昨日の続きです。
20世紀に入ってアインシュタインが、特殊相対性理論を発表しましたが、その理論によって、仮に光速(秒速30万km)に近い速度で1年ほど宇宙旅行して地球に帰ってきたら、地球の家族は何十年も年をとっているということがl理論的に証明され、それを「浦島効果」と名付けています。つまり、浦島太郎の物語はただのお伽噺ではないことが証明されました。
一方、相対性理論の発表と期を同じくして量子力学というミクロの物質の研究が進み、ミクロの物質の世界では、従来の人間の常識では考えられない不思議なことが起きていることが次々と発見され、そのたびに研究者たちを驚かせてきました。そして今や物理学は3次元4次元を超え、10次元、11次元の世界を予想し、それを実験で確かめようとしているところまで来ているとのことです。さらに、宇宙は私たちの宇宙だけではなく、他にもたくさんの宇宙があることが予想されていて、まさにSFの世界の様相を呈しています。つまり、SFが科学によって現実であることが証明されつつあるということです。
多くの人は目に見えるものを、見たその通りにあると思っていますが、しかし、人間の目は学校で教わるように、ごく狭い範囲の波長の光しか見えないし、聴覚も臭覚も限定された範囲しか感じることができません。現実の縦横厚みの3次元世界を写真に撮れば、1次元が省略されて2次元の平面としか映らないと同じように、人間が五感を通してみるということは、本当は10次元、11次元という高次元の世界を3次元に省略して見ているだけかもしれません。ともかくわれわれの五感は本当にあるがままの姿を見ていないことは確かでしょう。見る心と、見る道具(視神経など)によって変わってくるはずです。
古い物理は、自然は人間の精神に関係なく客観的事実として存在するというのが立て前でした。つまり物と心とは別であるという二元論的考え方でした。しかし20世紀に入って量子力学の研究が進むと、宗教や哲学が言ってきたように、自然と心(観察者)は一つである、つまり自然は客観的事実として存在するのではなく、観察者によって変化する、という一元論を唱えるようになりました。(物心一如)
お釈迦さまは「三界は唯心の所現」と説き、イエス・キリストは「汝の信仰、汝を癒せり」といい、また「汝の口に入るもの(食物)汝を汚さず、汝の口より出ずるもの(言葉や思い)汝を汚すなり」と言っています。日本では「笑う門に福来る」とか「泣きっ面に蜂」「人を呪わば穴二つ」などという諺がありますが、その真実性を最先端の物理学が証明したと言えます。
それから、
シスター・渡辺和子さんは「いのちの大切さが叫ばれながら、今日ほど命が粗末にされているときはない」という話をされていました。神や仏、そしていのちとか、愛は物質的次元を超えたものですから、科学的な証明を待っているのでは、いのちはわからないのではと思います。
「科学的であるか?」ということも大事とは思いますが、それに偏ると肝心ないのちを見失ってしまいそうな気もします。『神との対話』では、「自分は何者か?」と自分自身に問いかけることの大切さが力説されていました。
道元禅師も正法眼蔵で「仏法を習うというは自己を習うなり」と説かれました。
我が子を虐待する父親が、もし、「自分は何者か?」と常に問いかけることができていたなら、虐待する自分を選ばなかったかもしれないし、教育委員会も、決断するときに、「自分は何者か?」とみずからに問いかけていたら、少女の助けを呼ぶ声を無視して、あの父親に渡すという自分を選択するようなことはなかったろうという気がします。
まとまらないことを書きましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。