老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

言葉の語源など その(44) ~「くわばら・くわばら」~

2020年08月21日 19時06分00秒 | 面白い言葉や語源など
 今日の夕方には大阪では久しぶりの夕立で、雷鳴と共に激しい雨となり、今までの猛烈な暑さが少しは変わってくれるのかという期待を抱きましたが、今日はこの雷に関するお話です。


 最近は余り聞かなくなりましたが、昔の年寄りは雷が鳴り出したり、災害などを避けたい場合に、おまじないの様に「くわばら くわばら」と言っていた記憶があります。

 すっかり忘れていたのですが、先日の毎日新聞夕刊の「語源由来巡行」というコラムの中で、この「くわばら くわばら」の語源として、何と大阪府和泉市の西福寺というお寺に関係があるとの記載がありましたので、早速調べて見ました。

◆Goo辞書に拠ると、「くわばら」は、
1) 桑を植えた広い畑。桑田。
2) 「くわばら、くわばら」の形で、
  ・落雷を防ぐために唱えるまじない。
  ・嫌なことや災難を避けようとして唱えるまじない。
とあり、2)の補説として、下記の説明もありました。
“死後に雷神となったという菅原道真の領地桑原には落雷がなかったところからという。また、雷神が農家の井戸に落ちて農夫にふたをされてしまったとき、雷神が「自分は桑の木が嫌いなので、桑原と唱えたなら二度と落ちない」と誓った、という伝説によるともいう”とありました。

◆このコラムのきっかけとなった、和泉市桑原町にある西福寺に伝わる伝説については、同寺によれば、
“東大寺再建をはじめ数々の偉業を成し遂げた俊乘坊重源上人が、日照りのため雨乞いをしていました。するとそこにすごい雷鳴と共に、雷が井戸へ落ちました。そして老婆が気丈にも石で井戸を塞いでしまいます。助けを求める雷に、上人は「もう二度と桑原には落ちてはならぬぞ」と言って逃がしてあげました。以後、「くわばら、くわばら」と唱えると、雷の方から逃げていくようになったといわれています。”とあります。

◆「大阪再発見」というHPでは、同上の西福寺の説明と共に、
・兵庫県三田市桑原 欣勝寺の雷井戸伝説
・京都府下の「桑原」と云う地名の道真の所領での雷伝説
・長野県千曲市桑原の菅原道真に関わる雷伝説
など数多くのクワバラと雷伝説が語り継がれているとのことでした。

◆上記の兵庫県三田市欣勝寺の雷井戸伝説は、和泉市西福寺の伝説とは少し違っていて、
“雷の子供が、うっかり足を滑らせて、三田の欣勝寺の井戸に“ドスン!!”と大きな音を立てて落っこちてしまいました。動こうともどうしても外に出られないので、「助けてくれ~!!」と大声で叫びました。
この声を聞いた和尚さんが井戸を覗き込むと、やんちゃな雷の子供が落ちているので、あわててふたをして閉じ込めました。雷の子供は「助けておくれ。桑原には二度と落ちません!!」と言ったので、和尚さんはもう落ちないことを約束させて、逃がしてやりました”というものです。

◆更に京都の伝説については、WIKIPEDIAに拠ると、
どうやら京都市中京区の桑原町という所に関するようで、京都市歴史資料館によれば、「桑原」とはかつてあった館の名前に由来するといい、菅原道真と関連する地名であり、雷避けの呪文として知られる「くわばらくわばら」と関係があるとする説があるとの事です。
更に不思議なことに、この京都市中京区の桑原町は京都御苑と南側の京都地方裁判所・京都簡易裁判所に挟まれてて、郵便番号604-0976というはっきりとした地名なのですが、ここには住宅はなく、住民もおらず、町内を丸太町通が通り、町のほぼ全体が道路で建物は一つも無いという不思議な町の様です。


 このように、これらの伝説はいずれも桑原という地名が関係しており、この地が他に比べ落雷の数が極端に少なかったことなどから生まれたものと思われますが、日本の伝統的産業である養蚕を支える桑原(桑畑)は日本各地にあったので、このような伝説はあちこちで起こったのでしょう。

 また、菅原道真については、大宰府に流され903年(延喜3年)にその地で亡くなった後は怨霊(雷神)となり、京都御所を始め、都の各所を襲ったとされ、雷とは非常に関係の深い人です。(まさ)

チョウトンボ

2020年08月20日 19時10分17秒 | 散歩中に見かけた風景
 熱帯魚の餌が少なくなったので、昨日は暑い中を淀川の川向うにあるコーナンまで出かけました。
その帰路に、淀川河川敷に降りたのですが、ワンドの近くで珍しくチョウトンボの群れに出会いました。

 子供のころは、田舎の小川近くで良く見かけたましたが、飛ぶときに時々チョウのように翅をヒラヒラさせますし、緑青色の光沢のある幅広い翅を持った大好きなトンボです。

 最近ではごくまれに1~2匹が飛んでいるのを見かけることはあっても、昨日のは5匹以上が群れで飛んでいたので、思わずカメラを向けました。

 しかし、いかに動きの遅いとチョウトンボとはいえ飛んでいるトンボをデジカメで撮るのは難しく、諦めかけた時に、一匹が草の上にとまってくれ、やっと一枚パチリ。

 しかし、後ろの翅をたたんでいていて、チョウトンボ特有の姿が映っていませんでしたので、「昆虫エクスプローラ」で見かけた完全な姿も併せて紹介しておきます。(まさ)


数匹が乱舞

やっと一匹が休んでくれました

「昆虫エクスプローラ」からの写真

近くで見かけたフヨウの花

ゲッキツの花

2020年08月19日 19時25分03秒 | 自宅の様子(ベランダ/室内園芸)
 昨夜戸締りを兼ねてベランダの窓を確認していると、かすかに柑橘の香りが・・・
見上げると、ミカン科のゲッキツの木に数個の花が付いていました。
今年2回目の開花で、花数は極めて少ないものの香りはしっかりしていました。
今朝再度チェックしましたが、暑さの為かすでに花は萎みかけでした。

 また、今日の夕方にベランダが非常に明るいので外を見ると、ベランダから見える樹木に夕陽があたっていて、明るい茜色に染まっていました。
西側にある高層ビルの関係で我が家のベランダからは夕陽は見えないのですが、家の前の樹木には当たりますので、それで判る次第です。この分では明日も暑くなりそうですね。

 土曜日には雨があるとかいう予報なので、もう少し辛抱しましょう。(まさ)


昨夜気付いたゲッキツの花

同上

ベランダから見える夕日に染まる樹木

真夏の水槽と植木鉢管理と“僕らはみんな生きている”

2020年08月18日 21時10分32秒 | 自宅の様子(ベランダ/室内園芸)
 各地から最高気温更新のニュースが報じられていますが、大阪でも今年の暑さは年齢を感じ始めた体には一際厳しく、万一のことがあってはと思いテニスなども自粛しています。

 今日もどうしても外出せねばならない要件あり、近くまで出かけましたが都島交差点の温度計はまたもや41℃となっており、これを見るだけでも疲れます。

 例年真夏にはベランダの植木鉢や室内に置いている水槽の管理に気を遣います。

 毎日の植木鉢の水遣りは欠かせませんが、少し忙しい時間帯になりますが、夕方の少し日が傾いてからタップリと遣るように心がけています。

 また熱帯魚といっても、最も飼いやすいグッピーを飼っていますが、循環ポンプの熱だけでも水温が上昇するために、何とか28℃に抑えるべく、専用の扇風機を掛けると共に、この時期は買い物に行くたびにスーパーで無料のカチ割の氷を貰って帰り、水槽に入れて少しでも水温が下がるように心がけています。

 おかげで今のところ暑さでダウンした植物や熱帯魚はいませんが、今しばらく注意深い管理が必要でしょう。

所で、私は動物や植物との触れ合いをしている時に、自然に口遊んでいる歌があります。
1961年に制作され、NHK『みんなのうた』で放送されていた、「手のひらを太陽に」という歌で、 【作詞】やなせたかし、【作曲】いずみたくで確か宮城まり子が歌っていた記憶があります。

一番の歌詞は
  ぼくらはみんな生きている
  生きているから歌うんだ
  ぼくらはみんな生きている
  生きているから悲しいんだ
  手のひらを太陽に すかしてみれば
  まっかに流れるぼくの血潮(ちしお)
  みみずだって おけらだって
  あめんぼだって
  みんなみんな生きているんだ
  友だちなんだ


という丸で童謡なのですが、私がまだ大学生で丁度安保闘争が終わり、多くの若もの同様に厭世的な気分に追い込まれて殺伐としていた時期だったのですが、この歌で少し前向きの元気をもらったような気がしたもので、未だに忘れずに 覚えているのです(まさ)


ベランダではヤナギバルイラソウ(キツネノマゴ科)が元気です

玄関に於いている水槽

水槽上部には専用の小型扇風機を設置しています

スーパーで貰ってきたカチ割の氷

氷を水槽内部に置いてやる

水槽上部の様子

氷を置いた時の水槽の状態


“Black Lives Matter”を日本語にすると・・・

2020年08月17日 20時46分39秒 | その他
今年5月の米国中西部のミネアポリスでの警官による黒人男性暴行死事件は、8年前の2012年のフロリダ州での黒人少年が自警団に射殺されながら自警団の男性には無罪判決が出たことに対して抗議していたBLM運動と呼応し、全米で抗議運動が始まると共に、植民地政策で利益を得ていた西欧各国にも拡散して、新型コロナ感染症で外出自粛が呼び掛けられている中で世界的な広がりを見せました。

このBLMは“Black Lives Matter”の略ですが、“Black Lives Matter”については、何とかニュアンスは判るものの、日本語にした場合「黒人の命大事」なのか「黒人の命大事」の何れが適切なのか判断できなかったので、元の“Black Lives Matter”のまま使っていました。

私が、悩んだのは、
「黒人の命は大事」だとすると、黒人以外の人の命は大事では無いのか?
「黒人の命も大事」だとすると、黒人は付け足しか?
というような、事でした。


8月7日の毎日新聞夕刊の1面トップに、これに関して「黒人の命は{①は ②も}大事」との大きな見出しで触れられていました。これで私の悩みもある程度整理できましたが、この記事を目にされておられない方も多いかと思いますので、ポイントだけを下記しますと、

◆柴田元幸氏(現代米国文学翻訳者)の意見
  ・「黒人の命も」は、白人の命がまず大事という前提になる
  ・「黒人の命こそ」は、黒人の命のみが強調され、いわばひいき引き倒しになる
・「黒人の命は」は、「黒人は人間だ」というのと同じような不自然さがある
※ 翻訳はちゃんと考えれば一つの正解に辿りつけるものではない

◆坂下史子氏(アフリカ系米国人の歴史研究家)
  ・あえて訳さず、カタカナのままが良い
※ 言葉の先にある複雑な意味を考える為には、簡単に答えを出せない方がいいのではないか

◆ピーター・バラカン氏(ブロードキャスター)
  ・「黒人の命を軽く見るな」
※ 英語で良く遣われる“It does not matter”(気にしないで、大したことない)の反対と考えた

◆「Letters for Black Lives」(黒人差別地手のに資料を作成・翻訳するプロジェクト)
  ・今までの「黒人の人たちの命を大切に」を6月から「黒人の命を尊重しろ」に変更

◆矢口祐人氏(米国研究家)
  ・米国の保守層では、“Black Lives Matter”に対して、“All Lives Matter”という言葉を使う人もいる、(一見真っ当な意見に思えるが)黒人差別への抗議に対しては議論のすり替えだ


というような意見が紹介されていますが、“Lives”には“単に「命」だけでなく、暮らしや生きること全般”と言う意味もあり、この言葉が用いられた背景には黒人が不平等な扱いを受ける仕組みや安心して生活できない事への抗議が込められている事を理解するとともに、どんな言葉を使うかよりもこの問題に関心を持つ事が大切だ

と述べられています。

何時も感じているのですが、何気なく使っている言葉の意味や背景を確認しておかねば、表面だけの薄っぺらな理解になるのでしょう。(まさ)