子どもの幼少期の頃の、検診で保健師さんから相談があり、療育施設への提案があった時の親の想いは複雑だ。
今日、新聞紙でそのことについての相談とアドバイス例について、実際の施設現場や携わる専門の方の話も交えて掲載されていた。
当時、様子を見て、まずは保健センター(当時)での遊びの教室を勧めてきた保健師さんは、あまり子どもの発達についてのマイナス面は言わず、そこに通って育ちを見守って行きたいと行った旨を話していた事を覚えている。
加配を付けてもらえる園を勧めた場合も、「その方が○○○君には良いと思う」とアドバイス下さっていた。
具体的な気になる面についての言及は「落ち着きが無い」だったね。
今思えば、保健師さん達は相当母達を傷つけないようにと言葉選びなどにも気をつけていたのだろうと思う。
当時は何が何だか分からないまま、勧められる遊びの教室や、児童相談所に行き、そのたびに子どもの様子について、お手紙を書くようにとも言われて、
「なんでそんなことをするの?保健所で伝えてくれれば良いのに。」
と思いつつ、少々疲れながらも通っていたことを思い出す。
でも今思えば、子どもの様子について書くと言うことは、後々の園や学校での懇談・話し合い(時に揉めた)で役に立つスキルに繋がったので、それも感謝している。
そのうち、義母からの「自閉症では」と匂わせる言葉に恐怖を覚え、
療育施設に通うべきかについて三度の児童相談所で今までとは違う相談員さんに、加配の保育士さん付きの園について勧められたことを話したら、
「ああ、障害児保育のことですね!」との言葉に一瞬頭が真っ白になってしまった。
その相談員さんを恨んだり憎んだりとかは、無い。
けれどもそれ以後療育施設に園の入園までに通った半年間は恐怖(なんて言ったって私の親世代は障害への差別意識が高かったので、その言動の刷り込みがあった)と、何としても年齢並みの発育にするんだと必死だったので、当時の療育の保育士さんから
「あんまり焦っちゃいかんよ、」と度々言葉をかけられたのだった。
子育ての時期で苦しかったというのが、この時期と、小学校での先生との意思疎通などが上手くいかずに揉めた時期でしたね。
関わる育児の専門の方の、何気ない言葉や不用意だったり、ダイレクトな言葉が母の心に大波を立ててしまう。
この時期の親の子どもの障害受容は結構課題で、そう簡単には受容できなかったりするし、ある人が言うには「受容って1回だけじゃ無い」とも(その都度のステージで葛藤があるのだという)。
因みに、確か週2日の半日スケジュールで通った療育施設はとても楽しい場所だった。
遊びの取り組みも工夫してあって、平均棒を渡ったり体を使いながらコースをクリアしてボールをゲットするとか、
卒園用の証書作りで子どもそれぞれ決まった型紙を紙に貼って回していくなど、子ども達が生き生きと取り組める内容であったし、
保育士さん達が本当に親身で暖かかった。
その後、今は亡き義母が勧めてくれた「光とともに」の漫画の存在、入園した先の保育士さん達の支え、そして入園前に発達外来で診察して下さった、現在も新たなチャレンジを模索中の医師の先生による自主的なセミナーで、すぐには無理だったけれど、息子達の世界について知り、ポジティブな気持で取り組める様になっていった。そうそこには同じ母達との繋がりも大きかった。
後に何故もっと早くに障害の可能性について保健師さん達は教えてくれなかったんだろうね、と話したとき、母仲間の方が「中には絶望して良くない行動を取ってしまうケースもあるので慎重なんだよ」と教えてくれた。当時色々うろたえていたことを忘れていた私・・・。
新聞にもあるように、療育の薦めについての無理強いはなかったです。
それから、入園先に療育を受けていたことを必ず言って欲しいと市の担当の方が話したという例は、「確かに、行った先の保育士さん達にとっては今後の保育のために必要な情報なので妥当だな」と私は思ったけれど、そのようには受け止められない心模様になる親もいるのだな、と。
親の思い=皆一様に同じ、でも無い。
私のいる地域では幼少期の療育施設は3箇所あって、1箇所が子ども達だけの通う場所、もう1箇所が平日毎日お弁当持参で、そして息子と通った週2日で半日間の場所でした。
その後お世話になった施設の保育士さんとは、後日ばったり出会ったときに、その後の進路報告(高等特別支援学校進学)を話す事が出来たのでした。
今もお元気で見えるかな。
今日、新聞紙でそのことについての相談とアドバイス例について、実際の施設現場や携わる専門の方の話も交えて掲載されていた。
当時、様子を見て、まずは保健センター(当時)での遊びの教室を勧めてきた保健師さんは、あまり子どもの発達についてのマイナス面は言わず、そこに通って育ちを見守って行きたいと行った旨を話していた事を覚えている。
加配を付けてもらえる園を勧めた場合も、「その方が○○○君には良いと思う」とアドバイス下さっていた。
具体的な気になる面についての言及は「落ち着きが無い」だったね。
今思えば、保健師さん達は相当母達を傷つけないようにと言葉選びなどにも気をつけていたのだろうと思う。
当時は何が何だか分からないまま、勧められる遊びの教室や、児童相談所に行き、そのたびに子どもの様子について、お手紙を書くようにとも言われて、
「なんでそんなことをするの?保健所で伝えてくれれば良いのに。」
と思いつつ、少々疲れながらも通っていたことを思い出す。
でも今思えば、子どもの様子について書くと言うことは、後々の園や学校での懇談・話し合い(時に揉めた)で役に立つスキルに繋がったので、それも感謝している。
そのうち、義母からの「自閉症では」と匂わせる言葉に恐怖を覚え、
療育施設に通うべきかについて三度の児童相談所で今までとは違う相談員さんに、加配の保育士さん付きの園について勧められたことを話したら、
「ああ、障害児保育のことですね!」との言葉に一瞬頭が真っ白になってしまった。
その相談員さんを恨んだり憎んだりとかは、無い。
けれどもそれ以後療育施設に園の入園までに通った半年間は恐怖(なんて言ったって私の親世代は障害への差別意識が高かったので、その言動の刷り込みがあった)と、何としても年齢並みの発育にするんだと必死だったので、当時の療育の保育士さんから
「あんまり焦っちゃいかんよ、」と度々言葉をかけられたのだった。
子育ての時期で苦しかったというのが、この時期と、小学校での先生との意思疎通などが上手くいかずに揉めた時期でしたね。
関わる育児の専門の方の、何気ない言葉や不用意だったり、ダイレクトな言葉が母の心に大波を立ててしまう。
この時期の親の子どもの障害受容は結構課題で、そう簡単には受容できなかったりするし、ある人が言うには「受容って1回だけじゃ無い」とも(その都度のステージで葛藤があるのだという)。
因みに、確か週2日の半日スケジュールで通った療育施設はとても楽しい場所だった。
遊びの取り組みも工夫してあって、平均棒を渡ったり体を使いながらコースをクリアしてボールをゲットするとか、
卒園用の証書作りで子どもそれぞれ決まった型紙を紙に貼って回していくなど、子ども達が生き生きと取り組める内容であったし、
保育士さん達が本当に親身で暖かかった。
その後、今は亡き義母が勧めてくれた「光とともに」の漫画の存在、入園した先の保育士さん達の支え、そして入園前に発達外来で診察して下さった、現在も新たなチャレンジを模索中の医師の先生による自主的なセミナーで、すぐには無理だったけれど、息子達の世界について知り、ポジティブな気持で取り組める様になっていった。そうそこには同じ母達との繋がりも大きかった。
後に何故もっと早くに障害の可能性について保健師さん達は教えてくれなかったんだろうね、と話したとき、母仲間の方が「中には絶望して良くない行動を取ってしまうケースもあるので慎重なんだよ」と教えてくれた。当時色々うろたえていたことを忘れていた私・・・。
新聞にもあるように、療育の薦めについての無理強いはなかったです。
それから、入園先に療育を受けていたことを必ず言って欲しいと市の担当の方が話したという例は、「確かに、行った先の保育士さん達にとっては今後の保育のために必要な情報なので妥当だな」と私は思ったけれど、そのようには受け止められない心模様になる親もいるのだな、と。
親の思い=皆一様に同じ、でも無い。
私のいる地域では幼少期の療育施設は3箇所あって、1箇所が子ども達だけの通う場所、もう1箇所が平日毎日お弁当持参で、そして息子と通った週2日で半日間の場所でした。
その後お世話になった施設の保育士さんとは、後日ばったり出会ったときに、その後の進路報告(高等特別支援学校進学)を話す事が出来たのでした。
今もお元気で見えるかな。