菜の花(東京都品川区)
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
疲れたら眠りたくなる。
ストレスが溜まったら発散したくなる。
悲しければ泣きたくなる。
お腹がすいたらお腹いっぱいご飯を食べたくなる。
息切れしたら手抜きをしたり、休みたくなる。
なんて当たり前のこと、と思うでしょう。
これらは心理学で「快楽原則」と呼ばれ、「人間の心はとかく楽になりたがる」という法則を指して言う言葉なんですね。
私はこの法則を無視するのは、あまり得策ではないと思うんです。
これには深い理由があるんです。
人間、神様ではありません。
当然、汚い部分だってある。
そんな自分の欲求をありのままに遠慮なく出していると、
社会生活や対人関係に支障が出ること請け合いです。
だからこそ、「どうしようもない自分」を匿う(かくまう)ことで、
きちんとした生活を築いたり、良い対人関係を育めるわけです。
…それで話が終わるなら良いのですが、
実は「欲求を匿う」というところに問題の種が潜んでいたりするのです。
誰にだって、プライドもあれば見たくもない部分があります。
先に「ありのままの欲求」とか「どうしようもない自分」というような文言を並べ立てましたが、そんな自分を
「だらしない」
「堕落はしたくない」
「みっともないのは嫌だ」
こう思うのはごく自然なこと。
だからこそ、自分の欲求に蓋をして「なかったこと」にしてしまおうと考えてしまいがちですが、
実はこれこそが落とし穴なのです。
人間の感情の力は意外と強いものです。
水を手で握って漏れないようにがんばっても無駄なように、
欲求や感情をごまかそうと我慢をしても、あらぬところで漏れてしまったり、あるいは爆発してしまうのです。
たとえば、「キレる」という言葉が市民権を得て久しいですが、
これなどは「感情を押し殺した成れの果て」のわかりやすい例ではないかと思います。
さて、どうすれば「ごまかしが利く」のでしょうか!?
…なんのことはない、自分が人間であることを、本当の意味で認めるのです。
冒頭で「人間、神様ではありません」としれっと書いていますが、
人間である以上、どこかしらに「だらしなさ」があって当たり前なのです。
だからこそ、クダラナイと思えるような欲求があっても、
それはもう仕方のないことと腹を括れば、きっと楽になれるハズなのです。
お医者さんは患者の体質や症状がわからなければ、
処方も治療もできません。
同じく「感情を匿う」のであっても、
「自分がなにをしたいか、どうなりたいか」ということがわかれば、
自ずと採る思考や行動が決まるのです。
まとめると、
「〇〇はよくない!」と思うより、
「〇〇したいけど、自分としては□□がいい」と自覚しているほうが、
グッと楽だし、また制御も効きやすくなるものです。
いわば「感情の放電」をしてやるんです。
自分の面倒は自分で見るのです。
子供じみていようが、バカバカしかろうが、
全ての欲求は公平に認めること。
あえて触れませんでしたが、
人間にはだらしない欲求もある一方で、「人の役に立ちたい」などの素晴らしい欲求もあります。
自分に素直になれただけ、自分の面倒を見れて、素晴らしい欲求が活きるのです。
我慢にもやり方というものがあるのです。
我慢をスマートに上手くする人を、「出来た人」というのではないでしょうか!?