気の向くままに

山、花、人生を讃える

信仰体験 1-①

2015年09月17日 | 信仰

以下は今年の3月に体験講話をさせていた時の原稿ですが、読んでいただければ幸いです。

 

皆様、ありがとうございます。

体験講話ということで、30分お話しさせていただきます。

 

わたしは中学を卒業後、○○県の○○市にある、○○高校という学校に入学しました。そこで5年間学んで卒業したら、国家試験を受けて、卒業生のほとんどが外国航路の船に乗るというそういう高校なんですが、入学してからのわたしは、成績は下がる一方で、あげくに、父親が三度も学校へ呼び出されるという親不幸なことをしておりましたが、立ち直ることもできず、最下位でその学校を卒業しました。

3月に卒業して4月には国家試験が控えていましたが、勉強する気もなく、暇つぶしになるような面白い本はないかと名古屋の本屋さんへ出かけたときに、そこで『生命の実相』が眼にとまって、試しに読んでみる気になって2冊を買って読み始めたのが、今から45年前のちょうど今頃の時期でした。それで、これは凄い本だというわけで、それからは、読んでは買いに行き、読んでは買いに行きを繰り返しまして、4ヶ月ほどで全巻を読み終わって、感激いっぱいの気持ちで本部に葉書を出したところが、近所のおばさんが神誌をもって訪ねて来て下さるようになり、それで入信させてもらいました。

それで国家試験は1年に4回あるんですが、勉強は相変わらずする気もなく、親には勉強しているようなふりをして部屋に閉じこもり、ひたすら『生命の実相』を読んでいたので、4回とも不合格でした。そして次の年の4月に試験慣れしたせいもあってようやく最低の3級に合格して(後ほど最高の1級取得)、会社は卒業前に決まっていましたのでその会社の船に乗船しました。そして10ヶ月乗船したあと休暇になったのですが、その休暇中に、わたしもついに救われる時がきたんですね。どういうことかといいますと、朝の一番電車に乗って熱田神宮へ早朝神想観に行こうと思いついて、通い始めたんですね。神想観は入信後に岡崎の練成や飛田給の練成も受けていたので、神社でも神想観をするということを聞いていて「昔の剣豪が瞑想しているみたいで格好いいなあ」と思っていたので、それで私もですね、信仰を深めて自分に自信をつけたいと思って神想観に通い始めたわけです。

その通い始めて5日目ぐらいの時、息を吸いながら「神の無限の生かす力、わが内に流れ入る、流れ入る」とやっていると、勝手にスーと息が入ってきて体が風船のように膨らみ始めたと思ったら、沸騰したヤカンの白い湯気がスーと消えるように自分の身体が消えてしまったんですね。そういう様子が脳裏の中で観えるんですね。それで、「あっ、身体が消えた、そんな馬鹿なことが」と思って、眼は閉じたまま、頭から順番に確認していくんですね。そしたら、透明人間になったかのようにやっぱり頭も胴体も消えて無いんですよ。そして本来自分の体のあるところを朝のひんやりした空気がすーすーと吹き抜けて行くのがわかるんですね。それから自分という意識も、周囲2,3メートルぐらい離れたところの、あっちにもこっちにもあるように感じるんですね。腰はというと、針の穴のように小さな点になっていて、その下から脚はまったく普段通り、いつものようにちゃんとあるんですね。そういう状態が神想観の間中、ずーと続いていました。それから、帰りの電車に乗って、行きに読んでいた『生命の実相』の39巻の続きを読んでいましたら、こういうことが書かれていました。

ある年頃の娘さんがいて、その娘さんの太ももに大きなタムシ出来ていて、薬を塗ってもですね、どんどん広がって行くばかりだ。これでは恥ずかしくてお嫁にもゆけないというので、母親が心配しておった。そこへ「生長の家」に行ったら治るという話を聞いてですね、ある先生のところへ行って、来意を告げたら、その先生は「病気はないんですよ」という。ばあさんは「いえ、あるんです。あるから治してもらいに来たんです」という。先生は「いや、病気は神様が作らないからないんです」「いや、あるんです」と、アル、ナイの押し問答になるんですね。そして最後に先生は「どれ、もうその病気は消えたか、見せてごらんなさい」というと、もうそのタムシが消えていた、という話なんですね。

そこを読んだ時、「タムシが一瞬に消えるのは、肉体はないからだ!」と思った瞬間に頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けしばらく頭がくらくらしていましたが、その衝撃がおさまってから、目をひらいて、本当に肉体や物質はないのかと確かめるように電車の中を見廻すんですね、そしたら目にはいつもと同じように見えているんですが、それが固い物質の固まりのようには感じられないで、実体のない映像を見ているような感じなんですね。それで静かに呟くように「肉体はないんだ、物質はないんだ」と思った時に、身も心もすーと軽くなって、電車を降りる頃には「ついに肉体がない、物質がない」ということが分ったぞ、というわけでもう嬉しく嬉しくてしかたがなくて、小躍りしたいような気持でした。そして、それが乗船後まで続いていて、それからはすっかり付きものが落ちたように、あれほど勉強したくなかったわたしが、ごく自然に、当たり前のように勉強する自分になっていました。

『生命の実相』第12巻 P83~84に、次のように書かれています。

○誰でもたいてい何をしたらよいか悪いかは知っている。悪いと知ってその悪いことを止めることができるくらいなら、法然上人も親鸞上人も「煩悩具足の凡夫」だとか、「罪悪深重の凡夫」だとかいってお嘆きにならなかったのであります。悪いと知ってもその悪いことを自力の努力では止めることができないというところにこそ、宗教的救いがあるのです。悪いと知って一歩一歩改善してゆくのは道徳的救いでありますが、宗教的救いというのは飛躍の救いであります。自力の一歩一歩の改善ではどうしても救われようのない自分だと知った時に、その「改善しなければならないような悪い自分」というものは「虚仮の自分」であった、言い換えると、「ウソの自分」「本来無い自分」であったと知る――その時、忽然旧我が消えてしまって、本当の自分――尽十方無碍光如来と同体の自分というものが顕れて来るのであります。

 

こういうように書かれていまして、どうしても自分では立ち直ることができなかったわたしもですね、救われたいという思いで『生命の実相』をひたすら読ませていただいているうちに、現実にこのような救いが現われたというわけですね。(続く)

コメント (8)
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