スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

信州湯田中温泉 よろづや

2018-06-27 06:06:31 | ホテル・旅館

湯田中温泉は松代藩(真田氏)の湯治場で北国街道の

発展に伴い、善光寺詣での後の精進落しの湯として名を馳せた。

長野電鉄長野線湯田中駅から夜間瀬川沿いの

高台方向に土産物屋や飲食店などが点在し

14軒の旅館で温泉街を形成している。

歓楽街温泉の雰囲気はあまり無い温泉街だ。

湯田中温泉には共同浴場が9軒ある。ここは日本温泉協会

発行の雑誌「温泉」の共同浴場番付で東の横綱になった「大湯」。

因みに西の横綱は道後温泉。別名「養遐齢(ようかれい)」

と言われ、長命長寿の湯であり、病を癒し、心を爽やかにし、

健康で長生きできる霊験あらたな温泉だ。

7C頃、天智天皇の時代からあることが文献にあるそうだ。

文化文政時代湯田中をこよなく愛した俳人小林一茶の

句碑が温泉街の随所にあった。

「雪ちるや、わき捨てある 湯のけぶり」一茶

寛保中(1741~1743年)僧 実源により建立された

古刹慈救山梅翁寺(曹洞宗)。境内にはぴんしゃん湯けぶり地蔵尊がある。

小林一茶は文化9年(1812年)、50才になって江戸から帰郷し、

文政10年(1827年)65才で亡くなるまで

湯田中温泉を訪れ多くの俳句を残している。

この句碑は「こども等が雪喰いながら湯治哉」

ここも純木造伽藍建築の共同浴場「綿の湯」

入口の上に4文字の額があり、「痊痌保生」と書かれてある。

病を癒し生を保つという意でこじれた病もすっかりなおし、

生命を保ち長らえられるのが温泉の効能と書いてある。

この額を書いた人は、松本順という人で、天保3年生まれで

幕末の蘭方医の息子で幕末西洋医学所の頭取となった。

その後明治政府軍の初代軍医総監に任命された。

退官後、明治19年湯田中温泉に招かれた。

ここにも一茶の句碑があった。「三絃のばちで掃きやる 霰哉」

創業寛政年間、奥信州の山懐に抱かれた湯田中温泉で

創業200余年の伝統と格式を継承している老舗旅館「よろづや」さん。

代々受け継がれた宿暖簾がお客様を出迎えている。

本館8F28室と姉妹館アネックス20室は地下道で結ばれている。

http://yudanaka-yoroduya.com/

格子戸の玄関をくぐると近代調の中にも和が調和した

心和む空間が広がっていた。天井は2階までの吹き抜け。

木の優しい温かさと打ち放しのコンクリートが醸し出す絶妙な和空間だ。

これが宴会料理。信州ならではの食材が続く。

お造りでは佐久鯉のなめろう。信州手打ち蕎麦のお凌ぎ、

千曲川産の鮎の塩焼き。お椀は信州味噌。そして香の物は野沢菜だ。

こちらは朝食料理。朝から豚肉に鍋料理があったが、

特に特筆するものは無かった。

吹抜け2階のティーラウンジロビーもえぎ。待ち合わせ、

談話室の広々したロビースペースには圧巻の狩野派の

屏風絵が目を引いた。全体的には時間の経過とともにちっと

くすんだ感じがしたが、竣工時はさぞきらびやかで

目を見張る空気に充ちていたことだろう。

建築関係の仕事をしているとコンクリートの打ち放しには

どうしても目が向いてしまう。当旅館の外部、内部の柱梁に

打ち放しが使われ、旅館としては珍しい設計コンセプトだ。

今の建築意匠の流行としてはどうなんだろうという印象を受けた。

「よろづや」さんの最大の売りが、登録有形文化財に指定された

開湯60周年の桃山風呂。古色蒼然として雰囲気は

しばし古き良き時代に戯れ、心の旅に酔いしれることが出来る。

まるで大きな池の様な露天風呂。一番奥の横にさらに

隠れている様に露天風呂が続く。露天風呂から大浴場桃山に

向かってまるで太閤秀吉が好みそうな桃山風唐門調の屋根

こんな風呂は初めて見た。将に節気の移ろいをこころゆくまで

楽しめる庭園露天風呂だ。