タチアオイ(東京都武蔵野市)
こんにちは。
今日もありがとうございます。
欠陥人間。
こう聞いて、どんな人を思い浮かべるでしょうか。
…あえて意地悪な質問をしましたが、
私は全ての人はある意味で欠陥人間だと思うのです。
なぜなら世の中どこを探しても完璧な人間はいないし、
さらに言うと、「欠陥」という言葉の持つ尺度は、人格というファジーなものに使う場合、あまりにも大きいからです。
だからこそ、どうせ誰しもなんらかの欠陥を抱えているのであれば、
誰もが自分を「欠陥人間だ」と思うのはある意味で当たり前なことですし、
失敗なりをする度に自分の「欠陥」が一時的にクローズアップされるわけで、
それだけをもってして「欠陥人間だ」と自分への評価を曲げてしまうのは少しズレている気がします。
繰り返しますが、その欠陥が出てしまうかどうかだけの差があるだけで、
誰しも欠陥を抱えていることには違いないというのが、
自然な考えではないでしょうか。
ところで。
四字熟語に「適材適所」という言葉があります。
おさらいがてらに私のケータイ辞書から意味引用すると、
その人の能力や適性を考慮して,その人にふさわしい地位や仕事につけることとあります。
…ということは、自分の欠陥が強く出る場面や状況を把握し、
そのケーススタディから、なるべく欠陥が出にくいように自分を修正していくことこそが、
自分の欠陥を上手く処理する方法ではないでしょうか。
自分に欠陥があると認めること、あるいは再認識させられてしまうことは、時に悔しく辛いことです。
しかし、欠陥があることよりも、
それを放置することが実は問題なのです。
欠陥を抱えていることは仕方がないとして、
その欠陥の分析や処理の仕方にこそ、人間の価値が顕れるからです。
環境を変えたり、
物事の見方、感じ方、考え方を変えたり、
あるいは自分そのものを磨き直したり、
こんな姿勢でいる時こそ、その人の人間性そのものが如実に顕れる時なのではないでしょうか。
人それぞれに身体があるように、
生きていれば、人間的な欠陥も漏れなく一緒に付いてきます。
生きている以上、なんらかの欠陥を抱えるのは宿命なのです。
そうであれば、それをなくすことは不可能にしても、
どう付き合うかを決めることは出来ます。
くれぐれも考え過ぎませんよう。