大師公園の緑(神奈川県川崎市)
こんにちは。
今日もありがとうございます。
馬の二足歩行。
東京タワーを棒高跳びする。
飛行機より速い通勤電車。
明らかにありえませんよね。
ありえない理由はもちろん、
「絶対に不可能だから」です。
しかし、これが人間の能力となると、
事は複雑になります。
なぜなら、人間の能力は測定が難しく、可視化するには限界があるからです。
しかも、人間の能力は絶えず変化しています。
「人間は可能性の固まり」と言われますが、
努力や成長をして能力が伸びるにせよ、
怠惰を重ねて能力が萎むにせよ、
一人の人間が出来うる可能性や限界は極めて線を引きずらく、
また、たとえ線が引けたとしても、常に変動しているということで、
能力をいちいち指し示したところで、あまり役は立たないということが言えるのではないでしょうか。
このことを踏まえて、
私は「だからチャレンジを続けましょう」などとと言うつもりは全くありません。
「出来ないことは出来ないことだと、ハッキリしっかり仕分けておきましょう」、
私はこうお話ししておきたいのです。
無理なこと、不可能なことを考えていたって、
あるいはどんなに負荷をかけて出来ないことをやってみたって、
残るのは犠牲や失敗だけです。
そしてまた、本人の心身にダメージが残り、
トラウマを誘発し、余計に尻込みするだけなのです。
こういうわけで、「出来ないこと」は「出来ない」とハッキリさせておくと、
無駄な努力をしたり、自分を責めることもなくなるのではないでしょうか。
冒頭に挙げた
・馬の二足歩行
・東京タワーを棒高跳びする
・飛行機より速く通勤電車を走らせる
こんなことを出来ようとすること自体が無駄なことぐらい、誰でもわかります。
しかし、可能性を計る対象がこと人間となると、
なまじ可能性が変動する分、無理が出てしまいやすいのです。
そのかわり。
「出来ません」と投了する代わりに、
せめて出来ることぐらいは着実にしませんかとお話ししたいのです。
どんな人も、歩くときは一歩ずつです。
一歩一歩、地面を踏み続けないと前には進めません。
でも、「その一歩一歩を大切にしませんか!?」と私は言いたいのです。
「私には出来ません」という人に、
「出来る理由を探しましょう」などと煽るのは簡単です。
しかし、可能性が低いこと、苦手なことに無理をして突っ走っても、
結果は痴れているし、
精神的に追い詰められるだけだったり犠牲を増やす、という結果を生み出すだけです。
しかし、「どの程度までなら出来そうか」を探ることは、いつだって出来ます。
たとえどんなにつまらないことでも、
つまらないこと以上が出来ないのなら、それは望むほうが無駄なのです。
しかし、つまらないことを積み重ねることは出来るんですよね。
「出来ません」
「自信がありません」
こんな口癖のある人には、
「つまらないこと」をもっと大切にする気持ちを持つとよい気がするのは、
私だけでしょうか!?!?