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気の向くままに

山、花、人生を讃える

信仰体験 1-②

2015年09月18日 | 信仰

それからもう一つ、次の体験談ですが、私は『生命の実相』を読んで大変感激し、「生長の家」の教えはわたしにとって希望の光であり、恋焦がれている恋人以上の存在でした。ですから、見知らぬ外国へ行けるのは嬉しいのですが、反面、生長の家のある日本を離れることが寂しく、できることなら日本を離れたくないと思っていました。しかし、簡単に職業を変えるわけにもいかず、「これも自分の仕事なら仕方がない。潔く、自分の運命を受けよう」という気持ちでした。しかし、また運命の転換点が来ました。それは、今の話から2年後の乗船中のことでした。

昼食後の昼休みの時間に、自分の部屋のソファに持たれかけて、月刊誌の文芸欄を何気なく読んでいたら、芭蕉の「あかあかと日は面難(つれな)くも秋の風」という俳句が眼に入ったんですね。皆さんこれ見てなにか分りますか(大きな字で書いた俳句を見せる)。わたしもサッパリわからないんですが、分らんのに、この俳句が眼に入った瞬間、いきなりハンマーで殴られたような衝撃を受け、頭が真っ暗になったと思ったら、芭蕉が山道を歩いていく。そして傾いた秋の日差しが芭蕉の横顔に照りつけている。そういう光景が見えたと思ったら、それだけではなく、太陽からもの凄い気迫がほとばしり出ているんですね。それで「芭蕉は?」と思って芭蕉の方を見ると、芭蕉からも太陽からの気迫を跳ね返すぐらいにもの凄い気迫がほとばしり出ているんです。芭蕉はただ歩いている。太陽はただ照っている。それだけなのに、気迫と気迫がぶつかり合っている。それに気づいた瞬間、その気迫に打たれ、自分の身体を流れている血液が一瞬見えたと思ったら、その血流があっという間に海の大波になって唸りを上げて襲いかかって来るんですね。その時はもう本当にビックリして思わず「何事だ~!」と心で叫んでいました。そして、次から次へとその大波がうわ~ん、うわ~んと唸りを上げて自分に襲いかかってきて、ソファにすわっている上半身が前後に揺さぶられながら、もう本当にビックリして、「何事か」と思いつつ、ただ呆気にとられていました。そんな状態がしばらく続き、ようやくおさまってからも、自分が、寄せては返すさざ波になったように、いつまでもひたひたと脈打って、その余韻がおさまらないんですね。

それで、「一体なんでこんなことが起きるんだ!」と不思議で仕方がなく、考えようとしなくても不思議だ、不思議だと、不思議の思いが湧いてきて、来る日も来る日も不思議だという思いが続いていました。そんな或る日、ふと船内の掲示板の貼り紙に目が行ったら、そこにフェリー会社の、募集記事がありました。それで、そのフェリーに変わろうと、迷うことなくそういう気持ちになって、すんなりフェリー会社に変わることになりました。もし、今いったようなことがなかったら、わたしはその募集記事を見ても、全然目もくれなかったに違いないと思うんですね。実は時間がないので話を省略していますが、今いったような大波に襲われるという、そっくり同じことがもう一度ありまして、それで貼り紙を見て即座にこの会社に変わろうという気持ちになったと思うんですね。そういうわけで、生長の家のある日本を離れなくてよいようになり、また、それまでは1年のうち2ヶ月しか家にいなかったのが、今度は月に10日は家にいて生長の家の活動も少しはできるようになりました。

それで、どうして自分にこんなことが起きるんだと不思議で仕方がなかったんですが、2年ぐらいしたある日ふと気がついたわけですね。それは何かというと、この時の乗船前に、わたしははじめて毎日のように戸別訪問しながら愛行をしていたんですね。当時私はまだ25歳の独身でしたから、戸別訪問するといいうことは大変な勇気がいりました。しかし、その恥ずかしさと戦いながら続けているうちに、その恥ずかしさにもだんだん慣れて来て、始めは自分の知らない住宅ばかりを廻っていたのが、今度はさらに勇気を出して自分のも一軒一軒訪問し、最後には自分の家の両隣まで戸別訪問したんですね。そういうことで知らず知らずのうちに四国八十八か所を回ったような精神状態になっていて、神さまに感応しやすい状態になっていたのではないか、というのが私の解釈です。

 

ええ、話は変わって最近のことになるんですが、ちょっとこういうことをいうのは恥ずかしいのですが、人生を振り返ってですね、「ああ、自分の人生は良かったな」と思えるものは何かと言ったら、それは結局、自分が「愛をもって生きたか、どうか」それじゃないかと思うようになってですね、思いついて、昨年の5月から7.8年ぶりぐらいに駅前で月に3回ほど愛行するようになりました。

今までは愛行しても成果がないと、歓びが自己満足に思えて来て長くは続かなかったのですが、今度は成果があろうとなかろうと続けていこうと思っています。

次にテキストのP47を開いていただきたいんですが、ここの2行目に「神の摂理」という言葉が出ています。今時間がないので、ここは後で読んでいただきたいんですが、「神の摂理」とは何かということですが、それは一つではなくいろんな意味で使われているんですね。それで、典型的なものを一つ挙げますと、『生命の実相』の第1巻、154ページにこう書かれています。

○神は宇宙を摂理の手で支配されてい給うので、あらゆる世界の出来事は、みんな神の手で蜘蛛の糸をひいたようにあやつられています。 P154

わたしは最近まで神様は実相世界にいらっしゃるんであって、この現象世界には神様はいない。現象世界は単に人間の心が現わす世界であると、そう思って、神様がなかなか近くには感じられなかったのですが、この「神の摂理」ということを知るようになってから、この現象世界と雖も神の摂理の御手の中にあるということで、神さまが近くに感じられてきて有難さを感じるようになりました。

 

これで話を終わらせていただきます。どうも有難うございます。

コメント
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