【事件概要】
1949年11月24日、ヤミ金融「光クラブ」社長・山崎晃嗣(26歳)が中央区銀座の本社社長室で青酸カリを飲み自殺。アプレゲールの事件として知られる。
※アプレゲール・・・・「戦後」を意味するこの言葉は、第1次大変直後のフランスで生まれた。戦後、価値観が崩壊し、それに変わる価値観も確立されず混乱を続けたが、知識人たちはこれを逆手にとって新しい芸術の方向を模索した。ここから「ダダイズム」や「シュールレアリスム」という芸術も生まれている。日本では第2次大戦後、野間宏、中村真一郎、三島由紀夫らがこの言葉を小説などの名称に使い、自分たちの文学を示した。1950年、刹那的な充足感を求める青年たちの犯罪が相次ぐ。多くが中流階級の子弟の、世の中をまだ知らない若者の短絡的な動機や犯行だった。こうした犯罪は「アプレ犯罪」と呼ばれた。他に「鉱工品貿易公団横領事件」、「金閣寺放火事件」、「日大ギャング事件」、「バー・メッカ殺人事件」など。
【山崎晃嗣】
山崎晃嗣は1923年、千葉県木更津市に生まれた。山崎家は父が木更津市長も務めた医師、母は音楽家という名家。山崎は5人兄弟の末っ子で、3人の兄はいずれも医師になっている。
山崎は1日に15、6時間という猛勉強のすえ、一高から東大法学部に進学。その一方で、日記や作文で父親を批判するなど内向的な一面もあった。
時代は戦争の真っ最中、山崎は学徒出陣で陸軍主計少尉となった。配属されたのは北海道・旭川の北部第一七八部隊。そこでは隊長や参謀が、軍務そっちのけで米や油などを横流ししていた。敗戦時には、山崎もそれにならって地位を利用して軍事物資の横流しをして検挙され、上官を庇うかたちで懲役1年半執行猶予3年の実刑判決を受けている。
この一件は彼の人生観に影を落とすことになった。彼はのちに記している。
「人間の性は本来、傲慢、卑劣、邪悪、矛盾である」
東大に復学した山崎はそれまで誰も成し得なかった「全優」を自らに課した。
1日の行動を30分刻みで日記として記し、勉強は「有益時間」として、重要なものから優先順位をつけていた。当然、1日のほとんどは有益時間だったのだが、恋人を遊ぶ時間を「女色時間」、空想などを「無益時間」という時間も設けていた。
結局、20科目のなかで3科目が「良」だったのだが、教授の嗜好や気まぐれに依存する評価を愚に思い、「優・良・可の区分に全生活をかけるのが馬鹿らしくなった」と日記に記している。
【光クラブ誕生と終焉】
1948年秋、訪れた金融会社で業界通の日本医大生(当時25歳)と知り合った山崎はその影響を受け、1万5千円を元手に「光クラブ」を設立した。場所は中野区鍋屋横町。月1割3分の高配当で集め、利子は2割1分から3割という高利で中小企業に貸付けるという仕組みだった。
「光クラブ」は当時としては、広告・宣伝に熱心だった。
『年中無休!天下の光クラブ、弊社は精密な科学的経済機関で日本唯一の金融株式会社』
『遊金利殖、月一割保証』
という新聞広告で資金を集め、半年で中野から銀座に進出、資本金600万円、株主400名従業員30名と会社を成長させた。山崎の読みが当たったのである。
山崎は「ヒカリ戦陣訓」なるものを事務所の壁に貼り付けていた。
一、権利のための闘争だ
二、人生はすべてこれ劇場なり
三、金利の鬼となれ
四、バクチには生命を賭けよ
五、ヒトのものはわがもの 自分のものは自分のものと思え
7月4日、京橋署は物価統制令違反容疑で山崎を逮捕する。山崎は留置場を訪れた週刊誌の記者に対し、次のように語った。
「人生は劇場だ。ぼくはそこで脚本を書き、演出し、主役を演ずる。その場合”死”をもかけている。もっとも”死”そのものをぼくはそれほど、大仰に考えませんがね」
取調べに対しては、得意の法律論争を挑んだ。
結局、9月には不起訴となって釈放されたのだが、社長の逮捕によって会社の信用は失墜、394人の債権者が約3000万の出資金を一斉に返済を迫った。山崎はとりあえず、11月25日までに300万円を支払う約束をしたが、24日になっても資金の回収が出来ず、命を絶ったのである。遺言と辞世の短歌、高利貸しの述懐を記した手記、残高わずか2700円の銀行通帳を残して。
出資者諸兄へ、陰徳あれば陽報あり、隠匿なければ死亡ありお疑いあれば、アブハチとらずの無謀かな、高利貸冷たいものと聞きしかど死体さわれば氷カシ(貸自殺して仮死にあらざる証依如件)
私の合理主義からは、契約は完全履行を強制されていると解すべきだ。・・・・契約は人間と人間との間を拘束するもので、死人という物体には適用されぬ。私は事情変更の原則を適用するために死ぬ。私は物体にかえることによって理論的統一をまっとうとする。
(日記の最後)
この事件をモデルに、高木彬光「白昼の死角」 三島由紀夫「青の時代」 北原武夫「悪の華」などの小説が書かれている。
なお50年3月5日、「光クラブ」の後身「太陽クラブ」の社長ら2人が約200万円搾取の容疑で検挙されている。
2007年夏、金融業を始める前の山崎の日記(大学ノート3冊分)が発見された。時期としては物資の横流しの件で実刑判決を受け、釈放されて家に戻った1946年3月から1年半分のことで、上官への恨みや、投獄時のことなどを綴っていた。3月24日の日記には、3年後の自分の運命を暗示するかのように、次のように書きだしていたという。
楽しいから生きてゐる
楽しみがなくなり苦しみが生じたら死ぬばかりである
生命などといふものは要するにつまらないものばかりである
オワリナキアクムより抜粋
1949年11月24日、ヤミ金融「光クラブ」社長・山崎晃嗣(26歳)が中央区銀座の本社社長室で青酸カリを飲み自殺。アプレゲールの事件として知られる。
※アプレゲール・・・・「戦後」を意味するこの言葉は、第1次大変直後のフランスで生まれた。戦後、価値観が崩壊し、それに変わる価値観も確立されず混乱を続けたが、知識人たちはこれを逆手にとって新しい芸術の方向を模索した。ここから「ダダイズム」や「シュールレアリスム」という芸術も生まれている。日本では第2次大戦後、野間宏、中村真一郎、三島由紀夫らがこの言葉を小説などの名称に使い、自分たちの文学を示した。1950年、刹那的な充足感を求める青年たちの犯罪が相次ぐ。多くが中流階級の子弟の、世の中をまだ知らない若者の短絡的な動機や犯行だった。こうした犯罪は「アプレ犯罪」と呼ばれた。他に「鉱工品貿易公団横領事件」、「金閣寺放火事件」、「日大ギャング事件」、「バー・メッカ殺人事件」など。
【山崎晃嗣】
山崎晃嗣は1923年、千葉県木更津市に生まれた。山崎家は父が木更津市長も務めた医師、母は音楽家という名家。山崎は5人兄弟の末っ子で、3人の兄はいずれも医師になっている。
山崎は1日に15、6時間という猛勉強のすえ、一高から東大法学部に進学。その一方で、日記や作文で父親を批判するなど内向的な一面もあった。
時代は戦争の真っ最中、山崎は学徒出陣で陸軍主計少尉となった。配属されたのは北海道・旭川の北部第一七八部隊。そこでは隊長や参謀が、軍務そっちのけで米や油などを横流ししていた。敗戦時には、山崎もそれにならって地位を利用して軍事物資の横流しをして検挙され、上官を庇うかたちで懲役1年半執行猶予3年の実刑判決を受けている。
この一件は彼の人生観に影を落とすことになった。彼はのちに記している。
「人間の性は本来、傲慢、卑劣、邪悪、矛盾である」
東大に復学した山崎はそれまで誰も成し得なかった「全優」を自らに課した。
1日の行動を30分刻みで日記として記し、勉強は「有益時間」として、重要なものから優先順位をつけていた。当然、1日のほとんどは有益時間だったのだが、恋人を遊ぶ時間を「女色時間」、空想などを「無益時間」という時間も設けていた。
結局、20科目のなかで3科目が「良」だったのだが、教授の嗜好や気まぐれに依存する評価を愚に思い、「優・良・可の区分に全生活をかけるのが馬鹿らしくなった」と日記に記している。
【光クラブ誕生と終焉】
1948年秋、訪れた金融会社で業界通の日本医大生(当時25歳)と知り合った山崎はその影響を受け、1万5千円を元手に「光クラブ」を設立した。場所は中野区鍋屋横町。月1割3分の高配当で集め、利子は2割1分から3割という高利で中小企業に貸付けるという仕組みだった。
「光クラブ」は当時としては、広告・宣伝に熱心だった。
『年中無休!天下の光クラブ、弊社は精密な科学的経済機関で日本唯一の金融株式会社』
『遊金利殖、月一割保証』
という新聞広告で資金を集め、半年で中野から銀座に進出、資本金600万円、株主400名従業員30名と会社を成長させた。山崎の読みが当たったのである。
山崎は「ヒカリ戦陣訓」なるものを事務所の壁に貼り付けていた。
一、権利のための闘争だ
二、人生はすべてこれ劇場なり
三、金利の鬼となれ
四、バクチには生命を賭けよ
五、ヒトのものはわがもの 自分のものは自分のものと思え
7月4日、京橋署は物価統制令違反容疑で山崎を逮捕する。山崎は留置場を訪れた週刊誌の記者に対し、次のように語った。
「人生は劇場だ。ぼくはそこで脚本を書き、演出し、主役を演ずる。その場合”死”をもかけている。もっとも”死”そのものをぼくはそれほど、大仰に考えませんがね」
取調べに対しては、得意の法律論争を挑んだ。
結局、9月には不起訴となって釈放されたのだが、社長の逮捕によって会社の信用は失墜、394人の債権者が約3000万の出資金を一斉に返済を迫った。山崎はとりあえず、11月25日までに300万円を支払う約束をしたが、24日になっても資金の回収が出来ず、命を絶ったのである。遺言と辞世の短歌、高利貸しの述懐を記した手記、残高わずか2700円の銀行通帳を残して。
出資者諸兄へ、陰徳あれば陽報あり、隠匿なければ死亡ありお疑いあれば、アブハチとらずの無謀かな、高利貸冷たいものと聞きしかど死体さわれば氷カシ(貸自殺して仮死にあらざる証依如件)
私の合理主義からは、契約は完全履行を強制されていると解すべきだ。・・・・契約は人間と人間との間を拘束するもので、死人という物体には適用されぬ。私は事情変更の原則を適用するために死ぬ。私は物体にかえることによって理論的統一をまっとうとする。
(日記の最後)
この事件をモデルに、高木彬光「白昼の死角」 三島由紀夫「青の時代」 北原武夫「悪の華」などの小説が書かれている。
なお50年3月5日、「光クラブ」の後身「太陽クラブ」の社長ら2人が約200万円搾取の容疑で検挙されている。
2007年夏、金融業を始める前の山崎の日記(大学ノート3冊分)が発見された。時期としては物資の横流しの件で実刑判決を受け、釈放されて家に戻った1946年3月から1年半分のことで、上官への恨みや、投獄時のことなどを綴っていた。3月24日の日記には、3年後の自分の運命を暗示するかのように、次のように書きだしていたという。
楽しいから生きてゐる
楽しみがなくなり苦しみが生じたら死ぬばかりである
生命などといふものは要するにつまらないものばかりである
オワリナキアクムより抜粋