8月19日(月)晴れ 妻入院
今朝からリハビリの心算で歩くことにした。歩いて帰ると、妻は今日日赤に行きたいので、パソコンの方は休んでくれという。私は強引に「他人との約束は守らなくちゃいけない。パソコンが済んだら俺も日赤へ行くから」というと、「自分の妻と他人とどっちが大事だ」と怒り出した。私は約束を守るのは男の務めだ」と啖呵を切って公民館に向かった。
公民館のパソコンが終わって、パソコンを我が家に届けて欲しいと頼んで、私は日赤に向かった。日赤は予約制で飛び込みは後回しなので、未だ診察の番は廻って来なかった。午後一時を過ぎてママから昼食を勧められて食堂から帰ると、妻は診断が終わって、点滴を受けていた。
担当した女医さんから家族状況の聴取や診断の結果について説明があった。レントゲンでは特別症状は見当たらないが大分衰弱しているので当分の間診療を日赤に任せて欲しいという。願っても無い申し出に大賛成。直ちに入院手続きに入る。こんな事は無いと思いますが、万一、生命が危険になった時は【延命治療】を望みますか?と言う。パパもママも無言なので、「私は自分のことなら、絶対に延命治療などして欲しくない」というと、女医は【いざという時には決心が出来ない状態になりますのでお聞きしました。御気になさらずに!」という事で、入院に当たっての説明に入った。
一旦家に帰り、衣類や食器などを持って日赤に駆けつけると、病室で寝ていた。目覚めた姿から気持ちも落ち着いて気分もイイ感じで笑顔だった。どうやら気持ちが通い合った感じで私も一安心。
帰りはノルディックウォーキングで歩いて来た。今日歩いた総計は12000歩を越えた。今日一日、肝っ玉上がったりさがったりしたがそんなに疲れは感じなかった。妻の病状にも私の未来に向かっても、これで自信がついた一日となった。
8月9日(金)晴
軍歌に「敵は幾万ありとても・・・」という勇ましい歌があったが、その歌詞に
破れて逃ぐるは国の恥 進みて死ぬるは身の誉れ
瓦となりて残るより 玉となりつつ砕けよや
畳の上にて死ぬことは 武士の為すべき道ならず
とあるが、8月9日長崎に原爆が投下され、ソ連が日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻してきたニュースを聯隊本部前で放送を聞いた時はいよいよ一億玉砕の時は迫ったと感じた。
連合軍が本土上陸の際に発せられることになっていた「信濃1号」で松本の部隊は碓井峠の守備隊など夫々の守備位置が決められた。わたしは「薬剤行李」の係りで衛生材料全般を引き受けて聯隊本部と行動を共にすることになっていた。いよいよとなればアルプスの山中でゲリラ戦を戦い、最後は万歳攻撃をして玉砕と覚悟していた。今、考えると随分純粋な青年兵士だったなァ…と思う。
○ 朝食の時、【手術のため 8/9Am10:0時以降は 許可あるまで飲んだり食べたりしないでください。】の注意書きが添えられてきた。朝飯は何時もより多めだった。
○ ラクテック点滴 pm1:00 ポカリスイットと同じとのこと。
○ 手術 PM 3:00~4:05
手術は前回に比べて倍以上も掛かった。今回はドリルを使わず刀で頭をかき回していたように感じた。そのせいか、食事でこめかみが痛むことがなかった。
○ 担当医の計らいでベッドに両手を拘束しないで妻に一晩付き添ってもらった。お蔭で家にいる感覚で快適な夜を過ごすことが出来た。
8月10日(土)晴
付き添ってくれた妻をパパ・ママが迎えに来た。その際、座椅子を買ってきた。これでパソコンをやるときも姿勢がらくになった。ありがとう!
朝、起きぬけにCTを撮った。その結果はまだ見て居ない。担任の先生が来て頭のチューブを抜いてくれた。血はどす黒く僅かに50ミリ採れただけだ。まだ足はふらつく。手術の効果は期待したほど表れない。これにはがっかり。
1925年8月10日午前2時、昭和天皇は「国体護持」を条件にポツダム宣言の受諾を決定した。前日より戦争終結の条件を協議していた御前会議は「国体護持」を認めて欲しいとする鈴木首相・東郷外相と阿南陸相ほかの軍関係者の主張する「戦犯処罰の処罰」「武装解除の方法」「保障占領」についての3条件を加えるべきだと意見が対立して決着が着かず、天皇に裁可を願った。陛下は「国体の護持」さえ保障されれば良いと仰せられたという話だ。
私などは広島・長崎に原爆が落とされ、ソ連の参戦が報じられても、一億玉砕の美辞に酔って「大和民族が滅亡するまで戦う」信念を持ち続けて居のだから始末が悪い。
今日は最高気温が6年振りで40度を超える暑さを記録した。高知県四万十市では40・7℃甲府でも40.5℃になったという。病院は天国だ。20℃位かナ!