持たなければなりません。でなければ、私たちは新しい時代の先駆者として立ち上がることができませんし、私自身が新しい自分として生まれ変わることもできないのです。 6000年の歴史を拒むだけの生命力を持ち、これまでのあらゆる主義「や人間が追い求めてきた理念を押し流せる新たな理念を持たなければ、新しい自分になることはできないのです。


今日ではありません。今日の人間社会において、私たちの家庭が最も情で深く深く考えて歴史は進んでいきました。天もまたこれを求めてきました。でも、家庭が理想を実現するための完全な基盤になれない為に、最終的にはそのすべてが崩壊する運命にあります。


今日の人類は、20世紀の文明を超え、世界を自由に動ける立場にあるように見えますが、実際には、彼らが持つ生命力はこの世界を動かすには非常に穏やか、十分なそして、彼らが感じている状況的な心情も同様に弱まっています。 物質的には世界規模の形が整えられつつあるように見えても、内面的な生命力においては非常に脆弱であるのが20世紀の文明の時代の人々である。


理念に抱いた深い心情を持つ人がいない時代、さらには真実の人間の愛の心情を見つけることができない時代になりました。


18


そのため、家庭を見回しても、夫婦や親子の間において、天の前で誇れる心情のつながりを見つけることができない時代になりました。 夫婦の関係も、兄弟姉妹の関係も、友人の関係も、義理や倫理の法則はもちろん、情の基準までもが崩壊する


さて、今この世界の終末においては、この混乱した世界を収拾できる生命力が必要であり、理念的な価値が必要な時が来たのです。そのような時が訪れました。 生命力を持った愛が全体を見据え、一つの目的のためにが団結できるような形の求められる時が来たのです。


天はすべての人々に向けて御言葉で予告しました。 終末には愛が冷めることを、すべての人が天を断み、背を向けるを、そしてその時には皆が労働苦と苦痛の道で倒れるもし永遠の生命の力があれば、どんな苦しみも問題ではなくなるでしょうが、終末には苦痛に疲れ果て、天に背き、愛の心情が分裂することになると言われていました。 そうです、それが終末の時なのです。


では、天は何を持って再び来られるのでしょうか? 天は、世界を去る天ではなく、新しい理念を持ってこられます。天は生命の力を携え、約束の理念をもって、愛の源として現れるのです。


これは、堕落した歴史の道を織り成し、私たちにはこれまで感じてきたどんな生命の実感よりも、さらに強く、永遠に享受できる生命が必要だということです。その生命が感じられる場所こそが、永遠の安息の場であり、そこは一時も離れたくない場所なのです。


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変貌山で変わらなかったエリヤとモーセ、そしてイエスの姿を見ていた三人の弟子たち、その変貌山にずっと留まりたいと憧れました。皆さんも、こここそが『自分の永遠の幸福』と祝福を享受できる場所だ』と感じ、始まりも終わりも見えないような境地で生きる心情を持ち、そのような経験をしたことがあるでしょうか?


全ての天地万物が頭を垂れることのできる生命の威力を持って現れるとき、その人は万物の霊長となるのです。


その方が思い、見つめた理念の世界は、すべての被造物が安らぎ、憩うことができる理念であり、万物だけでなく、神もそこに来て留まりたいと言う様な理念と心情が必要なのです。それでなければなりません。


また、静かな心情が湧き上がれば、すべての万象がその心情とともに調和し、神もその心情とともに楽しむことができなければなりません。そのような静かな境地があるのです。とはいえ、今日の人類歴史の終末において実現されなければ、神の摂理は破壊の摂理として終わってしまう可能性があるのです。


神がこの地上で行ってこられたすべての摂理が、全て無に戻ってしまうのです。


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神はそのような摂理を行うことができないため、これまでずっと苦労してこられたのです。 だからこそ、今日の人類の前に新しい生命の園、新しい理念の園、新しい愛の園が必ずやってくる。そのことを否定できないのです。


では、今日この終末を迎えるために私自身はどうすべきでしょうか? この問題を解決するためには、私たちのために、また全人類のために来られたメシアをしっかりと掴んで、乗り越えなければいけないということです。私たち人間はこれまでの歴史的な因縁を経てきました。


だから、私たちが6千年の歴史を押し出せる生命の威力を持とうとすれば、6千年の歴史を見つめてきた天的な内容と一致しなければならないのです。2千年前に来て去られたイエス様も、歴史的な天の心情を通して4千年の歴史を押し進められました。


4千年の歴史のすべてを清算した土台の上に新しい楽園を建設しようとされたのはイエス様だったのです。


だから、今日、私たちはそのイエス様の心情を掴んで歴史を清算するために、その心情を掴んで未来を考えなければいけないのです。


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だから、今日、皆さんは自分自身がイエス様のその心情を掴み、当時イエス様が新しい理念でどのような事が現れることを待っていたのかを考えるべきです。


イエスはニコデモに対して、『あなたは生まれ変わらなければ天国に入ることはできない』と言われました。これまで生きてきた私は、結局歴史的に否定されるべき存在です。ただ自分がうまくいった人間以上にその範囲から抜け出すことはできないのです。大事な生涯であっても、否定されるべき生活であり、否定されるべき死んだ人生であったということです。


それで、正常なように見えても正常な人生ではありません。非正常的な生涯を送り、非正常な生活をし、非正常的に死んだので、行くのは地獄だそうです。では、天国とはどのような所ですか? それは、正常に生まれて正常に生活し、正常に死んで行く所が天国です。


イエス様が地獄と天国を分け、地獄の門を閉じて天国の門を開く、天国を建設するために来られたと言えば、イエス様は否定されるような理念を持って来るされたのではないということです。 否定されるような生命を持って来たのではありません。否定されるような愛を持って来られたのではありません。皆さんはそれを知らなければなりません。


では、イエス様が地上に来られたとき、誰を探しに来られたのでしょうか? 4千年もの間、神が苦難の末に選民として立てたイスラエルの民、その民を探す為に来られ、そしてその中で選ばれた人を立てる為に来られました。


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だから、選民の宗教であるユダヤ教において、イエス様は絶対的な存在でした。イスラエルの民とユダヤ教にとって絶対に必要な絶対存在がイエス様であり、絶対にあるべきイエス様が十字架にかけられてしまったと言う認識であるということを、皆さんは知っておいてください。しかし、その社会で絶対必要な存在、肝心なのに消されてしまったのです。


イスラエル民族とユダヤ教のために、絶対にあるべき存在がイエス様であり、絶対にあるべきイエス様に全てがかかっていたと言う事です。


イエス様はなぜこの地に来られ、誰のために来られたのでしょうか? 天に感謝すべき存在として現れましたが、この地に来られたのは、神の歴史心情と通じ合える心情を持ち、歴史の道を歩むことができる人間を作るためであったということです。イエス様は摂理には従いましたが、イスラエル民族は神の心情を受け入れることはできなかったのです。


そのような理由で、イエス様はただ歴史的な心情を掴んで現れ、摂理の立場で動ける天の心情を持って現れました。 彼の心情は4千年の歴史を総合した実体の心情を持って現れたということです。ユダヤ教徒たちはそれを理解できませんでした。


神を求めていくことは、神の心情を通して現れる生命を掴むことであり、神の心情を通して現れる理念を探すことです。 心情を経ない生命はありず、心情を通さない理念はありず、心情を通さない愛はありません。


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イエス様はこの地に来られたとき、心情に関しては4千年の歴史の主人として来られました。その心情は天的な心情を代わりに担ったものであり、彼の心情全体を現わした生命力を持っていたのです。天的な心情を代わりに担ったのは、歴史的な生命の実体であり、歴史的な希望と理念です。


イエス様一人をイスラエルの民よりも、イスラエルの国よりも、ユダヤ教団よりももっと大切にしなければならなかったのです。それなのに捕えて殺してしまいました。イエス様一人を掴むことで、民族的な心情を掴むことができ、イエス様一人を持つことで摂理的な心情を掴むことができ、イエス様一人を持つことで、彼の理念と天宙全体を掴むことができたということを、その時のユダヤ教徒たちは知りませんでした。


今日、私たちはこのようなイエス様を信じています。今、私たちが信じなければいけないのは、死んだイエス様ではありません。「新しい理念と新しい生命を持ち、新しい愛の心情を備えた」実体としてのイエス様です。しかし、そのイエス様はどこに行ったのでしょうか? 亡くなられたのです。


そもそも、その方いつまた来られるのでしょうか? 地上で一時を過ごされたイエス様は、この地に来られたとき、新しい形態の理念を立てなければならなかったのです。新しい生命と心情で絡み合った新しい歴史と民族を築く責任があったとしても、それを放棄せざるを得なかったのです。


再び来るという言葉は、無限に悲しい意味を持つです。しかし、今日のキリスト教徒たちは、この言葉を栄光の言葉だと解しています。栄光の言葉として知る前に、イエス様について予想される、その後に希望として見なければいけない言葉であることを、今日のキリスト教徒たちは知らないのです。を敬うべきです。その方は新しい私を探しに来ているのです。それを彼らは知らないのです。


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今日、私たちはイエス様が来られて去ってから2千年の歴史が経過した、6千年の歴史の終末時代に生きています。では、私たちはどうすべきでしょうか? アブラハムの子孫は、アブラハムの忠誠を見習わなければなりません。モーセに従って出てきたイスラエルの60万人の大衆は、モーセの忠誠を見習わなければなりません。


イエス様が来られて去られてからの2千年のキリスト教徒は、イエス様の忠誠を見習わなければなりません。これがアルファでありオメガなのです。6千年を摂理してこられた神の切なる心を受け入れ、それを解決するために戦う聖徒にならなければなりません。


もし優れた孝子や孝女がいるなら、彼らはどのような人物ですか? 生活面で親が楽しんでいるのを見て楽しんでいる人が孝子や孝女ではないでしょう。楽しみが試されるまでの波乱万丈な過去の進行をその心で感じながら楽しめる人こそが、真の孝子、孝女であると言えます。


それが私たち人間の世界における前提であり、天の理を前にした未来の摂理の意味においても同様です。


では、イエス様はどのような方だったのでしょうか? 4千年の歴史と交換できる新しい復活の実体であったということです。 彼は歴史の中で今まで見たことのない新しい天と地に新しく来られた方であったということです。


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イエス様がサドカイ派の信者やイスラエルの民のために来られたことをもし祭司や律法学者たちが知っていたら、ユダヤ教の信者たちは彼の行うことに反対せず、 『どうぞ行ってください』と言ったでしょう。しかしこれを最後まで阻止されて、30余年の生涯を生きたイエス・キリストは、この地に来て、哀れな思いで生き、哀れな思いで去って行かれたのです。これは人類の罪であって、神の罪でもなく、イエス様の罪でもないことを私たちは知らなければなりません。


たくさんの先人、先祖たちが4千年の間待ち望まれた約束されたメシアの実体が、まさか馬小屋に寝かされていたとは、どういうことでしょうか? 皆さん、考えてみてください。どういうことですか? 今日、多くの人々がクリスマスを楽しいと祝っていますが、それは胸が痛むことです。泣いても、泣いても、泣き止むことができないほど悲しい事です。


メシアの到来を心から待ち望んで、その真心が天に届くような人が当時存在していたなら、来られたメシアをそのようには迎えなかったでしょう。彼を迎えるために「準備をした人」がいなければならなかったのに、そういう人は存在しなかったのです。


私たちはこの終末を迎えたに関して、2千年前の先祖たち、今から6千年前から4千年前にかけて行った相当数の先祖たちに対して、来られたメシアを軽んじて歴史的な罪を行った先祖だったと言う事を覚えておかなければなりません。


さらに言えば、2千年前のユダヤ教徒とパリサイ人たちにとって忘れてはいけないということです。もしイエス様が怒りを感じていたら、それはイスラエルの民に対して怒りだったはずです。ユダヤ教徒たちに対しても怒りがあったかもしれませんが、選ばれた民である彼らを捨て去ってしまうと、天の足場が断たれてしまうからです。


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イエス様は、天が4千年苦労してきた天的なその心情を考えたとき、自分が彼らを恨んで捨てていけば、イスラエルの民に対して4千年ずっと積み重ねられ続けた天の摂理が全て無に帰してしまう事でした。


これを知っていたイエス様は、自分の死に関しては民族的な壁があったが、歴史縁が切れてしまうことが恐れたため、彼らの祝福を祈らずにはいられなかったのです。それは喜んで祝福を受け入れたのではなく、ユダヤ教徒を愛して祝福を迎えたのでも、イスラエルの民を愛して祝福を抱いたのでもありません。そうではなく、全人類のために祝福を受け入れたイエスであることを知るべきです。


終末に決着している今日の私たちは、怒りを抱いて帰天されたイエス様に代わり、彼の死に対する怒りを抱くことができなければ、神の心情を知ることができないということです。


今まで人間たちはイエス様が死ぬために来られたと言われていますが、今日では死の為では無く天のために来られたイエス様であり、民のために来られたイエス様であったのに、そのイエス様を十字架に掛けたので、その日は天地が暗くならずにはいられなかったのです。これを今日私は知らなければなりません。


イエス様は人間の歴史の過程で新しい存在としてこの地に生まれましたが、生活は悲しいものでした。


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それでは、イエス様は誰のために生きられたのでお願いですか? イエス様は自身のために生きたのではありません。しかし、そのように追いやられたのは、イエス様が自分を持っていなかったからではありません。イエス様は生命と理念の力を持っており、熱烈な愛の力を持っておられながら、それらすべてを完全に表現できずに生きた方であったことを理解しなければなりませんん。


哀れな民のために生きて去られました。復活されたイエス様は、生きた実体を持って死んだ私たちを生かすために、今まで苦労してこられたのです。このイエス様以降の30年余りの生涯は誰のための生涯だったのでしょうか? イエス様自身のために生きた生涯ではなく、神と堕落した人類のための生涯だったのです。


さらに言えば、イエス様を送られた神は、今まで誰のために苦労してこられたのでしょうか? 神も今まで自分のために生きたことはありません。堕落して死んだこの民のために苦労してこられたのです。


それでは、終末とはどのような時でしょうか? イエス様がご自身のために生きることができなかったので、そのイエス様のために我々が、自ら立ち上がり、生きることができる時を人類が迎えなければなりません。これまで神様がご自身のために動くことができなかったので、その神様がご自身のために動くことができる時を立てて差し上げなければなりません。そのような時が終末です。


今日この時まで、神様は堕落した血統を受けた人間、死んだ人間たちを生かすために、ご自身のために生きることができませんでした。イエス様も2千年の歴史を経てこられましたが、ご自身のために生きることはできませんでした。神様は死んだ人間たちを抱えて再び生かすために、新しい日を回復する摂理を6千年間続けてこられました。


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それでは今日、私たちはどのような覚悟をしなければならないでしょうか?新しく誕生されたイエス・キリストを見習わなければなりません。さて皆さんは、自分の心に染み込んでくる命の力、命の感触を感じたことがありますか?これだけが全人類が求めるべき唯一の理念だと感じたことがありますか?これだけが最終的に人間を復活させることができる、あるいは新しい歴史を創設することができるものだと感じたことがありますか?もしそうであるなら、皆さんは自分だけのために生きる生活態度を捨て、イエス様が歩まれた道を再び歩まなければならないのです。


復活されたイエス様は地上を見つめ、この地に神の憂いが染み込み、神が成し遂げなければならない苦労の歴史が残っている限り、『神よ!そのすべてを私に任せて、どうか安息してください』と祈りたいというのが、まさにイエス様の心情でした。しかし、神は安息することができませんでした。イエス様が悲しまれた時、神もまた悲しまれ、イエス様が十字架にかけられて亡くなった時、神も死の痛みを感じずにはいられませんでした。


このようにして去られたイエス様を私たちが信じている限り、あなたがたが復活し、終末の審判を超えて復活された主を再び迎える栄光の場所に進むことができるとしても、あなたがたの心は栄光の世界を憧れてはなりません。


イエス様はこの地上に万王の王として来られ、天国の主権を回復し、神の前で栄光の御子として神を慰め、万民を安息させるべきお方でしたが、そのような言葉やそのような心情を持って喜びを感じたことは一度もありませんでした。イエス様はただ私たち人間のために生きて行かれました。


私たちがイエス様の心情の友になるためには、天がまだこの地を抱え、イエス様がまだこの地を抱え、聖霊がまだこの地を抱えているのだから、『天よ、三位一体よ、今度は私がこの地を抱えます』と言える心情が必要です。


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それでは、イエス様がこの地に来られてどうだったのでしょうか?生まれたときも馬小屋で生まれ、生活される間も追われて蔑まれながら生き、亡くなるときも十字架にかけられて亡くなりました。ですから、その『十字架の道』を通過されたその心情を感じることが、今日の統一信徒たちの前に置かれた課題なのです。


栄光があるなら、私が栄光を歌う前に主が父の前で歌い、父が万民の前で歌わなければなりません。その後に初めて私が栄光を歌うべきだというのです。父が万民の前で栄光を歌えるようにするためには、まずこの地が天国とならなければなりません。そのために、私たちがまず神を安息させてあげなければならず、イエス様を安息させてあげなければならないのです。神に創造主としての威信が立てられるようにして差し上げ、イエス様にも救主としての威信が立てられるようにして差し上げるべきです。ここでいう威信とは、一部の民族や限られた民の前に立てることを目的とするものではありません。天と地、天上と地上のすべての存在、そして霊界にいる数多くの霊たち、地獄にいる霊たちまでも、さらにはサタンまでもが『あなたは天の御子です』と言わなければならないのです。


今日のあなたがたは、悲しい歴史の道程がまだ終わっていないこと、審判の時がまだ来ていないことを知っています。それにもかかわらず、あなたがたが天の生命を感じ、天の理念を抱き、天の心情の衝撃を受けたならば、その生命、その感じ、その理念は誰のためのものなのでしょうか?もちろん、あなたがたに天の希望を引き継ぐためのものです。これが天の目的です。


天の憂いとイエス様の憂いがこの民族の前にある以上、私たちにはこの民族の前に残されたすべての憂いを引き受け、イエス様を解放し、神を安息させる心が必要です。そして、そのような心を中心に、あなたがたがどのような闘いの実績を持ち、イエス様の友となる基準を立てなければならないのです。それによって初めてあなたがたは実体を持って復活の段階に進むことができるということです。イエス様がそのように生きて亡くなり、復活されたように、今日の地上でもそのように生きて復活した立場を超えなければなりません。そのため、私たちは新しい自分を見つけるためにイエス様の行かれた道を追わなければならないのです。


神の歴史は新しい個人だけを探すことではありません。新しい家庭を探さなければならず、新しい民族を探し、新しい世界を探し、さらに天国を探さなければならないのです。イエス様が新しい存在としてご自身の人格的価値、天的な人格の基準をこの地に立てていくことができなかったために、地上に来られて去られる際に、新郎新婦という言葉を残されたのです。天の意図は、天的な個体を立て、家庭を探し、その家庭を基準に民族を探し、その民族を基準に国家を探し、その国家を基準に世界を探し、さらに天地を復帰して天国を建設しようというものです。


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それでは、新しい私、復活した私になるための過程を経るにはどうすればよいのでしょうか?神が私たちを見て『私はあなたのために弁明することができ、あなたの命を責任を持ち、あなたの理念を責任を持ち、あなたの愛と心情を責任を持とう』と言える基準を立てる必要があります。


どのようなものが侵入しても、神が責任を持つという基準があれば、打たれてもまた生き返ることができるのです。イエス様にはそれがあったので、この地上の多くのサタンが攻撃しても復活することができました。命の権威、理念の権威、愛の権威が神の心中と通じていたため、その心情を持って代わりに動かれたイエス様の実体は復活することができたのです。


同様に、私たちもこのような心情を持っているならば、私の命の威力を誰が侵すことができるでしょうか?私の理念の威力を誰が侵すことができるでしょうか?私の情的な威力を誰が侵すことができるでしょうか?天とともにいるならば、サタンに何万回打たれても、何万回殺されても再び生き返る権威があるのです。そのような権威を持って審判の前に立たなければならないのです。そうして初めて、新しい基準を持った新しい私として天から認められ、天国の民として認められ、天国の家庭となることができるのだということを皆さんは知るべきです。


そのため、キリスト教では『死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬ』と言っています。今日、私たちが新しい自分になるためには、歴史的なすべてが死んだものと同じだから、終末には自分自身が死ななければなりません。そのため、審判の日が来る前にサタンの世界で死んで、まず神の心情と神の理念と神の愛の力で死の権威を踏み越え、復活の栄光を感じることができて初めて新しい私になることができるのです。


さらにそのような心情を抱き、この地上にどのような暴風が吹いても、堂々と天の命と天の理念と天の心情を抱き、それを溶かし出すことのできる存在にならなければなりません。それによって初めて待ち望んだ第2の私、新しい私、新しい時代の主人公としての資格を備えた姿、新しい時代にふさわしい姿になることができるのです。


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今この地には、天の悲しみが何であるかを理解することのできる人がいませんし、神の愛の心情を通じることができる血統もありません。神の理念を備えようとする民族もいません。神の命が繋がり、何億世代にも渡って神とともに続けて残ることのできる血統がないのです。そうでしょう?


今日まで、歴史的なすべてをサタンが占有してきたために、人間は養子です、養子。血統が異なります。それゆえ、養子の立場から新たな姿を備え、直系の子供となるためには、直系の形態を備えなければならず、つまり天的な命の威力、命の感触、命の理念、命を持った愛の衝撃を受けなければならないのです。そうでなければ、新しい自分として天国の民となることはできず、新しい天国の子供を持つことのできる親にもなれないのです。これを成し遂げることが神の願いです。これが私たちの願いであり、人類の願いであり、イエス様の願いであり、神の願いですが、これまでそれを知りませんでした。


そういった観点から、皆さんもう一度考えてみてください。皆さんには、新しい命を求める心がなければならないのです。もし新しい理念と新しい愛を求めて彷徨わないなら、皆さんは新しい時代に残ることのできる者にはなれないことを心に留めておかなければなりません。






<祈り>


来る人も行く人も数え切れないほど多くいましたが、お父様を代わりに来た者、お父様を代わりに去った者は非常に少なかったことを知りました。この地を中心に愛する人々は多くいましたが、お父様を抱えて愛する者はいなかったことを知りました。


数多くの人々が心で思い憧れたのは希望の園、理念の園でしたが、お父様を抱えてこれを希望の全てだと歌う者はいませんでした。お父様、今日ここに集まったあなたの息子娘たちが、今感じた何かがあるならば、お父様に対する感情を感じさせてください。


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お父様が理念の全てであり、お父様が命の全てであり、お父様が愛の全てであることを知らせてください。そしてお父様のすべての意図を代わることができない私たちであるために、今日お父様はその威信を立てることができる環境で私たちに対することができないことが悲しみであることを知らせてください。


今、私たちがお父様の威信を立てることができる者になれるように許し、イエスの威信を立てることができる者になれるように許してくださったので、地上に悲しみがあるならばそれを私のものとして引き受ける姿にならなければなりません。地上に苦痛があるならば、それは私が引き受けなければならないものであることを知らせてください。地上の私たちは真にお父様の心を通り、イエス様の心を通らなければなりません。お父様の悲しみと困難は私が引き受ける覚悟を持たせてください。そしてすべてを押しのけ、お父様の命の恩恵を感じざるを得ない歴史的な転換期にいることを知っておりますので、今私たちが新しい心の基盤を持つことを許してください。


今、私たちが新しい理念と新しい心情を持ち、お父様と関係を結ぶ基準を持てなければ、歴史の審判とともに清算される運命を免れることができないことを、この時間に悟らせてくださることを切に願い求めます。


イエスもこのために生きてきたことを知りました。そして、30余年の生涯を自分のためではなく、民族と堕落した人間たちのために生きてこられたことを知っています。


今やイエス様ご自身のために生きることができる天国の時代が来ることを知っており、その国の民として、その時代に選ばれた者として立つためには、地上でイエス様が経験された十字架の苦難の道をすべて乗り越え、勝利した実体として復活の栄光を許されなければならない最後の課題が私たちに残されていることを知っています。


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ここに集まったあなたの息子娘たちも、この内容を知ったならば、その実体とその意志に自分を一致させ、その意志の目的を成し遂げるために実体的な供物を準備しなければならないでしょう。父よ、共にいてください。お父様が認めることのできる勝利の祭壇を作り、本来の聖殿を備える息子娘たちとなることを切に願い求めます。


お父様、この時間以降のすべてをお任せし、ご主管してください。この日に行われる全体の予定にも共にいてくださることを切に願い、この民族と家族たちにも一貫した保護の手を離さないでくださることをお願いし、主の御名によって祈ります。アーメン。


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