しゃちくんは野良猫ブログ

30年以上前になりますが自分探しのためにバイクで日本一周。
そして今、会社を畳んで田舎暮らしの準備中です。

東京をも強く揺らした3,11

2016-03-11 10:46:01 | 日記
ここ江戸川区の職員15名が震災後、気仙沼市へ応援派遣されました。

東京都立瑞江火葬場では宮城県から600体以上の御遺体が運ばれ

あの年の4月は連日、被災地の犠牲者専属の火葬場として機能してた。

火葬場の門は閉じられて献花台が設置され、各地から集まった僧侶が

門の両脇にずらりと並んで読経をあげている。

近所で不幸があると火葬場探しに苦労すると聞いた。

すべては被災地を優先して欲しいという気持ちは

東京をも強く揺らした地震だったからなのでしょう。


当時、コンビニやスーパーから食料品が消えて

極端なガソリン不足が問屋の配送トラックを停めてしまい

国内の針葉樹合板の生産拠点である石巻が被災して

須賀川の断熱材工場も激しい揺れで設備が壊れて操業停止

うちも商品が入荷せず仕事にならなかった。

東北を支援すべき関東も大きな打撃を受けてたと思う。


4月になってようやく石巻ボランティアセンターが開設されブログの発信も始まる。

東北道も応急的な補修工事が済み、一般車も通行できるようになり

テレビで見ているだけの被災地に向かう準備を始めた。

4月の終わりに探し求めていた20Lガソリン携行缶を入手。

予備燃料を持っていないと東北には向かえないのです!

南三陸町ボラセンブログが開設されたが、現地は混乱を極めて情報は一方通行。

ボランティアを終えた方がコメント欄で情報を伝えてくれてそれを元に

ゴールデンウィークの後半、5月7日(土)から夜通し運転して東北入りした。

トラックでの避難所の引っ越し作業がボランティア内容です。

南三陸町では津波に備え学校はすべて高台の上に在る。

学校が避難所になっていて学校が再開出来ないままでした。

最も遅い始業式

カテゴリー「ボランティア」には被災地での事を少し書いてあります。


ボランティアに向かう時、周囲には内緒だった。

「あんな危険な場所に行って何かあったらどうするんだ?」って心配されるから。

千年に一度の規模の大津波はもうやって来ないのです。

それよりも五体満足な自分が何もしない方が辛かった。

いつか、甥っ子達にも引き継いで欲しい。

震災後は日本中がうつ病患者だらけのようでした。

それに比べ被災地の子供達は逞しく成長してると思う。


残したい、震災の記憶。


済みません、文章力が足りず。



コメント (2)
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