こんにちは。
今日もありがとうございます。
いやー、暑かったですね。
帰宅してすぐにシャワーを浴びて、
バスローブをしながらアイスを食べてます。
しかし、最近思ったんですが、
「隣の芝生は青い」ってホントだな、と。
生きていればいくつもの選択肢に遭遇するわけですが、
現状を嘆くに相応しい理由があったにしても、
他を選んだにしろ、それはそれで他の苦しみがあるとか、
結局は同じ苦しみに至る環境や出来事があったりと、
選択肢に大差がある場合って、意外に少ないんじゃないかと過去と現在を回想して思ったりしています。
もっと明るく食べりゃあよいのに(笑)
今日もありがとうございます。
いやー、暑かったですね。
帰宅してすぐにシャワーを浴びて、
バスローブをしながらアイスを食べてます。
しかし、最近思ったんですが、
「隣の芝生は青い」ってホントだな、と。
生きていればいくつもの選択肢に遭遇するわけですが、
現状を嘆くに相応しい理由があったにしても、
他を選んだにしろ、それはそれで他の苦しみがあるとか、
結局は同じ苦しみに至る環境や出来事があったりと、
選択肢に大差がある場合って、意外に少ないんじゃないかと過去と現在を回想して思ったりしています。
もっと明るく食べりゃあよいのに(笑)
こんにちは。
今日もありがとうございます。
あのー…
7月10日から、デジカメで撮った画像のサイズが変わっているのですが、
お気づきでしょうか!?!?
実は先日、カメラを買い換えたのです。
ただ、まだまだ使い慣れていないので、
機種名を出すのも違うかなあ…と思い、
まだ伏せてます。
少し自信が出たらご紹介しますね(^^*)/
今日もありがとうございます。
あのー…
7月10日から、デジカメで撮った画像のサイズが変わっているのですが、
お気づきでしょうか!?!?
実は先日、カメラを買い換えたのです。
ただ、まだまだ使い慣れていないので、
機種名を出すのも違うかなあ…と思い、
まだ伏せてます。
少し自信が出たらご紹介しますね(^^*)/
ひまわり(東京都武蔵野市)
こんにちは。
今日もありがとうございます。
一般に、弱音は嫌われます。
またあるいは、吐いてしまった自分を嫌ってしまう場合もあります。
しかし、弱音というのは例外なく本音であるとも言えるのではないかと、私は考えているのです。
こう思えばこそ、弱音も悪いばかりではないと思えるようになっていくのではないでしょうか。
私達はなんらかの弱みを抱えながら生きています。
人それぞれに弱点はあるし、
経験したことのない心的圧力がかかった場合、十分な対処は難しいのだと思います。
そんな状態でも自分で抱え切れている分にはよいのですが、
つい口をついて出てしまう、
つまり、自分の中に収められず、外に漏れてしまう状態こそが、
「弱音を吐く」ということになるのではないでしょうか。
そして、「自分の中に収められない」ということは、
「口に出してしまうそれまでは、人にさとられないように限界まで中に押し止めておいた」と考えるのが自然です。
だからこそ、私は「弱音=本音」という図式を頭で描くわけです。
そんな「弱音」。
生きていればいろいろな人と関わっていくことは避けられません。
そうである以上、他人の士気や元気に配慮することが求められ、
「弱音」を外に漏らすことは暗黙のタブーになりがちです。
誰もが皆、一切の弱音を全て表に出せて、それで何事も上手くいくなら話は別ですが、
現実にはそれを許容してくれる環境はないのです。
そのかわり、出来ることがあります。
それは「一人の時間」。
我慢が限界に来てしまった時、なにがしかの拒否反応が出るものです。
たとえば、思わずなにがしかの「弱音」の独り言が出てしまった時が、
そのタイミングの一つです。
そういう時こそ出来るだけ早く、自分の時間を作ることをお勧めしたいのです。
具体的に何をするかと言うと、
自分の心に、思うがままに自分の本音を吐いてみるのです。
あるいは、言葉にするのが難しい時は、誰かに訴えかけるような態度を取ってみるなど、
人に見られてはまずいような、自分の本性を出すのです。
なぜこんなことをするのかと言うと、
「自分の状態を自分で知るため」です。
そして、自分の状態を知れば、
自分の扱い方も変わってくるのです。
意外にも私達は、自分たちが普段どんな気持ちでいるかを意識しないものです。
「気持ち」という言葉は特段何かが起こった時にしか出てこないものですが、
いちいち「感想」を訴えてこないだけで実は四六時中、私達の心は働いています。
そんな自分の心の状態を知ることが自分自身を知ることに繋がり、
それがまた、心の平和に一役買うのです。
先にお話しした通り、
「「弱音」は人前で出すからみっともないというだけ」で、
弱音そのものを抱えることを、恥じることはありません。
むしろ、自分の弱音を知ればこそ、
人前で出にくくなるというメリットもあるのです。
少しだけ、自分が弱音を持っていることを許してみませんか。
自分の弱音を知り尽くした時こそが、
自分の真の力が目覚める時ではないかと、
私は思うのです。
こんにちは。
今日もありがとうございます。
一般に、弱音は嫌われます。
またあるいは、吐いてしまった自分を嫌ってしまう場合もあります。
しかし、弱音というのは例外なく本音であるとも言えるのではないかと、私は考えているのです。
こう思えばこそ、弱音も悪いばかりではないと思えるようになっていくのではないでしょうか。
私達はなんらかの弱みを抱えながら生きています。
人それぞれに弱点はあるし、
経験したことのない心的圧力がかかった場合、十分な対処は難しいのだと思います。
そんな状態でも自分で抱え切れている分にはよいのですが、
つい口をついて出てしまう、
つまり、自分の中に収められず、外に漏れてしまう状態こそが、
「弱音を吐く」ということになるのではないでしょうか。
そして、「自分の中に収められない」ということは、
「口に出してしまうそれまでは、人にさとられないように限界まで中に押し止めておいた」と考えるのが自然です。
だからこそ、私は「弱音=本音」という図式を頭で描くわけです。
そんな「弱音」。
生きていればいろいろな人と関わっていくことは避けられません。
そうである以上、他人の士気や元気に配慮することが求められ、
「弱音」を外に漏らすことは暗黙のタブーになりがちです。
誰もが皆、一切の弱音を全て表に出せて、それで何事も上手くいくなら話は別ですが、
現実にはそれを許容してくれる環境はないのです。
そのかわり、出来ることがあります。
それは「一人の時間」。
我慢が限界に来てしまった時、なにがしかの拒否反応が出るものです。
たとえば、思わずなにがしかの「弱音」の独り言が出てしまった時が、
そのタイミングの一つです。
そういう時こそ出来るだけ早く、自分の時間を作ることをお勧めしたいのです。
具体的に何をするかと言うと、
自分の心に、思うがままに自分の本音を吐いてみるのです。
あるいは、言葉にするのが難しい時は、誰かに訴えかけるような態度を取ってみるなど、
人に見られてはまずいような、自分の本性を出すのです。
なぜこんなことをするのかと言うと、
「自分の状態を自分で知るため」です。
そして、自分の状態を知れば、
自分の扱い方も変わってくるのです。
意外にも私達は、自分たちが普段どんな気持ちでいるかを意識しないものです。
「気持ち」という言葉は特段何かが起こった時にしか出てこないものですが、
いちいち「感想」を訴えてこないだけで実は四六時中、私達の心は働いています。
そんな自分の心の状態を知ることが自分自身を知ることに繋がり、
それがまた、心の平和に一役買うのです。
先にお話しした通り、
「「弱音」は人前で出すからみっともないというだけ」で、
弱音そのものを抱えることを、恥じることはありません。
むしろ、自分の弱音を知ればこそ、
人前で出にくくなるというメリットもあるのです。
少しだけ、自分が弱音を持っていることを許してみませんか。
自分の弱音を知り尽くした時こそが、
自分の真の力が目覚める時ではないかと、
私は思うのです。