こんにちは。
今日もありがとうございます。
人に好かれたいと思うのは、自然な感情です。
四方八方、誰しもみんなに嫌われてしまったら、
孤独で困ってしまうだけではなく、
前向きな、生産的な関係を築けなければ、
力を合わせれば出来ることも無になってしまうからです。
しかし。
「私はこんなによい人です」とアピールするのはまあ、その人の自由でしょう。
でも、相手の幸せということを考えた時、
「私はこんなによい人です、だから評価してください、なにかを下さい」などという要求をするのは、相手の心にも負担を求めることにもなりかねないわけで、
結果、思った通りにはならないんです。
むしろ、鬱陶しく思われることだってある位です。
人間、誰だって自分がかわいいもの。
そこもわからずに好かれたいと思う企図が当たると考えるのは、軽率の極みだと思います。
ここで問題が出てきます。
相手に好かれたくてやるのか、
相手に本当に幸せになってほしくてやるのか、
同じ行為ならよいではないか、
ここで迷う人がいると思います。
私が思うに、下心があるかないかはそのことをした結果に自分で責任を取る覚悟があるかないか、
もっときつい言葉で言うと、どう落とし前を付けるか計算し、さらにかぶることが出来るかを考えたかどうかで決まる気がします。
人によっては重く感じるかもしれませんが、
そんな人ほど修業が必要です。
自分の好意や行為が空振りに終わった時、
それでも相手を見続けていられるかの一点が問われるからです。
…というわけで、断言しますが、「好かれたくて」という気持ち、つまり下心を抱きつつやる行為は、
たいていは失敗に終わります。
人間、完璧ではありません。
自分がやったことが不発に終わった時、つまり試された時に、
意図のある善意は見抜かれてしまうのです。
ただし、ついでにもう一つ補足で言うと、
いくら真心と言えど、気持ちだけで突っ張るのもよくありません。
裏目に出た時、取り返しのつかなくなることがあるからです。
相手の目線に関わらずなにかをしてあげることは大切ですが、
それで当初の目的を見失っては元も子もありません。
本物の真心とは、
相手に期待せず、
きちんと計算されていて、
そしてまた、こちらから求めるものではないのです。
抽象的な話にはなりましたが、
真心を持って生きていくのは、
思っている以上に、大切なことなのかもしれません。
今日もありがとうございます。
人に好かれたいと思うのは、自然な感情です。
四方八方、誰しもみんなに嫌われてしまったら、
孤独で困ってしまうだけではなく、
前向きな、生産的な関係を築けなければ、
力を合わせれば出来ることも無になってしまうからです。
しかし。
「私はこんなによい人です」とアピールするのはまあ、その人の自由でしょう。
でも、相手の幸せということを考えた時、
「私はこんなによい人です、だから評価してください、なにかを下さい」などという要求をするのは、相手の心にも負担を求めることにもなりかねないわけで、
結果、思った通りにはならないんです。
むしろ、鬱陶しく思われることだってある位です。
人間、誰だって自分がかわいいもの。
そこもわからずに好かれたいと思う企図が当たると考えるのは、軽率の極みだと思います。
ここで問題が出てきます。
相手に好かれたくてやるのか、
相手に本当に幸せになってほしくてやるのか、
同じ行為ならよいではないか、
ここで迷う人がいると思います。
私が思うに、下心があるかないかはそのことをした結果に自分で責任を取る覚悟があるかないか、
もっときつい言葉で言うと、どう落とし前を付けるか計算し、さらにかぶることが出来るかを考えたかどうかで決まる気がします。
人によっては重く感じるかもしれませんが、
そんな人ほど修業が必要です。
自分の好意や行為が空振りに終わった時、
それでも相手を見続けていられるかの一点が問われるからです。
…というわけで、断言しますが、「好かれたくて」という気持ち、つまり下心を抱きつつやる行為は、
たいていは失敗に終わります。
人間、完璧ではありません。
自分がやったことが不発に終わった時、つまり試された時に、
意図のある善意は見抜かれてしまうのです。
ただし、ついでにもう一つ補足で言うと、
いくら真心と言えど、気持ちだけで突っ張るのもよくありません。
裏目に出た時、取り返しのつかなくなることがあるからです。
相手の目線に関わらずなにかをしてあげることは大切ですが、
それで当初の目的を見失っては元も子もありません。
本物の真心とは、
相手に期待せず、
きちんと計算されていて、
そしてまた、こちらから求めるものではないのです。
抽象的な話にはなりましたが、
真心を持って生きていくのは、
思っている以上に、大切なことなのかもしれません。