「小敷城跡」 正面は小敷城跡ある山です。文献や古地図に記録がない新発見の山城です。城がある丘陵のことを地元では「城の山」と呼んでおり、調査地点の小字婦名も「城ノ下」であることから昔から城の存在自体伝承されてきたといえます。戦国期の麻生氏の端城、もしくは小敷地区周辺一帯の村落の砦城であっただろうと考えられます。丘陵北側を流れる江川を見下ろす小敷城の立地は抜群であり、遠賀川と洞海湾を行き来する人や物資の動きを監視するには絶好のポイントです。筑前国北東端の重要な河川航路を掌握するために築かれた城であるといってよいでしょう。 小敷城の概要 標高約48mの丘陵山頂に築かれており、麓との標高差さは45mほどです。比較的に小さい規模で主郭を中心に帯曲輪、切堀などから構成されています。主郭の表土からは近世の陶磁器片や小さい土師器破片が見つかっています。また、火を焚いた跡がみられる焼土遺構もありました。 築城時期については主郭のすぐ横に堀切を設ける特徴から16世紀終わり頃と考えられます。 (北九州市教育委員会 発掘ニュース no.63) 堀切は敵の侵入を防ぐためにかなり急な傾斜となっていました。また山頂に投石用か 拳大の石があったと聞き 急に城が身近なものに感じられました。 |
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「汐分地蔵」 上の写真左側のこんもりと繁った木立の中にある寺です。「四国中央39番‥‥札所」と書いてありますが、地元では「汐分地蔵」と呼ばれ古い地図にもこの地名の記述があります。寺の前の細い道を挟んで江川があり、丁度この辺りで洞海湾からの流れ込みと遠賀川からのながれこみが合流し、引き潮で分かれてゆく。それが。、名前の由来だそうです。皆から親しまれ大事にされています。 9月6日 午前8時 大潮 この寺のやや洞海湾寄りで右側通行しながら、静かに合流していました。 因みに 「江川」 は洞海湾までの名称です。 |
「汐分大橋」 汐分地蔵から100mぐらい遠賀川寄りに架かる橋です。 学研都市に通ずる大通りにあります。 平成12年 完成。 |