神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.264 残影

2024-08-16 23:41:50 | 
(1)この連休に山の遭難事故が12件あったことを昼ごろの検索で知りました。その中には、白馬岳の近くの鑓ヶ岳〔やりがたけ〕や、最終日に降った柏原新道での事故も含まれていました。この2ヶ所についていえば、いわゆる難所ではありません。でも、そういうところの方がうっかりしやすいものです。気の毒としか言いようがありません。

(2)さて、落穂ひろいを2つほどしておきます。
 ひとつは、次の写真です。

 これは、最終日に冷池〔つべたいけ〕山荘を出て爺ヶ岳に向かう途中で右〔西〕方向を見たものです。朝なのではくっきりしません。
 奥に聳えるのが劔〔つるぎ〕岳で、右下に隠れているところが「十字峡」です。
 十字峡は、向こう側の山の間を流れてくる沢、手前から向こうへ流れる沢、左の黒部ダムから流れてくる沢が合流する所です。この川下方向に欅平・宇奈月町などがあります。
 私は、新田次郎『剣岳<点の記>』を読んで、測量に関わりのある山だからぜひ登ってみたいと考えていますが、実現できていません。木曽の御嶽山、剣岳、尾瀬の3ヶ所は、それぞれなんどか計画を立てたことがありましたが、その都度なにかと障害が起こってしまい、不思議と縁がありません。

(3)もう一つは、次の写真です。
 これも、上の写真と同じく冷池山荘を出発してまもなくころ撮ったものと思われます。
 手前左が爺ヶ岳、向こうに見える連山の、左はしの単独峰が蓼科山、その右が八ヶ岳連峰、尖っているのが赤岳、平に見えるあたり甲斐駒、かなあ・・・ところです。
 自信がないので、雰囲気だけ楽しんでください。
 もう帰るばかりの安心感からか、爽快だったことをよく覚えています。


(4)ところで、ダーク・ダックスが歌っていた『いつかある日』という歌があるのをご存じですか?
 手許の歌集では、7番まで出ていますが、とりあえず4番まで引用しました。
 1.いつかある日 山で死んだら
   古い山の友よ 伝えてくれ
 2.母親には 安らかだったと
   男らしく死んだと 父親には
 3.伝えてくれ いとしい妻に
   俺が帰らなくとも 生きて行けと
 4.息子たちに俺の踏み跡が
   故郷の岩山に残っていると

(5)60代の頃でしょうか、私が教えに行っていたところに、山が好きだという30才前くらいの若い人がいました。年齢の割に山をよく歩いているらしいことがわかったので、話すのを聴いていると、突然、自慢そうに「山で死にたい」と言いました。
 一瞬、戸惑いましたが、よくそういう発言をする人がいることを思い出しましたから、話を振り切って、「山で死んじゃだめだよ」といい、「山へ行ったら必ず生きて帰らないとだめだよ。死んだら、上ったことにならない・・・」というと、びっくりしていました。
 彼は、「山で死にたい」ということがカッコつけになることをどこかで知ったのでしょう。それは聴きませんでしたが、ひょっとして、上の歌がそれだったかもしれないとも思うわけです。

(6)歌の歌詞は、岩場登りをする人の心情を歌ったもののようで、「自分の身にもしものことがあったら・・・」という趣旨です。
 しかし、読み方によっては、この歌詞は主人公の身勝手みたいな歌です。父母に、妻に、息子に、とあれこれ言っています。もちろん、「万が一を考えて遺言して置く」のはありですから、そこは譲歩しましょう。。
 しかし、遺言書のようなこの歌を、著名な歌手が歌番組で歌うとか、歌声喫茶のようなところで皆で歌って「仮想の悲哀を味わう」というのはどんなものでしょうか?
 考えてみれば滑稽です。
 山は無事に帰ってこそ楽しいものです。お互いに気をつけましょう。 

【コレクション 58】
 きょうは、「戦後の山村」です。


 大きさはA4判で、この1㌻だけですべてです。裏は白紙です。読めると思いますから読んでみてください。私はこういう雰囲気の中で育ちましたから、まったく違和感を感じません。むしろ、古き良き時代とさえ思ってしまいます。
 時期は昭和30〔1955〕年代、場所は秩父の山村、写した人は学校医だった人です。

【コレクション 59】
 上のものと対比できるパンフがありましたから、もう1枚行きましょう。
 これもA4判で、こちらは裏表1枚です。
 まず表側です。なお、上の方が切れているように見えますが、こういうデザインです。
 
 東京タワー直下のようすを見ると、わが家の真上に東京タワーが建設されてでもいるかのような錯覚に陥ります。バブルの頃の地上げ前の六本木でも、裏の方にはまだいくらかこういう雰囲気が残ってましたね。

 それから、裏側です。


 こういうチラシは捨てられません。カラーならばもっと良いのですが、それさえまだ望めなかった時代なんですね。
 ともかく、この辺りから、戦後が本格的にスタートします。
 日本の国民は頑張りましたね。では、国民はどう報われたでしょうか。
 問題はそこです。
 きょうはここまで。

    


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