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道端のひまわり(東京都台東区)
こんにちは。
今日もありがとうございます。
「甲斐性」という言葉、あるじゃないですか。
とても抽象的な言葉だけに、理解が難しい単語の一つではないかと、
私は思っています。
「甲斐性」という言葉は有無、つまり
「甲斐性がある」
「甲斐性がない」
こんな使い方、捉え方をされるものですが、
その範囲は様々です。
一例を挙げると、
・収入が高めで、安定している
・仕事の力量がある
・弱みを見せない
・精神的にとても打たれ強い
・包容力がある
・体力がある
・底無しのような優しさがある
…と、こんなものが代表的ですよね。
以上を踏まえると、「甲斐性」といつやつは、
「相手よりも圧倒的に優れている点を提示し、依存させてあげる力」を指すのではないかと私は考えるわけです。
要するに、スーパーマンになってあげられる力があれば、
「甲斐性がある」と言われると思いますよ、というわけです。
この流れでいくと、誰もが口を揃えて
「なあんだ、それじゃあ甲斐性はあればあるだけ良いじゃん」という結論を出してしまうと思います。
しかし、それで終わるなら取り上げたりはしません。
「甲斐性」は人のためになるものですが、
一方で、手放しには褒められない点もあるんですね。
まず、人によく思われたいがために、頼まれてもいないに自分の「甲斐性」を誇示していると、
相手からすれば当然、「ありがた迷惑」になってしまう場合があります。
また、力を借りる必要を示せば「甲斐性なし」とされる可能性があるということで、
自分の力で突っ張ろうと、人からの意見を聞き入れないという人間関係を作りやすくなってしまうこともあるのです
(もちろん「可能性がある」というだけで、必ずそうなってしまうとは限りませんが)。
またあるいは、相手に頼られることが常態化するあまり、
相手が自立させてあげる機会を奪ってしまいがちにもなったりするわけです。
でも、私がそれよりも問題にしたいのは、
人間、いつでもスーパーマンとはいかないという点です。
どんな強い人にも限界や曲がり角、弱点や悪癖があります。
「100%に限りなく近く折れにくい人」は、広い世の中、どこかに存在するかもしれません。
しかし、誰もが人間でスーパーマンではない以上、
絶対に折れない人などいない、
こう考えるのが自然ではないでしょうか。
自分の「甲斐性」を発揮したいがあまり、
たとえば力を出し切った挙げ句、燃え尽きたり「うつ」になってしまった、
こんな場合、その人の「甲斐性」を当てにしてきた人はどうするのか、
その「甲斐性」の全ては「なしのつぶて」にならないのかは、
想像に難くありません。
もろとも崩れ去るだけなのです。
結局。
「甲斐性」というのは暗に「スーパーマン」という意味である以上、
人間を限界まで追い詰める言葉で、
そんなものを求め続けるのは「無い物ねだり」だと、私達は気づく必要があるのではないでしょうか。
不朽不屈である本物の「甲斐性」は誰もが手に入れられないから、
それが逆に幻想を産みだし、誰もが「甲斐性」というものに絶え間無い憧れを抱かせるのではないか、
私はどうしてもこう考えてしまうのです。
「甲斐性」なんていうものを人に求めるのは、
実は、残酷そのもののような気がします。
「甲斐性」なんて言葉と付き合うのは大概にして、
相手のために出来ることを、誠実にコツコツとやっていく、
こちらのほうがずっとわかりやすく、
また誇大とも言える理想に振り回されることもなくなるのではないでしょうか。
私はどちらかと言うならば、
「甲斐性」なんかより、「素直さ」や「真っすぐな心」、「全力投球の姿勢」を選びたいと思いますが、
いかがでしょうか。