震災発生当日の会社の中の様子です。
私は現場で地震に遭いましたが問屋のトラックに荷物と一緒に自転車を積み
現場に乗せていってもらえたので帰って来れました。
携帯電話が通じなかったので父が不安そうに会社で待っていた。
同じ東北の山形出身の父はテレビを観て東北の惨状に心を痛めていた。
「こんな材木が倒れた程度、すぐに直す事が出来るぞ」
言わんとする事は理解出来たが力が無い。
「こっちは被害が少ないから東北を助けてあげたい!」
多分、そんな気持ちがあっただろうが年齢的には無理なのである。
会社の中の材木は直しても直しても相次ぐ地震で倒れてました。
夜、兄の家も妹の家も子供達だけで留守番をしていた。
都心部に勤める親達は帰宅困難者になっていた。
電話が通じるようになったので車で迎えに行き
子供たちを実家に集合させる予定だったけど
子供たちは親が帰ってくるまで家で待っていると言ってた。
東日本総てが被災していたんだよね。
翌朝、コンビニの棚が空っぽだった。
食料品からガソリンまで生活物資がほとんど無くなってしまった。
節電要請でその年の9月まで街灯もほとんど消えてしまい
日本が終わってしまうような感覚に包まれた。
それでも石巻出身の大工さんが故郷に向かったのに刺激され
私もボランティアの準備を始めた。
まさか6月に父が亡くなるとは思わなかったが
南三陸町に連れて行き、壊滅した町の中でガレキを拾う
ボランティアの姿を見せたかった。
確かにこの惨状を観た時は強烈な無力感に包まれた。
町そのものが津波に消し去られてしまったのです。
夜通し高速を走り朝6時前に到着した町中には人の気配を感じず
足が震えてしまった。
それでもボランティアセンターまで行ってみると
同じ様に全国から集まった者同士、励まし合いながら頑張れた。
これらの写真は2度目の時、少し心に余裕が出来て撮影したもの。
まさかこの翌日、脳梗塞の症状で父を救急搬送するとは思わなかったし
その35日後にこの世を去るとは思えなかったです。
納骨を終えて自分のやりかけのボランティアにけじめを付けるべく
9月に支援物資を届けに行った。
復興は進まないと言うがコンクリートと砂利しか無かった町に
草が生えて印象はガラリと変わってました。
配送用のトラックで営業してたコンビニが
プレハブの建物で営業してたのには勇気を感じた。
個人の力は微々たるものだけど
あまりにも被害の大きかった東日本大震災
復興には時間が掛かります。
一緒に復興の喜びを体感しましょうよ!!!
新潟や、神戸の時と違って、津波と原発被災が復興の足かせになっているのではと思います。
しかしながら、一歩一歩出来ることからですよね。
そう思えるのです。
何処かに責任を追求したところで前には進まない!
私はそう信じてます。