神足勝記を追って

「御料地の地籍を確定した神足勝記」を起点として「戦前の天皇・皇室・宮内省の財政について」のあれこれをとりあげる

No.367 左千夫全集

2024-12-17 22:59:44 | 休業
(1)「火曜日はお散歩日にしようか」と思っていたところ、急用のため最初から実現できませんでした。穏やかで暖かくて絶好の日和でしたが、残念でした。それで、明日、朝起きて調子がよければ、振り替え日として出ることにしました。
 ということで、今日は「開店して休業」です。

    

【コレクション 138 左千夫全集】
 「左千夫」とは「伊藤左千夫」のことです。
 下のパンフの推薦文で、杉浦民平さんが「歌人としての伊藤左千夫は余りにも有名であるけれど、小説家としてはささやかな純愛小説「野菊の墓」の作者としてちょっと知られているに過ぎない」といっていますが、私などは、「野菊の墓」の作者としての方が歌人としてよりも親しみがあります。これは時代のせいでしょうか。今度、「野菊の墓」が漫画化されたようですから、この傾向はもっと強まると思われます。
 一方、歌人としての左千夫については、下のパンフで近藤芳美さんが「左千夫が苦しんでうたおうとしたものは、明治ないし大正短歌史における最も早い時期の人間自我の追及の意味であったと今に思い返し得る。」といっています。明治に入り社会が近代かして、ようやく個が解き放たれるようになります。そして自我が追及されるようになりましたが、島崎藤村と比べてどのくらい読まれているのでしょうか。
 
 このパンフの大きさはB5判4㌻です。B4判の用紙を二つ折りしてできています。
 1㌻ 下に掲載
 2㌻ 下に掲載
 3㌻ 下に掲載  全9巻の内容 本全集の特色 漱石の左千夫宛書簡    
 4㌻ 装丁見本 予約案内 
    刊行案内 体裁:A5判 平均540㌻ 定価:3600~5400円
         刊行期日:1986年11月から 岩波書店

          1㌻


          2㌻


          3㌻


 以上です。

 誰か一人の人を徹底的に知るということはおもしろいものです。お勧めです。
 私は、神足勝浩・勝泰・勝文の御三方のご理解を得ることができて、神足勝記が残したものをほぼ全部見ることができました。目下のところは、そのうちの『御料局測量課長 神足勝記日記』(J-FIC)にまとめたことをこのブログで紹介しましたが、ほかにも勝記の母の日記『清寿院殿御日記』、ご子息勝孝氏の『神足勝孝日記』などももう読みながらパソコンに入力し、注もつけましたから、人生を何回も送ったような気がしています。これらも、いずれご覧いただけるようにしましょう。
 今日はここで。

 1.陽を受けてより赤く
    

 2.ヒイラギ 
    

 2.今日の月
    
    月影は 右から左へ 満ち欠ける
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No.366 子持山

2024-12-16 23:46:20 | 御料地
(1)昨日載せた子持山(中央)の遠景です。ちょっと子持山のことを紹介しておきます。
   
    藤岡市稲荷山古墳上から

(2)下の図は子持山御料地測量図です。
 位置は群馬県北部で、東に利根川・上越線(敷島駅)・赤城山、南に渋川市・吾妻線、北に沼田市、西に中之条町があります。また、下の図の中央部、小野子〔おのご〕と横堀子持山の間を南北に渋川市と高山村をつなぐ道が南北に走っています。神足勝記はここを通って新潟の方へ作業を続けました。
 私は上越線の敷島駅で下車し、白井の南で利根川を渡って子持村に入って、林道の終点〔ここまで車で入れます〕から上がり、帰りは沼田市まで縦走しました。2006年頃のことです。

      出典:『子持山御料地測量簿』。少し加工してあります。

(3)縦走した経路図や地図が見つかりませんが、頂上下の写真が出てきました。
 左側の板状のところが、溶岩の貫入があったところで、地質的に注目されるところだそうです。登山経路はここを右へ迂回して頂上へ向かいますが、いくらか険しいところがあります。まあ、山ですから、どこも要注意です。
    

 (4)子持山は思いのほか人気があるようです。私が上った時は、近在の村の消防団が訓練のために集団で登って来ていて一段とにぎやかでした。
 下の写真には、「往年のスター」が嬉しそうに立っていて見苦しいので、そこは削りましたが、青い揃いの制服を着た消防団の人たちが何人か写っています。子持山山頂1296mとあります。
    
 
 あとはまたのことにしましょう。

    

【コレクション 137 築地小劇場】
 演劇のことは本当にわかりません。良い演劇を見る機会がなかったからかもしれませんが、劇場へ行って演劇を見ているとき、出演者が歩いて床がギィーと鳴っただけで興ざめしてしまいます。
 オペラとか民間芸能のようなものはそういうこともなく、むしろ引き込まれることが多いものですが、ともかく演劇はどうも。
 それとは違いますが、役者がコマーシャルに出ているのを見ます。名前が知られるようになったからか、名前を売るためか、どちらでしょうか。ともかく、そうするとその人が登場する場面でコマーシャルの場面が浮かんできてつまらなくなります。悲しい場面でコマーシャルの大笑いの場面が浮かぶとか、歴史上の重要人物を馬鹿笑いしていた俳優が叱るのを見て、あまりの違和感のために今も頭から離れないということがあります。
 
 それはともかく、「築地小劇場」のパンフです。
 大きさは、A4判、8㌻です。A4判の4枚分の横長の用紙を、最初に左右から4分の1ずつを折り込み、さらに二つ折りするとできます。
 全体は、
 1㌻ 下に掲載
 2㌻・7㌻ 復刊の辞 装丁見本
 3~6㌻ 推薦の言葉と内容見本
      松本克平 待望されていた復刻
      水品春樹 劇団と劇場一体化
      飯沢匡 西洋への窓
      山本安英 よみがえる熱い活気 *下に掲載
      千田是也 忘れ得ぬ築地の舞台 *下に掲載
      滝沢修 我が青春の記念碑 *下に掲載
 8㌻ 刊行案内 内容:大正13年~昭和5年2月
      体裁:A5判・菊判 総ページ数:約4,000㌻ 揃定価:87,000円
      2002年10月 不二出版 

        1㌻     
 

          4㌻ 
         *千田是也さんの推薦文は5㌻に続きます。すぐ右下は別人のものです。

                       
        5㌻


 以上です。
 今日はここまで。 
 
 今日の月
     
      欠け初めて 寒空にわかに 静まれり    
 
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No.365 刊行1周年

2024-12-15 22:56:18 | 多謝
(1)『御料局測量課長 神足勝記日記』(J-FIC)刊行から1年経過しました。発行元の日本林業調査会(J-FIC)からまだ連絡がありませんから、どんな刊行経過なのかわかりませんが、もう国公立図書館・大学図書館・林業や測量関係の研究所などには伝わったでしょうから、刊行に伴う自分の役割は終わりとし、このブログも刊行の宣伝から解放しようと思います。「解放」という意味は、看板は変えませんが、内容を見直したいということです。

(2)私は何かを人に知らせたいという意識に乏しく、疑問に思っていたことでも、自分で納得したり、解決してしまえば、もう先へ行きたい方です。
 ですから、こういう場でも作っておかないと、発表することがなく、多少のメモ程度のことができると、積んでおくばかりで見向きもしないということがしばしばです。もちろん、売り物になるようなものではありませんが、原稿類が、棚をざっと見ただけでも5冊分くらいはあります。

(3)このヘタクソなブログも今日で365回です。この回数は偶然1年分になっただけで、番外なども数えると、実際にはもっと多くなりす。
 この間、閲覧ページは39584PVで、1日当り108PVです。また、訪問者は29434UUで、1日当りは80UUです。9~10月の入院の時の中断と、先日のロックによる設定不良とで、訪問者・閲覧件数とも少なくなりましたが、それでも毎日50人くらい入るようです。 
 gooblogのスタッフにアピールして閲覧者を増やしてポイントを稼ぐということがあるようで、しきりにその手続きをするようにとの誘いの宣伝が入りますが、私にそういうことを使いこなすスマホだとか機器もないので無関係です。
 書いておきますから、時間のある方はぜひどうぞ。

(3)ブログ開設1年を迎えて、考えているのは次のようなことです。
1.この「神足勝記を追って」は、回数を週に3~5回にし、内容は従来のことを踏襲する。
2.新規開設の「神足勝記を追って 2」は、何かまとめたものを随時に発表する場とする。
 いずれにしてももう今年は終わります。その間に構想を練ってみるつもりです。

    
    陽に映えて 

【コレクション 136 廣澤真臣日記】
 一坂太郎(東行記念館副館長・学芸員当時)は下のパンフレットの推薦文「『広沢真臣日記』について」)で広沢について次のように評しています。
 「いまや故郷山口県においてすら忘れ去られた感のある広沢真臣だが、維新当時は長州藩を代表する「顔」であった。薩摩藩でいえば、西郷隆盛や大久保利通に匹敵する人物といっていいだろう。・・・ところが明治4年1月4日、39歳で東京で暗殺された。・・・研究者の食指が動かなかったのも、案外そんなところに起因するのかもしれない。」
 あの大久保利通でさえ「もし生きて生涯を全うしていたら」といわれることがしばしばですから、歴史の波間に消えていった人をどう顕彰・評価するかは大きな課題です。



 この大きさは、B5判6㌻です。B5判3枚分の横長の用紙を、最初に左から3分の1を折り込み、次に右から3分の1を折り込むとできます。
 全体は、
 1㌻ 上掲
 2~3㌻ 解説 一坂太郎東行記念館副館長・学芸員『広沢真臣日記』について(一部上掲)
      資料・画像
 3~4㌻ 解題 藤井貞文 日本史籍協会 広沢真臣の人と業績 *下に掲載
      内容解説
      刊行案内 体裁:A5判650㌻ 定価:1万3000円 限定450部 
           平成13(2001)年11月 マツノ書店
 5㌻ 内容見本

     3~4㌻

 
 以上です。
 今日はここまで。

 1.左妙義山、右浅間山:藤岡市白石の稲荷山古墳近くより
   

 2.ホオジロ?
     
      とりわたり おもかげみせて さりゆきぬ   

 3.今日は満月
   


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No.364 群馬の旧御料地

2024-12-14 23:58:12 | 御料地
(1)昨日紹介した赤城山〔あかぎやま〕も榛名山〔はるなさん〕も共に御料地でした。
 赤城山や榛名山を見て、「あそこは旧御料地だった」などと思う人は、営林管理局の人の中にいるかもしれませんが、通常は知られていません。その証拠として赤城山の測量図を一つだけ紹介しておくことにしましょう。昨日の写真でいうと、「中腹部から上」にあたります。全体としては菊のような格好をしていて、中心部に大沼・小沼〔おの・この〕が見えます。



(2)『御料局測量課長 神足勝記日記』(J-FIC)で出てきますが、神足勝記が指導し、部下が出張して測量しました。
 見てわかるように、犬牙錯雑〔けんがさくざつ〕、犬の歯のように入り組んでいます。内部の行政界も入り組んでいますが、周囲の裾野の方なもっと屈曲しています。平面図〔2次元〕ですらこう入り組んでいるのですから、3次元の現場はもっと大変です。しかも、測量期は5月頃から降雪が始まる時期までです。この時期は毒虫や野生動物も動く時期です。これを測量員はひとたび踏査・測量に着手すると年に200日くらいは倦むことなく作業を続けたわけです。

(3)群馬県には、赤城山・榛名山のほかに、子持山御料地、碓氷〔うすい〕第1御料地、甘楽御料地ほかの大面積の御料地がありました。
 子持山は下の写真の中央の山です。右に見える裾野は赤城山です。榛名山はこの写真のすぐ左に隠れています。すぐ左奥に雲がかかって白く小さく見えるのが谷川岳です。
 子持山には南の敷島から上って沼田まで縦走したことがありますが、地質学的におもしろい山です。また、昇り方によってはかなり険しいところがある山です。


   稲荷山古墳の北方向:中央の白い建物が藤岡歴史館、その右向こうの木立が七輿〔ななこし〕山古墳

 それから、碓氷第1御料地は、下りの上越新幹線に乗ると安中榛名駅を出てすぐにトンネルに入りますが、その付近から北西方向に広がる尾根をたどった一帯にあった御料地です。
 また、甘楽御料地は、富岡市の南にある稲含山〔いなふくみさん〕の東側にあった小さな御料地です。すぐ南にある山に隠れていて、富岡市の市街からは見えません。
 なお、「甘楽御料地」ないしは「御料地形成過程の一断章(2)」で検索すると、私が調べたものが読めます。興味がある方はどうぞご覧ください。

    

【コレクション 135 マリリン・モンロー写真展】
 これは説明は無用でしょう。見ての通りチラシです。
 なお、大きさはB5判、1枚(2㌻)です。両面を載せます。

         表    


         裏

 ちなみに、忘れられない女優といえば、マリア・シェルとか、イングリット・バーグマンかな・・・。
 オット!今日はここで。

 1.八高線:群馬藤岡駅16:57
     

 2.稲荷山古墳から見た藤岡市市街
    

 3.稲荷山古墳付近から見た荒船山:頂上が平のところ
    

 4.今日の月:明日は満月
     

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No.363 読書がノイズ?

2024-12-13 23:48:02 | 雑評
(1)今日(13日)の『日本経済新聞』の「春秋」欄は次の書き出しで始まっていました。

 いまや読書は「ノイズ」としてとらえられているという。・・・「情報と読書のトレードオフ」が2000年代に始まっていたー。

 確かに、パソコン検索をすると、様々な事項がサッと出てきます。私もこれまでの研究でどれだけお世話になったかしれません。

(2)少し話がズレますが、関東在住の人が「伊勢参りをしたい」と思った時に、近世なら何日もかけてテクテクと歩いきましたが、今なら新幹線や車を使って日帰りもできます。
 前者ならば、弥次さん・喜多さんのような経験もできますが、新幹線では、車中の楽しみや景色を見るという楽しみはありますが、あっという間に終わります。とりあえず神頼みをしたいというなら、それでもよいですが、旅の楽しみとなると、これでは物足りません。とりいそぎ得たい情報を探すという場合はインターネットでサッとが速いし良いですが、過程を楽しむには不足です。

(3)東京から伊勢まで歩く人はそうはいないと思いますが、しかし、ゆったりと旅をしたいということはなくならないでしょう。
 仕事上や研究上の必要からインターネットを必要とする場面がもっと広がると思われます。その場合、ゆっくりと考えたいとか、お気に入りのものを読みたいということはなくならないでしょう。そして、そういう心境なり情操というものは、育った環境・境遇・教育などにも影響されるでしょうし、初等・中等・高等・大学などで幅広い教養を身に着ける機会をどれほど得られたかにもよるでしょうから、このことは逆に教育・環境の重要性を表しているといえます。そういう模索も出て来るでしょう。

(4)その際に忘れてはいけないのは、科学が発展して、それが利益本意で使用されると、本来は人間にとって役立つはずの科学が人間を苦しめ、人間を非人間的にするように作用することがあるということです。その最たるものは武器・火薬・原爆ですが、ほかの例として電気が挙げられます。
 電気が発明されると夜間労働が可能になりました。すると、工場では、機械などの減価償却を早めるために、3交代制をとって夜間も働かせるようになったのです。
 いまはまだインターネットの使い方も、社会全体として利益本意です。これに伴って個人でもそうです。ですから、やがて今とは違った使い方をするようになるでしょう。
 インターネットは道具、読書とは違うはずです。

(5)読書をノイズというなら、このブログこそノイズかも。気をつけてください。
 今日は短くするためのだいぶ削りましたから、流れがちょっと変ですねえ。あしからず。
 

    

【コレクション 134 帝国大学新聞】
 現在では各大学が自前の『大学新聞』を発行していますが、『帝国大学新聞』は大正から終戦後まで発行されて、大学の新聞であると同時に社会に大きな影響を与えたジャーナリズムだったようです。
 このパンフレットの大きさは、A4判、8㌻です。A3判の用紙2枚を重ねて二つ折りしてできています。
 体裁は、
 1㌻ 下に掲載
 2㌻ 推薦の言葉 伊藤隆 東京大学文学部教授 近代史研究の重要な武器
        内川芳美 東京大学新聞研究所教授 ユニークな知的ジャーナリズム
 3㌻ 下に掲載 
 4㌻ 1923年の索引見本
 5~6㌻ 内容見本
      推薦の言葉 小田切秀雄 法政大学文学部教授 この新聞の特別な意味
            寺崎昌男 東京大学教育学部教授 知的オピニオンリーダー紙
 7㌻ 推薦の言葉 殿木圭一 文教大学情報学部教授
    推薦者 石堂清倫 扇谷正造 大河内一男 勝本信之助 千葉雄次郎 辻清明
        野沢隆一 樋口恵子 平岡敏男 福武直
 8㌻ 装丁見本
    刊行案内 下に掲載 

       1㌻     

  
       3㌻:大正12年4月12日号

      
        8㌻
  
  以上です。

 【故郷の風景】
 下の稲荷山古墳と七輿山古墳は、群馬県藤岡市の西にある代表的な古墳です。
 いずれも前方後円墳で、七輿山には環濠が確認されています。

 1.稲荷山古墳〔藤岡市白石〕と赤城山
    

 2.稲荷山古墳上から見た赤城山〔あかぎやま〕
    
 
 3.藤岡市歴史館〔稲荷山古墳北西〕の展示物〔部分〕
     

 4.藤岡市歴史館の展示物〔部分〕
   

 4.七輿山〔ななこしやま〕古墳〔稲荷山古墳の北側〕
   

 5.鮎川橋〔七輿山の東〕上より見た榛名山〔はるなさん〕
    

 今日はここで。
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