人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集7(1)

2024年11月30日 16時40分21秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 7 - 1. 故郷を探し求める人生の道
1959年7月5日(日)、旧本部教会


ルカの福音書 15:11-32


1


<祈祷 (Ⅰ)>
死の影の中でもがいていた私たちが、父なる神を慕う心でこの日に再び集いました。どうか私たちの心が父なる神の心に留まることができますようにお許しください。そして、私たちの心と体が父なる神のものとして動けるようにしてください。


父なる神は、無限の労苦をいとわず、時代ごと、世紀ごとにわたり、私たちの祖先たちと共に歩んでくださいました。どれほどのご苦労をされ、祖先たちの道を切り開いてくださったことでしょうか。それにもかかわらず、私たちの祖先たちは天の労苦の功績をないがしろにし、父なる神の心に心配を抱かせる恥ずべき姿をしていたことを、どうかお許しください。


祖先たちが犯した罪が永遠の恨みとして残っていることを私たちは知っています。そして、その悲しむべき堕落の行いによって、6千年もの間、数多くの人類を苦難の中に陥れたことも知っています。私たちは、父なる神の御心を裏切り、嘆き悲しませた歴史的な祖先たちの堕落した心を、再び受け継いでしまうのではないかと恐れています。私たちは、堕落から生じた恨みの峠を越え、祖先たちが残した恨みを踏み越えて進まなければならない時に生きています。どうか今、私たちの心が父なる神の御心に捕らえられることをお許しください。そして、私たちの体が父なる神の体に代わることのできる、栄光のひとときをお与えくださるよう、心から切に願い求めます。


誰が父なる神の御心に一つになり、涙を流して訴えることができましょうか?誰が父なる神の事情を代わりに背負い、戦うことができましょうか?この地上には多くの人々が住み、多様な人類の姿が見られます。しかし、父なる神が胸に抱える事情と御心について相談し合う相手となれる場所も地域も人もなく、そのために嘆きと悲しみの歴史を繰り返してこられた父なる神のことを知る者はほとんどいません。私たちは、このような哀れで無念な父なる神の内なる御心を知っているゆえに、今日、心を開き、事情を打ち明け、すべてを父なる神のものとして接ぎ木する時間を持たせてくださいますようお願い申し上げます。


父なる神よ、私たちのすべてを赦すことのないこの時間を与えてくださり、ただ父なる神と一つに接ぎ木された場所で喜びを享受できる姿となることを、この時間、誠心誠意をもって父なる神の前に訴え求めざるを得ません。


2


この日、愚かで至らない私たちが天を慕い、ひざまずきました。私たちの哀れな事情を知っておられる我が父なる神よ、悲惨な環境の中で共に戦い、支えてくださった父なる神よ、今日、私たちは心を一つにして父なる神の御前にひれ伏しました。どうか私たちを受け入れてください。私たちは父なる神のものとならなければならず、父なる神の御前で導かれなければならないことを知り、心を尽くし、想いを尽くして父なる神をお迎えするために、長年の苦労の道も厭わず歩んでまいりました。そして、困難で苦しい峠道も耐えて越えてきました。


このような道を耐え忍んできたのは、父なる神との縁の歴史を残すためでした。今日ここに集った私たちは、父なる神が探し求める者を無視せず、敵をも排除せず、求める者を友の立場に立たせるために御苦労されたことを知っています。父なる神よ、今日私たちは心を尽くして求めたいと願います。誠意を尽くして探し求めたいと願います。すべてを捧げて父なる神との絆を結びたいと願います。どうか私たちを憐れんでください。求める心を満たし、探し求める願いを叶え、叩く扉の事情を聞き届けてくださいますよう切に願います。


今、足りない私たちが父なる神の御前で待ち望むことがあるとすれば、それは父なる神の御心と共に喜びを分かち合うひとときを持つことです。それこそが私たちの唯一の願いであり、私たちのすべての財産であり、私たちの全生命であることを知っています。父なる神よ、この時間、集まったあなたの息子娘たちを憐れみ、どうかお守りください。


父なる神よ、私たちが進むべき生命の道をお示しくださり、導いてください。今日まで困難の中で私たちを耐えさせてくださり、迫害の中でも耐える力を与えてくださり、倒れそうになる場面でも恨みを残さないように歴史を通じて私たちを支えてくださった父なる神であることを知っています。今日、再び自分の誠意と心情を父なる神に捧げるために集まったあなたの息子娘たちがたくさんおります。どうか彼らの心に直接働きかけてください。そして、彼らの心情の上に再び父なる神が御臨在し、彼らの生命に天の生命が接ぎ木されることをお許しください。


今、心に深く刻まれた恨みを抱きながら、敵に立ち向かって戦わなければならない最後の使命を果たす時が来ました。父なる神よ、どうかあなたの力を現してください。生命の権威を持って私たちの前に現れてください。


3


私たちが死を覚悟して父なる神の恨みを解き放とうとするならば、愛の原則を備えて進むことができるようお許しください。そして、生命の主の御前に立ち、敵に立ち向かい戦う勇士となることができるようにしてください。そのようにして、復帰されたエデンの園において、この地上の多くの生命が私たちを見て生きる希望を見出せる生命の基準を備えた子女となれるようお許しくださることを、心から切に願い求めます。


今日まで信じてきた自分自身の信仰を悔い改める心、自らの行動を振り返り悔い改める心、自分が抱いていた希望を反省し後悔する心、自分自身の内なる心情を笑い飛ばすことができる心をお与えください。そして、自分自身のすべてを否定し、父なる神のものとしてすべてを結びつけ、父なる神を呼び求める栄光の場へと私たちを導いてください。父なる神よ、心から切に願い求めます。


父なる神よ、三千里半島を憐れんでください。この地は歴史を通じて多くの民族の前で蹂躙された地であり、敵たちに踏みにじられた地でありました。この地の三千万の民族が血に染まった歴史の恨みを抱いていることを私たちは知っています。父なる神よ、この民族の心情の上にあなたの心情が重なり、この民族の事情の上にあなたの事情が重なり、この民族が望む希望があなたの希望と結びつくように導いてください。私たちが苦しい過去を恨むところに留まらず、目の前に迫る天の時を迎えるために心配し、訴えることができる息子娘となれるようお許しください。愛する父なる神よ、心から切に願い求めます。


父なる神よ、天的な歴史が残されており、多くの民族に代わってこの民族を探しに来られた父なる神の足跡が、嘆きと悲しみによって引き返される日が訪れないようにしてください。この地が悲しみの恨みを残さず、この民族がそのような悲しみを抱えないようお許しください。父なる神よ、心から切に願い求めます。


眠りについている27億の人類は、父なる神がそれぞれの心に灯をともして幸福をもたらす時を準備しておられることを知りません。この人類を目覚めさせなければならない使命が私たちにあり、人類の複雑な事情を解決し、新しい理想天国を建設しなければならない使命、福祉を築く使命が私たちにあることを知っています。今日のこの至らない、不完全で不足した私たちがひざまずき、恐れ多く申し訳ない心を抱いています。この時間、訴える心情を通じて、天上から驚くべき恩恵をお与えください。父なる神が現れてくださり、そうでない心情をすべて取り除いてくださり、私たちのすべてが父なる神のものとして結びつけられ、父なる神が私たちを『あなたの後継者だ』と認めてくださる時間となりますよう、心から切に願います。


4


父なる神よ、ソウルに残っている家族たちと地方から集まった家族たちが、あなたの御前に新しい祭壇を築こうとして集まりました。どうか、あなたの幼い息子娘たちを憐れんでください。語りかけ、慰めたい言葉は多くあれど、語ることができない事情をお知りください。悲しい時も天の御心のために、孤独な時もただこのひとつの目的のために、迫害される時もこのひとつの目的のために、落胆する時もこのひとつの目的のために、追われ、追い詰められる切ない心情を父なる神の御前に訴えるしかない事情を抱えた息子娘たちがここに集っています。


今日、心を開いて父なる神と語り合い、すべての事情を父なる神の御前に打ち明け、解決することができるようにしてください。困難だった事情をすべて父なる神の御前において、父なる神が喜ばれる姿となり、『たとえ自分が死んでもこの道のために純粋な生ける供え物となります』と再び誓えるこの時間となるようにしてください。父なる神よ、心から切に願い求めます。


言葉だけで天の御心が成し遂げられるのではなく、誠意だけでも成し遂げられないことを知っています。御心に深く触れ、天のために歌うことのできるその心を懐かしく思います。すべてを忘れ、天のために夢中で走り回るその姿を懐かしく思います。そのような懐かしい心情を抱き、父なる神の栄光を歌えるひとときと場所があるならば、恐れ多い心情で頭を垂れたいと思います。どうか、私たちのこの切なる願いと切なる心情をご存じくださり、この時間、私たちのもとを訪れてくださるよう、父なる神よ、心から切に願い求めます。


どのような道であれ、実際に通ったことのない者はその道を知ることができず、体験していない者の言葉には命がないことを知っています。この民族が悲惨な境遇に追いやられていることも、父なる神の哀れみ深い御心を知らせるためであることを私たちは知っています。孤独な場におられ、悲しみの中にいらざるを得ない父なる神の御事情を知っており、私たちを迫害の場に置かざるを得ない父なる神の無念さと嘆きの御心を知っています。


今日、私たちの心が父なる神のものとなるよう、どうか私たちの心に訪れてください。私たちの心情に父なる神をお迎えし、共に涙を流すことのできる存在となりたいと願い、この場に来ました。過去を悔いるのは父なる神を知ったからであり、過去の出来事が無念に感じられるのも父なる神を知ったからです。そして、私たちが悲しむのも天を知ったからに他なりません。父なる神はどのような状況であっても私たちを受け入れなければならず、私たちは復帰の恨みを残した歴史を恨むべき立場にあります。このような自分自身を悟り、今日も明日も懸命に走り続け、天だけを頼りに進むことができるよう導いてください。父なる神よ、このような私たちの事情を誰よりもよく知っておられることを信じています。この日、すべてを忘れ、自らの心を束ねて父なる神の御前に捧げる、生ける捧げ物となることができるようにしてください。


5


この日、地方に散らばり、ひれ伏して訴えるあなたの息子娘たちの心に、新しい生命の贈り物をお与えください。そして、彼らを荒れ果てた地のような場所へ送り、生命の灯をともすことができるようお許しください。光と栄光の灯として現れる礼拝のひとときとして受け入れてくださることを、父なる神よ、心から切に願い求めます。


事情はそれぞれ異なっていても、父なる神の働きによって同じ心情を持つことができるようにしてください。心情が異なっていても、父なる神の働きによって同じ心情に結びつけてください。父なる神よ、このひとときを導いてくださり、父なる神のもの以外のすべてを取り除いてください。そして、三位一体が喜ぶひとときとして整え、あなたにお捧げすることができるようお許しください。すべての言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。




<祈祷 (Ⅱ)>


父なる神よ、私たちが祈りを捧げる前に、私たちの心情をご存じであることを信じています。このひとときが、父なる神が直接臨在される時間であることを知っています。天が私たちのすべてを注視している時間であることを、私たちが感じることができるようお許しください。


労苦に満ちた歴史の道を歩まれた父なる神よ、どうか今日、私たちの目の前に現れてくださり、新しい御言葉で私たちを飾り整えてください。新たな心情で私たちに向き合ってくださいますようお願い申し上げます。不忠なすべてを一掃し、幼子のような心で私たちのすべてをこのひととき、父なる神の御前にお捧げしたいと願います。世の中に染まった一切の意識や主義、観念を父なる神の御前に差し出し、幼子のような心、柔和で謙遜な心を持つことができるようお導きください。父なる神の御手によって再び形作られることを受け入れる謙虚な心を整え、御前にお捧げしますので、どうかお受け取りください。三位一体の神がこの場を導いてくださいますように。


悪魔的な要素を持ち、天に逆らう要素として残るものを、どうか一切お許しにならないでください。勝利の盾を備え、悪魔が侵略する場とならないようにしてください。


6


天の軍勢と天使たちに囲まれる中、喜びの心情でこのひとときを礼拝するこの場が、すべての生命を勝利へと導く祝福の祭壇となるようにしてください。心からお願い申し上げます。


すべてをお任せいたします。私たちの持つすべての主義と心情を父なる神の御前にさらけ出せるようにしてください。そして、私たちのすべてが父なる神のものに変えられるひとときとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。アーメン。






<祈祷 (Ⅲ)>


この時間、頭を垂れるあなたの息子娘たちを憐れんでください。この場で誰が指導者となり、誰が天の御言葉を代行できるでしょうか?この者たちは、父なる神以外の誰も現れることを望んでいません。どうか、父なる神ご自身が直接現れてください。心情を通じて天を体験させてくださり、感じずにはいられない父なる神の御事情を理解することができるようお許しください。また、父なる神の御前で悔い改めずにはいられない心情を持つことができるよう、どうかお働きください。


人間同士が集まる場では、解決しようとしてむしろ絡み合ってしまうことが多いですが、天を中心に集まる場では、心のしこりが解けることを知っています。罪深い子孫のせいで絡み合ったすべてが、根本から解かれる蕩減の歴史、悔い改めの歴史、感動の歴史によって、私たち自身を振り返り、過去を悔い、新しい日を憧れる深い心情を引き起こしてください。そして、その心をしっかりとつかみ、もう一度自らを悔い改める再創造の歴史が起こることを、この時間どうかお許しください。心から願い求めます。


これから御言葉をお伝えしようとしています。この時間、集まったすべての者たちの上に、父なる神の愛と守りの御手を広げてください。語る者の心も聞く者の心も、心情の帰一する一点で動くことを求めます。今日、私たちは身体だけの幸福を望んでいるのではなく、ただ心だけに執着して生きることも望んでいません。ただ、心情をかけて永遠に生きることのできる楽園を望んでいます。日常生活の中でも、心情的な縁のひとつの条件が各自の心の深くから沸き上がり、心情の奥深くに根差す縁が結ばれることをお許しください。父なる神よ、切に願い求めます。


7


父なる神よ、これまであなたの愛する息子娘たちにお与えくださった御言葉は多くあります。この御言葉を中心として心を一つにし、責任と使命を果たすことこそが私たちが進むべき道です。どうか父なる神よ、私たちと共にいてくださり、その歩みの道が遮られることのないよう守り導いてください。この御言葉を通して、父なる神の内なる心情にふさわしい結実を得ることができるようお助けください。さもなくば、与えられた御言葉によって天の御前に後悔を残す息子娘となるのではないかと恐れる者となることを許してください。父なる神よ、切に願い求めます。


この日は聖なる日です。すべての人々の上に祝福の恩恵をお与えください。御心を代わりに担い、心情を抱いて天の御前に訴え、隠れた祭壇を築き祈る息子娘たちが多くいることを知っています。どうか彼らにも祝福をお与えください。また、天の孤独な心情を抱き苦しむ者、蕩減的な解怨の日を待ち望む霊界の多くの霊人たちも、私たちと関わりがあります。父なる神よ、彼らのためにも私たちを通じて良い結果をもたらしてください。


三位一体の神が私たちを取り囲み、見守り、待ち望むその心情の基準に私たちが不足しているならば、その責任を満たさないまま父なる神を呼ぶことのないように導いてください。私たちの責任が満たされた場で「父なる神よ」と喜びを持って呼ぶことのできる者として、この時間私たちを立ててください。そのような恩恵を持たないならば、幼子のように柔和で謙遜な心を持ち、父なる神の憐れみと慈悲の心情を引き寄せる息子娘となれるよう、この時間導いてください。心からお願い申し上げます。


この日、地方に散らばる家族たちにも祝福をお与えください。多くの命が天の時を憂い、訴えています。どうか彼らの前にも生命の恩恵を許してくださいと、切に願い求めるこの時、すべての祈りを主の御名によってお捧げします。アーメン。






<御言葉>


皆さんと一緒に考えてみたい御言葉の題目は、「故郷を探し求める人生の道」です。「故郷を探し求める人生の道」という題目でお話しいたします。今日の御言葉は、そのような内容になります。


8


現在、この世界の人類は平和を切望しています。それだけでなく、自由を享受する個人となり、自由な社会、自由な国家、自由な世界で生きることを、誰もが望んでいます。


私の心に平和がなく、私の心に自由がなければ、真の幸福は存在し得ません。真実の人生の道を歩みたいと願う人がいるならば、その人は真の平和の中で真の自由を謳歌し、真の幸福を享受したいと望むことでしょう。


では、皆さん自身と真の人生の道を歩もうとするこのような理念的な条件を比較してみると、どのような立場にいるでしょうか?これが対立しているのか、それとも一致しているのかをはっきりさせるべき時が、終わりの日ではないかと考えます。


今日、優れた人もそうでない人も皆口をそろえて、この世界は平和な世界ではないと言っています。自由を叫んでいますが、心の底から自由を感じて生きられる環境ではないことを認めています。そのため、私たち人間は理念的に望む幸福な自我にはなっていないという事実を否定することはできません。


このような自分、このような私たち、このような社会、このような世界、そしてこのように歩んできた歴史の道、このように歩んでいる現実について、私たちはあまりにもよく知っています。


9


これを認めるならば、私たち自身は、自分が喜びを見出せる故郷の世界で生きているわけではなく、自分が幸福を謳歌できる故郷の園で生活しているわけでもありません。また、自分が考える通りに動き、主導できる本来の世界で生きているわけではないということに、誰も反論できないでしょう。


それでもなお幸福を願い、平和と自由を望まなければならない私たちの心の動きが、自分自身を急き立て、環境を急き立てているという事実を、皆さんは日常生活の中でよく感じていることでしょう。


このように内面的にも外面的にも、私たち人類が望む故郷の世界はまだ実現しておらず、人類がその世界で生きることもできていないため、今日の私たち人類は故郷を求めて彷徨い、苦しんでいるのです。このような状況にある人類であることを、私たちは明確に知らなければなりません。そのため、優れた人であっても故郷を求めて苦しみ、そうでない人もまた同じように苦しんでいるのです。


人間の姿をしているすべての存在は、誰であれ故郷への道を求めてさまよう歴史的な思想の潮流から抜け出すことができていないという事実を、この時間、皆さんは感じるべきです。


そこで今回は『故郷を探し求める人生の道』という題目でお話を進めたいと思います。


10


これまでこの地上には、聖賢や賢哲たちが現れ、人々に人生の進むべき道を教えてきました。「このように進みなさい」あるいは「このような主義の中で生きなさい」と方向性を示してくれたのです。その中には、哲学が目指す方向性もあれば、ある権力者が掲げた理念による道もあり、また社会的な倫理観を通じて示される道もあります。さらに外的な世界を引き込んで、そこに永遠の理念を結びつけようとする宗教的な方向性も存在します。大きく見ればそのような道があり、小さく見れば「個人を中心に進むべき道」「家庭ではこうすべき道」「対人関係における在り方」といった方向性もあります。


しかし、これらすべては、全体的で天宙的な理念が目指す幸福の時を準備するために動く位置にあるべきです。そのような位置に立つことができなければ、それらすべては天倫を明らかにし、天の御心を完全に立てるその日には、必ず天倫に違反する立場となるのです。


では、宗教が進む道、倫理を中心とした道、あるいは哲学が目指す真理の道において、どのようにして幸福の世界を紹介し、平和と自由を見つけるべきでしょうか?


人間の心情は、誰もが同じです。数千年前に抱かれていた心情も、億千万年後に現れる心情も変わりません。心情の世界には進化がありません。


同じ基盤で動く心情を引き出し、幸福の園を築くことができる世界、幸福を感じられる社会的基準、幸福感を味わえる宗教的意識、そのようなものがこの地上に存在しないのでしょうか?もし存在しないと断定するならば、神はどこにいらっしゃるのでしょうか?そのような場合、その神は人類と共に存在することができないという結論に至るでしょう。


11


しかし、人類を抱えながら摂理を進め、倫理と道徳を立てて善を目指すように導く天倫があるならば、天は必ず私たちと関係し、結びついたすべてを明らかにしてくださるだけでなく、さらに男性も女性も誰であれ、これを心情的に肯定できる日が来るはずです。そのような場において調和し共鳴しながら、この幸福が私たちの幸福であり、この平和が私たちの平和であり、この自由が私たちの自由であると、声高に語れる時が訪れるべきなのです。それがなければ、神も、どれほど偉大な思想家であっても、私たちとは何の関係もないという事実を知らなければなりません。


私たちが人間を分析する際、内面と外面の両方から分析することができます。同様に、社会の実情を見極める際にも、表に現れる社会の組織と、表に出ていない計画された組織があるということです。このように、すべてのものが内と外の両面から展開されているのです。


人間も同様です。人は外的な事情を持ちながら生きると同時に、内的な事情も抱えて生きています。そのため、お互いに内外の事情が通じ合い、同じ立場で心と心が通じ合い、幸福を歌える環境が必要です。そして、その環境を求めて彷徨うことが、私たちの人生の道のりであると言わざるを得ません。


これまでの歴史の過程で、多くの聖賢や賢哲たちが現れては去っていきましたが、自分の人生の道を歌いながら勝利的なスローガンを掲げ、「万民よ、このように進め」と訴えた人は一人もいませんでした。また、「私を頼りにし、私の心情と共に、私の愛と共に、このように生きなさい」と言った人もいなかったのです。


イエス様も愛について語られましたが、愛を中心とした幸福観、愛を中心とした平和観、愛を中心とした自由理念については解き明かすことができませんでした。「私についてきなさい、私を信じなさい、私を見つめて進みなさい」とおっしゃいましたが、ご自身の心情を明かし、「私の心情と共に天の情を中心として歌いながら生きよう」とはおっしゃいませんでした。


12


そのため、時代を超えて多くの先覚者たちが歴史上に現れましたが、心情を中心に幸福を享受できる内容を紹介することはできませんでした。また、天の心情と通じる自由と平和の世界観を中心として、世界を和合させる喜びの内容を提示することもできなかったのです。


それでは、人類が切望する場所とはどこでしょうか?先ほど申し上げた通りです。それは「故郷の世界」、すなわち一度そこに行けば永遠に戻りたいと思わない世界、何度見ても飽きることのない世界、一度感じた感触が永遠に消えない世界、笑いがあれば永遠に笑い続けられる世界。その世界で主人を見つけたなら、その主人を決して手放したくないと思える世界です。そのような場所が存在しなければなりません。


そのような場所こそ、心情を持つ人間一人一人が住むべき場所であり、そのような故郷が人類歴史の終末期において紹介されるべき場所です。それがなければ、今日のこの世界はどれだけ収拾しようとしても収拾がつかないということです。すべてを説明できるような理念や主義を、論理的観点から打ち立てる必要がある時代が近づいているという事実を、皆さんは理解しなければなりません。そのため、私たちは永遠に生きられる故郷の世界、故郷の地、故郷の兄弟、故郷の家族、故郷の親戚、そして故郷の園を懐かしく思うのです。


では、今日、皆さんの中で『私はそのような故郷を見つけた』と断言できる人がいるでしょうか?いません。だからこそ、私たちは必然的にその故郷を探し求めなければならない運命にある存在なのです。


イエス様もこの地に救い主として来られ、『私についてきなさい』とその道を示されましたが、『私と共に暮らそう』と言える故郷の園を築き、それを実現してから去られたわけではありません。神もまた、人類を導いてこられましたが、今日のこの場で『私と共に暮らそう』とおっしゃるのではなく、『私たちが切望する故郷の園に行き、共に住もう』と言われ、そのような摂理を進めておられるのです。


13


神がそのようにされたように、また神の子であるイエス様がそのようにされたように、この地上に生きる今日の私たち一人ひとりも、同じ運命に置かれているのです。


故郷を望みながらもがき歩んでいる皆さん、その日を迎え、喜びを感じたことがあるでしょうか?その日を迎えて『私は幸せだ』と歌った人がいるでしょうか?そのような人は今まで一人もいませんでした。神はそのような日を楽しむことができたでしょうか?神もまたそうではありません。では、その日を迎えさせてくれるような主義があるでしょうか?それもありません。天もそのような日を楽しむことができなかったのです。それが天地の現実なのです。


ゆえに、天地の運命を逃れることができない良心を持つ人間は、共通の目標と理念の下で方向を見つけていく過程の心情を体験することになっています。そのため、皆さんも進めば進むほど幸福への想いは切実になりますが、幸福そのものは皆さんから遠く離れ、さらに遠ざかっていくことを知らなければなりません。皆さんが自由や平和、幸福を心から切望し、それを目指して懸命に進んできたとしても、実際にはそれは掴もうとしても掴めない遠いところで、ぼんやりとしたものとして皆さんの心の世界に映っているだけなのです。


ここで私たちは、どうしても進まなければならない過程の現実を乗り越え、幸福の故郷を歌える存在となる必要があります。そしてその後に、万物と共に調和し、共に歌い、共に幸福を分かち合えるその日を迎えなければなりません。それが歴史の目的であり、どのような宗教があってもその宗教の目的です。また、創造主が存在するならば、その創造主も同じ目標の下で人間を導いているのです。そのような摂理の範囲から外れることのできない人間である以上、どのような個人であっても同じ方向に進まざるを得ないのです。


優れた人もそうでない人も、皆が同じ人生の道を歩んでいるこの状況の中で、皆さん、自分が優れていると誇らないでください。その環境が良いと自慢しないでください。その持っている力が強大であると誇らないでください。それらを持ってしても人生の道を解決することはできませんし、故郷の世界を解決することもできません。なぜなら、今日の人類が目指している方向性は、人間によって作られたものであるため、それでは解決されることがないからです。このことを知る必要があります。


14


天がこのような立場で摂理を進めてこられたとしても、道理や真理の面で私たちに方向を示してはきましたが、心情を中心として私たちの進むべき方向を教えてはくれませんでした。心情の面で、実生活の中で実感できる幸福、日々の生活の中で肌で感じられる平和と自由を示してはくれなかったのです。そのため、神の摂理は人間にとってこれらを遥かな希望の一点として見上げさせるものとなっていたのです。


このような運命から逃れることができない私たちの立場において、優れた人もそうでない人も、悲しい時も嬉しい時も、一日の生活の中で自由があるかもしれません。あるいは一年の生活の中で感情の自由があるかもしれません。そして、生涯において生活の感情的な自由があるかもしれません。しかし、自分を中心として流れている歴史的な心情、生活、理念、価値観においては、皆同じです。天はそのように見ているでしょうし、そのように見なければならないのです。


だからこそ、この人を見ても哀れに思い、あの人を見ても哀れに感じるのです。この哀れな人類を前にし、その哀れな自分自身の姿を教えることができる人が必要な時代が来ました。「自分自身の哀れさを嘆け、自分の哀れな姿を見て涙を流せ。天と地を抱えて泣け。自分が歩む道の終着点はどうなるのか?移り変わる環境の結果がどのような内容を持ち、目的地に到達するのか?」このような問題を解き明かし、「自分自身のことを憂いなさい」と言える指導者が現れるべき時が来たのです。


これまでの歴史時代において、革命的な新しい文化を創造していく過程で、時代を越え、世紀を越えて、新しい理念、新しい目標、新しい幸福、新しい自由、「新しい」とされるさまざまなものを持ち込んできた多くの人々は、時代の壁を越え、哀れな自我を解き明かすために努力してきました。しかし、彼らはその時代に影響を与えた使命者であり、特定の時期や時代に必要とされた使命者に過ぎませんでした。


今日の時代は、新しい世界的な主義の時代です。ですから、今こそ世界の人類を取りまとめ、世界人類の模範となるべき存在が必要です。そして、「あなたたちは行くべき場所を知らず、立ち止まっていることを悲しみなさい」と訴える存在が現れる必要があるのです。


15


イエス様は2000年前にこの地に来られ、ご自身が神の子であると語られました。しかし、その時、選ばれた民として誇っていたユダヤ人たちは、4000年という長い歴史の中で数多くの預言者の恩恵を受けてきたにもかかわらず、待ち望んでいたメシアが現れたことに気づくことができませんでした。そして、イエス様を十字架に送った後になって初めて、彼がメシアであったことに気づき、悲嘆に暮れる立場に追いやられたのです。


それでは、イエス様を救い主と呼びますが、彼は当時の人類の前でどのような救い主であるべきだったのでしょうか?「あなたたちの悲しみを私が引き受けよう」と自信を持って言える救い主であるべきでした。そのためにイエス様はこうおっしゃいました。「すべて疲れた人、重荷を負った人は、私のところに来なさい。私はあなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)これは感謝に値する、素晴らしい御言葉です。その一言は、人類にとって偉大な先覚者の言葉でした。


悲しい心情を抱え、焦燥感を持ちながら自分自身を解き明かそうと努力している若者たちが、この一言を聞いたならば、手を高く挙げてその前に進み出るでしょう。そして、「2000年前に来られて御言葉を残してくださったイエス様、ありがとうございます。イエス様を通して御言葉を授けてくださった神様、ありがとうございます」と感謝するでしょう。また、この精神と思想の流れから生まれた御言葉に対しても感謝を抱くことでしょう。


今、私たちには、この世界を担い、この民族を担い、そして心情の問題を引き受け、その重荷を解き放つことのできる一人の主人が必要なのです。このような背景があるために、イエス様は再び来ると約束して去られたのです。


イエス様がこの地に来られて成し遂げられなかったことは何でしょうか?それは、人類のすべての十字架の重荷を引き受けるために来られたにもかかわらず、人類の心情的な重荷を引き受けることはできなかったということです。そのため、今日、全世界の人類は心情的な重荷をイエス様のもとに再び委ねることを願いながら、『主よ、どうか早くおいでください』とイエス様を待ち望んでいるのです。


16


だからこそ、歴史的に悲惨な環境に置かれている自分自身、私たちが生きているこの世界、そして流れゆく歴史に対し、「あなたたちの悲しみを知りなさい、あなたたちの哀れな姿を知りなさい、あなたたちの切なさを知りなさい。そして、こうしなさい」と語りかける何かが必要な時が来たということを知るべきです。


私たちは未知の人生の道を歩んでいるため、どこへ向かっているのか、どうなるのか分からないという恐怖が内在する世界の中で生きています。では、私たちが進む道の目的地はどこでしょうか?その道がどのようなものなのか、説明することができないまま、私たちは人生の道のりを歩んでいます。無鉄砲に引きずられるように進んでいるのです。しかし、その道中で岩にぶつかるのか、それとも崖から落ちるのかを知りながら進むべきです。皆さんがそのような状況に直面したら、どのような気持ちになるでしょうか?心がかき乱されるでしょう。


皆さんの中には、40年、あるいは70年、80年の人生を歩んできた人がいるかもしれません。「私は幸福を見つけ、幸福だ」と自慢する人がいるかもしれません。しかし、このような人生の道を突破した人は一人もいないでしょう。だからこそ、私たちは皆、哀れな存在なのです。


それゆえ、私たちは自分のこの哀れな状況をつなげ、世界と通じることのできる哀れな状況を抱えた方を探さなければなりません。また、自分に何か孤独があるなら、その孤独が世界と結びつき、何とも言えない息苦しさやもどかしさが心の中に深く刻まれているなら、その切ない心情が世界と通じる場を探し出さなければなりません。そして、それらすべてを解き明かし、私の不幸、私の哀れさ、私の孤独、私の恨みを引き受けてくださる方を見つけなければなりません。さらに進んで、私が待ち望んでいる理想の世界を紹介してくださる方、幸福と平和と自由の世界で永遠に感じたかった心情を満たしてくださる方、その心情が永遠性と結びつき、存在するすべてのものと共に堂々と幸福を生み出すきっかけを与える主体となる方に出会えたなら、その人は人生において成功者と言えるでしょう。


悲しい世の中でそのような一時を感じ、体験させてくれる方こそ、イエス様であり、神でなければなりません。私はそれを信じ、知っています。そして、今日の皆さんも、自分が「知っている」と思って歩んでいるその足跡を見直し、避けて通れない時期を乗り越える秘訣を教えてくれる方を見つけなければなりません。


17


そのためには、自分が置かれている状況を通過し、自分の抱えている希望の基準を超えて事情を理解し、心情を整理できるだけでなく、その内容的な問題を解決してくださる神であって初めて、安心して信頼することができるのです。


また、そのような心情の理念を備えて歩むことで、苦しい人生の旅路で悲しみに直面しても、その心情の世界から生まれる感情を抑えることができるのです。どれだけ打ちのめされても、さらに強くなり、天を裏切ることのない何かがあるならば、それは心情の絆から生まれる何かであり、それがある限り、地獄の最深部に追いやられても征服されることはないでしょう。そのような場所が必ず存在しなければならないのです。神が人間に対して摂理を進められる方向は、そのただ一つの場所、すなわち本然の園を目指しているのです。


このように、歴史を支配する神の摂理は、数多くの曲折を経てその基準を定めてきました。そして、それに従うべき人間もまた、多くの苦難を経て初めてその基準の前に立つことができるのです。それは、存在するすべてのものが目指すべき一点として、存在世界の中で位置づけられているということを私たちは知るべきです。この道を歩まなければならない私たちは、哀れな存在です。


「故郷」と聞いて、皆さんは何を思い浮かべますか?故郷には必ず愛する親がいて、愛する村があり、愛する家があり、愛する兄弟姉妹がいます。私たちが故郷を離れて遠く異国に行くとき、その故郷の範囲は広がり、祖国、つまり国そのものが故郷となります。また、宇宙や天宙という観点から見るならば、この世界全体が私たちの故郷になります。このように、視野が広がれば広がるほど、故郷の範囲も比例して大きくなっていくということを、皆さんはさまざまな生活の中で感じていることでしょう。


それでは、私たちが望む「本郷」とはどのような場所でしょうか?皆さんが「ここが私の故郷だ」と言うような場所ではありません。本郷、心の本郷とは、心が喜びを見出し、心情の安息所となる場所、心情世界の巣となる場所です。このことを知るべきです。


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私たちは神が人間を探し求める過程を「救いの摂理」と呼んでいます。天が私を見つけ出し、人類を見つけ出すというのなら、私は神にこう言うでしょう。「状況的な条件ではなく、心情的な条件によって私を見つけ出してください」と。それはなぜでしょうか?状況というものは千差万別であるのに対し、心情には唯一の条件しかないからです。このことが、真の信仰観を求める人々の姿勢ではないかと思っています。


イエス様はおっしゃいました。「天国はどこにあるのか?あなたの心の中にある」と。では、自分の本当の本郷はどこにあるのか?それは生活の中ではなく、心の中にあります。天国は心と縁を結ぶことのできる歴史的な背景があるため、私たちは心を通してその本郷を懐かしむのです。心に感じる感情と共に、断ち切ろうとしても断ち切れない縁が絡み合っているため、その本郷が懐かしくなるのです。だからこそ、私たちの人生の旅路において、本然の心と縁を結ぶことのできる本郷の生活を送らなければなりませんし、本郷の園を感じなければならないのです。


では、そのような場所、今日私たちが住んでいるところではない、歴史が望んできた真の幸福の園とはどのような場所でしょうか?また、真の平和と真の自由を紹介できるその本郷には、誰がいるのでしょうか?考えてみてください。その本郷には誰がいるのでしょうか?そこには、偉大で尊厳に満ちた神がおられるでしょう。また、私たちが待ち望んできた主がおられるでしょう。そして、聖霊がそこにおられるでしょう。また、歴代の摂理史の中で現れて去っていった多くの功臣たちもそこにいるはずです。そうではありませんか?さらに、世界中の誰とも比べることのできない忠臣たち、そして孝子や孝女、節婦たちがそこにいるでしょう。しかし、皆さんが心の縁を広げ、理念的な感覚を持たないならば、その世界と縁を結ぶことはできないのです。


だからこそ、堕落した人生の道を歩む哀れな人間たちに対して、多くの聖賢たちは三綱五倫などの倫理を教え、モーセは十戒を示しました。また、多くの道を歩む者たちも、その一端を切り開くために努力してきたことは間違いありません。しかし、人類が故郷への道を進む上で、心の畑(心田)を開発する使命を持たない指導者、そのような宗教、そのような倫理、そのような理念は、この宇宙から退場させられるでしょう。退場しないと言っても、神が退けるでしょう。


皆さんは故郷を懐かしみ、その故郷を探し求めています。私たち人間が具体的な存在として、遥か彼方の故郷を目指して進んでいるとするならば、皆さんはその旅路のどこかの地点にいるでしょう。地獄の最底辺から天国の最果てまで、その道のりとは何か?それは故郷を探し求める道のりです。この道が故郷を探し求める旅路であることを知るべきです。


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もし皆さんの中に、70歳、80歳になり老いを感じている人がいるならば、自分自身を振り返って、「私は故郷の園からどれほどの距離にいるのか?」ということが心配の中の心配であり、憂慮の中の憂慮であるはずです。それでは故郷とはどのような場所でしょうか?それは、その場所を訪れた人を喜びの腕を広げて迎え入れてくれる場所です。その場所が懐かしいのです。


故郷を探し求める旅路では、不当な事情や痛ましい出来事、あるいは耐えがたい立場に立つこともあるでしょう。しかし、故郷を求めて進む者である以上、そのような事情は必然的にあると理解している人ならば、その道を引き返すことはないでしょう。そして、先祖たちが築いてきた歴史的な功績を無視することもできないでしょう。また、私たちの人生の道を切り開くために努力している指導者たちの功労も無視することはできないでしょう。


私たちは進むべきです。年を重ね、体力が衰える前に進むべきです。私たちは人生の旅路を切り開かなければならない存在です。ここで問われるべきは、「変わらない毅然とした姿勢を持ち、心情と心の中心を備えているか」ということです。この問いこそが、今日の皆さん自身が立ち向かい、答えなければならない中心ではないでしょうか。イエス様もこれを指摘して、『天国はあなたの心の中にある』とおっしゃいました。


本郷、それは懐かしい両親がいて、懐かしい兄弟がいて、懐かしい山河がある場所です。私たちが本郷を懐かしく思い、そこを目指して進むならば、喜ばない存在物は一つもない場所です。その場所を目指して歩む自分自身を振り返ると、「今日の私の生活は何と哀れなのだろう」「今日の私の人生の道は何と惨めなのだろう」と感じることでしょう。しかし、本郷を目指して進む道中である以上、無念さがあり、悔しさがあり、涙を流しながら生死を分ける決断をしなければならない瞬間があるとしても、本郷を想うその心を忘れて倒れてはいけません。これが私たちの人生の道であることを忘れてはならないのです。


すべての聖賢たちは、本郷を目指す道中で心と理念の世界をさまよいました。彼らはその世界を見つけるために、まず人間的な事情をすべて捨て、人間社会で情によって結ばれていたすべての環境さえも断ち切り、もがき続けました。私たちの先祖たちを挙げるまでもなく、天を代わって歩んだ預言者や聖賢たち、さらにはこの問題を解決し本郷を探し当てることを目標として来られたメシアであるイエス様も、この道を歩むために苦しみ抜きました。


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イエス様は、反対されて押しのけられていたわけではありません。反対や迫害が恐ろしくて静かな山河を訪れ祈りに逃げたのでもありません。ローマの圧政が怖くて、十字架の道が恐ろしくて、自らが歩むべき人生の道を引き返そうとされたのではありませんでした。イエス様は、必ず行かなければならない人生の旅路において、どのような状況においても進み続け、どれほど哀れな立場に置かれても進まなければならないと覚悟された方でした。


イエス様は、このように本郷の心情を感じ、本郷の事情を理解された方でした。そして、本郷が歓迎する主人公としての役割を果たさなければならないメシアだったのです。ですから、イエス様は本郷が懐かしくなればなるほど、その心の世界で本郷の世界が近づいていると感じれば感じるほど、悲惨な心情を耐え忍んで歩み続けられたのです。もし敵や悪魔がいるとするならば、この道を進む過程で最終的な決戦があることを私たちは知らなければなりません。


だからこそ、故郷への道を目指さなければならない世界的な新しい理念世界に直面している民主陣営の前には、望まない敵の槍や剣が立ちはだかることでしょう。しかし、それがどれほど妨げとなったとしても、民主陣営は天と地の運命の方向に従い、勇敢に進まなければなりません。


したがって、今や民主陣営は世界的な決断を下さなければなりません。一つの国家も決断を下さなければならず、民族や社会の機関だけでなく、一個人もまた決断を下すべきです。そして、故郷への道を進むにあたり、自信を持てる姿を備えなければなりません。天もそのような人を求め、またそのような家庭、社会、国家、そして世界を求めてきたことは間違いありません。


私たちが待ち望む再臨の日が来るとしましょう。理想が実現するその日が来るとしましょう。その日はどのような日でしょうか?傷つき、追いやられ、疲れ果てた足を引きずりながら、天の情を求めて故郷への道をもがきながら歩むその姿を見て、天はどのように対応するでしょうか?


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皆さん、考えたことがありますか?私はこんなことを考えました。「哀れなお父様が笑顔になれるその一瞬を見たい。私が慕い、しがみつきたかったその心情を理解し、私を抱きしめて共に涙を流してくれるお父様に会いたい」と。その時、その心はどのようなものになるでしょうか?


人生の道を歩む中で、他の誰よりも悲惨な環境で傷を受け、不当な扱いを受け、無念さを感じながら、それでも自分のためではなく、父のために、故郷を求めてその道を歩み続ける人がいるならば、天はその人を抱きしめて共に慟哭するでしょう。


私たちは故郷を求めて彷徨っています。進まなければならない運命の道のり、避けて通ることのできない過程にとどまっている存在です。どれだけ自分が賢く、優れていると豪語する人がいたとしても、『万民よ!全宇宙よ!私の言葉に従え』と堂々と言える人がいないことを私たちは知っています。


では、今日、この人生の旅路で故郷を目指す足をどこに向けるべきでしょうか?そこは、真実の愛の父母がいて、真実の愛の情を分かち合える巣のある場所です。その場所が、私たちが留まるべき場所であり、私たちが安息を得るべき場所です。また、その場所が、幸福と希望に満ちた平和の世界であり、自由の園となるでしょう。皆さんがその場所を慕う心が強くなればなるほど、この地に対する怒りや憤りの心が大きくなるでしょう。そして、『地上において清らかに生きよう』という決意が強まるはずです。過去の歴史的な偉人たちは、皆そのように生きた人々でした。


今日でも、世間では失った親を探すために千里の道を遠いとは思わずに駆けつけ、愛する人に会うために万里の道を厭わずに探し求める人がいます。そのような人々に比べて、もし皆さんが故郷の園を探す思いに欠けているならば、反省しなければなりません。皆さんの人生の中で、ある時、ある一瞬、ある一期間でも、故郷の道を探して彷徨ったことがありますか?もしそのような思いに無責任であるならば、そうではいけません。


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その道に責任を持ち、その道に責任ある生活の一部を刻むことができてこそ、故郷の歴史を再創造し、故郷の摂理の意図を立てていく天倫の前に、面目を立てることができるのではないでしょうか?そのように歩んだ先祖たちは歴史的な人物となり、そのように歩んだ道主たちは宗教を形成することができたのです。ですから、今日の私たちも故郷の父母を慕い、故郷の山河を懐かしみ、故郷の家庭を恋い慕い、故郷の世界を懐かしく思わなければなりません。そのような時が訪れたのです。


今日の共産主義者たちは唯物史観を中心として世界的な故郷を夢見ていますが、それでは解決できないということです。


皆さん、外的な事情が通じる世界ではなく、内的な心情が通じる世界で出会った人は、その人が黒人であれ白人であれ黄色人種であれ、永遠に手放したくないと思うものです。そのような世界の人に出会い、そのような場所の人を見つけたなら、食べることや着ることを超越して、その感情の中で生きることができるでしょう。


どのような理想主義があるとしても、その主義を通じて、またどのような思想があるとしても、その思想を通じて、どの程度まで感情に深く影響を与え、人を動かす力を持つかによって、その主義や思想が評価され、判断されるのです。


キリスト教の偉大な点は、イエス様を信じた後に心情をさらけ出し、涙を流して通じ合える感情が湧き上がるところにあります。この感情が歴史の過程においてキリスト教の形態を変革してきたのです。キリスト教が変革の段階に入るためには、心情を通じる人が必要であり、また、その人が変わらない心情の中で動くことのできる感情、すなわちキリスト教主義が必要だったのです。


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どのような思想家でも、ある思想に感化され、自分の生活感情を支配し、瞬間を超え、時間を超え、永遠を基準として動くことができる感情を見つけたならば、彼は幸福な人と言えるでしょう。それは天地の歴史観において合格者であり、天倫を動かす天情観においても合格者であると言えます。


ですから、世界的な理想世界を求めて歩む人がいるとすれば、その人は地上の心の世界に安住することはできないのです。歴史を越えて進む旅路において、その人は安らかな生活を送ることができません。偉人たちの人生を見てみてください。すべて同じです。


このように考えると、霊界におられるイエス様もまた哀れな方です。霊界におられながらも地上を抱えて『お父様、地上の人間たちをお許しください』と祈られる哀れな方です。なぜイエス様が神に栄光をお返しする存在ではなく、祈り続ける存在であるのか。それは、地上で歩むべき人生の道をすべて歩み切ることができず、再び来られる運命に置かれているからです。だからこそ、天国ではなく楽園にとどまっておられるのです。


イエス様は神の御心を中心としてご自身だけの心情の中でその喜びを感じることはできましたが、人類と共にその喜びを分かち合うことができなかったことが、イエス様の深い恨みなのです。


では、再臨のその日は何が異なるのでしょうか?それは、神の御心を中心として、人類が自らの心情と共に天に対して喜びを感じる時間を持つことができる点が異なるのです。このことを求めて歩んでおられるのがイエス様の事情であることを、皆さんは知るべきです。


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では、今日の皆さんは、自分の心の世界の中でそのような面を探し求めたことがありますか?『私はたくさん学び、知識が豊富だ。この程度であれば、どこへ行っても困ることはなく、教師として尊敬され、威厳を示すことができる』と自負する人がいるかもしれませんが、大きな声で誇らないでください。


また、『私は学がなく、無知でみじめな存在だ』と言う人がいるかもしれませんが、人生の旅路においては皆同じです。優れていようと、そうでなかろうと、差はありません。


なぜでしょうか?人間が心情を基盤にして動くという点では、皆同じだからです。大統領が子どもを愛する心と、一介の労働者が子どもを愛する心は何ら変わりありません。むしろ、立場の低い人々の方が子どもや配偶者を愛する心が強いことを知るべきです。彼らは自分に対して不足していると感じる心がより強いのです。自分が親としての務めを果たせていないから申し訳ない、夫としての責任を果たせていないから申し訳ない、という心を持っています。しかし、自信満々の人々は、『私はやるべきことをすべてやっている』と言います。


心情的に見たとき、どちらがより高い心情と言えるでしょうか?むしろ立場の低い人々の方が、より高い心情に立つ可能性があるのです。ですから、人生の旅路において誇るべきではありません。


そうした点で、皆さんはその縁と共に、本来の心情と共に、何かを感じ取り、『ありがとうございます』と感謝しなければなりません。イエス様もそのように歩むようおっしゃいました。また、いつも祈りなさいともおっしゃいました。なぜ、常に祈りなさいとおっしゃったのでしょうか?それは、道を外れてしまうかもしれないからです。昼も夜も確信を持って正しい道を歩める人には祈りは必要ありません。祈りは必要ないのです。


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イエス様がゲッセマネの園で祈り、オリーブ山を訪れて孤独な心情を天に訴えたのは、何のためだったのでしょうか?それは、イエス様がこの地に来られた目的である心情を中心に、人類と共に喜びを分かち合うことができたならば、ゲッセマネの園を訪れ、天に訴える必要はなかったでしょう。しかし、それが実現しなかったのです。どうしてそのようなことが起こったのでしょうか?


故郷を求めて歩む人生の旅路において、自分自身に確信を持っている人がいますか?もし確信を持ち、心情に浸りながら進むことができる人がいるなら、その人は前に出てみてください。それこそが審判であり、もし神がいらっしゃるならば、審判の日にそのような人を召喚するのではないかと思います。


人生の道を歩む中で、自分に確信を持ち、心情に浸って進んでいった人は、歴史がその人を支持します。イエス様もまた、自分に確信を持ち、神の御心に浸りながら生き、最終的には十字架を背負っていかれました。民族的にも、その民族の運命と進むべき方向を理解し、自分がその責任を果たすために命を賭けて進んだ人々は、忠臣や烈士と呼ばれました。歴史の流れがそのような人々の動きによって進んでいることを否定することはできないのと同様に、天情を求めて進む道もまた同じです。


このような故郷を懐かしく思う心を、誰が止めることができるでしょうか?心から湧き上がるその懐かしさを、誰が抑えることができるでしょうか?どれほど知識を持ち、多くのものを備え、自信に満ち溢れている人であっても、心から心へと新しい何かを目指すこの心を拒むことはできません。


そのような感情を持たない人には、理想的な感情を内包することはできません。そのような感情を切に待ち望み、その感情に浸りながら語る人だけが、今日のどのような主義や思想であっても導くことができるのであり、そうでない人はそうすることはできません。


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では、人類の前に立つ指導者とはどのような人でしょうか?その人は人生の旅路において、自分自身に確信を持つべきです。その確信は、人間の前でだけではなく、神の前で、そして被造物のすべての前でも、自らを立て、神の心情に浸りながら進むことのできる人でしょう。


そのような心情に浸る人がいるならば、誰もがその人のもとに行き、寄りかかって安らぎたいと願うでしょう。そのような内容を備えた人格者がいるならば、誰もがその人を崇拝したいと思うでしょう。それは、本然の心情の発露として、そのような道を進むことが運命であると感知し、その道が必ず進むべき旅路であることを知っているためです。心は常にその方向を目指し、動かずにはいられません。そのため、皆さん、落胆しないでください。そして、誇ることもしないでください。


同じ人生の道を歩む中で、悲惨な姿を見せている哀れな事情を理解し、私たちの同胞がその道で倒れるのを見て涙を流す人は、天に近い人です。兄弟たちが人生の旅路で挫折するのを見て、『お前はいつ来るのか』と心を痛める人がいるならば、その人は心情の指導者でしょう。今日の信徒たちはそのような指導者を、羊たちはそのような牧者を求めています。


そのため、イエス様は人間を見て涙を流されました。『私のもとに来なさい』と涙を流しながらおっしゃいました。また、エルサレムを見て嘆かれました。「エルサレムよ、エルサレムよ、預言者たちを殺し、お前に遣わされた者たちを石で打つ者よ。雌鶏がひよこを翼の下に集めるように、私はお前たちの子らを集めようとしたが、お前たちはそれを望まなかった」(ルカ13:34)と、ご自身の悲しい心情を訴えられました。


今日、この民族を抱きしめたいと願う青年男女はいますか?この民族が進むべき道を切り開き、ある目的地に近づけようとする使命感を抱き、それに対する責任を感じている人はいますか?そのような人がいるならば、その人は、この民族が苦しんでいる現実を見つめ、イエス様が天に向かって訴えながら流された涙が、この民族を支え、今日まで歴史的な縁をつなげてきたという事実を知るべきです。そして、その人もまた、イエス様のように、この民族のために天に向かって訴えなければならないでしょう。


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今日、歴史的な潮流もまた、未来の民族の展望も同様です。人類が天理的な時代を待ち望んでいることを否定できないのであれば、その過程で私たち自身もまたもがき苦しむ存在であることを知るべきです。したがって、自分が歩む人生の旅路において、自分自身に確信を持つ必要があります。それがなければなりません。


その確信を持ち、希望の故郷を懐かしむ心情に深く浸りながら走り続ける人がいるならば、その人はこう言うでしょう。「山よ、遮れ。海よ、立ちはだかれ。敵よ、現れよ。私の進む道を誰が阻むことができるのか?」と。迫害の風が吹いても、それは一時的なものです。試練の矢が飛んできても、それも一時的なものです。死の恐怖が襲ってきても、それも一時的なものと理解し、その一時を乗り越えるために走る人、さらなる大きな一時を見つけるために自分の小さな人生の一時を忘れて駆け抜けることができる人、それこそが人生の旅路における成功者です。その通りではありませんか?


先ほど述べたように、皆さんが歩むその姿を見て、神が涙を流されることが必要です。そして、イエス様が十字架にかけられて亡くなられた時、なぜ神が顔を背けられたのかを知るべきです。それは喜んで顔を背けられたのではありません。死の道を進みながらも故郷の御心を思い、故郷の父母を気遣い、孝行を果たせないことを恐れるイエスの心情、それに対する天の深い痛みが、骨の髄にまで染み渡る瞬間だったからこそ、神は顔を背けられたのです。そうではありませんか?


そのようなイエス、その心情の究極点が天地を貫く基準に立ったため、死の境界を乗り越えて復活されたのです。皆さんも、そのような心情が動かなければ、死の世界を振り払い、勝利の歓喜を歌うことはできず、勝利の王者となることはできないということを知るべきです。


今日、そのような方をお迎えしようと考えるならば、私たちはもがき続けなければなりません。そのような感情、そのような心情に結びつき、それに浸ることのできる一貫した生活内容を持っていないならば、私たちはもがき続けるべきなのです。歴史の旅路を歩んできた多くの先祖たちももがきました。歴史を導いてきた神もまたもがき続けてこられました。それなのに、私たちがどうして動かずにいられるでしょうか。


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その道を切り開くために、イエス様はこうおっしゃいました。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。叩きなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)もし安楽な場所で、すべてが整う天の摂理であるならば、このような言葉は不要ではないでしょうか。


苦しい人生の道を歩んでいく中で、自分では正しい目標に向かって進んでいると思っていても、実際には逆の方向へ進んでいたということです。これが天の悲しみなのです。親が望む方向はこのようなものなのに、子が放蕩者となり、反対方向へ進んで苦しむ姿を目の当たりにする親の心情を知らなければなりません。そのような子どもの姿を見つめる親がいるならば、その親は慟哭することでしょう。


今日、歴史の流れの中で、人間を中心に進んでいく方向、人間たちが進むべき方向は、天が目指している方向ではなく、その反対の方向です。そのため、天はこのような人間たちを引き戻すために、彼らの進む道を阻むことを何度もしてこられました。見てください。神はノアを立てて家庭的な基準を確立し、家庭の正しい理念を探そうとされました。そして、神は人類を滅ぼす覚悟であっても、誤ったすべてのものを阻止し、天が目指す方向にノアの家庭を導こうとされました。しかし、ハムの失敗によってその家庭を完全に取り戻すことはできませんでした。


アブラハムはどうだったでしょうか?故郷を探し求めるために選ばれたノアも哀れな存在でしたが、祖国の地、カルデアのウルを離れ、祝福の地であるカナンを目指して彷徨ったアブラハムもまた哀れでした。そうではありませんか?アブラハムだけではなく、ヤコブもモーセも同じです。しかし、本然の民族を回復するためにモーセをエジプトから荒涼たる荒野へと追いやった神の心情はどうだったでしょうか?


モーセの生活以上に、より深い痛み、より大きな無念、そして嘆きに満ちてイスラエル民族をエジプトから追い出した神の心情を誰も知りませんでした。一体誰がそのような神の心情を理解していたでしょうか?さらに、民族を導いていたモーセが神の心情に浸り変わらずに進んでいたならば、岩を二度打つことはなかったでしょう。しかし、モーセが天の心情を通じることができなかったために、彼自身が民族の道を阻む要因となったという無念の事実を私たちは知っています。


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本然の家庭を見つけるために神が追い出されたノアも、祝福の地を確立するために追い出されたアブラハムも同様です。


では、故郷の地を恋しがったヤコブはどうだったでしょうか?エジプトで死が近づいたとき、彼は自分の骨を故郷の地に埋めてほしいと遺言しました。それほどまでに故郷の地が恋しかったのです。死んだ後も、敵の地にその体が腐り流れ出ることすらも許したくなかったのです。このような選民としての誇り、選民としての感情を深く感じていたのがヤコブだったということを知るべきです。


再びモーセに目を向けてください。本然の民族を探し求めるためにモーセを追い出された神は、彼を通してどれほどその民族を導き共に生きたかったことでしょう。しかし、モーセはその願いを成し遂げることができませんでした。


全人類に故郷の家庭を取り戻し、山河を取り戻し、その地に民族を築き、国家を建て、世界を回復させようとする神の御心が、選ばれた人々によって果たされず、失敗したとしても、その御心はより大きな範囲で条件的な縁を結びながら進んでいくということです。その結果、本然の民族を探し求めようとする神の御心は延長されても、天はこれを収拾し、本然の国家を建てるためにメシアを送られました。しかし、そのメシアはどうなったのでしょうか?


イエス様は、民族を中心として神が主導される国家の形態を整え、天の主権をこの地上に確立したいとどれほど切実に願われたことでしょう。しかし、民族の責任者として来られたイエス様をイスラエル民族はどのように扱ったでしょうか?彼を中心に一つの本然の国家を建設し、悪魔に向かって行進する天軍となり、神の精兵となるべきであったイスラエル民族はどうだったのでしょうか?

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